「Keisuke Hara - [Diary]」
2005/04版 その3


2005/04/21 (木)

Croquet (日常)

Invariant Society から最後の学期のスケジュールが届いていた。 学期の中頃に、Social Event として、 "Varsity Croquet Match" を復活させる、 とあって興味を引く。 なんでもこれは、 "Invariants" に対応するケンブリッジの "Archimeadeans" との伝統的な対抗試合だそうで(本当かなあ)、 長年行なわれていなかったと言う。 やっぱり文字通りに普通のクローケーの試合をするんだろうか。 それともアリスのように、 変てこなクローケーをするのだろうか…



2005/04/22 (金)


2005/04/23 (土)


2005/04/24 (日)


2005/04/25 (月)

悪くはない (日常, math)

今日から最後の学期トリニティ・ターム開始。 しかも、私の講演でスタートなので、 憂鬱な気持ちで出勤。 昼食は L 先生に連れられて、 同じく今日講演するフランスの R 教授(Paris 13)と、 セント・アン・コレジの食堂に昼食に行く。 セント・アンは比較的新しいコレジなので、 食堂などもモダンな感じ。 しかし、ちゃんとハイテーブルと言う奴があって、 ほほう、これが噂に聞くハイテーブルか、と感心する。 本当にちょっと高いところにあるだけだ。 食後、ちょっとしたお茶用のスペースに移動して、 珈琲を飲みつつ雑談。 R 教授が「大変印象深い、古くていい感じだ」と言うと、 L 先生が「Not bad. でもオックスフォードでは、 17世紀より前でないと『古い』とは言わないらしい」 と答えていた。 いかにもイギリス的な物言いだ。

そして午後のセミナの一つ目は私の講演。 一月のシンポジウムの失敗を大反省した結果、 かなり準備を重ねたこともあってか、 今までで初めて自分で納得できた講演だった。 英語での講演に限らず、 日本語でのセミナやシンポジウム講演を含めても、 これまででベストの出来だった。 やはり講演で大事なことは、 数学の内容がそもそも明解なことだ。 内容が数学として立派である必要はない。 大事なのは明晰さであって、どんなに英語が下手でも、 明解な内容は明解に話せるものだ。 講演の後、L 先生にも「極めてクリアだった」 と褒めていただいた。 その後も、夜まで何度も褒めるので、 逆に本当はあまりにヒドかったので慰めているのかもしれない、 と勘繰りそうになるくらいだった。 セミナ後、オフィスに戻ると、 同僚が講演どうだった?と尋くので、 "Not bad. Anyway, I could manage it" などと答えておく。 夜は、L 先生、Q 先生、講演者二人、 学生有志とパブで集まってから、インド料理屋で夕食。 これは毎週、 確率解析セミナの後のお決まりのコース。



2005/04/26 (火)


2005/04/27 (水)


2005/04/28 (木)


2005/04/29 (金)

初夏 (日常, math)

新学期に入って、一週目が終了。 昨日までは不安定な天気だったが、 今日はすっかり晴れて初夏の陽気。 と言っても、イギリスなのでせいぜい最高気温 18 度で、 快適そのもの。

今日の今期最初の L 先生とのマンツーマン・セミナも無事に終了。 色々と次の問題などが明確になり、充実した議論だった。 またそれとは別に、 昨日の木曜日に大学関連の重要なインタビューがあって (流行りの大学アセスメントだろうか)、 それが成功裏に終わったとかで、L 先生は御機嫌だった。 確率解析グループのプレゼンスがさらに高まったそうで、 五年ほど前にオックスフォードに移ってきて、 このグループを立ち上げて育てた L 先生としては、 その成長が特に嬉しいのだろう。



2005/04/30 (土)

メディアと数学 (math)

金曜日の夕方に今期最初のコロキウムがあった。 通常の講演者は国際賞級の有名数学者である。 今のコロキウム世話人である L 先生の言葉によれば "outstanding" な数学者に、 一般数学者向けに(つまり専門外の専門家向けに) 易しく最先端の研究内容を語ってもらう、と言う趣旨。 しかし、今回のコロキウムの講演者は、 なんとドイツのメディア関係者で、 L 先生もかなりの変化球を投げてきたな、 と告知を見て思っていた。 しかし、実際の講演は、 メディアの中でどのように数学や数学者が語られているか、 という内容で大変面白く、 これは確かに重要なテーマだと思い直した。

映像の題材になっていたのは、 例えば、ドイツの土曜日のお昼のクイズ番組で、 箪笥を部屋に入れるのに対角線の長さを求める問題が 出されているところ。 または、 ハリウッド映画「ビューティフル・マインド」で、 数学者ナッシュがどのように描かれているか、 を示すいくつかのシーンなど。 まあ、数学や数学者はクールでセクシーでエキサイティングだ、 とは思われていない。むしろその正反対に思われているか、 良くても奇矯なものとされているかだろう。 かつては、何だか分からないけど凄いらしい、 と尊敬してもらえたのだが、 今はけしてそうではない、と言うことは確かだ。

この講演では数学そのものが いかに現代社会に影響を与えているか、 と言う視点はほとんどなかった。 しかし、 私自身はむしろそこがポイントなのではないか、と思う。 これは単に数学が「役に立つ」ことを強調しろ、 と言っているのではない。 むしろ何故、そのことが見え難くなっているのか、 が問題の本質だと思う。 つまり、世界の科学観がブラックボックス化し、 そのことが事実上、隠蔽されてしまっていることを、 憂えているのだ。 例えば、病院でスキャンを受けても、 その断面図は X 線か何かを断面にあてて写真を撮るんでしょ、 くらいに思う (どうやって「断面だけ」を撮影するんだ!)。 勿論、実際は反射してきた情報から、 断面の映像を数学的に再構成しているのであって、 そこで使われている数学は極めて高度な現代数学である。 おそらく数学者でもフーリエ解析が専門でない限り、 どうしてそんなことが可能なのか、ちゃんと説明できる人はまずいないだろう。

数学にとって現実世界への応用面はあまり重要でない、 と考える数学者は少なくない (私自身は応用を好むし、大事だと思うが)。 応用を蔑むことがスタイルの一部のようでもある。 しかし、この科学のブラックボックス化は、 数学教育や純粋な研究そのものにも、 影響を与えているし、互いに関係しあっていると思う。




この日記は、GNSを使用して作成されています。