「Keisuke Hara - [Diary]」
2005/06版 その1


2005/06/01 (水)

Xmen (chess, films)

たまたま TV で観たので、メモ。 チェスの出てくる映画。意外なところで "X-men". 最後の最後に、悪玉と善玉が中空に浮いたプラスティック製の牢獄の中で、 プラスティックの駒で対局している。 善玉が、七段目に進んだポーンでチェックして勝つ。



2005/06/02 (木)

ハワユー? (日常)

私は昔から語学が苦手で、 どうして得意な人はああもたやすく外国語をあやつるのか、 と不思議に思っている。

英語で一番普通の挨拶は「ハワユー?」だろう。 しかし、これは疑問文なので何か答えねばならない。 ようやく自然に対処できるようになってきたものの(今頃ね)、 最初の内はこのただの挨拶にさえどぎまぎしたものだった。 私はつい「ファイン」と答えがちで、 おそらくそれは中学生のときに英語の授業で、 「アイムファイン、サンキュー、アンドユー?」 と言うのを繰り返し唱えさせられたからだと思う。 まあ、ファインでも悪くないだろうが調子が良過ぎる感じで、 あまり人がそう答えているのを聞かない。 しかし、万事、サンキューと言っておけば問題ないし、 挨拶されたらたずね返すのも礼儀正しいので、アンドユー?も非常によろしい。 つまり、中学校の教科書は「安全側」に振ってあったのだろう。

私の観察によれば、人々は色々な答え方をしていて特に法則はないものの、 一番多いのは "Not bad" と "OK" あたりだろうか。 また、「ハワユー?」は挨拶ともとれる一方、 本当に今どうなのかを聞いているとも取れるので、 そこから会話を始めてしまうこともある。 例えば、(私)「ハワユー?」、「こんな寒い部屋じゃやってられないね、大体この建物は…」とか。 あるいは、 (L 先生)「ハワユー?」、(私)「問題なのはγ< 1のときサンキャク不等式が…」など。 一方、私が経験した最も簡潔な、ラコニックとさえ言える答え方は、 (私)「ハロ、ハワユー?」、(某ポスドク)「ぐ。」だった。



2005/06/03 (金)

スロッピィ (日常, math)

この前の定例セミナの間のお茶の時間、中国系の Q 先生と雑談。 マルセイユのシンポジウムで、 私の勤める R 大学の W 辺先生に会って一緒に写真を撮ってもらった、 と嬉しそうに語っていた。 ところで私は、どこの大学から来たのか、と良く尋かれる。 しかし、そもそもそれほど有名でないのと、 名前が難しいことの二つの理由で、大抵良く通じない。 前にそんなことがあったときに、L 先生もそこにいて、 「一番簡単な説明は、今、W 辺がいる大学」と言っていた。 確かに正直に言って(やや忸怩たる思いがしないでもないが)、 一番説得力のある説明であることは認めざるを得ない。 教訓としては、優れた研究者を一人雇うのは、 とても経済的で、かつ有効な宣伝になる、ということだ。 または、教員にちゃんと研究をしてもらう、 と言うことは私学の経営者が思っている以上に、 はるかに効率的な国際的宣伝になる。 まあ、そんなこともあるせいで、 R 大学は確率論の世界ではある程度名前が売れてきていて、 少なくともヨーロッパでは、たまーにではあるが、 「カンサイエリアにある、確率論が盛んな奇妙な名前の私学」 と言ってもらえるようになってきた。

そのときの、また別の話。Q 先生はフランスに長くいた。 Q 先生によれば(また確率論の人しか分からない話で申し分けないが)、 フランスの学生は皆、R-Y の教科書を端から端まで読んで、 全ての演習問題を解いている、と言う。 まさか。本当なら、フランスの未来は明るい。 日本の学生はやっぱり皆、 Ito-M や I 田-W 辺で勉強しているのか、 と尋ねるので、 学生が読む本としては今ではあまりポピュラーではないと思う、 なぜなら難し過ぎるし、細かいところまで書いてあり過ぎるし、 必ずしも現在の研究のホットなところに直接つながるわけでないから。 他のもっとモダンで手っとり早い教科書、例えば……などを読むのが普通だろう、 と答えた。 それはいけないね、今君が挙げたような入門書は確かに悪くはない、 しかし、「スロッピィ」だし、何より「インスパイアされない」よ、 と Q 先生は言うのだが、 この二つの単語はまさしく的確だと私は思った。 特にスロッピィがうまい。



2005/06/04 (土)

僧敲月下門 (日常, tech&hachs)

土曜日も通常通り出勤して、気楽なモードであれこれ。 数学は午後からに決めて、 午前中はちょこちょことプログラミング。 前に ruby で書いた簡単なログ解析用のスクリプトを少し改良し、 その後は C++ のお勉強。 L 先生が C++ を「過小評価するな」と強く主張するので。 Visual C++ のベータ版をインストールし、 簡単なプログラムを作って遊ぶ。 でもこのエディタが耐え難いなあ… とは言え、外部エディタで書いてたんじゃ、 統合環境の意味がないような気もするし。 世間のプロはどうしているんだろう。

某出版社に頼まれていた原稿用紙 15 枚ほどの短かい原稿の初稿を書き終わった。 これから約一箇月かけて推敲する予定。 ふと、「推敲」って英語で何て言うんだろうと思い調べてみると、 polish か improve くらいで、特に詩文専用の言葉はないようだ。



2005/06/05 (日)


2005/06/06 (月)

texture (日常, films, foods)

第七週目開始。 数学は完全に手詰まりぽい。 昨日は午前中少し数学をしてみたが、まるで手が動かないし、 ボクサーで言うところの「足が止まった」状態。 昼食は久しぶりに近所のイタリア料理屋に行って、 昼間から赤ワインを飲み、ピザを食べ、 食後のエスプレッソなどで長居してきた。 その後の午後は逃避力を生かして、C++ の自主演習をし、 "C++: The core language" を少し読み進めたくらいでサボリ。 夜は TV で映画 "The long kiss good night" を観た。 ラドラムの某有名スリラーの主人公を女性にして、 ハリウッド的に派手に仕上げた娯楽作品と言う感じ。 教訓は、「人生は痛みなのよ、立ち上がりなさい」かな。

ところで、そのイタリア料理屋が久しぶりだった理由。 この店はピザが美味しいし値段も安いので、これはいい店が近所にある、 と思ってイギリスに来た当時は喜んでいた。 しかし、ある時、 パスタを頼んでみたらぐにゃぐにゃになるまで茹でてある上に、 舌がしびれるほど塩が強くてがっかりして以来、ずっと足が遠のいていた。 世の中には色々と美味しくないものが存在するが、 茹で過ぎたパスタもその一つじゃないだろうか。 店員はほとんどイタリア系に見えるが、 実はシェフはイギリス人に違いない。

イギリスの料理が酷かったのは昔の話で、 今はそうではない、と言う主張を良く聞く。 例えば、土曜の午前の料理番組を観ていると、 なかなかに色々と美味しそうな料理や、 各国のエスニック料理の作り方などを紹介していて、 まんざらではない気はする。 それに、料理番組ではしきりに "texture" という言葉を口にする。 つまり、イギリス料理に最も欠けている最大のポイントは、 "texture" であるという事実は認識しているのだろう。 しかし、そうは言っているものの、 実際のところは、正しく総合的な理解にはほど遠いような気がする。 例えば日本人ならば、どんなに食や料理に興味がなくても、 味のかなりの部分はいわゆる味、つまり舌が感じる五味、 以外が占めていることを理解していると思う。 誰でも、喉ごし、舌ざわり、歯ざわり、という概念を自然に使うし、 そういったものが香りや、見た目や、 器を開けた瞬間にふわっと漂う湯気や、 箸が瀬戸物にあたる音や、 器に唇が触れた感じにいたるまで全てが、五味と総合した結果として、 初めて「味」があるのだ、 と実際は理解しているのではないだろうか。 あくまで平均として、 日常に食べる一般料理のレベルでは、 やっぱりイギリス人は概ね、texture を身に染みては理解していない気がする。



2005/06/07 (火)

象牙の箸 (foods)

前にイギリスに半年いたときには、 夏の時期だったこともあってか、 無性に素麺が食べたくなったものだった。 しかし、今回は(少なくとも今のところ)、 何か和食が無性に食べたいと言うような欲望が起こらない。 プロウマン・サンドウィッチと中華料理でどこまでもやって行きますよ、 くらいの感じ。

でも、無理に挙げてみると、今日がたまたま天気が良いせいかも知れないが、 お茶漬かな… 冷御飯に冷たいお茶をかけて、 胡瓜の漬物をぱりぱりかじりながら、 象牙の箸でからからと音を立てながら、お茶漬をさらさら食べたいような気がする。



2005/06/08 (水)

グランド・デザイン (日常, math)

家主がヨーロッパの方に長期滞在中なので、 しばらく一人暮らし。週末から家主の親戚の人が来るそうだ。 それまで黒猫のミチャの世話を頼まれたので、 朝夕に餌をやっている。 天気予報によればしばらく好天が続く見通しで、 ついに夏が来た、そうだ。 最高気温が20度を越したくらいで、 夏が来たと言われてもピンと来ないが、 快適で良いことは確か。

数学は既に完全に手詰まりかと思っていたが、 定例セミナの合間のお茶の時間に L 先生と議論して、 あれこれと次の手の案を練る。 やっぱり優れた数学者は、 手詰まりと思われたときでも、 今までの成果を無駄にしないように、 問題の焦点をずらせたり、少し別の方向に継木したりと、 進展の芽を絶やさないコツを心得ている。 今までを振り返ってみると、 私の場合はこういう問題をやってみよう、 二年経過、駄目でした。しばらく沈滞。 今度はこういう問題をやってみよう、 一年経過、今ひとつでした、 と言うようなことの繰り返しだったように思う。 後ろを振り返ると、死屍累々とは言わないが、 散発的な結果がごちゃごちゃと放り出されているだけのような気がする。 しかし、優れた数学者と言うものは、 論文リストが一つの織物のようになっていて、 一見では、突然おかしなことに興味を持っていたようだったり、 事実つまらない結果を発表していたりするものの、 リスト全体をよくよく眺めてみると、 そこに確かに全体的な調和があるものだ。 つまり、意識的にか無意識的にか、グランド・デザインがあるのだ。 そしてこのような、一種のメタな戦略的なデザインの存在が、 ローカルな「手詰り」とか「失敗」さえも、 無駄にさせないのだろう、と想像する。



2005/06/09 (木)

テキサスホールデン (thoughts)

以前、ある文章を翻訳していたときに、 「テキサスホールデン」と言う言葉が出てきて、 何だろうなあ、と結局分からないままだったのが、 本屋の一部にあるゲーム商品売場の脇を通ったときに、 「テキサスホールデン・セット」が山積みされていて、 それが何なのか初めて悟った。 ポーカーのヴァリエーションの一つで、 プレイヤーは二枚の札をそれぞれ隠し持つが、 他の札は共通にして台にさらす方法である。 手元の二枚と台に順にさらされていくカードを使って、 ポーカーの手を作る。 他の人には隠されている手元の二枚のカード以外は、 全員の目にさらされて行くので、 通常のポーカーよりは情報量が多く、 駆引きの要素が複雑になっている。

また、ある文章を翻訳しているときに、 「アイスランドからの手紙」と題された引用が何回か出てきたのだが、 それが小説なのか、実際に手紙なのか、 なんのことだか分からなかった。 でも、最近、ハマーショルドの英訳をオンライン書店で注文しているときに、 偶然、オーデンらが書いた非常に有名な著書であることを知った。 もちろん、引用にもオーデンの名前があったが、 それが詩人のオーデンだとは思っていなかった。

翻訳は、原著者の心の内を全て理解しているのが理想だろうが、 もちろん、そんなことは不可能である。 しかし、最低限でも、原著者が持っている知識を全て持っているか、 またはフォローできないと、 そもそも正確な翻訳になりっこない。 しかしながら、それも不可能だと思う。



2005/06/10 (金)

Markings (日常, books)

今日の午前で第 7 週も終了。 数学は今週もほとんど進展がなかった。 考えることはあっても、解決できない。 もう最終学期も終わろうとしているのに、 共同研究の落とし所が見つからず、 一段落つけ難い感じで、弱っている。 色々なことを学べたことは確かに収穫だったが、 一年かけて論文が書けないと流石にまずいなあ。

最近、読んでいる本。"Markings". D. Hammarskjold の日々の覚書の、 W.H. Auden らによる英訳本(原書はスウェーデン語、「道しるべ」の題で邦訳もあり)。 ハマーショルドは第二代の国連事務総長。1905 年生まれ、 1953 年より事務総長の座につき、 在任中の 1961 年 9 月 18 日に飛行機事故で死亡。 死後、日々の個人的な覚書として書かれたこの原稿が、 遺志により出版された。 原稿は著者二十歳の 1925 年から始まり、 最後の日付けは事故のわずか三週間前の 8 月 24 日。

この本を一言で表すならば、おそらく、 二十世紀のマルクス・アウレリウス帝「自省録」。 特に、ストア派の哲学者たちに対する帝の関係に似て、 本人の哲学がオリジナルなものではないのだが、 その哲学に人生を捧げ、その哲学を生きた。 帝に対するギリシャの哲学者たちに対応するのは、 ハマーショルドの場合、 同時代人としてはシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)になるだろう。 同じく宗教的な、激しい自己犠牲の哲学を生きた二人だが、 思想としてとらえればヴェイユの方が遥かに深く、 行動から見れば、不器用に生きて惨めに死んだヴェイユに比べ、 ハマーショルドはエリート中のエリートとして本当に世界を救ったのかも知れず、 遥かに大きな影響をその時代に与えた。 そして、そこがこの自省録の弱点であることは明白だと思う。 訳者のオーデンも前書で指摘しているように、 深い謙虚さと、悪魔的なほどに高いプライドは、 結局のところ同じ言葉を話すものだ。 ハマーショルドが「私ではなく、私の中の神が」と、 繰り返し、このノートに書きつけるとき、 そう書かせているのは究極の自己犠牲なのか、悪魔の高慢さなのか、 区別できない。 しかし、その危うさがまた、この現代の「自省録」の魅力でもあるとは思う。




この日記は、GNSを使用して作成されています。