「Keisuke Hara - [Diary]」
2005/06版 その2


2005/06/11 (土)

数学会への入会 (math)

昨日の夕方のコロキウムの講演者は、 指数定理で有名なシンガー。 一般講演なのに、最近の研究の中身をほとんどダイレクトに話していて、 全く分からなかった。 その講演の前に、 シンガーのロンドン数学会への入会の儀式があり、 ついでに、研究所の院生と思われる二名の入会の儀式も行なわれた。 儀式と言っても、歴代の会員名簿であるぶ厚い本に署名をして、 数学会の代表者が、「ロンドン数学会の名において、 あなたを会員として受け入れます」と宣言して、 新会員と握手するだけだが、 まあ、なかなかいい風習かも知れない。

学会などと言うものと縁のない方は、 きっと厳しい入会制限などがあるのだろうと思うかも知れないが、 大抵の学会は希望するだけで入れるか、 または、日本数学会やロンドン数学会のように、 既に会員である誰かに推薦してもらうだけで入れる。 私が日本数学会に入会したのは随分と遅くて、 もう大学院を卒業しそうなころか、または学位をとった後だったか。 指導教官に、 「就職する前に入ってないと、流石にマズいと思うよ」と言われて入った。 (その言葉のあとに、でも自分は学会に入らないまま、 学会で招待講演をしたし、就職もした、と言う自慢話を聞かされたっけ。) さて、誰かに推薦のサインをもらわないといけないが、 普通、教員や院生などは皆、既に会員なので、 廊下でしばらく待っていて、通りがかりの知り合いに、 「ここにサインして」と言うだけでいい。 そして、私はどうしたのだったか忘れてしまった。 ただ、当時、数学会理事長がすぐ近くの部屋にいたので、 「この際、理事長に推薦してもらっておいたら?」 と言うジョーク(?)が私の周囲で流行っていた。 確か、部屋までいったけど、留守だったので、 その帰りにその階の院生部屋に立ち寄って、 たまたまそこにいたそれほど親しくない院生に、 「悪いけど、数学会に推薦してもらえる?」 と言ってサインをもらったような気がする。 もちろん、日本数学会には入会儀式などはない(と、思う)。



2005/06/12 (日)


2005/06/13 (月)

未能事人、焉能事鬼 (thoughts)

タイトルは論語より。 「季路、鬼神ニ事ヘンコトヲ問フ。子、曰ハク、未ダ人ニ事フルコト能ハズ、 焉ゾ能ク鬼ニ事ヘン」(先進第十一)。 私は未だに人々に良く仕えることができもしないのに、 どうして故人の祭り方について良く知ろうか、 くらいの感じか。

祖母の祥月命日。 特に長じてからはそれほど祖母と近しくなかったので、 忌日だからと言って思い出す出来事などはあまりない。 ただ、徳のある人だったなあ、と死後になってようやく思う。 田舎の村からほとんど一歩も出ることなく、 着物を縫う仕事だけをして一生過ごしたような人で、 文字が読めたかどうかもあやしい。 しかし、田舎と言っても色々とあるものだが、 どんなときにも腹を立てることもなければ、 愚痴や不平を唱えることも、 悪い言葉を使うことさえもなく、 ただ淡々と毎日、機嫌良く着物を縫っていた。 今、徳と言う言葉について考えると、 祖母のような人のことだろう、と思うばかりで、 他には何も具体的な例が浮かばない。 後になって聞くに、 祖母は子や孫たちの中で、私を一番に好んでくれていたようだ。 その徳のほんわずかでも、私が継いでいることを願う。



2005/06/14 (火)

冷たいビール (foods)

イギリスのビールは生ぬるい。 そしてそれが良いところではある。 ヨーロッパには、「日本人はビールを氷みたいに冷やして飲むんだぜ、 どうかしてるよね」などど言う人がいるものだ。 とは言え、夏の爽やかな季節にはやはり冷たいビールが飲みたい。 そんなときには、ギネス。 少なくともギネスだけは冷たくサーヴされる。 このハウツーを参考に、貴方もいかが?



2005/06/15 (水)

キシマ先生の王道と覇道について (books)

今回、イギリスに来るにあたって、 豆本版の「キシマ先生の静かな生活」(森博嗣「まどろみ消去」に所収)を持ってきて、 時に読み返している。 そして最近、キシマ先生の言葉の中に一つ、 厳密に言えば間違いなのではないか、と思う箇所があって気になっている。 「王道」と言う言葉を巡るこの短編の本質的な部分でキシマ先生は、 「違う、まったく反対だ。ロイヤルロードの意味じゃない。 むしろ覇道と言うべきかな」と言っている。 私はこの「覇道」の使い方が少しおかしいと思う。 ちょっとややこしい話なので、以下の議論を慎重に読んで欲しい。

キシマ先生の言う「王道」は、正しく厳しい真の学問の道を指していて、 その意味で、「ロイヤルロードの意味じゃない」と言うところは正しい。 そして「覇道」が「王道」の反対語だと言うことも正しい。 しかし、「覇道」は、 「仁徳に基いた正しい政治の道」と言う良い意味で使うときの「王道」の反対語であって、 武力や権謀による政権奪取の道を指す。 つまり、「ロイヤルロード」の意味の「王道」の反対語ではないし、 キシマ先生が使いたいはずの「王道」の意味でもなく、 むしろその反対語に近い。 事実、「覇道」には基本的には良い意味はなく、 王道を「悪い意味には絶対に使わない」というキシマ先生自身の強い言葉に反する。 キシマ先生は「王道」の良い方の意味と「覇道」の意味のどちらかを誤解していたのではないか。 しかし、 学問研究の道に攻撃的な意味を持たせつつ、 学問の道は「覇者」の歩むべき厳しい道であり、 けして自動的に禅譲されるような「王者」の生ぬるい道ではない、と言う意味で、 逆説的に「むしろ覇道」と言いたかったのかも知れない。 おそらく、これが正しそうだ。 一度、キシマ先生と議論してみたいところである。

もちろん、キシマ先生は科学者なので、立ち話の中で、 厳密な儒教思想に照らせば完全に正しいとは言えない、 と言った程度の言葉を使ったところで問題はない。 少なくとも、この短編小説の価値を減ずるものではまったくない。 実際、私は傑作だと思っている。それどころか、 作家には時に、本人にもどうして書けたのか分からないような傑作が書けることがあるものだが (例えば、キースの中編の方の「アルジャーノン」とか)、 「キシマ先生」はその種の奇跡的な傑作だとさえ思っています。 そうしてみると、このキシマ先生の「間違い」は、 著者があえてそう言わせたストーリー上の伏線である可能性すら、 あるかも知れません。



2005/06/16 (木)

論文博士 (math)

ちょっと前、日本の新聞サイトで、 「論文博士が廃止される」と言うニュースを読んで、 ちょっと驚いた。 まず驚いたのは、論文博士が日本独自の制度だ、 と言うことである。そうだったのか… そして次に驚いたのは、この廃止が博士号の水準を上げることになる、 と言う記事の論調である。

私は今まで、論文博士の方が通常の課程博士より偉いとさえ思っていた。 その理由は単純で、 数学の分野ではかつて、大変に優秀な学生は修士号を取ったらすぐに、 助手としてどこかの大学に採用されたもので、 そうすると当然ながら、 その後に論文博士で博士号を取得することになる。 だから、論文博士= 優秀なので博士号を取る前にプロとして認められた人、 と言う等式が私の中でできあがっていた。 しかし、一般にはこの等式は非常に狭い空間でしか成立していなかったようだ。

まあ、そういう「博士号の水準」がどうした、 などと言うことはどうでもいいことだ。 結局、研究者として活躍するようになれば、 評価の基準は今、何を書いているかだけなので、 誰もそんな形式は気にしない。 むしろ、この記事のポイントは、 これ以降は、修士を出てすぐ大学に就職ができる、 なんていうことはなくなる、と言うことでしょうか?



2005/06/17 (金)

失なわれた証明 (math, 日常, thoughts)

今日で Trinity term の full term が終了。 学生たちにとってはもう夏休み。 今朝のセミナは L 先生の事情でキャンセル。 静かに full term 終了日を迎える。 と言っても、セミナは不定期にまだまだ続くと思われる。 数学は進展しているようなしていないような、 喩えて言えば、 ゴミをどこかに隠すことで部屋を掃除しているようなもので、 綺麗な場所は広がっているが、 それは単に問題点をソファの下に押し込んでいるだけであって、 根本的な解決にはなっていない、と言った感じ。

昨日の午後に特別セミナがあり、 カルテクのバリー・サイモンが講演していた。 本人を初めて見たが、パワフルな迫力のある話しぶりだった。 敬虔なユダヤ教徒なのか、丸い布のような帽子を頭にのせていた。 講演の内容も、Loewner と言うユダヤ人数学者の「失なわれた証明」 についてで、 数学的には、行列単調関数の話。 これは簡単そうで非常に深い解析の問題。 しかし、それ以外の歴史の逸話のような話もあれこれあって、 ユダヤ人としてのアイデンティティを強く意識している人なんだなあ、 と言う印象を強く受けた。

私のような普段、人種的、あるいはもっと広義に、 自分が所属している集団から来るアイデンティティ、に興味がない上に、 そのような chauvinism が大嫌いな私でも、 同室のヴィジタとの雑談のおりには、 隙あらば、日本人数学者の活躍を誇らしげに紹介したり、 確率論を過小評価するな、 と代数幾何学者を説得したりしている自分に気付く。 結局、人間の業病のようなものかも知れない。 問題はそれを邪悪なものに育てず、 良い方向にコントロールすることで、 おおむね普段は気楽に忘れ、表に出てくるときには良く使う、 という呼吸が大事かと思う。 ところで、"chauvinism" に対応する日本語がないのは何故だろう。 逆に一般的過ぎるからですか?



2005/06/18 (土)

ギネス (日常)

Full term が終了したからって、 私には何の関係もないような気はするもの、 そこは一つ景気付けに、 パブに行ってギネスでひっそりとお祝いと反省会。 昨年九月下旬から Moleskin 手帳につけている日々のメモを読み返し、 ちょっとしんみりとする。 数学的な進展は今ひとつだが、まあ頑張ってる方かな… と少し酔っぱらいつつ、ウッドストック通りを歩いて家に向かいながら、 あ、でもこの評価があるから弱い意味で定理が主張できるかな、 などと、やや逃げの入った落ちのつけ方を考える。

イギリスはついに本格的に夏か。 今日は気温がぐんぐん上がり、南東部では三十度を越す勢い。



2005/06/19 (日)


2005/06/20 (月)

パスワード・セキュリティ再考 (tech&hacks)

かつて、パスワードは必ず暗記しておくもので、 絶対にどこかに書き留めておいたりしてはいけない、 と強く主張されていたものだ。 これは原理的には正しい。おそらくいつまでも正しい。 (そして、相変わらずパスワードを部屋のカレンダーに書いてあったり、 モニターにポストイットで貼ってあったりする人を撲滅するためには、 絶対に正しい。) しかし、問題点は一人の人間が管理するパスワードの数が、 爆発的に増加していることで、 余程記憶力の良い人間でも全て覚えておくことは難しい。 ましてや、ほとんど乱数に近い「強いパスワード」をいくつも、 例えば二十個、覚えておくことは人間業ではない。 そのため、今やむしろ、 「必ず記憶して、絶対に書き留めてはいけない」 と言う黄金則が弊害をもたらし始めている。 人々があらゆる機会に、同じ「弱いパスワード」を一貫して使うようになるからだ。

そのため、現在では「パスワードをどこか一箇所に書きとめて、 それを大事に持っておくことはそれほど悪いことではない」、 という結論になりつつある。 または、ソフトウェア的にパスワードたちを一つの「マスターパスワード」 で管理して、マスターパスワードだけは完全に記憶だけにとどめておく、 と言う手法が良いだろう、とされている。 いや、もちろん、このどちらも「良くない」ことは分かっている。 (私に直接、問題点を指摘するメイルを送信するのは止めて下さい ;-) ただ、上の段落の弊害があまりに大きいので、 それを防ぐことが優先される、と主張しているだけである。

ところで、私はこの問題に対して「最終解決」とさえ思っていた、 解決策をかつて編み出した。 一つの強いパスワード(「種パスワード」)を固定し、これは暗記する。 そして他のパスワードは、それを適用する対象をキーワードにして、 頭の中で暗算できる程度のある種の非線型変換を 「種パスワード」に施すことで生成するのだ。 しかし、この妙策も破綻することになった。 加齢により、私が十分複雑な計算を暗算できなくなったのである。




この日記は、GNSを使用して作成されています。