「Keisuke Hara - [Diary]」
2005/07版 その3


2005/07/21 (木)

割り勘と消えた 1 ポンド (math)

今朝の BBC News で、 数学をテーマにした子供向け娯楽番組の人気プレゼンターがインタビューを受けていて、 次の有名な古典パズルが紹介されていた。

レストランで三人が一緒に食事をした。 合計 30 ポンドだったので仲良く 10 ポンドずつ割り勘で払った。 ところが、ウェイターが請求の間違いに気付き、 本当は合計 25 ポンドだったので、5 ポンドを三人に返却した。 5 ポンドでは割切れないから、三人はそこから 1 ポンドずつ受け取り、 残りの 2 ポンドをチップとしてウェイターに渡すことにした。 めでたし、めでたし。 しかし、良く考えてみると、 三人はそれぞれ 10 引く 1 で 9 ポンドずつ払ったことになる。 つまり店が三人から払ってもらったのは合計 27 ポンド。 そしてウェイターが受けとった分は 2 ポンドだから、 合計で 29 ポンドにしかならない。 残りの 1 ポンドはどこに消えたのか?

おそらく、皆さんも一度はこのパズルを聞いたことがあるだろう。 勿論、この計算はおかしいので、そもそも謎はどこにもない、 と言うのが答。 しかし、むしろ私が興味があるのは、 なぜこのおかしい計算が、多くの人には一見もっともらしく思えるのだろうか、 と言うことだ。


ロンドン (news)

再びロンドンの地下鉄 3 駅とバスで爆発か (BBC News の最初の記事 )。 今のところ被害者は非常に少ないとのこと。 地下鉄は一部閉鎖、避難。 今のところ、事情はほとんど不明。14:30, 21 July 2005.



2005/07/22 (金)

7時間ゼミ、フォローアップ(消えた 1 ポンド問題) (日常, math)

今日はゼミがあるのかな、、、と思って、 一応早めに出勤してオフィスでニュースなど観ていると、 L 先生自ら登場。 数学の議論を始め、朝 10 時から夕方 5 時まで、 ぶっつづけのゼミをしていただく。 私は昼食さえ取らなかったが、 L 先生本人は私が本を 2 ページほどコピーしている間に、 サンドウィッチの昼食を済ませていた。

必要ないとは思いますが一応、昨日のパズルの解答。 一言で言えば、「チップは三人が払ったのだから、 支払いの中に含まれていて、その二つを足す意味はない」。 でも、それだけじゃつまらないですから、 インストラクションとして数学者の第二の天性、 「極端な場合を考える」、を使ってみましょうか。

「三人で食事をしたら代金は 3 億円でした。 ちょっと高いとは思いつつも支払いをすませたら、 やっぱり勘定の間違いで、本当はタダだったのです。 差額の 3 億円を返してもらえて嬉しかったので、 ウェイターに『ありがとう』と言いました。 結局、三人が支払ったのは 0 円で、 ウェイターが受けとったのは 0 円で、合計 0 円にしかなりません。 3 億円はどこに消えたのでしょう?」

こうしてみると、昨日の問いが全くナンセンスなことが分かりますね。 つまり、三人が払った金額とチップの金額を足すことには何の意味もないし それと最初の支払いの値段を比べることも無意味です。



2005/07/23 (土)

ゼミ (math)

そういや 学生の頃にも 7 時間か、8時間くらい、 ぶっつづけでゼミをしていただいたことがあったなあ (マンツーマンではなく他の学生もいてのことだった)。 やっぱり数学者の素質の一つは体力かも知れない。

数学の教育は結局のところゼミでしか行えないとされているようで、 それは何だか一種の「秘儀」とでもいうか、 「一子相伝」みたいなイメージがして、 私はあまり好きではない。 とは言え、そう多くの数学者が考える理由にはもっともなこともあって、 数学の研究で一番重要なことは、 うまく言えないけど…そう、「ディシプリン」なのである。

例えば、数学研究を目指す学生がゼミで徹底的に叩き込まれることの一つは、 「分からないことは分からないとはっきり宣言し、恐れずに聞け。 何一つ、曖昧なままにするな」と言うことだろう。 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥と言う言葉もあるが、 数学のゼミでは、聞くは一時の恥、 聞かないで曖昧なまま議論を続けるくらいなら今すぐこの部屋を出て、 二度と帰ってこなくていいです、 と言うくらいの迫力で叩き込まれる。 数学で最も重要なことは、(広い意味で)いかにアイデアを伝えあうかであって、 それが出来ない限り、数学はありえない。 そうするためにはどうすべきかと言う数十世紀に渡る知恵の集積があって、 そのディシプリンが骨身に染みて身につかない限り、数学研究もありえない。 これは頭の良さとか知識とかよりも遥かに、遥かに重要で、 その前では頭の良し悪しとかは無意味なくらい重要である。 そんなわけで、未だに数学には外部から見れば、 秘密結社的要素があるのではないかなあ、と思います。



2005/07/24 (日)

Should I be afraid? (films)

昨夜 TV で観た映画。 "Meet Joe Black" (邦題は「ジョー・ブラックをよろしく」だったか)。 日本で公開当時あまり評判の良い映画ではなかったように思う。 いやむしろ、こきおろされていたような。 でも私にとっては好きな映画の一つである。 大筋は、アンソニー・ホプキンス演じる大企業の経営者のもとに、 「死」が人間の姿を持って現れ、 死ぬまでの日を「死」と一緒に暮らすことになる、 というもの。 普通ならこの「死」は本人にしか見えない、 などと設定されそうなものだが、 この映画ではこの「死」は普通の人間の肉体を持っていて、 誰にでも見えるし、人間としてふるまうところが味噌である。 おそらく「奇妙な味」に分類される物語だろう。 ただ、「奇妙な味」ジャンルがメジャー映画化されること自体矛盾なので、 恋愛などでハリウッド的味つけがされており、 それをファンタジーと勘違いした人々ががっかりしたのだと思う。 私がこの映画が好きな理由の一つは、 どうも舞台になっている主人公の自宅が懐しく思えることで、 それは私にとっても随分と不思議なことである。 と言うのも、私は比較的貧しい家に育ったので、 こんな豪邸が懐しいはずはないのだ。

この映画を観る度に思うことには、 もし死と言うものが人格を持って私の目の前に現れたならば、 おそらくそんなに悪者ではないのではないか、 いやむしろ、結構いい奴なのではないだろうか。 この映画でのように、物静かで奇妙な青年で、 ピーナツバターが好物だったりするのではないでしょうか。 そしてまた漠然と思うことは、 もし私が死ぬ日が自分に正確に分かっていたら、 もっと私は良く生きられるのではないか、 スケジュール帳に印をつけたその日を目指して、 もっともっと楽しく、美しく、良く生きられるのではないか、 ということなのです。 この映画の主人公のように死ねるなら、 きっとジョー・ブラックに会うことはむしろ、 とても楽しいことでしょう。

ああ、そうそう。この映画では花火のシーンがとても綺麗です。



2005/07/25 (月)

片手で 12 まで数える方法 (日常, math)

月曜の朝、雨そぼふる中、研究所に出てきてみると、 L 先生から朝一のメイルで、土日に何やら計算したらしく、 TeX のファイルが届いていた。 タフだなあ…

私は誰でもしていることだと思っていたのですが、 意外に知られていないらしい、と某所で気付いたので、 ここに紹介しておきます。 それは、片手で 12 まで数える方法。 もちろん、二進法を使えば 32 まで (正確には 0 から 31 まで)数えられるし、 コンピュータ技術者の中には実際、しょっちゅうこれを使っている人もいるでしょう。 しかし、今日紹介するのはそんな難しい話じゃありません。 単に、親指を除く他の四本の指にはそれぞれ、 二つの関節で仕切られた三つの「腹」があるので、 それを(同じ手の)親指の先で押さえて数えていけば、12 まで片手で数えられる、 と、それだけです。 片手で出来るので、10 まで数えるときにも便利です。

私は昔、自分で思いついたので我流ですが、 小指の先を1、根本に向かって2、3、 薬指の先が4、根本に向かって5、6、 と続けて、 人差指の根本の 12 まで数えます。 そして、もう一つの手で普通に 1 から 5 までを数えると、 合計で 12 かける 5 で 60 まで数えられるわけです。 (もちろん、12 かける 12 で 144 まで数えられますけど、 あんまり便利じゃありません。)

多分、12 進法と 60 進法を使っている国では、 良く知られているんじゃないかと想像します。 むしろ逆に、これが 12 進法と 60 進法の起源なんじゃないか、 と私は疑っているくらいです。



2005/07/26 (火)

アンモナイトはお昼寝 (music, 日常)

一応、夏休み中なので研究所は平日も静かだし、 土日はほとんど人もいないので、この前の日曜日、 オフィスで数学を考えながら歌を口遊んでいると、 段々と調子に乗ってきて、 ほとんど絶唱と言う感じで、 「タイムマシンにお願い」を歌いながら、 部屋のドアをばーんと開けて廊下に出ると、 ドアの前のベンチに、 ロシアからシベリア鉄道で放浪してきました、 という風情の老数学者が座って何やら計算しているところに出くわしてしまい、 もの凄く恥ずかしい思いをして、 いや、いつもは、ゴールドベルグ変奏曲のメロディとか、 静かに口遊む程度なんですよ、本当です…と、 ひとしきり説明したいくらいだったが、 実際は逃げるようにその場を立ち去るのが精一杯でした。

このロシア人(に決めつけ)は、私のオフィスの前で、 ずっと私の「タイムマシンにお願い」を聞いていたのか、 それどころかその前の、「八月の濡れた砂」も聞いていたのか、 そうなのか… /「きらめく黄金時代は、ミンクをまとった娘が、 ボギーのソフトにイカれて、 デュセンバーグを夢見る、ハハハー!」



2005/07/27 (水)

紙は燃えている (math, thoughts, 日常)

なんと、オックスフォード数学研究所の図書室は、 PTRF をおいていないのだね (確率論の専門家はちょっと驚いているだろう)。 もちろん、web 版を購読しているので新しいものについては問題ないが、 ドイツ語のおかしな名前だったときの物は読めない。 しょうがないので、ラドクリフ図書館に閲覧に行く。

最近は論文の検索を手元のコンピュータでして、 論文そのものもその場でダウンロードするなりして (紙にしたければプリントアウトして)読む、 のが普通だと思う。 L 先生などは、何のために図書室がいるのかね、 などとラディカルな発言をしていたが、 各大学の図書館では購読している学術雑誌をどうするか、 けっこう問題になっていると思う。まず購読費用が高い、 その上に場所を取る(こちらがより高コスト)、 届くのに時間もかかる、 出版社側からすれば作るのも送るのも高価だし、 さらに、紙は酸化するので、 つまりゆっくりと燃えており、けっこう寿命が短い。 つまり誰の立場からしても、猛烈に高コストなのである。 従って、論理的な結論は、電子媒体に切り変えましょう、 と言う以外ありえなくて、 実際、ほとんどの出版社は既に新しく出版する分は電子雑誌を併用し、 あるいは完全に切り変え、 過去に出版した雑誌も電子データに変換する努力をしている。

しかし、購読雑誌を電子版だけに切りかえてくれ、 と言われるとなかなか抵抗のあるもので、 実際、私にもその気持ちは理解できる。 でも、やはりそれは「センチメンタルバリア」だと思うのですね。 コストがいくらでもかけられるときはいいのですけど、 購読する雑誌を減らさなくてはいけない、 とか、他の予算を削るか天秤にかけなくてはならない、 などと言うことになってきたら、 潔く、ロジカルにならざるを得ないでしょう。 とは言え、初めて自分の論文が雑誌に載って、 図書室に届いて、 それを手にとった時はとても嬉しいものでしたねえ。



2005/07/28 (木)

ティラノザウルスはお散歩 (日常, music)

一昨日、歌いながら数学をしていた、 と言う話を書いたら、乗り乗りで口遊める歌謡曲として、 小林旭の「アキラのホイホイ節」を教えて下さった親切な方がいました。 ありがとうございます。 でも、それを歌いながら数学するのは難しそうですね… それに普段は、本当に、無伴奏チェロ組曲とか口遊む程度なんですって。

そして、「タイムマシンにお願い」が心にふと浮かんだのには理由があります。 オフィスの机から目を上げると、 ケブル・コレジの壁とその中の庭が見えるのですけれど、 その壁に白いペンキで恐竜の落書きがされているのですね。 そして、その絵の横にはこれまたでかでかと "Remember what happened to the Dinosaur!" (「恐竜に起こったことを忘れるな!」)と書かれているのです。 モンティ・パイソンみたいですが、本当です。 私はいつも、この恐竜を見ながら数学を考えているので、 ふと、「ジュラ紀の世界が広がり…はるかな化石の時代よ…」 と始めてしまったわけなのです。



2005/07/29 (金)

自殺と反射 (chess)

タイトルは物騒ですが、今日はチェスの話。 しかもプロブレムの話で、さらにかなりマニアックな話題なので、 そもそも、この日本に興味がある人が両手で数えられるくらいかも。 長い話になりますが、たまにのことですから御容赦下さい。 (でも、将棋やチェスの「詰み(メイト)」 と言う概念さえ知っていれば読めるはずですし、 意外と興味を持っていただけるかも知れません。)

セルフメイトと言うプロブレムのジャンルがある。 白が先手で始めて、黒に強制して自分(白)を詰めさせる、 と言う問題である。白は自分を詰めてくれ詰めてくれとつめより、 黒は嫌だ嫌だと逃げまわるわけで、 おかしな問題を考えたものだと思うが、歴史は古いらしい。 私はこのセルフメイトの概念の何かが、おかしいと思っていた。 論理的には問題はないのだが、何かが変だと。 良く分からないままに放っておいたのだが、 昨日になって整理されて意識に浮かび上がってきたので、 ここに書き留めておく。

白が黒を強制する、と言うが強制する方法は二つしかない。 一つはそもそも可能な手を狭める方法で、 もう一つはチェック(王手)をかけて対応しないと殺すよ、と脅す方法である。 この後者の方が、私がおかしいと思ったポイントだった。 黒は白を詰めたくないので、 黒は白をできるだけ延命させる手を選ぶ。 しかし、もっと決定的な抵抗の方法がある。つまり、 相手を殺すくらいなら、その前に自殺すれば良いのだ。 極端に言えば、チェックをかけられて、 殺すよと言われても逃げずに取られてしまえば、 白を詰めることを強制されることから逃れられる。 勿論、これは不可能手であるし、 可能だとしても白は自分が詰められたいのだから黒の王様を取らない。 しかし、黒は白に自分(白)を詰めるように強制されることから逃れるために、 逆に自分(黒)を詰めるように白に強制する方法がありうるのではないか? 白はこの可能性を摘み取らねばならない。 そして、この可能性は盤面の非常に深いところに存在しうるのではないか、 このテーマはセルフメイトの問題の中で十分に探索されているのか、 と私は(ぼんやりとではあるが)思ったのだった。

そして、 リフレックスメイトというジャンルがあって、 これは上のテーマの単純化である、と解釈できる(と私は思う)。 リフレックスとは、 「白が先手で始めて、黒に強制して自分(白)を詰めさせることが目的だが、 ただし、白も黒も相手を一手で詰められるときは必ず詰めなければならない」。 という、条件つきセルフメイトである。 つまり黒側の抵抗として、自分が一手でメイトされる盤面に持ち込む、 という方法があって、白はこの盤面を避けつつ、黒を強制しなければならない。 一方では、黒も白を一手でメイトできるときはしなくてはいけないので、 白が黒を強制して自分(白)を詰めさせる本来の目的が、 通常のセルフよりずっと易しい。 私の主張は、言い変えれば、 「セルフとリフレックスの中間の領域があって、 そこで非常に巧妙な問題が作れるかも知れない (しかも、通常のセルフのルールの中ですら作れるかも知れない)」、 と言うことになると思う。 ただ、これはあまりにマニアックと言うか、複雑すぎて、 普通のセルフかリフレックスあたりが人間には良いところ、 という結論なのだろうとは思う。 または、そのような可能性は全くないか、 少なくとも面白い問題になるようなレベルでは存在しない、 ということが示せるのかも知れない。



2005/07/30 (土)

インディペンデンス (films, 日常)

昨日は、一週間前のロンドン・テロ事件の容疑者が全員逮捕された、 と大きく報道されていた。 丁度、家主と話す機会があったのだが、 親戚がノッティングヒルに住んでいるそうで、 逮捕劇の当日は武装警官の大規模作戦に町が支配され、 生きた心地がしないと電話がかかってきたそうだ。 そして、家主と話していて思ったのは、 このようなインテリで外国人と結婚したような人であっても、 やはり深いアラブ嫌悪やムスリムへの偏見があるのだなあ、と。

そして、BBC の夜の映画は「インディペンデンス・デイ」。 素直に考えれば、「宇宙戦争」への宣伝なのだろうが、 どうしても勘繰ってしまう。 人間が団結しあうには邪悪な敵が必要なのだろうか? そして、この映画でも敵の宇宙船をやっつける決め手は自爆攻撃。 アメリカ的な楽天的な陽気さと御都合主義にあふれた娯楽作品なので、 そんなややこしいことを考える映画ではないのだけど。



2005/07/31 (日)



この日記は、GNSを使用して作成されています。