Keisuke Hara - [Diary]
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Keisuke HARA
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Mathematics Research Centre, University of Warwick,
Coventry CV4 7AL, UK.

April, May, June and July

八月の印象(荒野、再び鉄道、ヨーク、その他)

八月は夏の終わりの季節である。 太陽が出ているとまだ爽やかな夏の名残りを感じるが、 天気が悪い時はそろそろ暖房が必要だな、 と思ったりもする。 そろそろ帰国の段取りをする日々に、 ふと日本の天気予報を見てみると九月になろうというのに、 最高気温が35度を越していて憂鬱な気持ちになる。 日本はいつからか、熱帯地方に仲間入りしたようだ。

八月もまた色々の災難にみまわれた月であった。 一番堪えたのはピークディストリクトという地方のウォーキングだろうか。 正直に言って、心の底からイギリスの荒野の恐ろしさを思い知ったのだった。

若干、話がずれるようだが、お許しいただきたい。 私は以前からシャーロック・ホームズ・シリーズの 代表的長編「バスカヴィル家の犬」は駄作だと思っていた。 なんだか「荒野(ムーア)」なるものが、 生きて帰って来れないだの、なんだのと、大変恐ろしげな場所のように書いてあって、 それがまったくぴんと来ないし、 事件そのものもホームズは 「とてつもなく難解な事件」と言うのだが、 実際信じがたいほど単純な見え見えの事件なのである。 強いて言えば、ワトソン博士の芸の域にまで達した底無しの間抜けぶりが 読みどころであろうか。 しかも動機に納得の行かない所が多々あるのだが、 「彼ほど狡猾な男なら何とかしたに違いないと思わないかね、ワトソン君」 みたいな、おいおい何でもありかい、というような説明がついていて、 子供ごころにもがっかりとした気持ちを味わったことを覚えている。 さらに少々マニアックな話になるが、 この小説では「靴の片方だけが、しかも二度盗まれたのは何故か」 という後の本格派以降のモダン・ディティクティブ・ストーリー を先取りする魅力的な謎と合理的な解答が 用意されているにも関わらず、その見せ方が散々であることも、 当時からネオ・ロマンティックの傾向があった原少年の 落胆を決定づけたのである。

しかし、今の私は考えを変えた。 われ童にてありし時は思うことも童の如く、 語ることも童の如く、論ずることも童の如くありしが、 今、人となりて童にてありしことを捨てたり。 「バスカヴィル家の犬」は推理小説とか探偵小説と言うよりも、 荒野という美しくも恐ろしい場所の魔に魅入られた男の物語であり、 すなわち荒野そのものが主人公なのである。 そしてイギリスの「荒野」なるものの恐ろしさを思い知った今となっては、 むしろ傑作であるとさえ言いたいのである。 私は荒野というものは単に荒れている野原を 日本にも昔あちこちにあったような「はらっぱ」のスケールで考えていた。 大きな間違いである。イギリスの荒野は富士樹海にも匹敵する 恐ろしい場所であり、うっかり無知のまま踏み込めば命の危険すら 覚悟しなければならないのである。 イギリスの荒野は地平線まで続いているというスケールで、 しかも地面は不安定な泥炭(ピート)で出来ていて、 雨や気候のせいなのか、数メートル規模の小さな山やら谷やら、 落とし穴やらが密集していて、どこもかしこも大小の岩だらけで、 ミクロスコピックにはきわめて複雑かつ危険な地形であり、 その上、どっちを見てもマクロスコピックには同じ草野原の風景が 地平線の彼方まで続いているのである。 ウォーキングに行く前にE教授が「方位磁石と水が必要だ」 などと言っているような気がして、 聞き間違いかと思っていたのだが、方位磁石と水がなければ いきだおれになっても何の不思議もない。 その時は天気が比較的良かったのだが、 E教授の話によると前回は冬でしかも雨、荒野全体が濃霧に包まれていたそうである。 某数学者は寒さのためパンを掴むことが出来ず、手の平に乗せてもらっていた、とか、 某数学者が皆が冷えきっていた所に赤ワインを差し出して人気者になったとか、 やたらに体力のある某数学者が丘の上まで駆け上がって皆を導いたとか、 嬉しそうに話してくれるのだが、 雨で泥炭の地面が底なし沼化し、しかも濃霧で視界がなかったら、 それはいつ犠牲者が出てもおかしくない、 と私の経験から断言できる。 ホームズすら犯人が霧の荒野に逃げ込んだとき、 追跡を諦めたではないか。 それに常にどこからか赤ワインを取りだしてくるフランス人や、 体力無尽蔵のロシア人が、いつも仲間にいるとは限らないのである。

荒野から奇跡の生還を遂げてからまだ日も浅い八月の中ごろのこと、 E教授がやってきて、イギリスの地図で場所を指し示しながら、 ハル大学のセミナーで話さないかと言う。 ちょっと遠いが鉄道で行けば便利な所だし、 帰りにはヨークに寄って大聖堂など観光して帰ってこれるぞ、 などと言うので承知した。 地図で見るには若干、遠いような気がしたが、 イギリスの地図の距離感がわからないので、 まあ行って、セミナーで話して、ヨークの街を見学して帰ってこれるくらい だろうと思っていたのである。 しかし事実は、ハルはイギリスの誇る急行列車インターシティを持ってしても、 コヴェントリーから乗り換えること二回から四回、 合計約五時間という所にあるのだった。 気楽に引き受けてしまったら、ハルに二泊するちょっとした小旅行に なってしまったが、こういうのは楽しい冒険だから良い。 少なくとも、遭難の危険はない。

イギリスは鉄道王国だったらしいのだが、 かつての国鉄が現在は25社に及ぶオペレータで分割民営化されており、 ちょっと遠い場所に行く時には、 数社の路線を乗り換えることになる。 もちろん予約をしないならばチケットは共通だし、 どの駅でもどの会社の予約もできるのだが、 同じ区間をいくつかの会社が走っていて値段や時間が違ったり、 曜日や時間や往復の仕方などに依存する多様な割引制度があって、 不慣れな外人にとってはその実態はかなりミステリアスである。 しかし、特に予約をしないのなら、 駅の窓口でどこそこまで往復(リターン)、 とか、どこそこまで片道(シングル)と言えば、 往復を買うときにはいつ帰るのかと聞かれるくらいで、 一番安い切符を自動的に渡してくれるので問題はない。 イギリスの鉄道には特急料金という概念がないので、 普通の乗車券でどの列車でも乗ることができる。 また予約席車両といったものもなく、 予約が入った席の背中に予約券みたいなものが差しこんであって、 その席に予約が入っていることを示すのである。 それに最初はちょっと驚いたが、改札もない。 と言う非常にシンプルかつおおざっぱなものになっており、 きっと国鉄時代は、時間の不正確さを除けば、 非常に快適かつ便利だったのではないかと想像する。 その美点が経営破綻を招いたのは日本の国鉄と同じ事情ではないか、 と愚考する次第である。

セミナーを終えた日もハルに宿泊したので、 翌日は中世の面影を今も伝えると言うヨークの街を訪れることにした。 ヨークは一世紀にローマ帝国の都市として始まり、 その後、八世紀頃にはヴァイキング王国の首都として栄え、 さらにノルマン民族の手に落ち、 その後は北のスコットランドに対する軍事的拠点、 およびイングランド主席司教の住む宗教的拠点として栄えた、 らしい(パンフレットの受け売り)。 と言う割には、 ヨークは思ったより小さな町で、周囲が壁でぐるりと囲まれていて、 その上が歩道になっている。町自体が城塞になっていると言うことだろう。 ヨークの最大の名物はヨークミンスター大聖堂であるという話だったが、 むしろそれ以外に特に名物はないといった感じである。 しかし、大聖堂は流石に立派で美しく、1200年代からそのまま 残っているという巨大で繊細なステンドグラスなど見所が多い。 町そのものも中世の雰囲気が残っていて味わい深い。 また何故だか知らないが幽霊見物が盛んらしく、 例えば「き○がいアリスと行く、幽霊ツアー」などというチラシが 配られていたりする。他のチラシも見たが、 大抵夕方の七時過ぎくらいに出発して、 あちこちを歩いて回って幽霊を見物するようである。 チラシを見た限りでのお勧めは、 やはり「き○がいアリス(1920生)とがらくたタブ(1998生) と裏道を行く(本当にそうしたければ)」ツアーが出色であろう。 幽霊自体よりこのコンビの方がよっぽど怖い。 是非、誰かに一度試していただきたい。 大聖堂のすぐ近くに随分と歴史があるというパブがあって、 そこで昼食を食べた。 ヨークシャーで最も古い醸造所で作られているというビールが 美味しかったので、これも機会があれば是非お試しあれ。

ヨーク観光を終えて、後はコヴェントリーまで帰るだけだったのだが、 うっかり分厚い時刻表を持ってきていたために、 「おや、こうやってこうやって、こう乗り換えれば一時間以上早く着く ではないか」などと愚かな考えが浮かんでしまい、 座席を予約してあったにも関わらず、 オリジナルな作戦でイギリスの鉄道に立ち向かうことにした。 結果は大ハマリかつ惨敗であった。 最大の問題点はヴァージン社が路線の再整備のためとかで、 バーミンガムに到着または経由する列車のほとんどを間引いていて (八月中旬から九月中旬まで)、 不自然で非経済的で奇怪な乗り換えをしなければバーミンガム を越すことが出来ないことであった。 しかも、その事実は市販の時刻表はもちろん、 駅によってはホームの時刻表にすら反映されていなかったのである。 さらに、いつものことながら列車の到着発車時刻は遅れまくりで、 もう何が何やらわからなくなってしまっていたのであった。 特にイギリスでは列車に名前や番号がつけられていないので、 混乱が広がってくると状況はカオティックな様相を呈しはじめるのである。 ある駅では私が乗るべき列車はあまりに遅れているために、 プラットホームを変更するというアナウンスが突如として行われ、 そのプラットホームで待っていると、 さらにもっと遅れていた列車が丁度先のアナウンス時刻に そのホームに入ってきてしまい、 あやうくその列車に乗ってしまう所だったのであった。 とっさにアナウンスを聞いてそれに気づいた私は、 発車寸前に飛び降りたのだが、 発車してすぐに実はその列車も私の目的の駅に 着くことに気づいたのである。
ねーう、いっつ・これーくと(泣)」
と列車を見送りながら号泣していると、 その様子を見ていた駅員には背中から
"It WAS correct,Sir (smile)"
と、とどめを刺され、しばらく立ち直れなかったのであった。 しかもそれはまだ帰路の半ばにも達しておらず、 この後、線路を逆行して予約を入れてある列車を捕まえるという 捨て身の作戦に出てみたが、 乗った列車が見事に遅れ、 しかも私が予約した列車だけは定刻通りに既に発車しており、 ただ身を捨てただけ、 という悲惨な結果になるのであった。

結局、私は合計八時間近くも駅か列車の中にいたのだが、 もうこの話はよそう。辛い思い出である。

中部鉄道の蟻地獄から帰還してまだ日も浅い八月下旬、 先月にロンドンとウォーリックでも顔を会わせていた オックスフォード大学のL教授から、 セミナーに話しに来いというメイルが来ていて、 これはいい機会と思って早速に快諾した。 しかし私の帰国までの後2週間は、 L教授の方が非常に忙しいらしく、 何度かやり取りをしたのだが、 「スケジュール上は既に同時刻に2箇所以上に存在している」(L教授の秘書談) ということで、都合をあわせることが出来なかった。 英国滞在の最後にオックスフォード大のセミナーでいじめられて くるのも良い記念だったのだが、残念であった。

オックスフォードでデビュー計画はぽしゃってがっかりしていた八月末、 研究所のR教授にご自宅でのバーベキューパーティーに誘われたので、 のこのこと付いて行く。 R教授は奥様が日本人で、 日本に暮らしていたこともあり、非常に日本通で日本語も堪能である。 また一番下のお嬢さんがチェロを弾くということで、 随分気安く接していたのだが(いざとなれば日本語も完璧に通じるので安心)、 非常に偉い数学者だということを知ったのは最近のことであった。 世間知らずのおかげで気安く知りあいになれるという一面もあるので、 あまり数学界を知らないことにもメリットはあるようだ (注:デメリットの方が多いです)。 そんなこんなで、代数幾何や可換環論の研究者や学生に囲まれて、 確率論屋は私一人という状況のパーティに出席したのであった。 きっと、可換環論の専門家であるR大の同僚のT山先生であれば、 山ほど重要な数学的会話をすることが出来たのであろうが、 私は代数幾何などかけらも知らないし、 向こうは確率論などこれっぽっちも知らないと言う状況である。 向こうは向こうでウィナー空間って何ですか、という状態であり、 こちらはこちらでホッジ予想って難しいんですか、という状態なので、 専門的な話がはずんだりはしないのである。 とは言え、 英語、日本語、ロシア語が平行して使われる 楽しいパーティであった。 若いロシア語ネイティブの夫婦は ものすごくかわいい天使のような女の子のお子さん二人、 多分四、五歳くらいだろうか、を連れてきてほのぼのとしていたし (シルヴィアとなんとかシェンカ、二人目の名前は良く聞き取れず)、 R教授のお嬢さんのチェロの演奏も聞けたし、 奥さんとはチェロを飛行機で運ぶ方法について有意義な議論が出来たし と色々と楽しかった。 お嬢さんはきっと将来美人チェリストとしてデビューすると思うので、 そうなった時に匿名でストラディバリウスをプレゼントできるように、 今から貯金を始めておかねばなるまい。 随分いいワインをたくさん飲ませてもらい、深夜十二時頃帰宅。

さて、私の英国滞在もはや後10日間あまりとなりました。 この10日間と帰国の旅については、 おそらく帰国後アップロードする九月の印象の中で書くことにして、 そこでこの英国退屈日記シリーズは終了となることでしょう。