仙台、青森、そして再び仙台へ 
(生まれてから、小学校・中学校時代)

仙台に戻ったのは小学4年生の6月。

南光台という新興住宅地に住み、小松島小学校に通うことになった。
転校生紹介で先生に連れられ母と一緒に教室に入って行ったとき、青森の田舎から来たことをバカにされないように、ブレザーを着てすました顔をしていた。
ただし、自分から積極的に話しかけるほうではなかったので、昼休みになると教室の後ろにある図書棚から本を引っ張り出し、最初の1~2週間はいつも本を読んでいた。
他のみんなは校庭でドッヂボールをしており、時々それをうらやましく見つめていた。

野球少年で球技は得意だったので、青森でもドッヂボールはかなり上手いほうだった。
本音は私もみんなと一緒にドッヂボールの仲間に入りたかったのだ。
だから、ある日H君が、「○○君、一緒にドッヂボールやらない?」と声を掛けてくれたのを嬉しく覚えている。

本ばかり読んでいたので運動は苦手だろうとみんな思っていたに違いない。
ところが、そのクラスで一番体が大きく、速くて強い球を投げるT君の球を私がしっかり受け止めたものだから、クラスのみんなは驚いたようだ。
その後は意地になったT君と私との投げ合い。

結局最後は負けたと思うが、これでようやくクラスの一員に認められ、次の日からは図書棚とおさらばし、毎日ドッヂボールをするようになった。
声を掛けてくれたH君とO君は同じ南光台方面に住んでいたので、毎日学校を行き返りする最初の仙台の友達になった。

4年生になり、音楽の授業で、たて笛を覚えたので、当時流行り始めたグループサウンズのブルーシャトウを吹きながら学校と家を往復していた。

家は、建設省の官舎。
官舎というと聞こえは良いが、これがひどいぼろ屋で、風呂は薪を割って焚いていた。
それでも、父に教えられ、薪の割り方を覚えてきれいに割れると子供心にうれしかった。
4棟あったが、木造平屋で、築何十年という廃屋のような代物。
でも、恥ずかしい家に住んでいるという意識がそれほどなかったのは何故だろう?
友達の家はみんな結構きちんとした家だった筈なのに、全く劣等感がなかった。
友達が良かったのか、私自身が自分の家に対する執着がなかったのか、よくわからない。

ただ、父はこのような家にいつまでも子供を住まわせたくないと思っていたに違いない。
後にこの新興住宅地南光台に土地を買い、家を建てることになる。
当時の父の稼ぎだけでは苦しかったのだろう。
そのために母もクリーニング屋でパートをすることになった。
親というのは本当にありがたいものだ。感謝しきれない。
後に新居に引っ越してからも駅への通り道だったため、いつもこの官舎が目に入るのだが、そのときはよくこんなぼろ屋に住んでいたものだと思うほどの建物だった。

当然のごとく、ここでも姉との2段ベッドだった。
このベッドは、小学校1年から結婚するまで約20年使うことになる。
官舎の3軒ぐらい隣に米屋があり、タケダのプラッシーというのを飲んでいた記憶がある。

高度成長期真っ只中の日本、仙台市でも住民がどんどん増え続けていた時代で、学校の絶対数が追いつかなくなっていた。
小学校もクラスが1学年に最低8クラスぐらいあり、新しい小学校が次々と建設されていた。

南光台は、後に長者番付日本一にもなった関兵馬の関兵牧場が所有していた土地で、人口増加に伴い分譲を始めた頃で、まさに雨後のたけのこの如く新築の家が建っていった。

月に一度ぐらいは建てまいがあり、そのときは高い旗が立てられ、かなり遠くからでも目につく。
友達と自転車で走っているときにその旗を見つけると、その方角に急いで向かい、棟梁が投げる餅や5円玉に飛びついていた。

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