| 仙台、青森、そして再び仙台へ (生まれてから、小学校・中学校時代) |
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5年生になると旭ヶ丘小学校が新設され、小松島小学校の生徒は、住んでいる場所で小松島に残るものと旭ヶ丘へ移るものに分かれることになった。 私は旭ヶ丘小学校へ移るほうだった。 友達の殆どは旭ヶ丘小学校へ移ることになったので、それほど寂しくは感じなかった。 旭ヶ丘小学校は新築で4階建てのとてもきれいで立派な校舎だった。 校長先生は東京オリンピックの陸上競技でスターターを務めたという人だった。 家と学校の間に小高い丘と空き地があり、毎週土曜の午後と日曜はそこで野球をして遊んだ。 当時の仙台は雪は降らないが気温がかなり低くなるため、スケートが盛んだった。近くに屋外のスケートリンクがあり、冬になるといつもそこに滑りに行っていた。 スポーツは得意なので、壁を伝ってのよちよち歩きから上達し結構な腕前になった。スケートの得意な子はみんな自分のスケート靴を持っており、それが一つのステータスだった。 私もそろそろ自分のスケート靴がほしくなっていた。 クリスマスの日だったろうか、両親が「ほら、プレゼント。欲しかったんだろう?」と言いながら、箱を開けてスケート靴を見せてくれた。 両親は当然私が喜ぶと思っただろう。 出てきたのは確かにスケート靴だが、いつも履いているホッケースタイルのものではなく、ハーフスピードというスタイルの靴だった。 両親にはその2種類の大きな違いが分からなかったのだ。 私は複雑な気持ちだった。 ホッケーの靴が欲しかったのだ。それにハーフスピードで滑った経験はなかった。 「これ、ハーフスピードじゃない……」 「何か違うの?」 「ホッケーが欲しかったのに」 「ああ、あれは高いんだよな。いいじゃない、これで」 私には返す言葉がなかった。 私の喜ぶ顔が見たくて両親は精一杯の思いをこめてこれを買ったに違いない。 その期待を裏切るような不満の言葉はとても言えなかった。 半べそをかくのをこらえながら、 「うん、ありがとう」という弱々しい言葉を返すだけだった。 それでも、ハーフスピードで一生懸命練習し、まずまず上手な滑り手になった。ただし、今でもあのときの光景と会話は、悲しい思い出として胸に焼き付いている。 旭ヶ丘小学校では合唱団に推薦された。 最終試験は「小さい秋見つけた」の独唱。 自分でも、歌というより声に自信があったし、緊張もしなかったのですんなりと合格した。旭ヶ丘小学校の合唱団はレベルが高く、仙台市内の小学校対抗では入賞こそしなかったものの、いろいろな場所に呼ばれて聴衆の前で歌った覚えがある。 最も覚えているのは八木山ベニーランドという今でいうテーマパークだ。 多くの人の前で歌うのはスター歌手にでもなったような気分でとても心地よかった。 ただし、団長はT君で、私は副団長。ここでも2番だ・・・・・・。 この後も常に1番にならない人生を歩んでいく。 合唱団に入ったことで母も期待したのか、仙台市少年少女合唱団の団員募集があり、それに応募した。 入団試験は土曜日。行くはずだった。 けれど、野球をしていて時間に間に合わなくなり、結局受験できなかった。 母はがっかりしたに違いない。 あのときの母はそれまで見たことがないほどのおめかしをしていたから。 私も本音は試してみたかったので後悔が残った。 あのとき行っていれば全く違う人生を歩んでいたのだろうか? 運命というのはこういうものか。 人生の分岐点は様々なところに存在している。 あのときあそこに行っていれば、あのときあの人に会わなければ、などと。 その頃、近所に住んでいた同級生の女の子とよく遊んだ。 ショートカットの良く似合う、目のくりっとした、笑うと八重歯がチャーミングな可愛い子だった。 もう一人の男友達と三人で他愛もない遊びをしていた。 子ども心に好きな感情は抱いていたはずだが、友達が先に彼女のことを好きだと言っていたので、争いごとの嫌いな私は一歩引いて張り合おうとはしなかった。 その女の子とは小学生時代よく遊んだが、中学に入ってからは一度も言葉を交わすことはなかった。 あれが私にとっての初恋だったのか、今でもよく分からない。 でも、小中学校の卒業アルバムを見ると、懐かしさがこみあげてくる。 話を青森時代に戻すと、声が通り、滑舌がしっかりしていたので、国語の読みが得意だった。 ある日の授業で、先生が、 「今日はクラスで一番うまいと思う人に読んでもらいましょう。誰が一番上手だと思いますか?」と言うと、 クラスの殆どが「○○君!」と私の名前をあげ、私が読んだことがある。 (うん? このHPで私は苗字を公開しているのか? ならばここで隠しても全く意味ないな(笑)) 小学校低学年程度では文字を追うのに精いっぱいで、殆どの子が棒読みしかできない中で、私はシーンを頭に浮かべ、その人物になったつもりの読み方をするので評価されたのだと思う。 休みの日は野球漬けだったが、平日はよく本を読んでいた。 今でも両親に感謝しているのは、本を買うときのお金は無制限だったことだ。 どんな本でも無駄にはならないという信念か、小遣いとは別に本代をくれた。 特にお正月の初売りの日にはたくさん買ってもらうのだが、正月休み中に読み切ってしまい、母からは、「ゆっくり読みなさい」などと言われたものだ。これは仙台を離れる高校時代まで続いた。 もっとも、小中学校のときは図書室に本がたくさんあったので、学校から借りて読むほうが多かった。 貸し出しカードはすぐに埋まって書ききれなくなり、絶えず新しいカードをもらっていた。 私の読書歴は、ポプラ社の子供向けの本、偉人伝、戦記ものなどを中心に、その他にも無差別にいろいろな本を読み漁っていた。 あるとき、漫画「巨人の星」に出てきたことがきっかけで、坂本竜馬に興味を持ち、(一徹父ちゃんが飛雄馬に向かい、坂本龍馬を引き合いに出し「男なら死ぬときは前向きに死ね!」と諭す場面) 単純な私は、「よし、ぼくも死ぬときは前向きに死のう」と思った(笑)。 死への意識なんて100%なかったのに。 司馬遼太郎が書いた「竜馬が行く」を買ってもらった。 大人向けの本格的な分厚いハードカバーだ。 全6巻に及ぶ大長編。小学4年生の秋だったと思う。 出てくる漢字などは、まだ学校で習っていないものが半分以上占めていたが、前後の脈絡と漢字のヘンやツクリなどから意味を推測し読んでいった。 ことのほか面白く、勘と国語辞典だけを頼りに最後まで読み切った。 今でも書棚にあるが、文字は小さいし大人でも読めないような難しい漢字が頻繁に出てくる。 よくこんなものを小学生が読めたものだ、とあらためて感心する。 (おそらく、このことをきっかけに両親は私の将来に過剰な期待をするようになる) それ以降、一段と国語や漢字に強くなった。 仙台に来ても学校の成績はやはり2、3番で、いつも私よりできる人間が必ずいた。1番だったのはU君。彼は後に東北放送に入社したと聞いた。 小松島小学校にはプールがなかったが、旭ヶ丘小学校には真新しいプールがあった。 ただし、私は青森にいた頃の中耳炎の影響で医者から水泳を止められていた。 それでも皆がプールで楽しそうにしているのに自分だけ見ているのは嫌だったので、忠告を無視して泳いだ。 得意ではなかった。 特に息継ぎが上手くできなかったので、クラス対抗には背泳ぎで出た。 今でも泳ぎは得意ではない。 それでも数年前、できないと思っていたクロールで50m泳げたときはこの年になっても嬉しいものだった。 なんだ息継ぎなんて簡単じゃないか、と不思議な気がした。 6年生になると生徒会(こども会)のスタッフが選ばれる。 先生が全く関与しない子供だけの選挙だ。 私は6年2組の代表に選ばれた。 4クラスあり、各クラスから男女一人ずつ代表が選ばれた。 演説会の前、母親にアドバイスをもらいながらその原稿を一緒に考えて書いていた。 仙台には「明るく正しいメガネの○○○○」という大きな眼鏡店が繁華街にあり、そのCMソングは仙台に住む人なら誰でも知っているほど知名度が高かった。 「メーガネ、メーガネ、メーガネでおしゃれー。○○○○ー」というやつだ。もちろん縁戚関係などは全くないのだが。 そこで、私と母は原稿の締めに「明るく正しいメガネの○○○○でありませんが、明るく正しい旭ヶ丘小学校を作っていきましょう」という文言を入れた。 これが、生徒にも傍聴に来ていた先生たちにも受け、最後は拍手喝采だった。 それでも結局男の1位はK君で、私はやはり定位置の2番にしかなれなかった。もっとも、私がリーダータイプでないのは明らかなのだが。 当時は男の1番が会長、女の1番が副会長、男の2番が書記になると決められていたので、私は書記になった。 旭ヶ丘小学校には5年生から移ったので2年ほどで別れを告げることになるが、卒業式の記憶は殆どない。 ただし今でも校歌は歌える。不思議なものだ。 |
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