仙台、青森、そして再び仙台へ 
(生まれてから、小学校・中学校時代)

東京ほど中学受験に皆が熱を上げるほどではないが、仙台はかなり教育熱の高い街である。
東北大学進学率の高い順に仙台一高、二高、三高とあり、ナンバースクールと呼ばれていた。
公立ながらも、一高や二高に多く合格する生徒が集まる中学校が存在し、他の中学校との格差が大きかった。
ただし、公立なのでその中学に入るためにはその地域に住んでいなければならない。
そのため、越境入学と呼ばれる住民票の移行が当然のように行われていた。

一高や二高に最も多く合格者を出すのが市の中心部にある老舗の五橋中学校。
次が新興地で教育熱心な親が住む地域にある台原中学校(通称台中)だった。
当時、中学校も生徒の増加に耐えられず、新設の中学校ができて、私の住所からは台中に行けなくなる可能性があったため、一時的に近くの親戚に住民票を移したと聞いている。
そのおかげで、無事に台中に入学することができたらしい。

台原中学校には雨の日も雪の日も自転車で通った。
南光台は、平地より高い丘陵地帯にあった牧場を取り壊し分譲された土地で、起伏が多い街だった。
そのため、家から学校前までの道のりは坂の連続だった。
途中の道はさほど辛くはなかったが、学校自体が丘の最頂上にあるため、正門まで通じるスロープの傾斜はきつく、自転車で登り切れずに途中で降りる生徒もたくさんいた。
私も毎日挑戦の日々だった。

台中は1学年が12クラスもある。
1クラス50人ほどなので、1学年の生徒数が600人という超マンモス中学校だ。
私は1年のときは12組、2年のときは1組、最終学年の3年では7組に配属された。
男女の比率は殆ど半々。つまり、1学年に男が300人もいるわけだ。
成績表はその300人中何番という形で示される。
様々な地域から優秀な小学生が集まっていることもあり、ここではさすがに学年で2、3番というわけにはいかなかった。
小学校のときはそれほど勉強しなくても充分な点数は取れたが、中学校になると親も子供も気持ちの入れ方が変わるようだ。
小学校時代たいした成績じゃなかった子が、突然学習意欲に目覚めたのか上位になったりしていた。
私はとても不思議な感じがした。

クラブはスポーツをやりたかったので、姉が入っていたこともあり、テニス部に入部した。
1年生は球拾いばかりで殆ど練習ではボールを打たせてもらえず、つまらなかったので1年で退部した。
ただ同じテニス部で姉と同級で友達のIさんが「○○ちゃんの弟なの、可愛いね」と何故か優しくしてくれた。
まだ本当の恋など知らず、うぶな私にとって変な気持ちだった。

ある日の昼休み、校庭でサッカーを終えて教室に戻る途中、二階の校舎を繋ぐ連絡通路の窓から「〇・〇・〇・〇くーん」と、中学生とは思えないほどの艶めかしい笑みを浮かべ、彼女が手を振ってくれたのを覚えている。
不思議な胸の高鳴りを覚えたのだが、あれが、私にとって○○○に対する目覚めだったかもしれない。

1年の夏頃、ようやく廃屋のような官舎とおさらばし、その場所より少し奥に購入していた土地に父が新しい家を建て、そこに引っ越すことになった。
それほど大きな家ではなかったが、新築2階建ての家は、さすがに官舎とは全てが雲泥の差だった。
2階に2部屋あったので階段を上がって右側が姉、左側が私の部屋になった。
1階は、和風の居間、洋風のソファを置いたリビング。食卓テーブルのある台所。奥は両親の部屋。
それぞれの部屋はさほど広くないが、それでも今でいえば5LDKである。お風呂もようやくガス風呂だ。

両親も格別の思いだったろう。
初めて自分の部屋を持った私は有頂天になった。
リビングにはステレオもあり、中学に入った頃から音楽を聴くようになった私はそこでレコードを良く聞いていた。
当時ラジオが大流行しており、小遣いを貯めてSONYのラジカセ・デンスケを持つのが中学生の小さな夢だった。
私が初めて買ったレコードはビートルズのLP「Yesterday」。
これを買ったとき、父は「何を買ったんだ? ビートルズ? 不良が聞く音楽だ」と言った。
その後の音楽シーンに燦然と輝く歴史を刻み込むことになるビートルズも、当時の日本の大人にとっての認識はその程度のものだった。

相変わらず、読書熱は冷めなかった。
夏休みには西公園にある市民プールに通い、帰りに市民図書館に寄って、本を借りまくっていた。
夏休みは毎日が楽しかった。
図書館、プール、繁華街、どこへ行くにも自転車だった。

「柔道一直線」という梶原一騎の漫画がドラマ化され、桜木健一の女友達役の吉沢ひとみが好きになった。
彼女が菅生ドリームランドに来るというので、友達と一緒に自転車で2時間以上もかけて、その場所へ訪ねて行った。
楽屋が掘立小屋みたいな感じで裏側に回ると窓越しにまさしく本物の吉沢ひとみがそこにいた。
「サインをください」と言ったがさすがにもらえなかった。

同じ学年にも好きな子ができた。吉沢ひとみに似た子だったと思う。
今と違って簡単に告白などできるような時代ではなく、秘かに恋焦がれているだけだったが。
家が近く、通学路をほんの少しだけ迂回するとその子の家の前を通ることができる。
たまにその道を通り、2階が彼女の部屋かな、と走りながら見上げ、胸をときめかせていた。
(今の時代では、一つ間違うとストーカーになりかねませんが(笑))

あっという間に1年が過ぎ、2年生になった。
2年の1学期、6月頃、教育実習で女子大生がやってきた。
今でも名前を覚えている。○○○という苗字だった。
目の大きなとても可愛い人で、芽生え始めた恋心の対象になった。
私の席は相変わらず1番前だったので、朝礼のときは、彼女の真正面の位置にいた。
ミニスカートの下に見える黒いストッキングに包まれた脚が何とも艶めかしかった。

彼女も私に好意的に接してくれ、仲良くなった。
様々な妄想にかられたが、彼女は私がそんな思いを持っていることなど気づいていなかったろう。
実習の最終日、お別れの挨拶をし始めると感極まったのか、彼女は嗚咽を漏らし、涙を流した。
涙を浮かべたその顔がこのうえなく美しく思えた。
その後、挨拶を口実に職員室に彼女を訪ねた。職員室には彼女一人だった。
そのとき、私が頼んだのか、彼女の方から教えてくれたのか記憶は定かでないが、1枚の紙に彼女の住所を書いてもらった。

その後、悶々とした日々が続いた。
住所から察するに、彼女はアパートに一人で住んでいるようだった。
彼女のところへ遊びに行き・・・・・・と、妄想はとどまるところを知らなかった。
実際の行動には何も移せないまま、時が経ったある日曜日、繁華街で突然女性に声をかけられた。
「○○○○くん!」
マゴウコトナキ、彼女の可愛い声だった。
街中に出るためお洒落をしていたせいか、学校で見たときよりもさらに華やかで美しかった。
相変わらずのミニスカートで、久々に見たすらりと伸びた形の良い奇麗な脚が目に眩しかった。
「久しぶりだね、元気だった?」
「はい」と答え、彼女をまじまじと見た瞬間、隣に若い男がいるのに気づいた。
眼鏡をかけた長身の男だった。
「遊びに来るかと思って電話待ってたのに」
「はあ」
「いつ来てもいいのよ。じゃあ電話してね。また」
「はい」
彼女はその男を紹介もせず、踵を返して二人並んで去って行った。
あの男が彼氏なのか? 夢妄想は無残にも砕け散った。
その後も彼女への妄想は時々浮かんだが、会うことはなかった。
一期一会とはこういうものなのだろう。
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