仙台、青森、そして再び仙台へ 
(生まれてから、小学校・中学校時代)

三年生になるとさすがに高校受験の意識が高まってきた。
学校の試験のほかに、県内の一斉学力テストなどが日曜日に行われるようになった。
私は2年の後半あたりから成績が持ち直し、一高、二高を十分に狙えるようになっていた。
3年の1学期の中間試験は、それまでで最高の学年で9番という成績を取った。1学期の期末も19番で、一高はボーダーとしても、二高は完全に合格圏内に入っていた。
特に数学と国語と英語が良くできた。

数学が得意科目になったのは一つの理由があった。
2年の1学期末試験のとき、100点満点で29点という恐ろしい点数をとり、家に帰るのがためらわれたことがあった。
期末試験の結果はいつも終業式に渡されるので、家族もそれを知っており、必ず見せなければならなかったからだ。
帰宅すると、それを見せるのが怖くてすぐ自分の部屋に入った。
父が帰ってきた。
しぶしぶその結果を見せると、父は激怒した。
「なんだ! この点数」
「何がわからないんだ? 特訓して教えてやるから、教科書と参考書持ってこい!!」
父は怒鳴った。
父は公務員になる以前、高校の数学教師をしていたことがある。

その晩は、夜中まで徹底的にしごかれた。
そんな日が何日か続くと、それまで分からなかった部分がようやく理解できるようになっていった。
問題集をやってもほぼ完璧な解答を書けるまでになった。
「よし、分かるようになってきたな。とにかく次の試験ではこんな成績とるんじゃないぞ!」
「うん」
父の猛特訓のおかげで、逆に私は数学が好きになり、テストの成績も一気に向上した。
それまでどれだけ頭を捻っても浮かんでこなかった答えが簡単に書けるようになった。
そのお陰で、国語と英語に加え、数学も得意科目になった。
本当に父には感謝しきれない。

国語は、漢字以外は殆ど勉強といえるほどの勉強をしたことがなく、これは後の大学受験までそうだった。
それでもいつも上位の成績だったのは、やはり読書好きだったからだろう。
長文読解問題など、文章を読み終わった段階で簡単に解答が浮かんだ。
国語の時間には、何故こんなものを授業で習わなければならないのか、いつも不思議に思っていた。

夏休みは受験生にとって勝負の時期である。
裕福ではなかったのに、小さい塾に通わせてくれた。
当時は今と違い、受験勉強といっても高校受験程度では塾に通ったり、家庭教師を頼むなどという生徒はそれほど多くなかった。
学校の勉強が全て。
それさえしっかりやっていれば合格できるはず。
皆がそう思っていた。
生まれて初めての塾通い。
塾といっても5、6人の生徒を自宅で教えているささやかなものだ。
それで成績が上がるのか私にはまったく見当がつかなかったが、父はおそらく不安だったのだ。
私の父は昭和ひとケタ生まれ。
結構大きな農家だが、次男坊だったためと、百姓に学問はいらないという、昔気質の環境だったため、大学受験を許されず、当時の高等専門学校に行かざるを得なかった。
息子にはどうしても大学に行かせたい、という思いが強かったのだろう。

受験の試練の期間と言われる夏休みが過ぎ、塾も終わった。
残り半年、自分の人生の方向が初めて試されるときが来る。
3年生はみんな真剣だ。私も、夜遅くまで勉強に励んでいた。
ただ、卒業していく寂しさなどもあってか、放課後になってもよく学校に残っていた。

ある日、廊下を歩いていると、突然わきの窓ガラスが割れ、ボールが飛び込んできた。
一瞬、何が起こったのか全く分からなかった。周囲には飛び散ったガラスの破片があった。
我に返ると目の辺りに微かな痛みを感じた。そこにT君が飛び込んできた。
青い顔をしながら「ごめん。あっ、○○○○。大変だ、顔から血が出てる」と言った。
誰かが先生を呼びに行き、保健室に連れて行かれた。
眉の脇が切れていたらしい。ガラスの破片は刺さっていないようで、応急処置をしてから、本格的に病院に行って診てもらった。
幸い、大けがには至らなかったが、ほんの小さな傷が残った。
目を凝らして見ないと分からないほどの小さな傷だが、今でも残っている。

後日、T君が母親と一緒に私の自宅に謝罪に訪れた。
二人とも本当にすまなさそうな顔をしていた。
その事件を起こしたT君は仲の良い友達で、勉強でもライバルだった。

第一章 完 
 
第二章「中学卒業、高校受験に失敗(中学校・高校1年時代)」
へ続く。

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