第二章 中学卒業、高校受験に失敗。榴ケ岡へ (中学校・高校1年時代) |
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三年生になるとさすがに高校受験の意識が高まってきた。 学校の試験のほかに、県内の一斉学力テストなどが日曜日に行われるようになった。 台中では、放課後4時(5時だったか?)になると「下校時間になりました。みなさん帰りましょう」というお決まりのアナウンスが流れる。 当時、誰の発案か忘れたが、O君、I君、T君たちと紙飛行機を作って屋上から飛ばそうということで、放課後に飛行機作りをしていた。 秋も深まり冬の足音が近づいてきた頃、ようやく完成した。 白いボール紙で作った、両翼の長さが身の丈ほどにもなる大きな紙飛行機で、それを屋上から飛ばした。 これから離れ離れになる私たちの高校進学後の将来への夢を乗せたつもりだったかもしれない。 その紙飛行機は緩やかな軌跡を描きながら、3分ぐらい飛んでいたろうか、校庭に静かに着地した。 まだ学校に残っていた生徒たちもかなりいて、上空から突如舞い降りてきた大きな紙飛行機を見て驚いていた。 屋上でそれを見届けた私たちは「やったあ」と大喜びだった。 だが、すぐに担任のH先生に見つかり「受験がもうすぐだというのに、お前ら何やってるんだ」と大目玉をくらった。 あれは、受験のプレッシャーから逃げたいという現実逃避の気持ちの表れだったのだと思う。 12月に入った。 受験が間近に迫って来たことは、みんなとの別れの時期が近づきつつあるという寂しさも孕んでいた。 当時仙台市の高校はすべて男女別学だった。(新設の泉高校を除いて) つまり、高校に進学するとそれまでの9年間と異なり、クラス全員が、男だけ、女だけという全く新しい学校生活が待っているのだ。 それは思春期を迎えた少年、少女にとってはある意味哀しいことだ。 だから、この時期は好きな異性がいた場合、告白できる最後のチャンスにもなっていた。 じかに呼び出して告白する者、友達を介する者、秘かに手紙を送る子など、方法は様々だった。 私も終業式のクリスマスの日、ある女子からクリスマスカードをもらった。 その子の友達から「○○君に渡してほしいって」と言われて昼休みに手渡されたものだ。 その内容は、当時の私にとってはかなり衝撃的なものだった。 詩のような文章が書かれており、一枚一枚めくっていく形のカードだが、最後を開くと 「太陽よりも、月よりも、星よりも、この世の中であなたが一番好き」という言葉で締めくくられていた。 私が人生で初めて受けた告白だった。 その子は、私にとって女子の喧嘩友達みたいな関係で、まさか彼女がそこまで私を思っているとは想像もしていなかった。 彼女のことは嫌いではなかったが、恋愛など考えたこともなかっただけに私は悩んだ。 一気に勉強が手に付かなくなった。 机に向かい鉛筆を持ち、参考書を開いても内容が頭に入らず、一向に先に進まない。 その年の冬はよく雪が降った。 窓の外の銀世界を見ながら、勉強中にぼんやり考えることが多くなった。 当然、試験の成績は下がり始めた。 焦ったが、どうしようもなかった。意識が勉強ではなく、そちらのほうに向かっていた。 中学最後の試験は125番という惨憺たる成績をとり、人生最初の試練、高校受験に向かうことになる。 話は前後するが、大晦日、紅白歌合戦が終わって、父と一緒に自転車で東照宮に合格祈願を兼ねて初詣に行った。 真夜中に行ったのは初めてだったので、こんな時間にこれだけの人たちが初詣に来るのだと知って驚いた。 その年のレコード大賞は、ちあきなおみの「喝采」が受賞した。 好きな曲だったので、それを口ずさみながら自転車を漕いでいた記憶がある。 後にも先にも、夜中に初詣に行ったのはあのときだけだ。 受験の前に、中学校最後で最大のセレモニーともいうべき、卒業式を迎えた。 みんな地元で家が近いのだから、一生会えなくなるわけでもないのに、体育館の壇上で卒業証書を手渡され、「蛍の光」と「仰げば尊し」を混声合唱で歌い、教室に戻ると女子の何人かは目に涙を浮かべていた。 私も少し胸に迫るものがあった。 さらに、その日思いがけず二人の女子からも手紙をもらった。 最終的に、三人の子から告白されたことになる。 男友達とばかり遊んでいたので、そんなに告白されるとは夢にも思わず、自分でも意外だった。 仙台では、公立高校の入学試験は3月15日に行われる。科目は国語・英語・数学・理科・社会の5科目。(※2016年3月2日記:昔の河北新報を見て調べ直したら、日程の記憶に明らかな誤りがあったので訂正しました) すべて100点満点で、合計500点。400点前後が私の受験する二高のボーダーラインと言われていた。 国・英・数の三教科は絶対の自信があったが、社会と理科に不安があった。 担任のH先生からは三高なら合格間違いないので三高受験はどうかと言われたが、私も両親も従わなかった。 確率は50%だ。どちらに転んでもおかしくなかった。 3月15日、ついに受験当日を迎えた。 今まで一生懸命身を削りながら勉強してきた成果がここで試されるのだ。 頑張ってきたつもりだった。けれど私は直前で下がり続けた成績への不安が拭いきれなかった。 当日の天候がどうだったかの記憶は定かではない。 試験科目がどういう順番で進んだかもはっきり覚えていない。だが、まずまず順調だった。 ある一つの事を除いては。 それは英語の試験のときに起こった。 途中までは予想以上に快調に答えを書けていた。ところが緊張のせいか、突然尿意を感じ始めた。 試験開始前に「トイレに行きたくなった人は手を挙げて係員を呼んでください」とは言われていたものの、恥ずかしくてなかなか出来る行為ではない。しかし私の思いと裏腹にますます尿意は強くなっていった。 そうなると問題にも集中できなくなってくる。私は焦った。もう我慢できない。 仕方なく手を挙げた。係員がやって来た。私は蚊の鳴くような声で「トイレに行きたいんですけど」と伝えた。 係員がうなずき、私は立ちあがった。 私が立ったとき、周りの何人かが一瞬こちらを見つめた。 教室を出ると、係員が「トイレはこっちです」と私を促し、私は彼の後を追った。 トイレに入り、すぐにでも用をたして教室へ戻るはずだった。ところが便器の前に立ってもなかなか出ない。 そう、係員がこちらをじっと見つめているからだ。 トイレと偽ってカンニングする輩がいる可能性もなくはない。 だから係員は私から決して目を離そうとはしなかった。 それを意識すればするほど、先ほどまであれほどしたかったはずの小便がでない。 こうなると悪循環だ。 便器に向かっている時間がとてつもなく長く感じられた。 なんとか懸命に用を足し、係員と一緒に教室に戻り席に着いた。 腕時計で残り時間を見た。もう10分ほどしかない。 それでも緊張から解放されたせいか、その後は再びスムーズに答えを書けるようになった。 ようやく残り2問というところまできた瞬間チャイムが鳴った。 その2問はそれほど難しいものではなく、あと5分もあれば確実に解答できるような問題だったが、無念にも私はその解答欄を空白のまま提出せざるを得なかった。 試験がすべて終わった。まず悪くはない出来だと思った。 それでも、さすがに英語のあの2問には悔いが残った。 英語の試験の前にトイレに行っておけばよかった、と後悔した。 (結果的にこの後悔は、後の大学受験のときに活かされることになるのだが……) 宮城県では公立高校入試の問題と解答が翌日の河北新報に必ず掲載されるのが決まりになっていた。 つまり3月16日は、公立高校の受験生みんなが河北新報を見て解答合わせを自宅でする日になる。 私も新聞を見ながらすべての科目の解答合わせを行った。 もちろん、書いた答えをすべて覚えているわけではないので、何点取ったかを完璧にはじき出せるものではない。 人間というのは常に自分に都合の良いほうに解釈するので、間違った答えを書いていても、確かこの答えを書いたはずだと思いたくなるものだ。 だから自己採点より最終的に少し間引いたぐらいが実際の点数結果に近いものになる。 私は、苦手の理科と社会から点数を出していった。 間引き分を考慮してもどちらも70点以下にはなっていないと思った。 それから自信のある国語、数学、英語に取り掛かった。 まず国語だ。嬉しいことにすべて合っている。最後は作文。 作文だけは100%の正解はないので、あくまでも模範解答だ。 驚いたことに、これさえも私の書いた文章と殆ど同じだった。 今でも鮮明に覚えている。 ※そのときの河北新報を図書館から借りて調べたら、河北新報には掲載されておらず、恐らく中学予備校から渡された「模範解答」と殆ど同じだったのだと思う。なので、鮮明に覚えている。などと大口叩けるようなものではなかった。情けない……。 赤字になっているのが正しいところです。 作文の問題は「旬」という言葉について思うところを400字以内で書きなさいというものだった。 この作文の問題自体に記憶違いがありました。 「旬」について書け───という問題ではなく、下記の様な問題だった……。 ![]() つまり、この文章から「旬」という言葉を導き出し、私は作文を書いたのだった。ただし、下記に書いたポイントと模範解答はたしかに読んだ記憶があるので、恐らく中学予備校の講師か誰かが書いたものを手渡され、それが私の書いた内容と殆ど同じだったと思われる。字数も400字などではなく、僅か160文字だった。だいたい中学生が、全体の制限時間が60分で、他の問題もあるのに400字の作文など時間内に書けるわけがないわ(笑)。 申し訳ない。(:_;) 解答者によればポイントは3つ。 一つは、旬(しゅん)という文字が読めて(を知っていて書けて)、その意味をしっかり認識できているかどうか。 二つ目は、昔と現在では、科学の進歩などにより旬の価値が下がってきていること。 三つ目は、科学の進歩は公害などのように両刃の剣にもなり、四季のある日本だからこそ、独特の“旬”という価値をこれからも大切にすべきであること。 この三つのポイントを把握し、きちんとした構成で文章を作るのが望ましいとあり、同時に模範解答の文章も掲載されていた。 私の書いた文章はまさにこの模範解答とほぼ同じものだった。 この文章を読んだ瞬間、「これ、俺の書いた文章と全く同じだ!」とびっくりしたほどだ。 しかも私の書いた文字数は396文字(160文字ぴったり)。 作文は、字数オーバーは論外だが字数が少なすぎても減点対象になる。 これを読んだ私は、国語は100点。 解答の記憶が違っていても一つあるかぐらいで98点は堅いと確信した。 数学、これは2問ほど間違いがあって90点。 さあ、問題の英語だ。じっくり答え合わせしていった。 一つも間違いはない。本来なら満点だ。 しかし、2つの答がトイレに行ったせいで書けなかったので90点。 それでも、5科目合計すると420点前後、通常なら合格する点数だ。 そのとき、やった合格だ! と思った。 ところが翌日、学校に行ったのか、何処からの噂からか、「今年の問題はかなり易しかったので、例年より合格最低点が高くなるだろう」という情報が飛び込んできた。 少し不安が芽生えたが、420点で落ちることはないだろうと自分に言い聞かせた。 それから1週間後(5日後の20日)、合格発表のときがやってきた。 私は自転車で二高の発表掲示板を見に行くことにしていた。 合格者の名前と番号を書いた紙が張り出されるのは午後3時。 2時半前に家を出れば、その時間に充分間に合うはずだった。 ところが今となっては当日なにがあったか覚えてないのだが、家を出るのが予定より遅れ、3時までに二高に着くかどうかぎりぎりの時間になっていた。 私は全力で自転車を漕ぎ出した。家から二高までの距離は何キロあったのだろう。 時計を見ながら走り続けた。運命の3時が近づいてくる。 校内に入ると、急いで自転車のカギを掛けて、掲示板があるはずの方向へ走り出した。 人垣がたくさん出来ていた。 歓声らしきものが耳に入ってきた。もう貼り出されてしまったらしい。 掲示板の正面に着いたときには、満面の笑みを浮かべた子どもと両親、その一方では、心なしか肩を落としながら帰ろうとする子。 明暗はっきりと分かれた光景がそこにはあった。 真っ白な模造紙に受験番号と名前が書かれた掲示板はすでに立てられていた。 腕時計を確かめると予定時刻の3時を5分ばかり過ぎていた。 ※このとき、たくさん人がいたんだ。その理由が今日(2016年3月2日)やっと分かった。泉高校の発表も二高であったのか。 嫌な予感がした。 自分の名前と番号を懸命に探すと、台中の知っている生徒の名前が目についた。 その近辺にあるはずだ。一段と目を凝らして掲示板を見つめた。 ○○という名前、その次に○○という文字が大きく飛び込んできた。 私の受験番号は彼ら二人と離れていないはず。 それなのに私の名前はない。何処にも見当たらない・・・・・・。 落ちてしまったのだ。 彼ら二人は合格したのに、私だけが落ちたという辛い現実をずっしりと重く受け止めるしかなかった。 深呼吸をした。思わずため息がもれた。一刻も早くこの場を立ち去りたかった。 学校仲間の誰にも会わないようにと願い、うつむきながら自転車置き場へ向かった。 当時はもちろん携帯電話などないし、公衆電話だって何処にでもあるというものではなかった。 家からは、結果が分かったら電話をかけてよこせと言われていた。 でもまず、この屈辱的な場から逃れるのが先だった。 自転車に乗り、家への道を走り始めた。少し走るとようやく公衆電話が目についた。 電話ボックスのドアを開け、中に入り10円玉をポケットから取り出す。 ため息を深く突いてから、ゆっくりと受話器を上げ、ダイヤルを回した。 受話器の向こうから母の声が聞こえた。 一呼吸おいて「だめだったよ……」。 泣きそうになるのをこらえながら、精一杯の声を振り絞って母に伝えた。 電話口の向こうにいる母の一瞬の沈黙が、長く感じられた。 「そう、だめだったの。仕方ないね。早く帰っておいで。事故に合わないように気をつけて」 母が無理に明るい声を出そうとしているように聞こえた。 私は電話ボックスから出ると、再び自転車にまたがり、帰り道を急いだ。 気もそぞろで自転車を漕いでいたのだろう。 車道の左端を走っていた私の前方を走っていた車が突然止まり、後部座席のドアが開いた。 普段ならすぐに気がつきブレーキをかけ、間に合ったのだろうが、落胆して放心状態だったせいか、ブレーキが遅れた。 私の自転車は開いたドアに真っすぐに突進した。 ドン!という大きな音がした。 ぶつかったのはタクシーだった。 相手もさすがにびっくりしたらしい。 本来なら自動車側の不注意による事故であちらの罪になるからだ。 さほどスピードを出していなかったことと、自転車の左側にガードレールがあったため、私は転びもしなかった。 「大丈夫ですか?」車の中から心配そうな声が聞こえた。 私は怪我もなく、ハンドルが少し曲がった程度だったので「はあ、大丈夫です」と返事をした。 返す言葉にも力がなかった。とにかく一刻でも早く家に帰りたかった。 私はすぐに自転車を降りてハンドルを直すと、再びサドルに腰を下ろした。 「すみませんでした。本当に大丈夫ですか?」 運転手が車から降りてきそうな仕草を見せたので、私は手で制し、「大丈夫です」と言って、開いたドアとガードレールのわずかな隙間から自転車を車の前に出し、ペダルを踏み出した。 本当はわき腹をぶつけたので少し痛みがあった。 それでも、こんなところでかかずらっているより、家に帰ることが先決だった。 誰にも会いたくなかったから。 友達の誰にも声などかけられたくなかったから。 ようやく家に到着した。 ドアホンを鳴らすとドアがゆっくり開いて母の顔がのぞいた。 「残念だったね。早く入りなさい」 母は、繕うような笑みを浮かべ、やさしい声で言った。 つとめて明るく振舞おうとしているのは明らかだった。 私はすぐに階段を上がって自分の部屋に入った。 いつもどおりの部屋だった。 出て行ったときと何も変わっていない。 変わったのは自分の心の中だけだった。 ベッドに体を倒し、うつ伏せになり、枕に顔を埋めると自然に涙が溢れ出してきた。 どこからか電話がかかってきたらしく、ベルの音が聞こえた。 母が出たようだ。 話し声が二階にいる私の耳にも入ってくる。 「うん、だめだったって。本人もしょんぼりした顔してね、今部屋に上がって・・・・・・」 そこまでしか母の声は聞こえなかった。 そこからは母も嗚咽になったようだ。 話し振りから、電話の相手が一番町に住む祖母であることは推測できた。 落胆している母を慰めるように 「本人が一番辛いんだから、母親のあんたがしっかりしないと」 受話器の向こう側の声なのだから、私の耳に届くはずなどないのに。 遊びに行くといつもくしゃくしゃの笑顔で迎えてくれる、優しい祖母の声が聞こえた。 不思議なことだが、本当に祖母がそう言ったように聞こえたのだった。 |
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