第二章 中学卒業、高校受験に失敗。榴ケ岡へ (中学校・高校1年時代) |
---|
けれど、結果的にはこうして私の挑戦は裏目に出て、二高受験は失敗に終わった。 だが、いつまでもめそめそしているわけにはいかない、もう一つの現実がすぐそこまで迫っていた。 中学浪人するか、私立高校を受験してそちらに進学するか、どちらかを選択しなければならない。 仙台市は、中学浪人の比率が全国で最も高い都市で、高校受験に再度挑戦するための予備校が存在し、中学浪人すること自体、かなり当たり前のように思われていた。 何故そうだったのかはっきりした理由は知らなかったし、今はどういう状況なのかも分からないが。 特に一高や二高に落ちた中学生は、かなりの生徒が中学浪人という道を選んだ。 当時の私立高校には2種類のタイプがあり、試験日も全く異なっていた。 公立高校受験の前に滑り止めという形で試験を行う学校と、公立高校に落ちた生徒を受け入れるために、公立の発表後に試験を行う学校に分かれていた。 後者は主にナンバースクールに落ちた生徒を受け入れる学校で、一高や二高に次いで地元の東北大学や他の国立大学、そして東京の有名私立大学にもそこそこの数の生徒を送り込んでいた。 後者には、東北学院(通称学院)とその兄弟校になる東北学院榴ケ岡(通称榴ケ岡)という二校があった。 実際に、この二校の成績レベルの高さは仙台三高を凌いでいた。 私は滑り止めなど受けていなかったので、学院や榴ケ岡を受験するか、或いはどちらも受けずに中学浪人するか、という選択を迫られていた。 ※2016年3月2日追記: 今日あらためてこの当時の日程を知って、その慌ただしいスケジュールに驚く。 3月20日が発表日。翌日の21日に不合格者が学校に呼ばれて進路をどうするのか問われ、さらにはすぐに学院や榴ケ岡の試験日がある(23日とか24日だったろうか? そしてその発表は試験日の翌日か翌々日のはずだから25日とか26日だ。 希望に胸を膨らませて行くべき高校の入学式の4月1日まで、もう1週間もない!! その期間で全てを決めなければならない。なんというひどい話だろうと思う。 当時の宮城県教育委員会の人間は、いったい子どもの気持ちを考慮したことがあるのか? その頃の偉い方々はすでに鬼籍に入っている人が殆どだろうが、思い出せば思い出すほど腹が立ってくる。 私は40年以上経った今でも声を大にして言いたい。 「あなた方は子どもたちの気持を真剣に考えたことがあるのか!!」と。 まだ15歳である。中学を卒業したばかり。はっきり言って子どもだ。 その年齢で、浪人という宙ぶらりんな生活を1年間続けるには相当の覚悟が要る。 しかも、浪人したからといって翌年受かる保証はどこにもない。 そのぐらいの年齢だから、逆にプレッシャーに圧し潰され、前年より成績が悪くなることさえある。 ある意味、ものすごい賭けである。 大学受験などまだ遥か先の話で、他の子が普通に高校生活を楽しんでいるのに、中学生でも高校生でもない状況で、ひたすら受験勉強一本の生活を15歳で強いられるのだ。 子どもにとってはかなり過酷な選択なのに、当時の仙台では一般的だったのがとても不思議に思う。 両親と私は話し合った。どうするべきか、迷った。 私は中学浪人になりたくはなかった。 1年余計に勉強すれば受かる自信は充分あったが、それ以上に、精神的なプレッシャーに1年間耐えられる自信がなかった。 とりあえず学院と榴ケ岡を両方とも受験してから最終的にどうするか決めることになった。 当時、繁華街のほうにあった東北学院は同じ系列なので本校と呼ばれ、生徒数も多く、僅かの差だが新しく出来た分校の榴ケ岡よりレベルが高いとされていた。 ただし、私の家からはバスで通わなければならない。 一方の榴ケ岡高校は、東北学院の生徒数増加のために作られた学校で、分校と呼ばれ、当初はその名前の通り榴ケ岡にあったのだが、前年の9月に移転し、私の住む南光台からさらに奥に入った、国道4号線のバイパスを越えた高台に校舎が新設されたばかりだった。 こちらは家から近く、自転車でも通える距離にあった。 もちろんその前に、その二校の試験を突破しないことには話しにさえならない。両方とも落ちてしまえば、否応なく中学浪人しか選択肢はなくなるのだから。 ただし、この二校の受験科目は公立と異なり、国・数・英の三科目だけだ。すべて得意科目なので、落ちる不安は頭に浮かばなかった。 その受験より前に、台中では公立を落ちて進路の決まっていない生徒だけを集めた説明会が行われた。(合格発表の翌日、3月21日だったと思う) 落伍者。そんな残酷な言葉が頭を過ぎった。 学校に集められた生徒数は1クラス分にも満たない。 当然、みんな一様に暗い顔をして、教室はお通夜のような重い雰囲気に包まれていた。 進んで言葉を発する人間など殆どいない。 何人かの先生が個人個人にこれからどうするかを生徒に聞きまわっていた。 私のクラス仲間では、あの紙飛行機を一緒に飛ばしたO君の姿が目に入ったが、お互い声を掛け合うこともなかった。 私のところに順番が回ってきた。とりあえず学院と榴ケ岡両方を受験する旨を先生に伝えた。 そして、その説明会の後で先生に呼ばれ、私は内々だけの衝撃的な事実を知ることになる。 どの先生に呼ばれたのか、はっきり覚えていないが「○○○○、惜しかったなあ、二高の合格点に3点だけ足りなかったらしいぞ」と言われた。 それどころか、驚きの言葉はまだ続いた。 「一高だったら受かっていたらしい。今年は二高のほうが難しかったんだ」 3点、たった3点。そして一高だったら受かっていたって? つまりトイレに行って書けなかった2問のうち1問でも書けていたら合格だった。 後で正確な事実を聞いたのだが、その年の二高の最低ラインは421点、 一高はそれよりなんと6点も低い415点。 そして私の五科目の合計得点は418点ということだった。 自己採点は殆ど間違っていなかったのだ。 もちろん受験者数を考えれば、3点差で落ちたのは私だけではないはずだし、台中に限らず、他の中学だって1点差で落ちた生徒がいるに違いない。 だけど、私には悔やんでも悔やみきれないトイレというアクシデントがあっただけに無念さが募った。 さらに今となっては冷静に語ることができるが、それまで厳然と続いていた、一高が一番、二高が二番というナンバースクール神話が初めて崩れた画期的な年になったのだ。 今は二高が一高を断然引き離してナンバースクールの順番は意味をなさなくなったが、それが私の受験したこの昭和48年という年から始まったということになる。 (※別注 参照のこと) ※別註:仙台市の高校がどういう変遷を辿ったのかをウィキペディアで調べていたら、仙台の小学校から大学までの設立や受験制度に関する歴史が詳細に記載されていた。 これは誰が作成したのだろうと思いながら、(内容と書き方から察するところ、元仙台二高の左翼系の教師ではないだろうか)隅々まで読むと、明らかな誤りがあった。 仙台市の公立中学生は、受験する高校を中学側から成績によって規制され、学区制が導入するまで自分の希望する高校を受験することができなかった。 というもの。 そんなことなかったはずだ。 確かにH先生からアドバイスはあったけど、あくまでも二高受験は私の家の意志だったはずだから。 そこで、私が書き替え編集し直しました。(これを書いていた2011年に) (私は「ウイキペディア プロジェクト」のメンバーなので。まあ、誰でもなれるのですが) 現在記載されているのは、その部分を私が修正し、さらに注釈を入れた文章です。 言い方を変えれば、ウィキペディアを完全に信用しきってはいけないということでもあるのだけれど。 暇があれば、下記「学都仙台」の”高等学校”について書かれた部分の 昭和34年、古川高校出身の三浦義男が県知事に就任する。 以降の文章を読んでみて下さい。 「学都仙台」 ※ここまで別註 こんなことがあるだろうか。私は自分の運のなさを呪った。 だが、すべてはもう終わったことだ。何度悔いてもその事実は元に戻らない。 とにかく学院と榴ケ岡の受験に全力を尽くす。それしか道は残されていなかった。 どちらの試験が先だったろうか。 落ちたら中学浪人というプレッシャーもあるにはあったが、得意科目だけの受験はそんなものを簡単に吹き飛ばした。 受験後は、どちらの試験もかなりの点数を取れたという自信があった。 学院にいたっては、何度答え合わせをしてみても、三科目全て間違った箇所が一つも浮かばず、300点満点じゃないかと思っていた。 予想通り、どちらも合格した。 それからの選択肢は学院、榴ケ岡、中学浪人の三つとなった。 父、母、そして私がどういう気持ちで最終決定をしたのか、今ではあまり覚えていない。 これには学費の問題も絡んでいたので、私の希望だけですんなりと行かなかったと記憶している。 新築されたばかりの学校だったせいか、学院より榴ケ岡のほうが学費は高かったはずだ。 さらに、高校予備校の学費はどのぐらいかかるのか、私には分からなかった。 いずれにせよ、公立に何の問題もなく進学するより、親に多額の金銭負担をさせることになった。 高校時代、何かのきっかけで調べたことがあるが、榴ケ岡の学費は東北地方の私立高校の中でもずば抜けて高いものだった。 それにもかかわらず、最終家族会議で榴ケ岡に行くことが決定した。 学費は高くても、自転車で通学できる近さということもあったと思う。 私も近い榴ケ岡のほうを望んでいたが、試験の出来を考えれば、学院だったら特待生で(後に判明する榴ケ岡と学院の試験結果から)1年目の授業料は安くなっていただろう。 あれは試験の日か、それとも受験後の面接だったか確かではないが、雪の降る日に、榴ケ岡まで父と一緒に自転車で行った記憶が鮮明に蘇ってくる。 こうして私は4月から、中心部にある仙台二高と全く逆の方角にある東北学院榴ケ岡高校に、大きなトラックやダンプカーが唸りを上げて行き交う国道4号線のバイパスの脇を自転車を漕ぎながら通うことになる。 榴ケ岡では、入学するとすぐにオリエンテーションと称して一泊二日の合宿が行われた。 そのオリエンテーションで、班ごとに分けられた部屋を先生が訪れ、お互いに自己紹介のようなことをする。 榴ケ岡高校はそれまでの中学などと違って僅か3クラスしかなく、一学年の生徒数が150人弱で、仙台市内の、というより県内のどの高校よりも生徒数が少ない。 その合宿で、私は1年B組であることを知らされ、担任のOという先生がやってきた。 一人ずつ自己紹介を始め、私の番になった。 「台原中学から来た〇〇です」と言うと、一瞬、彼が驚いたように目を大きく見開いた。 しげしげと見つめ、「君が〇〇君か、まあ頑張ってくれ」と私の肩を叩いた。 しばらく経って彼から呼び出され、「君の入試の成績は6番だ。これからもしっかり勉強してくれよ。学院本校の成績は1番だったようだがこっちに来てくれて助かったよ」と言われたのだ。 さらに、東大に多くの合格者を輩出していた神戸の灘高や、東京の国立の教育代付属駒場(通称キョウコマ)や学芸大付属、さらに麻布、開成など、全国にいくつかある優秀な私立高校や国立高校は殆どが国・数・英の三科目入試だったので、それらを受験してもどれかは受かったような気もする。 何故なら、難関高校の入試の過去問題集をやっても相当できたからだ。 特に、国語は何処の高校の問題でも完璧に出来た。 さらに数学も、学校の勉強だけでは物足りなく、三年のときには、数学が学年で最もでき、時折ずぼらな数学の先生の代わりに授業をやらされた(笑)T君などと、休み時間中にもかかわらず互いに図形などの難しい問題を作って、競いあったりしていた。 数学は父の特訓のおかげで、苦手科目から遊び感覚で楽しむような得意科目にまで変身していたのである。 英語は各地域によって教科書が異なり、覚えるべき単語や熟語が違っていたりするので、さすがにそこまでのレベルではなかったが。 ただ、その頃はそれらの高校を受験するような選択肢は私の家にはなかった。 一度だけ、父か母に言ったことがある。 国・数・英なら自信があるので、灘高は遠いうえに当時東大合格率では他校に水を空け別格で無理としても、東京の麻布・開成などの私立や国立(教駒や学芸大付属)の試験は仙台より早い2月にあるので受験させてもらえないかと。 だが、その願いは聞き入れてもらえなかった。 今思えば、それは正しい選択だったに違いない。 冷静に考えれば、親から離れて一人での生活では、例え先生が東大に合格させるために血眼になり、どれだけ熱心に指導してくれても、15歳なりのかなり強固な意志が必要とされる。 両親が懸命にサポートしてくれてもプレッシャーに負けそうになった私の性格では、たとえ合格したとしても、その後は成績が下がり転落の一途を辿っていった可能性のほうが高いと思うからだ。 そのあたりは、金銭面以上に両親のほうが私のことを良く分かっていたのではないだろうか。 |
![]() |
![]() |
![]() |