第二章  
中学卒業、高校受験に失敗。榴ケ岡へ
(中学校・高校1年時代)

榴ケ岡では入学するとすぐにオリエンテーション合宿というのがあり、一つだけ面白い試みがあった。
まず、先生から生徒全員にA3程度の大きさの紙が渡された。
そこには、高校を卒業する18歳から100歳まで右肩上がりに直線が引かれ、下には目盛が付けられている。
先生の説明では、高校卒業後、自分がどういう人間になっていきたいかを年を追って書きなさい、というものだ。
つまるところ、100歳までの人生設計だ。
しかも何歳で結婚し、何歳で死ぬということまで。

「もちろん、今の君たちに現実的に書けるのは、せいぜい何処の大学に受かって何になりたいかぐらいまでで、その先はそれほど考えたことがないだろうから、夢でも願望でも何でも良い」と言われたので、私は書いた。
その内容が笑えるほどすさまじい。今でもしっかり覚えている。

榴ケ岡高校卒業後、現役で東大法学部に合格。
野球部に入部。1年から大活躍し六大学で優勝。(/・ω・)/
2年になると、みんなからの慰留を断って退部。司法試験の勉強に専念し、在学中に合格。(/・ω・)/
さらには、同時に執筆活動も行い、これまた在学中に芥川賞、直木賞、乱歩賞の三つをすべて受賞。(/・ω・)/
卒業後、弁護士になりながら作家活動も継続。
結婚は28歳。(さすがに相手を書く欄まではなかったと思う)
死亡年齢は、当時はまだ死への恐怖感があったので、80歳と書いたはずだ。(その頃の平均寿命は70歳程度)

こんなことを書くやつは、脳天気を通り越してほとんど馬鹿である。
私がお調子者と言われる所以でもある。

変なところで、驚くほど怖いもの知らずだった(二高を落ちてから、それほど日も経っていないというのに)。
おそらく、学院と榴ケ岡にトップクラスの成績で入学したことで、自分なりに自信を取り戻していたのだろう。
夢でも良いと言われたので、頭に思い浮かぶ希望をありったけ書いたのだが、それにしたってここまで書けば、誇大妄想狂といわれても文句は言えまい。

本当はこれ以外にも、もっとたくさんすごいことを書いた気がするが、今は思い出せない。
スポーツ万能、頭脳明晰、作家でもあり、弁護士でもある。
とにかく何でもできるスーパーマンに本気でなりたかったのだ。
そうなるための苦労など全く考えずに……。

恥も外聞も気にせず、臆することなくこんな荒唐無稽のことを無邪気に書けた若さが、今ではうらやましい。

現実に話を戻せば、榴ケ岡では6番入学なので、B組内では2番の成績のため、クラス委員にもならなかった。
学院に行かなかったせいで、ここでもまた見事に定位置の2番。
人生というのは本当に面白い。

部活動は硬式野球部がなかったので軟式野球部を選んだ。
それでも3年の夏の大会を終えるまで、日曜を除いて毎日遅くまで練習の日々が続くようになる。
台中から来た人間も何人かいて、最初は彼らと仲良くしていたが、次第に野球部の同級生が友達になっていった。
台中時代からの友人S君の他に、SA、T、U、SH、W、みんな一緒に野球部に入った仲間たちだ。

東北学院はキリスト教のプロテスタント系の学校である。
むろん兄弟校である榴ケ岡も。
そのため、毎朝一時間目の授業前に礼拝が行われる。
ただしプロテスタントなので、カソリックに比べればそれほど戒律めいた厳しさはなく、礼拝の他には宗教の授業が週に一時間あるだけで、おおらかなものだった。

私の家は特にどの宗教に入っているというわけでもないので何の問題もなかったが、クラスの中には実家がお寺という生徒もいて、いったい親はどういう神経の持ち主なのだろうと思った。
当然のごとく、彼はいつもそのことをみんなにからかわれていた。

多くの生徒は朝の礼拝にうんざりした様子で参加していたが、歌が好きな私にとって、毎朝、讃美歌と頌栄という2つの曲を歌うことができる礼拝は、けっこう楽しい時間だった。
生徒の後ろに立って、格別大声で歌う東北学院大学グリークラブ出身という英語の先生に張り合って、負けじとこちらも大きな声で歌っていた。
その先生はバリトンで、私は相変わらずボーイソプラノだったが。

榴ケ岡は高台に建てられていたので、見晴らしがとても良かった。
ここでも出席番号は1番か2番だったので、いつもどおり教壇に向かって左端前方の席になる。
都合の良いことに、校舎は教室の左側が南に面し、高台からバイパス方面を見渡せるように建てられていた。
おかげで、晴れた日に柔らかな陽射しが入り込むと窓がきらきらと輝くような雰囲気を醸し出し、その心地良さを思う存分味わえる席に卒業するまでの3年間ずっと居座ることができた。

もっとも、あまりに気持ちが良いので、ついうとうと居眠りをして英語の時間中に先生に見つかり怒られたこともあったが、今となっては楽しい想い出だ。
そこにはもう、二高受験に失敗した落伍者などという意識は遥か彼方に遠のいていた。
後に東京に進学してからも、帰省したときに車でバイパスを通るたび、高台にあるその3階建ての校舎が見えてくると、なんとも言えない懐かしさで心がほっとしたような気持ちになったものだ。

野球部といっても、もともと生徒数が少ないので部員も少ない。
各学年に6、7人がいいところだ。三学年合わせても20人程度。
三年生は夏の大会が終わると引退するので、よほどのことがない限り殆どの部員が三年生になれば試合に出られる。
だから、そんなに強いチームではない。
というよりも、はっきり言えば弱小チームだった。
どんな大会でも1回戦敗退か、勝ってもせいぜい2、3回戦までだ。
それでも、練習は授業が全て終わった3時過ぎから2時間ほど毎日欠かさずあった。
ただし、専用の野球場などないので、校庭をサッカー部と共有しての練習だ。
軟式なのでボールが当たってもそんな大怪我になることもない。
こちらもサッカーボールをぶつけられてもどうってことはない。
そんな感じだから、それほど緊張感のない、のどかな運動部だった。

部員が少ないから、新入生といっても最初からもう実践に近い練習だ。
当時の運動部にとって、必要かつ不可欠運動ともいうべき、うさぎ跳びから練習は始まる。
うさぎ跳びという練習は、おそらく漫画「巨人の星」から全国的に流行りだしたと思うのだが、実際それを医学的見地から見ると、腰に負担を掛けすぎるので良くないと言われるようになったのは、いつ頃からだろう。

今ではうさぎ跳びを練習に取り入れている運動部など殆どないはずだ。
でも、私たちの時代は、まずうさぎ跳び。
軽い準備体操をした後、ホームベースからスタートして、一塁、二塁、三塁とうさぎ跳びで内野を一周して再びホームベースへ戻る。
それが練習開始の合図でもあった。

それから二人一組に分かれてのキャッチボール、そしてトスバッティング。
それが終わると、各々のポジションについてノックが開始される。
甲子園を狙うような強豪校なら、専門の監督がいて厳しいノックを行ったりするのだろうが、もちろん、そんな人間などいるわけがない。
野球部の監督は国語の教師で、彼が来るときはノッカーになるが、忙しくて来られないときはキャプテンがノックをする。

ノックが終わったら、もう各自が守備位置について、エースピッチャーが投げる球をレギュラーに選ばれた選手の打順に従って実戦形式のバッティングになる。
この段階でグラウンドには10人だけが残され、他の選手は外野の球拾いや、ホーム付近でボールボーイ役を務めるものと、控えのピッチャーのキャッチャー役を務める者に分かれる。
レギュラーのバッティング練習が終わると、残りの選手もバッティング練習に参加することができる。
守っていた選手にバッティングの順番が来たときは、控えの選手がその位置につく。

だから、1年生といってもかなり早い段階で守備位置が決められる。
私はセカンドになった。
セカンドはレギュラーが2年生一人だったので、彼がバッターボックスに入るときは私がセカンドを守ることになる。
こんなチームだから、よほどのすごいピッチャーでもいない限り、大会を勝ち抜いていくような強いチームになるわけはない。
そのうえ、榴ケ岡は制服もなく、髪型も自由。
学生運動の影響を受け、高校にも自由化の波が押し寄せた1970年代の象徴的な高校だった。

長髪が流行っても、他の高校の運動部員はさすがに短髪だったが、榴ケ岡は運動部員も髪型は長髪のまま。
エースピッチャーにいたっては野球部一番の長髪で、(笑えるが今のアルフィーの高見澤君ぐらいあったのだ)野球帽の下から長い髪がだらしなく飛び出し、それをなびかせながら投げるので、対戦する学校のベンチからいつも大きな声で野次られていた。
「あんな長い髪しやがって、こいつら野球をなめてんのか!!」と思われていたに違いない。

30年以上経った今でも、あの先輩のような髪型のピッチャーが、まかり間違って甲子園にでも出ようものなら、NHKのアナウンサーや解説者も眉をひそめると思うし、見ている方もあまり良い気はしないだろう。
かなり前になるが、島根県代表江の川高校の選手の髪が高校球児お決まりの坊主頭ではなく、かなり長めの髪で話題になったことがあったが、それと比較するのが馬鹿らしくなるほどの長髪なのだ。

汗と涙を流しながら白球を追いかける純粋な高校球児をイメージする高校野球ファンでなくとも、その長髪ピッチャーを見たら「ふざけた学校だ!!」と誰もが怒り狂うはずだ。
アルフィーの高見澤君が甲子園大会でピッチャーとして投げている姿を想像してみれば、納得できると思う(笑)。

後日談だが、そのような野球部でも、私の2年下のKというピッチャーが急成長し、彼が3年になったとき、準決勝まで勝ち残ったのは当時の榴ケ岡にとってすごいことだった。
さらに言えば、その何年後か、すぐ隣に東北学院大学の野球場が作られたおかげでそこを使えるようになり、この弱小軟式野球部は晴れて硬式野球部に変わった。
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