●児童文学散歩ミニガイド●

 第1回 本郷・菊坂町の宮沢賢治の足跡をたどる

 宮沢賢治が東京・本郷に住んでいたのはおよそ8か月足らず。しかしこの間に、宮沢賢治はトランクいっぱいになるほどの原稿用紙に作品を執筆しています。
  今回の児童文学散歩では、イーハトーヴォを舞台にした童話群を生み出した、宮沢賢治の本郷菊坂町での足跡をたどってみることにしました。

 突然の上京、そして本郷・菊坂での下宿生活
 大正10(1921)年、宮沢賢治25歳。父・政次郎と信仰のことでもめていた賢治は、着の身着のまま家を飛び出します。法華経の修養にはげみ、父の入信を得るために、1月23日午後5時12分発の夜行列車に乗って、一路東京へ向かいます。
 上野に到着した賢治は、下谷鴬谷の国柱会(法華経の団体)を訪れますが、そこに住み込みで働く望みはかなわず、本郷區菊坂75番地(現・本郷4-35-4)の稲垣方に下宿することになります。下宿近くの東大赤門前にある印刷所・文信社で謄写 版(ガリ版)の筆耕や校正などの仕事をして働きながら、国柱会の奉仕活動や上野での街頭布教を行いました。
 同年8月には、妹トシの病気の知らせで花巻へ戻ります。そしてその時、本郷の地で執筆したたくさんの原稿を大きなトランクに積み込んで帰郷するのでした。
 賢治の住んでいた本郷の下宿や勤め先はどんな場所にあったのでしょうか。この後、小社の編集部員が案内人となって、実際に訪れてみた本郷の現在をお伝えすることにしましょう。

 
  文京区本郷4-35-4にある宮沢賢治の下宿跡(報告その4参照)

  
   本郷周辺宮沢賢治散歩地図こちら

  



 報告その1 本郷三丁目駅周辺

 地下鉄・本郷三丁目の駅に着いて、本郷三丁目交差点に出る。80年前の同じ1月に、賢治先生もこの地を歩いたのか、と思うと感慨深い。
 交差点に立ってくるりと見渡すと、ぱっと目に入ったのが「本郷もかねやすまでは江戸のうち」で有名な老舗の和菓子屋「かねやす」の看板。 「かねやす」の隣には「大学堂書店」という古書店(食料品店の奥)があり、結構古めの児童雑誌などが置いてある。いきなり主たる目的を忘れ、寄り道して物色。「海のおばけオーリー」が250円だったが、シミが多かったので止めておく(その他、キンダーブックやチャイルド、講談社の絵本、明治時代の教科書類もたくさんあった)。

 報告その2 「床屋」はどこや?

 交差点に戻って信号を渡り、春日通りを文京区役所の方へ向かって歩く(最上階が丸くて大きなビルが目印。ここの展望台は無料で東京が一望できる)。
 通りの向かいには、石川啄木が家族とともに下宿(明治42(1909)年)していた床屋・喜之床(きのとこ)跡(現・新井理髪店)がある。  盛岡高等農林学校時代からの賢治の親友・保阪嘉内は「宮沢氏と盛岡中学(啄木と賢治の出身校)のバルコンに立ちて天才者啄木を憶ひき夕日赤し」と大正4(1915)年の日記に残している。啄木がこの喜之床に住んでいたのを、賢治が知っていたとしても不思議はない。
 1921年6月に本郷で執筆された「床屋」は傍題に「本郷菊坂町」と記された作品だ。床屋の弟子と客のかけあいが奇妙な味わいを出している小品で、毒蛾が飛び交うセンダート市の床屋はこの本郷の床屋に通 じているように感じられる。
 本郷にいた間、賢治は坊主頭を剃りに、この近辺の床屋へいったはずだ。本郷に古くからあって今も残っている床屋は、この「喜之床」と東大内の床屋の2軒だという。当時はもっと他にも床屋があったかもしれない。しかし、賢治がこの喜之床で頭を刈りながら、同郷の天才歌人・啄木に思いを馳せていたのだ、と考えるのも楽しい。 果たして賢治がアタマを刈ったのは、実際はどこであったのか……。

 報告その3 文京ふるさと歴史館

 しばらく通り沿いを行くと、「文京ふるさと歴史館」の道標が大きく出ている。それに従い右に曲がるとすぐ左手に、黒っぽい近代的な造りの歴史館があった。
 歴史館に入ってみる。入館料100円。模型やジオラマ、資料が展示されていて、文京区の歴史や文化が学べる館内になっている。小さいながら「文人たちのまち文京」というコーナーもあって、樋口一葉や森鴎外などの紹介がなされている。文京区は東京でもとりわけ文人ゆかりの地が多い区なのだ。子どもの遊びに関するコーナーには、なぜか幼年倶楽部の付録の豆本が3冊ほど展示されていたりした。もっとほかにいい展示品があったのでは、とちょっと思う。
 肝心の宮沢先生に関するコーナーは残念ながら、ない。8か月弱しかいなかったのだからまあしょうがないか、と思うが、そこでもらった周辺史跡地図には一応「宮沢賢治旧居跡」とこれから向かう下宿先のあった地に印がついていた。

 報告その4 菊坂・下宿先稲垣方跡(現・本郷4-35-4)

 「本郷の菊坂町では、芋と豆腐と油揚げを毎日食べて、筆耕もやったし辻説教もやり、童話もうんと書いたと言う。
 1か月に3,000枚も書いたときには、原稿用紙から字が飛びだして、そこらあたりを飛びまわったもんだと話したこともある程だから、7か月もそんなことをしている中には、原稿も随分増えたに相違ない。だから電報が来て帰宅するときに、あんなに巨きなトランクを買わねばならなかったのであろう。」  兄のトランク/宮沢清六 著より

 歴史館を後にして真砂図書館の前を通 り過ぎ、坪内逍遥旧居跡の横から炭団坂の階段を下る。いよいよ下宿先は近い。下宿先の稲垣家では、未亡人がお手玉 づくりの内職をしていたという。その2階のうなぎの寝床のような一間(四畳といわれている)に賢治は間借りした。
 坂を下りて右手に曲がると、菊坂へ抜ける小さな階段が左に見える。菊坂とこの通 りはちょいと段違いになっているのだ。階段には、近所の方が置いた植木鉢が無造作に並べられていて、いかにも東京の下町らしい。そして階段わきには写 真のような「宮沢賢治旧居跡」という看板が掲げられていた。文京区は大変親切である。ただ、該当住所の場所が個人宅であるためか、史跡標は当地の目の前の階段に設置されていた。
 賢治が「童(わらし)こさえる代わりに書いたのだもや」という作品たち(「注文の多い料理店」に収録されている作品をはじめ童話の第1稿のほとんど)は、ここで生みだされたのだ。「原稿から字が一字一字飛びだしておじぎした」のだ−そんなことを思いながら、しばし目をとじ頭を垂れる。
 賢治とは直接関係ないが、この菊坂近くにあった菊富士ホテルは、芥川龍之介、石川淳、菊池寛、佐藤春夫、坂口安吾、竹久夢二、宇野浩二、宇野千代などなど、有名な文人が出入りしていた場所である。なぜかというか当然というか、この方たちのほとんどが「赤い鳥」などの当時の雑誌に童話を書いている。大正時代の子どもたちは豪勢な童話を読んでいたのですね。

炭団坂。文京区は坂の多い町だ


 報告その5 東大赤門前の文信社跡(現・大学堂メガネ店)

 本日はセンター試験初日であった。かの赤門は閉ざされて、見張りのお兄さんが立っている。が、気にせず赤門前にずかずか行って、向かいの文信社跡「大学堂メガネ店」を撮影。賢治先生は何事にも真剣に取り組んでいた方だから、きっとここでも鉄筆をぎゅうとにぎって一心にガリ版を切っていたに違いない。そして仕事を終えた後は、上野の国柱会へ行ったり、図書館へ勉強しに行っていたという。ジョバンニの通 っていた活版所、あれは文信社での経験をもとにしたものかも、などと勝手に思って、ちょっと興奮する。
 この赤門前から上野図書館(現・国際子ども図書館)までは歩いて20~30分。図書館を題材にした作品「図書館幻想」は賢治が本郷に住んでいた1921年の11月に執筆されている。近隣を散策しながら、上野に向かってみることにする。
 赤門から本郷通り沿いに駒込の方へ向かう。ここの通りはチラホラ古本屋がならんでいて、土地柄か医学書の専門店などが多い。その中の1軒「森井書店」は、美術本を扱う古本屋で、武井先生の刊本もいくつか置いていたりする。けれど残念ながら、今日は棚卸しで開いていなかった。
 
  ふんふんふんと本郷通りを歩いていて、ふと顔をあげると、なんと「とびどぐ もたないで くなさい 山ねこ 拝」と書かれた銅板看板が掲げられたレストランが…。その名も「山猫軒」。洒落た造りの店で、昼時でもあったのでさっそく入ってみることにした。
 

東大赤門前の信号をわたってちょっと左手にある 「大学堂メガネ店」のビルが 文信社跡 。

下は「とびどくもたないでくなさい〜」の看板が目印のレストラン山猫軒



 


 報告その6 賢治の通った図書館(現・国際子ども図書館)

 山猫軒を出て、本郷通りをさらに進むと言問通りにぶつかる。その交差点を右に東大のレンガ塀沿いに歩き、途中右手の小道に入る(東大沿い)。ここは「立原道造記念館」「竹久夢二美術館」「弥生美術館」が並ぶ美術館通 りなのだ。「夢二」も「弥生」も素敵な美術館なので、この散歩コースを通ったら、ぜひお立ち寄りください。弥生2丁目には、かつてサトウハチローが住んでいて、旧宅をそのまま使った記念館もあったが残念ながら閉館してしまった(岩手県北上市に移転)。
 さて、東大の壁沿いにテクテク行くと、上野の不忍池に出る。賢治が布教活動の一環として辻説法をしていた上野公園である。
 上野公園のはずれ、芸大の隣にある国際子ども図書館は、昨年(2000年)に開館したばかり。それまでは、国会図書館支部上野図書館で、賢治は本郷・菊坂の下宿からこの図書館へ通 ったのだ。
 生まれ変わった図書館は、安藤忠雄氏の設計による大変に立派な建物である(当時の建築様式を活かした設計デザインがなされているそうだ)。蔵書やデータベースはこれから充実させていくという話。古い雑誌の目次も全部データベース化されて、ちょちょいと検索すると誰がいつ何を書いたとかがぱあっとわかって、ついでにその作品の現物コピーもすぐ取れるようになるといいのに……、などと、手前勝手な幻想を抱くのだった……。
 賢治が書いた「図書館幻想」は図書館でダルゲという人に会い、決別するという短い散文だ。このダルゲとは親友・保阪嘉内のことだといわれている。1921年7月に、賢治と嘉内は再会した。その場所はこの上野図書館であるらしい。菅原千恵子氏は「宮沢賢治の青春」のなかで、カンパネルラとジョバンニは実は嘉内と賢治であり、大正10年にこの図書館で2人はそれぞれの信念−「ほんとうのさいわい」について、激しく論じあったのだ、と書いている。議論の末、2人は少年の時のようにもはや同じ道を歩むことができないことに気付き、訣別 するのだった。訣別の1か月後、賢治は花巻へ戻ることになるが、この短い8か月弱の本郷での生活は賢治の人生と作品に大きく影響したのだろうと思う。

 大正10年の東京はビルディングが立ち並び、ハイカラな紳士淑女の闊歩するモダーンな都市だった。その中で、賢治は「どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまで」という心象スケッチを原稿用紙に書きとめ続けた。 今回の散歩によって、少しだけ、25歳の宮沢賢治の青春を垣間みれたような気がした。

 これで第1回目の「児童文学散歩ミニガイド」は、おしまいです。
 今回の取材・執筆にあたっては、以下の資料を参考にしました。
 
 参考資料  ●「兄のトランク」宮沢清六/著・ちくま文庫●「宮沢賢治の青春−ただ一人の友保阪嘉内をめぐって」菅原千恵子/著・宝島社●「宮沢賢治年譜」堀尾青史/編・筑摩書房●「宮沢賢治全集8(ちくま文庫)」●「宮沢賢治と東京宇宙」福島泰樹/著・NHKブックス●「文京ゆかりの文人たち」文京区教育委員会●「現代詩読本 宮沢賢治」思潮社

寄り道・番外編も見てね。HOMEへ戻る●このページのTOPに戻る●児童文学散歩の目次へ