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独書間奏 1998年8月〜


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000205 『死者の書』 ジョナサン・キャロル
000205 
『行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙』 マーヴィン・ピーク
000204 
『シチリアを征服したクマ王国の物語』 ディーノ・ブッツァーティ
991209 
『死のかげの谷間』 ロバート・オブライエン
991113 
『黄金の羅針盤』 フィリップ・プルマン
991104 
『でりばりぃAge』 梨屋アリエ
991030 
『ハロウィーンの魔法』 ルーマ・ゴッデン
991029 
『タランの白鳥』 神沢利子
991015 
『鏡 ゴーストストーリーズ 角野栄子他
991012 
『幻想と怪奇 1』 早川書房編集部・編
991009
『まぼろしの小さい犬』 フィリパ・ピアス
991007 
『パルメランの夢』 井辻朱美
990917 
『ななつのこ』 加納朋子
990915 
『精霊がいっぱい!』 ハリイ・タートルダヴ
990914
『光車よ、まわれ!』 天沢退二郎
990908 
『月の砂漠をさばさばと』 北村薫
990816 
『春のオルガン』 湯本香樹実
990806
 『ポプラの秋』 湯本香樹実
990802 
『夏の庭』 湯本香樹実
990722 
『バンシーの夜』 船井 香
990605 
『ティバルドと消えた十日間』 アブナー・シモニ
990605 『ムッドレのくびかざり』 イルメリン・リリウス
990221
 『丘の上の牧師館』 シルヴィア・ウォー
990221 
『北岸通りの骨董屋』 シルヴィア・ウォー
990220 
『屋敷の中のとらわれびと』 シルヴィア・ウォー
990215 
『荒野のコーマス屋敷』 シルヴィア・ウォー
990215 
『ブロックルハースト・グローブの謎の屋敷』 シルヴィア・ウォー
990112 
『青猫の街』 涼元悠一
990111 
『風と木の歌』 安房直子
990110 
『オルガニスト』 山之口洋
981225 
『ゾッド・ワロップ』 ウィリアム・ブラウニング・スペンサー(暫定版)
981213 
『ハンカチの上の花畑』 安房直子
980910 
『白銀の誓い』 リンゼイ・デイヴィス
980914 
『ダブ(エ)ストン街道』 浅暮三文
980807 
『エンジン・サマー』 ジョン・クロウリー
980801 
『イニュニック』 星野道夫


000205 『死者の書』 ジョナサン・キャロル作 創元推理文庫

 有名な映画俳優を父に持つ高校教師トーマスアビイは、今は亡き大作家マーシャル・フランスの大ファンで、その出生地ゲイレンを訪ねてフランスの伝記をものしようと目論んだ。相棒のサクソニーとゲイレンへ乗り込んだトーマスは、大作家の娘アンナと運良く知り合うことが出来る。ゲイレンで過ごすうち、住人たちの言動にどこか腑に落ちないものを感じるようになるトーマスは、アンナからフランスの伝記を書く許可を得るが、それを境に町の様相がにわかに変わって行く…。

 ゲイレンの町にたくさん飼われているブルテリアたちが、淡々とした展開に活気を添えているが、後半に入りその1匹がキーとなって物語が新しい局面に入る。そのあたりからはむしろ先が読めるかの様な流れになりながら、最後に来て再びあっというオチが付いているのでお楽しみ。私としてはおしまいの部分でサクソニーに同情的だが、ここでトーマスとサクソニーとの二人の道行きになっていればこのオチはなかったのだろう。

 とても奇妙な味わいの話で、半ばまではさくさく読めるとか、ものすごく引き込まれる、と言うのでは必ずしもなかったが、ある時点からの展開は、キャロルはただ者ではない、と感じさせるものだった。フランスの作品『笑いの郷』(これが原題)などに対する詳細な言及と引用は、あたかもこれらが実際に存在する作品であるかのように思わせる効果を十分に発揮している。映画についても虚実取り混ぜた言及が同様の効果をもたらしている。
 高名な俳優あるいは作家をそれぞれ父に持つトーマスとアンナの描写がなかなかに面白いばかりか、トーマスのその一種のトラウマがラストのネタとなっている。

 これはホラーか?という点について。新しいアンナ、というくだりはぞうっとくるものがあったが、全体的にはこの不思議な味わいは、ホラーと言うより「キャロル」だと言った方が良いのだろう。

 さらに一言付け加えれば、訳文の文体が、終始しっくり来なかった。原文ではどのようになっているのか興味あるところではある。

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000205 『行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙』 マーヴィン・ピーク作・画 国書刊行会

 ピークは、ゴーメンガースト3部作によって有名な「ファンタジー」作家である(私は出版時に3部作の1作目『タイタス・アローン』を読み始めたきり挫折)。

 おかしな題名は原題"Letters from a Lost Uncle"というごくストレートなものであるが、いやなかなかピッタリである。行方不明の伯父さんから甥っ子に宛てて書かれた絵入りの(というより絵と字が切っても切れない)手紙13通+最後の手紙。書かれたそのままの便箋を、スクラップブックに貼ったという体裁の本である。だから紙面には時に指紋、ときにコーヒーのシミ、肉汁、足跡などがつき、ページの見開きの真ん中はあたかもリング綴じの様に見える印刷が施されている。

 とんでもないこの伯父さんの第一の手紙は、北極の氷の上のイグルーで書かれた。パイプをくゆらせた自画像の片足には、ツノでできた義足がはめられている。旅の相棒は難とも珍妙な姿のジャクソン、これは伯父さんが昔漂着した浜で見つけた亀犬という、不思議の国のアリスのニセ海亀もかくや、という摩訶不思議な生き物だ。伯父さんはこのジャクソンと一緒に幻の白いライオンを求めて世界中を旅して回った。そして今、この白いライオンにいよいよ近づこうというときなのだ。白いライオンとは何?どうして北極の氷の国にライオンが?

 おんぼろタイプライターで打たれた文面はちゃんと字によって濃淡が違って印刷されているし、行間や字間もずれたり空いたりして伯父さんの慣れない手つきが目に浮かぶ様だ(タイプライターを使ったことのない若い世代にはちょっとピンとこないかも知れない)。

 ピークの挿し絵画家としての側面が堪能できる、絵と字が渾然一体となった不思議な本。全編にヘンテコな(ぴったりな言葉!)ユーモアと、同時に不思議な高揚感がある。氷の下から射す深海魚たちの光、屹立する氷の大伽藍、真っ白い雪の竜巻、凍れるライオンなどのイメージはユーモアによっても覆いきれない凄まじさを感じさせる。一言でまとめきれないのがこの本のヘンテコさだろう。

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000204 『シチリアを征服したクマ王国の物語』 ディーノ・ブッツァーティ作・画 福音館書店

 イタリア本国では子供たちにとても人気があるという、A4版の、しかし絵本ではなく作者本人による楽しいカラーの挿し絵がたくさん入った本で、本文は133ページもある。

 時はとおいむかし。シチリア島に、氷を頂く高いたかい山々がまだあった時代のこと。山の暗い洞穴にはクマたちが住んでいて、レオンツィオネを王と頂いていた。王の息子トニオはそのまたむかし、レオンツィオネが目を離したすきに猟師にさらわれ行方不明になっていた。あるとき、今までと比べものにならないくらいきびしい冬が来て、クマたちは飢え死にしそうになった。「平地へ降りて行こう」と言う声があがると、常にトニオのことが頭にあった王は、クマたちを率いて平地に降りて行くことにした。

 星占い師・魔術師であるデ・アンブロジイース教授を後ろ盾にしたシチリアの支配者・大公の軍隊は、楽々とクマ軍団を押し返すと見えたが、天才クマを抱えたクマ軍団はこれをうち破ってしまう。

 デ・アンブロジイース教授は形勢を見てクマ側に寝返るが、大公側のイノシシ攻撃を見て、一生に2度しか使えない魔法のうち、1回を使ってしまう。このあとクマ軍団は、都合の良いコウモリのようなデ・アンブロジイース教授の策略で、幽霊たちと出会ったり、ばけ猫マッモーネと戦ったり、驚異的に堅固な守りのコルモラーノ砦を攻めたりする。そうしてたくさんの犠牲を払いながらも、彼らの素朴さや天才クマのアイデアにより、晴れて都を制圧する。やっと見つかった王の息子トニオは大公にピストルで撃たれ死にかけるが、ふたたびデ・アンブロジイース教授の2度目にして最後の魔法により命を取り留め、父王との再会を果たす。

 そして13年後、あれほど素朴でけがれなかったクマたちは、都で人間たちと暮らしているうちにいつか堕落と頽廃の道を歩んでいるのであった。あのトニオさえも賭博をしてすってんてんになっているありさま。疑いとごまかし、信頼は不信へ。海蛇退治に出掛けた王を背後から撃ったのは、なんと腹心のサルニトロだったのである。すでにデ・アンブロジイース教授の魔法は失われ、王は助かるすべもない。「山へ帰りなさい」、そして心の平安をとりもどせという遺言を残して王は亡くなり、クマたちは持ち物をすべて燃やして遠く高い山へと戻って行くのだった。これはとおい、とおいむかしのこと。

 このようにおはなしは寓意に満ちているが、十数枚挟み込まれた作者自身の挿し絵が切っても切り離せない。トールキンの書いた絵を見たことがあるものなら、その共通性を感じるだろう。挿し絵につけられた2,3行のキャプションが本文以上に諧謔に満ちていて笑いを誘う。

 ここに含まれるのは寓意ばかりではなく、魅力的な登場人物たちである。魔法で風船に変身させられた、伝説の「空飛ぶイノシシ」が青い空に吸い込まれて行く様は実に印象的だ。魔岩城に住むたくさんの幽霊、これは人間ばかりでなく戦いで死んだクマの幽霊たちも混じっている。クマたちは怖がることを知らないし好奇心にあふれているので、幽霊たちと一大宴会をして楽しんでしまうのである。
 また家ほどもある巨大なばけ猫マッモーネは、ある種のテリアのような立派なふさふさのヒゲをつけているのだ。1メートル50センチもあるシルクハットをかぶったひょろひょろのデ・アンブロジイース教授は、「影のない男」ばりの姿であちこちに神出鬼没。そして何人(何匹)もの、あるいは大きい、あるいはかしこい、あるいは善意の、あるいは発明の天才、あるいは信用のおける、頼もしいクマたち。しかしその愛らしいクマたちに王を助けるすべはなかった。

 デ・アンブロジイース教授が最後に作りかけたまま盗まれた魔法の棒の行方は、結局語られない。氷を頂く山々が失われ、クマ王国も忘れ去られた今、崩れたクマの石像の下にでも魔法の棒は埋もれているのだろうか。

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991209 『死のかげの谷間』 ロバート・オブライエン作 評論社

 これは16才の少女の日記の形式を取っている、静かな物語だ。

 緑の谷に住む少女は尾根の向こうにたき火と思われる煙を発見する。それは、日一日と近づいてくる。彼女はそれをこわいと思う。

 一年前、核戦争が一週間でおわり、彼女の住むこの谷間のまわりからも次第に生命のあかしが消えていった。彼女の父母や兄弟たちも、回りの土地の様子を探りに行ったきり二度と戻らず、彼女はそれ以来たった一人で、奇跡のように放射能汚染を免れたこの谷間の農場で、自給自足の生活をしてきたのである。そこへ、尾根を越えて人間が現れようとしている。彼女の胸に去来する望み、しかしそれに倍するおそれ。この一年間で彼女の動物的とも言える自衛本能はとぎすまされていた。彼女・アンはともかくも様子を見るため森に姿を隠す。
 被爆したら最後長くは生きられないほどに放射能で汚染した死の土地を抜けてここにたどり着いた男、ルーミスは、緑の谷に安堵したのか、汚染した川で水浴して被爆してしまう。一旦は姿を隠したアンも彼の窮状を見て介護に務める。その一方、畑や家畜の世話を怠らないアンであった。
 ルーミスはようやく快方に向かい、新たな始まりの土地となるかに見えた緑の谷だったが、ルーミスが持ち込んだ圧制的なやり方に、アンは断固として彼女なりの方法で抵抗する。そしてついに、アンは自らの土地と侵入者ルーミスを置き去りにして、一縷の望みを西に託して旅に出るのだった。

 アンは若く、余分な雑念を身につけるだけの経験がない。そのため、過去を引きずり、かつある種の固定的観念にとらわれきったルーミスのやり方に押しひしがれることなく、自分に素直な形での抵抗を続けた。驚くべきことは、彼の意図を読みとっていながらも、アンが彼を排除しようとはせずに共存の道を探りつづけたこと、それと同時に、ルーミスにはまったくそれが見えなかったことである。
 このアンの人間性が培われた、奇跡のような緑の谷間。ここから止む終えず歩み去るアンのあとには、あたかも緑の軌跡がくっきりと残るかのようだ。

 種をまき、乳搾りをするアンの姿はあたかも地母神を彷彿とさせる。作者の人間性への信頼、希望がアンには込められている。しかし同時に、彼女は憎みもする普通の人間として描かれてもいて、ルーミスの人物像とともに作者の人間観察の深さを感じさせる。

 オブライエンは、人間とその社会に対して深い危機感と諦念を抱いているように思えるが、一方、上に書いたように、人間性への信頼と希望を捨てることが出来ない人でもあったに違いない。それが、西方への希望を書かざるを得ず、かつ、それをルーミスに言わせた、と言う理由であろう。この一縷の望みが、この作品をやるせない閉塞感から救っており、ディッキンスン『エヴァが目ざめるとき』に見られるような全くの救いのなさとは一線を画している。この点で、『エヴァ〜』はむしろ成人向きであり、『死のかげ〜』は成長期の読者をはっきり念頭においた作品と言えるだろう。

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991113 『黄金の羅針盤』 フィリップ・プルマン作 新潮社

カーネギー賞受賞という帯の文句も華々しい、題名にふさわしく金ぴかのカバーである。
白熊の背にしがみつく女の子、そばにちょろっとネズミが描かれている。このネズミ、じつはただ者ではない。

おじであるアスリエル卿の庇護の許、オクスフォードのジョーダン学寮に住む少女ライラはいたずら心から学寮内の思わぬ事件に首を突っ込むことになる。アスリエル卿の毒殺未遂、辺境で殺された学者の氷漬けの首、心をそそる言葉・ダスト…。
 一方その頃、オクスフォードのみならずロンドンほか国中で、子どもが行方不明になる事件が起き始めているのであった。

 舞台はイギリスであるが、我々の知る世界とはどこか違っている。教会の権力が強く、国々の姿も歴史も違い、科学技術もどこか異なっている。
 何よりも我々と違うことは、人間はすべて、動物の形をした精霊のようなダイモンという生き物と切っても切れないペアを組んでいることなのだ。子どもの時はダイモンも形が定まらずいろいろな姿に変身できるが、大人になって行くと決まったある一つの形を取るようになる。ダイモンはペアを組む人間と一定の距離しか離れることができず、またペアの人間が死ぬと同時に消滅することも示される。

ライラは勉強のためと称して慣れ親しんだ学寮を出ることになるが、その時学寮長から内密に渡されたのが羅針盤に似た「真理計」であった。金色のサルをダイモンに持つコールター夫人に引き取られるライラは、その抗しがたい魅力の虜になりかけるが、子どもたちの消滅の元凶が夫人であることに気付きその許を逃げ出し、極北の地に拉致されている子ども達を解放すべく立ち上がった水上生活者ジプシャンらとともに旅に出る。そしていまや辺境にとらわれているというおじ、アスリエル卿を救出し、真理計をその手に渡そうとする。タイトルの「黄金の羅針盤」とは、この真理計を指している。

 友人のロジャーをも、助けようとした自分の行動そのものによって失う羽目になるライラは、自分がある大きい運命の予言にしたがって動いていながら、そのことを知らない。ライラは彼女の意志で行動しなくてはならないのだが、それがどのような結果を生むかを彼女は知ってはならない定めなのだ。

 そのため、思わぬ人物が自分の父、そして母であることを知った後も、自分と彼等の関わりが自分達に、そして世界にどのような影響を与えるかわからないまま、ともかく行動しなくてはならない羽目になる。ダストの謎、オーロラの向こうの世界の謎に迫ったライラは、いよいよオーロラを越えて新しい世界へと文字通り足を踏み出すのである。(To be continued! なのだ!)

 空飛ぶ魔女の群れ、鎧を着た白熊たち(ベオウルフを彷彿とさせる)、野蛮なタタール人、人情味あふれるジプシャンたちなど、魅力あふれる登場人物に事欠かない。雪と氷の世界に舞い踊るオーロラが象徴的に描かれ、その向こうに蜃気楼のように見え隠れする「向こうの世界」の町並みは幻か、魔法か。犬ぞり、飛行船、気球乗り、誘拐、子ども達の救出、火事、などなど、ワクワクするよう道具立てが立て続けに目の前に現れて息もつかせない。

 かなりバイオレントなシーンもあるほか、ダイモンと人間を分離(切断)する「実験」など、かなり読み手にとって心理的にショッキングな部分も多い。この点にショックを受けると言うことは、すでに物語にすっかり取り込まれていると言うことでもあろう。ふと現実の自分に立ち返ってダイモンを持たない自分を見いだし、半身が抜け落ちたような気分すら覚えるのだから。
 
 これはカーネギー賞受賞なので児童文学の範疇にはいるものだとは思うが、作者ははたして子どもの読者を想定していたのだろうか。すでに読者を想定する段階を越え、自分が読みたいものを書いた、という感じである。たぶん作者は一筋縄ではいかない性格の持ち主らしく、どこかシニカルな、斜に構えた視点が感じられ、それが雪と氷の世界に妙にあっていて、この作品の魅力の一つでもある。

 かなりな大部であり、三部作の一作としてこれだけでも大変な読み応えがある作品であるが、やはり第二部、第三部の早い翻訳が望まれる。巻頭に、この第一作は我々の世界と似ている世界、第二作は我々の知っている世界、第三作は二つの世界を行き来する、と書かれているが、読後にもう一度このコメントを読むと、なるほど、そうか!と、次作を待つ気持ちがさらに強くなるのである。

 でもやっぱり、帯に、ナルニア、指輪、はてしない物語を引き合いに出すのはいいかげんにやめて欲しい。あまりにも芸がなさすぎるぞ編集者。

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991104 『でりばりぃAge』 梨屋アリエ・作  講談社

 14歳の夏、真名子(マナコ)は夏期講習会に行き始めるが、どうにも足が向かなくなってしまった。会場の隣の、もと医院だった家の庭に干されたシーツが救いの船の帆のように見え、訪ねていって見ると、そこにはローニンセイのような青年がひとり、本を読んでいるのであった。「教育」と名の付くイベントに熱心な母はしょっちゅう外出しているので、宅配の有機ピザも食べ飽きた。弟は、ひたすらまっすぐな線を書くことに熱中している。

 父と母の子であること、「女の子」であること、友だちのこと、いつか彼女は自分の存在理由を失いかけていた。古いひんやりした家で、ローニンセイとおかしな会話を交わしながら、ひとりの時間を持つようになって行く。大人のように見えるローニンセイも、実は彼なりの屈託をかかえているのだった。

 かんぴょうが干してあるおじいちゃんの家の庭の情景と、真っ白いシーツが夏の日差しのもと、帆のように翻る情景は、日差しの匂い、かんぴょうの匂い、乾いたシーツのはためき、ばりばりっとした感触、そういった素直な感覚に訴えるものを持ってありありと迫ってくる。洗濯物くぐりをして一心に遊ぶマナコに、つい自分を重ねてしまう。

 母親や弟のキャラクターをはじめ、マナコの抱える問題も、どれも類型的だが、等身大の14歳が描かれているように思う。短い、歯切れの良い文章がこの作者の身上だが、やや性急に傾き、言葉を飲み込んだままどんどん続いて行く感じがして居心地の悪さを感じる。これは気になる点であると同時に裏を返せばスピード感、追い立てられるような一種の焦燥感を生み出す効果もあるので、必ずしも欠点というわけではない。
 弟のリクエストでおにぎりづくりをして簡単に肩の力を抜いてしまう母親が、ちょっと都合良すぎ。

 力のある人と思うので、こうした一般的な人物設定と彼らの抱える問題から、もっと離れた、けれども普遍性のある設定を見いだすことが出来れば、より魅力ある作品世界が作り出せるのではないかと思う。

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991030 『ハロウィーンの魔法』 ルーマ・ゴッデン・作  偕成社

 気が利いてスマートな姉と違い、どじで不器用なセリーナは友だちもみな変わり者ばかり。ふとした幸運で手に入れたポニーさえ、姉のポニーは美しく素性がよいのに、セリーナの選んだポニーは不格好で頑固で皆の笑いものだ。いや、それが耐えられずに自分のものにして可愛がってやるようなセリーナなのであった。

 ポニーのハギスがマックじいさんのカブ畑に入り込んで頑として動かないと言う事件を皮切りに、村の偏屈爺さんとセリーナのおかしな交流が始まった。事故で足を折ったじいさんを助けてやったことから、彼女らの交流は次第に家族ぐるみのものになってゆく。
 いっぽう、村の皆が欲しがっている公園をつくる候補地はなんと偏屈マックじいさんの地所だったが、彼はぜったいに土地を売ろうとしないので、大人ばかりか子どもまで彼に対して嫌がらせを始める。それはじいさんと交流のあるセリーナの一家にも及んでくる。そしてまもなく、ハロウィーンの晩。セリーナの身には大変なことが降りかかる。そして一年の後、ふたたびハロウィーンの日がやってきた。

 ハロウィーンという季節ネタで手に取った本であったが、よくあるようなハロウィーンのお祭り騒ぎが主になった話ではなく、思いがけずずっしりとした読み応えの、すばらしい作品であった。
 セリーナのひととなり、マックじいさんの性格と行動、小僧のティモシイ、ほか、どの人物もー動物も!ーずっしりと存在感があり、確かな肉付けがされているので、読み応え充分である。

 ハロウィーンという仮装・仮面は、不器用なセリーナやティモシイの照れをうまく隠してくれる小道具でもある。また舞台となるスコットランドのこのシーズンの自然の美しさが、ことに、ある秋の日急に現れるクモの巣の不思議によって象徴的に表されていて、それは解説にもあるようにハロウィーンとは「古代ケルト人の新年、11月1日の前夜にやってくるという死者の霊を迎えるお祭り」という季節の変わり目であることを肌で感じさせてくれる。
 終始引きつける力の弱まることなくぐいぐいと、しかも共感を呼び起こしながら進められてゆく物語は、ルーマ・ゴッデンの圧倒的勝利!

 最後の、秋から冬に変わって行くハロウィーンの夜、マックじいさんが眺めおろす村の情景は実に素敵な、余韻ある場面であった。

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991029 『タランの白鳥』 神沢利子・作 大島哲以・絵  福音館書店

 「オホーツクの海に浮かぶ北の島に、タランとよぶ湖がある。」このように始まる美しい物語。海馬(トド)猟で命を落としたオルドンのむすこ、モコトルがびんしょうな若者となったある日のこと、凍てついた湖の上でじっと動かない白鳥を助けて一晩暖めてやった。白鳥はそれきり姿を消し、かわりに、旅の途中で家族とはぐれた娘がモコトルのもとにやってきた。

 父オルドンが命を落としたのはそもそも若いオルドンの7代前のじいさまオルドンが、悪霊のような大きな海馬の片目をえぐって退治したそのことに端を発するのであった。海馬の呪いは村のチャム(まじない師)であるマダイタに及んだため、若いオルドンは次々と無理難題をチャムから吹きかけられる。
 娘が祈りを込めて歌う歌に守られつつ、オルドンはそれらの難題を解決するが、しまいに片目の海馬との闘いのあと、娘とふたり白鳥に姿を変え、大空にかかる二重の虹のもと、飛び去ってゆくのであった。

 手っ取り早く言えば白鳥報恩譚の一種だが、そこに海馬の呪いがからまって複雑な形になっている。オルドンが単純に娘に魔法のような力で助けられたりせず、堂々と自分の持てる力で難題に立ち向かうところが、全くの伝承物語と違うところではないだろうか。そしていまや身よりのいないオルドンが、村を救った後に(実際には死んでしまったのかも知れなくても)新しい姿(白鳥)に転身して生きる世界を与えられたので、読者としてもオルドンのために喜ぶことが出来る。

 神沢利子らしく格調高く無駄のない簡潔な文章によって描かれた、壮大なイメージの物語である。どうしてこんなに心優しく、しかも勁い物語が書けるのだろう!要所要所に挟まる叙事詩的な歌が、神話に近い世界を作り出しており、しかも同時に脇役の心理がかなり細やかに描かれているので大いに臨場感もある。『銀のほのおの国』などにつながる、魅力ある作品である。
 大島哲以の絵も美しい。

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991015 『鏡 ゴーストストーリーズ 角野栄子ほか  偕成社

 1996年の国際児童図書評議会世界大会のプロジェクトとして、「ひとつの国からひとりの作家、12歳を対象にしたホラー短編集」が企画され、この本はその11編のうち6編が訳出されたものだという。

「幽霊の話」 スーザン・クーパー 
 ニューヨークからコネチカットに引っ越してきたトビーの家は、プールとテニスコート付きの広い家だ。父さんはぼくに、テニスがうまくなって欲しいと思っているがぼくは熱心になれない。あるとき、コンピュータで手紙を書いていると幽霊がそこに文字を書いたのだ。その後トビーがひとりでテニスコートにいると、ボールを打ち返してくるものがいる。そうして「幽霊」のテニスの訓練が始まった。怒れる少年の幽霊(生前その父との間に確執があった)は、特訓のおかげでテニスが上達したトビーに、ついに試合で負けた父さんが、トビーの勝利を心から祝ったのを見て、怒りと憎しみを捨てて消えていった。

 怒りと恨みでこの世に執着しているこの少年の幽霊はなかなかに威勢がよい。コンピュータを小道具に使っていて現代的ではあるが、先達であるフィリパ・ピアスの類似作を越えるだけのものはない。

「鏡」 角野栄子
 12歳のアリは、鏡の中の自分の影に引き込まれて鏡の中に引き込まれ、闇の中に閉じ込められてしまった。外の世界の影のアリは、別人のように思い切りいやな性格の女の子になっている。とうとうそれがきっかけで、パパとママは喧嘩をし、例の鏡を売り払うことになった。さあ、そんなことになってはアリは二度と鏡の外に出られない…。鏡が売られて行くその瞬間、影のアリと本物のアリは互いに鏡面の暗闇を通り抜けひとつになった。

 鏡の中で出会うアキラは、すでに影のアキラが外の世界で死んでしまったので、一種の幽霊と言えるかも知れない。むしろこのアキラという存在のほうが興味あるが、アリの心理や父母の諍いなどはとーっても月並みと言える。

「首のうしろにおかれた指」 マーガレット・マーヒー
 これは題名からしていかにも不気味ではないか。
 ひいおばあちゃんのメイは、海に突き出た桟橋をイヴォールと一緒に散歩するとき、彼の首の後ろに手を置くのが習慣だった。12歳になったイヴォールは、車椅子に乗った金持ちのメイおばあちゃんを、その遺産で私立学校に進学したいがために、事故と見せかけて桟橋から海に突き落としてしまう。首尾良く進学した彼は、いつか桟橋の幻覚に悩まされるようになる。幻覚から逃れようと、彼は意を決して再びあの桟橋に出かけて行くが、そこでかれは現実の世界から一歩足を踏み出し、終わることのない霧の中の桟橋にとらわれてしまう。そして彼の首の後ろをいとおしむようになでるごつごつの指…。

 これは、霧の桟橋に捕らえられて永遠に抜け出られない、その感覚が、実にコワイ!因果関係が単純であるだけに怖さ倍増である。

「山」 チャールズ・ムンゴシ
 朝5時発のバスに乗るため「古い村」をとおって8キロ先のバス停まで夜明け前の道を歩くぼくとチェマイ。その間に横たわる山にはいろいろな怖い話がある。チェマイは、それらをみな口に出していうのだ。父さんのように、守ってくれる年上の人がいてくれたらいいのに。なま暖かい風が吹いてきた。「いま魔女とすれちがった」そしてふりかえると黒いヤギが立っていた。さまよえる霊であるヤギは、これからどこへでもついてくるだろう…。バスのことなどどうでも良くなり、古い村のおばあちゃんの小屋に転がり込んだふたりは、そこでただの小さい黒いヤギを見る。「ぼくたちのわからないことをめんどう見てくれるだれかがいる、というのは、とても安心なことだ」。

 そう、ぬくぬくと保護されている子供時代の出口に立つ年齢のぼく。この舞台はアフリカだけれども、理屈では語れないものを内包している暗闇、昼間と違うもうひとつの世界におびえる心は同じだ。

「クジラの歌」 ウリ・オルレヴ
 ミカエルのおじいさん、骨董屋のハンマーマン氏は、「クジラの歌」のレコードを聴くのが大好きだ。彼が年とって古い家を引き払い、ミカエルたちと同居するようになると、ミカエルにはおじいさんが特異な才能を持っていることがわかった。人を、自分の夢の中に連れて行くことが出来たのである。普通の夢とちょっと違って、現実のゆがんだもののようなその夢は、夢の中で雪が降れば目覚めたときに手の中に雪を持っているし、現実世界で自転車にうまく乗れないと夢の中の空飛ぶ自転車もうまく乗れない。気に入らないシボニエ夫人を追い出すには、現実に不潔な生活を続けることで、夢の世界にゴキブリの大群を呼び寄せることが出来、そのゴキブリはまた現実世界にも出現している。
 そしてある日、おじいさんはミカエルに古い家の鍵をわたし、ミカエルにも夢を見る才能があると伝える。おじいさんの葬儀が終わってしまった今も、おじいさんは夢を見続けているのだ…。

 この奇妙な夢の話は、このアンソロジーの中でも次の「眼」とともに気に入ったひとつだが、おばあさんもシボニエ夫人(おばあさんの死後おじいさんの身の回りの世話をしてきた人、兼愛人か)も、身勝手で嫉妬深い、ちょっぴりいやな役回りをさせられているのが(面白いが)ひっかかる。作者は、ポーランド生まれのユダヤ人と解説にあるが、これは男性?女性?名前からはわからないのが残念。

「眼」 キット・ピアスン
 ミシェルとバーニーは、シーラおばさんのところで夏休みを過ごすことになった。夜、ふと気づくと、寝室の棚の人形の黄色い眼が、まるで生きているように光っている。昼間は何でもないのだが、我慢できずに地下室に人形をしまってもらったバーニーは、おばさんにこの人形の過去を話してもらう。おばあさんのマーガレットは弟を火事で亡くすが、火事の一部始終を閉じることの出来ない眼で見ていたのが、ほかでもないこの人形、グリゼルだったのである。それを知って、バーニーはグリゼルを可愛がっていつも一緒にいてやろうとする。ある晩、ふとしたはずみでバーニーはグリゼルの黄色く光る眼を間近にのぞき込んでしまう。そこには凄まじい火事の光景が焼き付けられていた。その時、彼女は、人形の持ち主マーガレット自身も火事をーその中で弟が死んでいくのをー恐怖の中で見ていたのだ、そしてその後も弟を見殺しにした記憶を抱えていたのだと悟る。バーニーは、グリゼルを抱きしめ、マーガレットとグリゼルに「どうしようもなかったのよ、あなたも焼け死んでいたでしょう」となぐさめの言葉をかける。夏休みが終わってグリゼルを連れ帰ると、ミシェルは人形の眼が黄色でなく灰色になっているのに気づく。「この子の眼はずっと灰色だったのよ」とバーニーはほほえむのだった。

 バーニーの心理と性格が細やかな筆致でえがかれている。1歳上のミシェルより引っ込み思案で、飛行機が怖くてたまらないような彼女が、その繊細な感受性ゆえにマーガレットとグリゼルの苦しみを引き受け浄化させることが出来た、というあたり、短篇ながらしっかりとした構成を感じさせる。

 ★6編とも子供向け、と言うにはおさまらないなかなかな水準だと思うが、うーん、角野栄子のがいちばんつまらなかった。残りの5編はどのようなものか、読んでみたいものだ。副題の「ゴーストストーリーズ」はあまり適切でないのではないか。

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991012 『幻想と怪奇 1』 早川書房編集部・編  ハヤカワ・ミステリ

 1956年初版のものが、ポケミス発刊45周年記念として昨年復刊されたもの。

 レ・ファニュ「緑茶」、クローフォード「上段寝台」、ベレスフォード「人間嫌い」、ヒチェンズ「魅入られたギルディア教授」、ベンスン「アムワース夫人」、ブラックウッド「柳」、アームストロング「パイプをすう男」の7編を収録。

 「緑茶」は、仕事のためひっきりなしに緑茶をたしなむようになった男が、赤く光る目の猿にとりつかれる話。「上段寝台」は船室の上段寝台にとりついた男。「人間嫌い」は、不思議な能力をもった男が孤島にひとり暮らすようになったわけ。「魅入られたギルディア教授」は、暖かい愛情を拒否する教授が皮肉にも白痴的な愛情をもつなにものかに魅入られてしまう。わりにストレートな吸血鬼もの「アムワース夫人」「柳」は、ダニューブ河をカヌーで下っているふたりがみず柳の茂る砂州でキャンプした際に出会う超自然的な恐怖、そして「パイプをすう男」は窓に映る男の影が消えた後どうなったか。

 とりつかれるものでは、憑依するもの自体より、なぜ彼らが猿やら正体不明の「なにか」にとりつかれるのか、当事者にはその理由がまったく分からないところが怖い。
 ブラックウッドの「柳」は、ダニューブ河の風光明媚な描写から一転して荒涼たるみず柳の繁茂する流域にさしかかったあたりから、カヌーのふたりが、自然の、そして超自然の脅威に翻弄されるさまが、風に乱舞するみず柳の林を舞台に、圧倒的な臨場感で描写され、白眉。
 また「パイプをすう男」のブラックユーモアたっぷりのオチは、この一冊を締めくくるのにぴったりである。

 2巻の方は復刊されなかったようであるが、他のアンソロジーなどで読むことが出来るのだろうか、ポケミスはこの版型が魅力なので、できればポケミス版で読みたいのだが。

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991007 『パルメランの夢』 井辻朱美・作  ハヤカワ文庫JA

 掌から鉱物が出る病に冒されたぼくは、古ぼけた時計屋にゼンマイと歯車の権威、ファン・フウリク博士を訪ねた。うとうとしかけて気づくと、博士はぼくの胸の小窓を開けて辰砂の時計を入れようとしていた。そのとき思い出した、ぼくは遊園地の自動人形パルメランだったことを。

 このように始まる連作短編集は、とても奇妙な味わいに満ちている。そしてとりとめのない夢のように、前半の物語「パルメランの夢」は続く。

 むかしパルメランの中に入っていた将棋差しの小男メルツェルはいつか死に、その魂はパルメランの魂と混じり合った。そして今彼の中にフウリク博士が入ってきて、彼ら3人は時折あたかも入れ替わるように目覚めながら、大陸を旅する。半身だけの天使に出会い、時間管理局の医師に出会い、その後、暫くの道連れ、遍歴帽子屋ロフニーニョと巡り会う。

 パルメランの吹き鳴らす水晶のハーモニカに聞き入る猫の巡礼と帽子屋。猫たちはイルカの神殿に詣でてツミを捨てるが、そのツミは猫たちの小さなももいろの掌からうつくしい氷の粒になって海の中の神殿へ落ちて行く。猫たちとは違って、人間は、罪がこれほど美しいがためになかなか手放したがらないのだという。猫たちは懺悔のあと、パルメランのハーモニカを聞くとただわけもなく幸せな気持ちになってしまい、ただ恍惚とした鳴き声をあげるのだ。

 ふたりは世界の果ての<隕石の原>で虹の化石を見つけ、至福を味わうが、ロフニーニョはその喜びを再び思い出せず、人形であるパルメランはそれを忘れるということができない。
 そしてサールナートの山で鍛冶の神ミロシュが火柱をあげ、自動人形は銀色のきらめく植物に姿を変え、帽子屋の手にはパルメランの胸の中のももいろ水晶だけが残される。

 後半はこの帽子屋の遍歴の話、「ロフニーニョの四季」となり、かれの作る願い事の叶う帽子は女たちをそれぞれに救う。そして、メリーゴーラウンドに乗ってたどり着いた国の王女を助けたロフニーニョは、ふたたびメリーゴーラウンドに乗って戻ってくるが、このラストはそのまま、メリーゴーラウンドから逃げ出した馬たちの足音が響き渡る巻頭の「ファン・フウリク博士の陰謀」へと、螺旋を描くように戻って行くかと思われる。

 このような不思議で風変わりな掌編集には、出会ったことがない。風と鉱物、ハーモニカと水晶、猫と化石、これらの取り合わせの数々は、どこか諧謔に彩られた筆致で、必要以上の湿り気を帯びることなく描かれる。風に切れ切れに吹き散らされる夢のイメージ。自動人形パルメランは、画家バロの描くゼンマイの内臓を持った人々を思い出させ、一方遍歴帽子屋ロフニーニョは、ファージョンの描いた伊達男マーティン・ピピンと、アニメ版のほうのスナフキンを想起させる。
 このどこか突き放した感じの夢とおとぎ話のイメージの再構築が、彼女の独特の魅力だ。おそらく汲めども尽きないイメージの宝庫を、作者は持っているのだろう。

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991009 『まぼろしの小さい犬』 フィリパ・ピアス・作  岩波書店

 ピアスは今やあまりにも有名な『トムは真夜中の庭で』の作者で、その筆力には定評がある。最初に発表された『ハヤ号セイ川をゆく』からすでに処女作とは思えない成熟した味わい深さを見せ、以後のどの作品を読んでも彼女らしい暖かさと深い洞察、そして現実と非現実の境界を超えたかというものを感じさせる並々ならぬ鋭い感受性が込められており、いわゆる児童文学の範疇を軽々と越えた非凡な作家だと言える。

 ロンドンの大して広いとは言えないアパートに住むベンは、姉ふたり弟ふたりのちょうど真ん中で、どちらのふたりにも属しきれない、いくぶん孤立した立場にある。そんなわけでベンは犬が欲しくてたまらなかった。リトルバーリーに住む祖父が、今度の誕生日に犬をあげようと約束してくれ、今日はその待ちに待った誕生日である。ところが、そんなベンに届いたのは、刺繍された犬の額絵にすぎなかった…。
 約束を空しく裏切られた失望と、どのみち庭のないロンドンでは犬は飼えない、という現実とに押しひしがれて、ベンは「目を閉じなければ見えないくらい小さい犬」を毎日毎日まぶたの裏に追いかけるようになってしまう。クリスマスの直前、ベンの様子がおかしい、と心配する母の目の前で、ベンはまぼろしの犬・チキチタを追いかけて、目を閉じたまま車の往来する通りを渡ろうとして車にはねられてしまう。
 祖父母の住むリトルバーリーで静養することになったベンは、祖父の飼い犬が生んだ子犬たちを世話するようになり、やがてそのうちの一匹、まぼろしの犬の面影に似たブラウンと言う名の子犬をもらうこととなる。だが、彼がいよいよ子犬を手に入れ、あれほど胸の中で育んできた呼び名、「チキチタ」と呼びかけると、それまで「ブラウン」と呼ばれてきた子犬はその呼びかけに反応できず、ベンはふたたび大きな失望と腹立ちを感じ、あれほど望んだ子犬を放そうとする…。

 ほとんど終わりになろうというこの時、ピアスは、ベンが子犬を手に入れたという所でのハッピーエンドに終わらせず、まぼろしの子犬を追うあまり、それとは違うブラウンを手放そうとする、ぎりぎりの行動をとらせている。ブラウンが夕闇の中に途方に暮れて消えて行こうとする最後の瞬間に、ベンはまぼろしの子犬を追うことを止めて、子犬の本当の名、「ブラウン!」と呼びかけて暖かい実在の犬を選び取るのである。

 どの作品でもそうなのだが、少年の心理の描写がピアスは本当にうまい。うれしい約束にひとり膨らむ空想、それが一気に踏みにじられたときの苦さ。犬が欲しいあまりにとる、奇矯な行動の数々。本当のところ、最後の一言は言わない、彼なりの理屈。まったく彼の感情に寄り添って、彼になり切って、彼の目を通してまぼろしの犬、現実の犬を見る自分がいる。

 優しいが祖母の言いなりのような祖父、細やかな目でベンを見る母親、はっきりした意見を持っている祖母、彼等もベンの視点から描かれているように見える。この祖母の言葉のいくつかがキーワードのようにベンと呼応し合っている。
 刺繍された犬の絵については、最初犬だけが描写される。次にしばらくたってその後ろに描かれた手、さらにその後で手の持ち主の衣装などに言及されて行き、この段階的な視野の広がりによってベンの心理状態の変化を巧みに感じさせている。
 このような点はまさにピアスの巧まざる技術であるが、計算されたものではなく、天性の感受性によるものだ。忘れられない「スーパーナチュラル」ものを幾つも書いているのも、彼女の感受性のなせるわざであろう。
 ほかにも細かな描写にはほんとうにかゆいところに手が届くような思いをするものが多々あり、読後深い満足感を覚える一因がそこにもある。

 リトルバーリー、カースルフォードなどの地名や、バスの運転手モスさん、子犬と一緒にカヌーに乗っている女の子とふたりの男の子などなどは、いずれも『ハヤ号セイ川をゆく』で既におなじみの地名や登場人物である。ハヤ号でもアダムたちがロンドンから来た子どもに反感を感じるシーンが描かれていた。この作では逆にロンドンから来たベンが彼等らしい人物を見て、あの子たちはここで犬の飼える生活をしているんだなあと半ばうらやましく想像する描写がある。ハヤ号の愛読者である私はこの二つの物語にこんなつながりを見いだしたことで、彼女の世界にひときわ立体感と広がりを感じることが出来、実に喜びなのであった。

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990917 『ななつのこ』 加納朋子・作  創元推理文庫

 この作家のものを読むのはこれがまったく初めてで、つい最近まで名前すら知らなかった。創元文庫にしては意外なくらいメルヘンチックで郷愁を誘うような表紙と、聞きかじった評判とで手を出してみたのである。予備知識が全くなかったのが幸いして、ごく素直に読むことが出来てよかった。

 19歳の入江駒子は、『ななつのこ』という本が気に入ってしまい、がらにもなく作者にファンレターを「勢いで」出してしまう。すると、身辺の出来事を何の気なしに綴った文面に対して、思いがけず新しい光を当ててくれるような返事の手紙を受け取ったのであった。

 『ななつのこ』というこの本の題名と同じ作中の小説が、駒子の日常の出来事と何とも不可分に綯い合わさって、舌を巻くような構成になっている、一見、連作短編集であるが、最後の7作目に至って、単なる連作の枠を出て全編に有機的なつながりがもたらされて、作者の並々ならぬ力量が感じられる。

 どの作(章)も、作中の『ななつのこ』のエピソードと相まって捨てがたく、金色の鼠が動くか…と息を詰めんばかりの気持ちになるところなど、好きなシーンがたくさん浮かんでくる。隅々まで行き届いた透明感のある文体と、そこここに感じられるウィットが気持ちよい。頭の良い人だな、と感じさせるが、それが気持ちよさにつながるところが魅力。他の作品も是非読んでみたいと思わせる。

 「白いタンポポ」は、ちょっとネタが割れちゃったかなァ。でも「バス・ストップで」とともに作者の人間の心に対する深く優しい洞察が感じられて、これも快い読後感を抱かせる。

 第3回鮎川哲夫賞受賞、つまり実はミステリの賞をとった作品なのであるが、ジャンルに縛られることなくお薦めできる透き通った作品である。

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990915 『精霊がいっぱい!』 (上・下) ハリイ・タートルダヴ・作  ハヤカワ文庫SF

 環境保全局の調査官、デイヴ・フィッシャーは朝早く上司の電話でたたき起こされ、有害魔法処理場からの魔法の漏出について内々に調べるようにとの依頼を受ける。処理場から漏れだしたと思われる有害な魔法によって、周辺では魂を持たない赤ん坊が生まれるなどの重大な被害が出ていることが分かった。処理場に魔法を投棄している企業を調べて行くに連れ、世界を揺るがすような事態が明らかになって行く。

 科学技術の代わりに、魔法による文明が発達した世界。だから、フリーウェイには空飛ぶ絨毯が渋滞を作り、電話の受話器の中には小鬼がいてエーテルを介して言葉を中継し、デモンストレーションではなく「デーモンストレーション」が行われるようなごきげんな世界である。パトカーは白黒模様の空飛ぶ絨毯だし。

 ヴァーチャル・リアリティならぬバーチャス・リアリティ(高徳現実)は、特殊なヘルメットをかぶり、参加者同士が隣の人と手をつないで輪を作ると、<こちら側>(現実の世界)にも<あちら側>(魔法の世界)にも属さない場を作り出して疑似体験させてくれる技術。 お手手つないで輪になって、なにやら(あやしげな)宗教がかった儀式は実際にアメリカによくありそうなシーン(のような気がする)。
 トイザラスならぬスペルザ’ら’スでは魔法グッズを売っているし、メキシコはアステカ帝国、映画の代わりにライト&マジックショー、などなど、言葉遊びのみにとどまらない歴史や地理にも関する嬉しくなる仕掛けがたくさんあるので、まさかこれを武器にシリーズ化なんかしないよな?と心配になってしまうくらいである。

 高橋良平が帯(解説)に書いているように、「ストーリイの骨格はしっかりしているし、ラブコメ部分は充分にロマンティックだし、主人公は誠実だし、クライマックスにはスペクタクル・シーンがたっぷり」に言い尽くされてしまっている!実に楽しめるすてきな作品である。

 軽く楽しいどたばたでいっぱいの作品か、と思いきや、意外に読み応えがあり非常にシリアス。人物の描写もなかなかなものだ。トニー・スダキスとミヒャエル・マンシュタイン、それに写字室の精霊エラスムスが好きです。
 高徳現実の世界でブラザー・ヴァーハンがエラスムスに駆け寄って抱き合うシーンはちょっと泣ける。

 少々ひっかかる記述も。下巻184ページ、「大平原の気高い戦士たち、狩人たちのことはどうなんです?」に対するマンシュタインの一連の返答は…これは彼一流のものの見方だと思っておけばよいのだろうか?う〜ん。

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990914 『光車よ、まわれ!』 天沢退二郎・作  筑摩書房

 9月の終わり、校舎を揺さぶるばかりに降りしきる雨と風。授業中にいきなり教室のドアが開いて、振り返った一郎が見たものは真っ黒のばけもののような3人の大男ーと見えたが…。それが怪異(あやかし)の始まりだった。

 水と共になにかこの世界のものではない「もの」たちが姿を現し、一郎たちを引きずり込もうとしている。クラスメートの龍子の言う「光車(ひかりぐるま)」とは、いったいなにか?水から現れる怪人たちは何を追うのか?

 東京のおそらく目黒、世田谷あたりを彷彿とさせる町を舞台に小学6年の一郎とそのクラスメートが巻き込まれる奇怪な出来事が、1ページ目からぐいぐいと、しかしその一方どこか淡々と語られて行く。
 雨、水たまり、わき出してくる水、下水溝などのイメージに重なって、最後まで正体の分からない「光車」、地霊文字(ナウシカに出てくるドルクの文字を想起する)、龍子のおじいさんなど、多くのものや人が説明されないまま次々と出てきては一郎らを翻弄する。夢の世界と言ってしまえば簡単だが、現実との境界が水を媒介にして文字通り溶けてしまっているそのありかたが、尋常でないものを強く感じさせる。

 宮沢賢治の研究者として知られるだけに、秋の嵐を背景にしたこの作はどこか賢治的イメージを彷彿とさせるが、町に潜む不気味さを文字通り水面下に擁した素晴らしい作。1973年発行なので幾分町の古めかしさを感じさせるのはやむを得ないが、それが作品そのものと切り離せないえもいわれぬ雰囲気を醸し出している。

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990908 『月の砂漠をさばさばと』 北村薫・作 おーなり由子・絵 新潮社

 作家のおかあさんと9歳のさきちゃんの、日常のやりとりが何気なく描かれた、12編の短篇からなっている。おかあさんはお話を作る人なので、さきちゃんとのやりとりにもふんだんに面白い展開のお話がでて来て、これがとても効果的。この題名も、おかあさんが歌う「月の砂漠をさばさばと、さばのみそ煮がゆきました〜」という歌からきているのだ。

 時間の流れがとてもゆっくりしていて重みがあるのは、さきちゃんの時間の流れで書かれているからだろうか。おかあさんもそんなさきちゃんとの時間の流れを共有して、ふたりはすてきなパートナーぶりをみせてくれる。けれども時にはおかあさんも「せかせかした気持ちのまま」返事をしてしまい、はっと胸を突かれることもある(「猫が飼いたい」)。

 おもわず笑ってしまったのは、「さそりの井戸」のラストで、さきちゃんが「しまったー」と答えるところである(もうこれは読んでみて下さい)。これをはじめ、優しいユーモアがただよっているのが石井桃子を思い出させる理由かも知れない。どの作品もラストの落ち方がとても上手で、余韻のあるものになっている。
 読む前はもっと軽い、一遍読んだらそれきりのような本かと言う印象でもあったのだが、いやいやどうして、なかなかシリアスなのであった。

 おーなり由子の絵がぴったりあっていて、これ以外のさきちゃんは考えられないなぁ。彼女は帯で「心にぶらさげておきたくなる、やさしいおまもりのような物語」と言っているが、ほんとうに胸のなかのどこかのくぼみにしまっておきたい佳品

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990816 『春のオルガン』 湯本香樹実・作 徳間書店

 小学校の卒業式に総代として卒業証書を受け取ろうとしたその時ぱったり倒れてしまった桐木トモミ。ちょっと変わった3歳下の弟テツと一緒に、そのまま宙ぶらりんでおかしな春休みの日々が過ぎて行く。

 おばあちゃんが亡くなる前の自分自身の思いが、夢の中で彼女を怪物にする。仕事場へ行ったきり滅多に戻らない父、テツにばかり神経を向けていて忙しがっている母、違和感を感じるようになった祖父。トモミは周りの人々も物事もまっすぐに捉えることの出来ない状態にはまりこんでいる。家族、隣の老夫婦、すれ違う男、そして自分自身をそれぞれのあるべき姿として容認できないのだ。

 そんな不安定な春の一時期、よりどころを失いかけたトモミは弟に連れられるようにして、ノラ猫に餌をやり続けるおばさんと知り合う。成りゆき上仕方なしに餌やり、餌作り、おばさんの看病などをするようになるが、その行動そのものによってによって現実感と自分らしさを取り戻して行く。
 そんなとき遠い存在になり始めていたおじいちゃんの、子供時代の切実な体験を聞いて、彼女は自分の中の怪物をときはなってゆく。
 納戸からおじいちゃんが引っぱり出した古いオルガンはふたたび鳴ることはなかったが、オルガンが分解されたのと共にトモミの母も古いしがらみを断ち切って一歩踏み出したのであった。

 『夏の庭』に続く湯本香樹実の第2作で、作者自身の解説によればエピソードにかなり自伝的要素の強い作品であるようだ。
 前半の重く気分のすぐれない、よどんだ水の中のような気分は、正直言ってなかなかページが進まなかった。しかし、猫と関わるようになってきたあたりから、次第に彼女の感性も生き返って行く。無愛想で自分に関わりのないものとして描かれていた周りの人々は、それぞれの生活と顔を持つ人間として色彩と表情を与えられ始める。こうなって、彼女の時間も通常の流れを取り戻し、読者である私もページを繰るのが速くなってきた。これは前半がつまらない、というより、作者のもくろみ通り、トモミと同じ訳の分からない時の淀みに読者もとらわれてしまったという点で一種の成功かも知れない。

 おじいさんが自分の子どもの時の体験…彼が怪物だった時のことをトモミに語るくだりでは、おじいさんの存在感の取り戻し方がちょっと急過ぎる感もあったが、総じて湯本香樹実は年のいった者の背負っている歴史を描くのが上手なひとだと感じた。

 夏、春、秋、ときて、書いていないのは冬。いつか冬の物語も、書いてくれるのだろうか。

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990806 『ポプラの秋』 湯本香樹実・作 新潮文庫(文庫書き下ろし)

 千秋は幼い頃住んでいたポプラ荘の大家のおばあさんが亡くなったという知らせに、十数年ぶりにポプラ荘を訪ねる。6歳を過ぎたばかりの千秋は父をなくし、虚けたような母とふたり、大きなポプラの木を目当てに見つけたこのポプラ荘に移ってきたのであった。

 みるからにおっかない大家のおばあさんは、しかし実際はみかけからは想像できない暖かな力強いものを裡に持っていたのである。具合を悪くして学校に行くことが出来なくなった千秋は、日中おばあさんの所に預けられる。そのうちおばあさんは、お父さんに手紙を書いたらいつか配達してあげようと提案したのであった。ポプラの葉の揺れる部屋で父宛に毎日手紙を書いて、彼女は次第に父の不在と折り合いを付けて行く。

 そして自分の拠り所が不確かになった今、おばあさんのお葬式に来てみると、そこに集まっていたのは何とおばあさんに手紙を託した驚くほどたくさんの人々であったのだ。そしてその中には千秋の母が書いた、亡くなった夫への手紙もあったのである。 

 秋のポプラ、と聞くだけで金色に輝くその懐に抱かれる気分になる。夫を亡くして所在を失ったような18年前の母が拠り所にしたのもこの大地に根を下ろしてすっくと立つ金色のポプラだったのだろうか。そしていま事情こそ違えやはり自分を失いかけた千秋は、ふたたびポプラの木の元で時のエアポケットのような18年前を思い、その頃の母からの時を超えた手紙を読むのである。

 猫のエピソード、ポプラの葉ずれなど、ディテイルの書き込みがとても豊かで自然なので、短篇(中編)にもかかわらず読後感には充実したものがある。屈託した心のひだのちょっとした描写が胸の涙の塊を大きくする。癒し、といってしまえば簡単過ぎるが、ポプラの木の御利益というわけでなく、さしのべる手が必要な人には惜しみなくさしのべたおばあさんという人間が大きな存在感を持って介在している所が、この作品の暖かで魅力あるところだと思う。

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990802 『夏の庭 The Friends 湯本香樹実・作 新潮文庫

 これは高1の娘の夏休みの課題図書のひとつ。シェイクスピアや漱石、井上靖、芥川などとならんでなぜにこれが?しかし「読書感想文」を書くにはいちばんとっつきやすいかもしれないとお勧めし、そのまえにどれどれ、と読んでみた。

 今はちょうど真夏だ。読んでいる私の感性は、夏向きになっている。この物語は6月の教室から始まり、7月、そして8月に終わる。さらにその後も少しは続くがそれは「物語」のあとのこと。だから、ちょうど自然な感覚で夏の草いきれを、洗濯物のばりっとした感じを、水撒きの清冽さを感じることが出来る。

 山下のおばあさんのお葬式をきっかけに、6年生の男の子3人が、初めて「死」と言うものを身近に考え始める。近所に一人暮らしの、もうじき死にそうなおじいさんがいることを知り、「おじいさんがひとりで死ぬ。そこを」発見しようということになり、河辺、山下、ぼく(木山)はおじいさんのぼろい家の見張りを始めた。
 コタツ布団にもぐってテレビばかり見ていた老人は、そのうち彼らに気付き、おかしな交流が始まる。老人は今にも死にそうどころか、次第に元気になって行き、老人の手助けを始めたつもりだった彼らはいつの間にか老人から草むしり、ペンキの塗り方、梨のむきかた、などを教わっているのだった。そして、薄い皮膚と骨で出来ているかのような目の前の老人が、時間と空間の中に厚みを持って存在してきたことを次第に体感して行く。

 少年たちの成長と「死」がもっとも近い距離になるのは、夏が一番ふさわしい。8月が終わろうとする最後の週に、老人はふっと死んでしまい、成長のただ中にある彼らは生に取り残されるが、老人のお骨を見たとき、「ぼくの心は、不思議なほど静かで、素直な気持ちにみたされていた」のだった。

 私自身が、何人かの身近な老人の死に際していだいた気持ちは、おおむねここに描かれたようなものだった。それまで目の前にあるだけの姿で把握していた彼らを、あるかけがえのない形ある歴史として、その重みを感じるときが必ずあった。これを経験したことのない人には、どうしたら実感できるだろうか。
 作者は、誠実で感覚的な文章によって、この重みを、それこそスイカや梨、ゴミの袋に託して具体的に感じさせる。
 同時にヒトが決して記号ではなく周りのものとの相互作用の中に存在していることをしっとりと感じさせる。からだを通ってきた風(=息)、老人のくちびるをぬらすブドウの汁。
 これらの、事物に即した感性を、この子たちにはしっかりと持ち続けていて欲しい。
 終始感じた、女性的感性であり描写であるが、この感覚、このものの捉え方は、単に「女性的」と一蹴されることなく、男性にも(こそ)持って欲しいものである。
 いま社会を捉え直し、価値観を転換させるのはこういった、感覚に対して素直な世界観なのだと常々思う。

 「ぼく」のおかあさんの設定は、やや月並みだし、余り効果的ではないように思う。ただこれを削ってしまうと、文字通り「ぼく」の肉付けがなくなってしまうので困るのではあるが。

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990722 『バンシーの夜』 船井 香・作 比賀嶋 沙緒・絵 あさぎ書房 Boys & Girls セレクション

 本を選ぶ際に手がかりとなるもののひとつに、帯や、表紙カバー見返しの釣り書きがある。ところがどうも最近これが不適切な例が多いように思う。
 簡単にいえば、「担当者はちゃんと中味を読んでいるのか?」なのである。中味を読まないまま、本の出版を決め、中味を読まないまま、イラストをいれ、中味を読まないまま、こうした釣書をくっつける。かどうか、実態は定かではないが、最近私自身が出会った実例としては向山貴彦『童話物語』、梨木香歩『からくりからくさ』などがあり、これらについてはすでに述べたとおり。

 ご多分に漏れずこの『バンシーの夜』もその例である。
 カバー見返しにいわく、

 「夢の中を舞台に繰り広げられる大スペクタクル。奇妙な怪物たちと子供たちの大冒険とは。夢と希望に溢れ、ちょっぴり悲しい傑作ファンタジー。」

 いったい作者の意図はどこに消えてしまったのか?作者の書こうとした、繊細で微妙な、思春期の感性だけがとらえられるあのはかない真実、そのこわれやすくあやうい夢のひろがりが、このような在り来たりで月並みな常套句でくくられてしまうとは、実に遺憾なことだ。ムーミントロールをカバと言うに等しい、まったく情けない認識(のなさ)だと言いたい。これが先に頭にインプットされてしまったため、物語自体のもつ独特な世界に入り込むのに、幾分時間がかかったのは否めない。担当者の顔が見たいものである。猛省せよ。

 舞台はここより少し北の国。そのムーミンやミイ、つの馬などのトロルたちが住んでいる地域に近い感じ。まだ石畳の残る、しっとりとした町並みである。街を出はずれると、子供たちが思う存分遊ぶことの出来る草原や森がふんだんにのこっている。
 しかし時代設定はけっして昔ではない。ここは、我々の世界とちょっと違う科学が発展してきた世界なのである。『壁の中』を想起させる部分があると言えばわかりやすいかも知れない。
 そんな世界でも「進歩」が停滞しかけてひとびとが閉塞感を抱いているのは我々の世界と同様である。

 ある時「ぼく」の妹、ターシャの寝言が、そのまま翌日のぼくの夢になってしまう、という現象がおきる。しかもそれは「ぼく」だけではなくて、町中の子供たちに起きているのだという!そしてぼくらはこの夢の間隙をすり抜けて、それまで考えもしなかった「向こうの」世界があることを知る。
 けれども、それはいわゆる異世界と言うわけではないし、ましてや並行宇宙と言うわけでもない。それには、ほんの小さな、誰もが知っているがしかし、誰もが気がつくわけではない、ある仕掛けが必要だったのである。

 「ぼく」の妹、ターシャ自身こそは、その世界の停滞を打ち破るひとつの突破口なのかもしれない。このいわば「バンシー」現象の真の姿、意味は何なのか?今という現実に生きるわれわれに大きな問題提起をしているのではないか。

 ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』のなかに、若い男性がうんと年取った女性に恋をする物語がある。
 ちょっと目をすがめて、光の加減を変えてみれば…時間を越えて…真実の姿が見えるかも知れない…そんなふうに工夫をして目を細めたり顔をしかめたりする場面がある。もうすこしでそのやり方がわかる…。と思うとその魔力は破れてしまうのだ。
 この感覚は本当にすぐ指をすり抜けていってしまう。これに近い、もどかしい感覚を『バンシーの夜』では強く感じる。フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』感じる思いにもやや近いかも知れない。
 先頃痛く感動した寮美千子『ノスタルギガンテス』では、私自身の、この世界の把握の方法自体に同じ様な感覚を抱いて、身をよじるような思いすらしたものであった。ちょっと世界に対する光のあて方を変えてみればきっとなにか違うものが…真実のものが…というもどかしさ。
 これを解決するものが、「バンシー」現象であると捕らえればよいのだろうか。

 世界の閉塞感を大きなテーマとして描かざるをえないのは、作者の生まれ年(1956年)からいっても納得の行くことである。作者自身が子供の時にはそうではなかったのに、自分たちが社会の中軸をなす年齢に達したとき、「こんなはずではなかった」、抜けるところのない袋小路に立っている自分たちを見いだすのである。半年ほど前に読んだ涼元悠一『青猫の街』でもこの閉塞感が色濃く描かれていた。
 しかし作者は前作『アニタの鈴』『猫屋敷』などの短編(これらは連作として書かれたものだが、こうして二つ並べると、ついイソップの「猫に鈴」のくだりを想起させ、これまた誤解を生むとも言えなくもない)で描いた、きらめきを見せながらも充分形をなす事のなかった新しい「魔法」を、ここに来てようやく実体としてかたちづくり、この長編を通じてあるひとつの解決策を読者に提示することが出来たと言える。この点からも、この作品を児童文学というジャンルに押し込めてしまうのはまったくふさわしくない。
 あたかも、ジョン・ヴァーリイ『残像』のラストで、傍観者であった主人公が自らも「ピンク」の世界に参入していったように、我々もこの信じがたい物語で世界の閉塞を突破するやり方を手に入れられるかも知れないのであるから。夢、とばかりではなく、実体として。実のところ、ちょっとショックである。
 
 最後に、新刊であるのに非常に入手しがたいのはどういうわけか。出版元のあさぎ書房は、「あさぎ幼年児童文学賞」という新人賞を設けるほど資金力と見識のある出版社であるのにもかかわらず、この版元の本を書店で見かけるのはごく稀だと感じるのは私だけではあるまい。
 
 また挿し絵の比賀嶋 沙緒は、幻想的な作風と美しい色彩で知られ、隠れたファンをもつ、早稲田出身の変わり種。某有名カルチャースクールでの講座には人気と定評がある。この本においても出色の出来映え。装丁も同じ。

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★この項はださこん2架空書評勝負参加作品です。
dasacon


990605 『ティバルドと消えた十日間』 アブナー・シモニ作 翔泳社

 16世紀のイタリアはボローニャ。ティバルド・ボンディは、1570年10月10日に生まれた。彼は大学者トゥリザヌス先生に熱心さと頭の良さを買われて、彼の後継者となるべく学問の道を目指すことになった。

 医学と迷信、天文学と占星術がまだ不可分だったこの時代に、かれは良い先生を得てラテン語、医術、天文学、弁論などをたたきこまれてゆく。

 1582年のこと、それまで用いられていたユリウス暦が、グレゴリウス暦に変更されることになった。それまで暦としてはやや誤差の大きいユリウス暦を用いていたために、実際の季節と暦の上の季節とのあいだにはずれが出てしまっていたが、それを一致させるために、その年の10月5日から14日までがなくなり、10月4日の次はいきなり15日にするという布告がなされたのである。

 さあ、驚いたのは、10月10日に12才の誕生日を迎えるはずのティバルドであった。僕の誕生日は、どこに消えてしまうんだろう!1年にいっぺん、大切な家族として盛大に祝ってもらえる誕生日が消えてしまうなんて!暦には大きな穴があいてしまうのだ!

 彼はいろいろ知恵を働かせ、誕生日が暦の穴の中に消えるのをひたむきに止めようとする。最後の手段は、法皇様に直に訴えるしかない…。でも、どうやって!?

 16世紀イタリア、ひいてはヨーロッパでの世界観について、学者はどう考えていたか、市井の人々はどうだったか、ティバルドとその家族、学校の先生たちに託してそれらが非常にリアルに描かれている。その当時の学問のあり方や、科学と宗教の力関係などが自然と窺われて面白い。医術の大家であるトゥリザヌス先生の助手を務めるティバルドの父親、助産婦をしている姉たちの姿は、人を癒す医学の理想を描いたかのようだ。

 物語の筋は筋として充分面白く、またそれ以上に上記のような科学史のひとこまとしての側面が色濃い作品である。暦に端を発する天文学の基礎知識が物語中にもふんだんにちりばめられ、さらに巻末にいっそう詳しい解説が載せてある。この解説は平明な言葉で書かれてはいるものの、ティバルドとおなじ12才の子供たちが対象とすると、説明しようとする概念は相当に難しいと思われる。それもそのはず、著者は哲学者にして理論物理学者なのだそうだ。まあ、この部分は読み飛ばしても一向にかまわない。

 作品を飾る挿し絵は、著者アブナーの息子、ジョナサン・シモニで、ローマ〜中世風の楽しいタッチの絵がふんだんに入っている。この絵が、仔細に見ると独特のユーモアにあふれており、見れば見るほど味があって捨てがたい魅力である。
 たとえば、困った顔をしている天使が捧げ持つ暦、そこにはぽっかり大きな穴が開いている、と言った具合。これは思わぬ拾いもの。

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990605 『ムッドレのくびかざり』 イルメリン・リリウス作 福田貴訳 学研 

 スウェーデン系フィンランド人である作者は、1936年生まれ、この本は1967年に訳されたもので既に30年以上前の本である。図書館で借りることの出来たこの本は、かなり手ずれがしており、ずいぶんと愛されてきたと思われるが、ちょうどこの本が出た頃には私自身目にしていても良さそうな年齢だったのに、まったく出会う機会がなかった。それが最近にいたって、ひょんなことからこの本を紹介していただき、題名だけはどこかで聞いた記憶があったのと、一角獣がでてくる!というのとで、さっそく、入手できないのではと言う危惧を抱きながらも図書館にリクエストしたところ、意外に簡単に入手できたというわけである。

 スウェーデン、フィンランドの児童文学と言えばすぐに頭に浮かぶのはアストリッド・リンドグレーントーベ・ヤンソンである。このイルメリン・リリウスの『ムッドレのくびかざり』にも、それらと共通する、不思議なトロルたちが登場し、雰囲気的にもそれらと同類の世界だと言える。

 おかあさんからサンゴのくびかざりをもらったムッドレは、おともだちのおにんぎょう、アステル=ピッピと遊んでいるうち、くびかざりを木の枝に引っかけてしまい、サンゴはばらばらになって見えなくなってしまった。サンゴを探しているうち、なくなったサンゴとまるで同じつのを持った小さな小さなつの馬を見かける。夜中にムッドレとアステル=ピッピは、そうっと家を出て(おとうさんとおかあさんにはちゃんと置き手紙をして)つの馬を追って行くことにしたのだ。

 道々出会うさまざまな、一風変わったひとたち。
 臆病なおじいさんの水の精、まつかさウシ、いつもひとりしかいないふたご、海の魔女、そして小さなあしあとを一足先に残してゆくつの馬…。

 リンドグレーンの『ミオよ、わたしのミオ』に、「夕暮れにささやく井戸」というものがでてくる。この井戸は、その名の通り、夕暮れ時にそのそばに座っていると、闇が迫る頃井戸の中からささやくようにいろいろな不思議な話を語る声がするという、私が世の中でもっともほしいもののひとつである。
 この『ムッドレのくびかざり』は、この井戸が語るにふさわしい話のひとつで、筋がどうこうよりも登場人物とその描く自然が本当に美しくていとしい、そういう世界なのである。草の一本一本、石のひとつひとつがくっきりと見え、それは幼い頃に私の目に映った外界そのままの映像なのであった。

 とにかく図書館に返したくなくて、「ちょっと行っておいで、また帰って来るんだよ」とささやいて返す、そういう本。発行当時に出会いたかった!

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990221 『丘の上の牧師館』 シルヴィア・ウォー 講談社

 「メニム一家の物語」シリーズの第5作(最終巻)。

 いきなり前巻をうけて物語は再開する。
 ブロックルハースト・グローブ5番地を離れて、デイジーの営む骨董屋に引っ越ししてきたメニム一家は、スービーの切なる祈りによって新たな目覚めを迎えた!しかしそのスービーだけが、家族と一緒にいないのだ。
 彼が家族と再び再会するまでの一家の苦労。いっぽうチューリップはふたたび一家の財産を保全しようと手を尽くす。その間に、デイジーは一家の「真相」に紙一重のところまで近づいてくる。

 デイジーの愛情を裏切らず、しかも彼女を傷つけまいとするぎりぎりの選択によって、一家は必死に「人形のふり」をし続けるのだ。今までは、人形でありながら「人間のふり」をしてきたのに…。全巻を通じて彼らが直面してきたのは、人形でありながら人間としての魂を持っている彼らのアイデンティティはどこに?という問題だった。アルバート・ポンドと最初に出会ったときですら、結局は自分たちらしくあるがままに振る舞うことでこの問題とある程度の折り合いをつけてきた彼らだったが、今度はあるがままの振る舞いさえも許されない、本当に屈折した状況に追い込まれてしまったのだ。

 そんなとき、コーマス屋敷でスービーを助けたビリーが彼らを訪ねることになり、同じ年頃のプーピーは遊びに夢中になるあまり、ついにビリーの前でただの人形ではないことを見せてしまう。そのとき大騒ぎをくい止めるのは他ならぬスービー。もう、どうしてスービーはいつもこんなつらい役回りなわけ!

「君たちは何者なの?」ビリーはスービーの銀色の瞳をまっすぐに見つめた。これは人形の瞳ではない。人間の瞳だった。
「実はその答えは僕にもわからないんだ」とスービーはいった。

 ちょうどその頃、チューリップを先頭に、一家はどこか安心して住める新しい家を捜していたのだった。それを聞いたビリーはスービーに問う。

「それで、新しい家に引っ越して、みんな年をとらずに、いつまでも生きられるの?」

「いつまでも、今のまんまなの?」

 そして、デイジーの心づくしのクリスマスツリーを後に残したまま一家は念願の新しい家に引っ越していってしまう。めでたしめでたし、そしてみんなは末永くしあわせに暮らしましたとさ。

 なんだけど…。

 クリスマスツリーを飾り付けるときに踏み台から落ちかけたデイジーを危機一髪抱きとめるジョシュアとピルビーム、こんな緊急の一瞬においてすら、一家のひとたちもデイジーも、お互いの役割を、まるでナイフの刃の上を歩くような危ういバランスをとりながら演じている…。こんなに信頼しあい気遣いあっている人たちなのに、いや、だからこそ、真実の周りをくるくると回っているだけ。シリーズのそこここで、涙が浮かび胸がいっぱいになるシーンはいくつもあったが、この最終巻はつらいシーンばっかり。

 作者は(まるでケイト自身のような風貌のひと)ひとり残されたデイジーの隙間をちゃんと埋めるべく思いやりある成りゆきを持ってきているが、読み終えてしばらくたった今、やはりいまいち納得しきれない。
 メニム一家にしても、時に忘れ去られたような新しい屋敷を手に入れてふたたび彼ららしい生活を続けて行くというエンディングだけれども、これほどに自分たちは何者かという問題を突きつけられてきた上に、この何年かの出来事であきらかに変わって(ということは単なる変化のみならず成長でもあるが)しまったのに、今更こんな時のエアポケットでの生活に戻ることに甘んじていられるのだろうか!
 それともこんなおあつらえ向きの場所を作り出したのは、また例の都合の良い超自然の計り知れない力なのだろうか?ずるーい。

 作者はケイトが彼らを作り出すいきさつについての本を執筆中(1996年当時)とのことだが、ぜひ牧師館(彼らの新しい家)以後の彼らの消息についても書いて欲しい!40年前だったら、ここで終わりでも良かったのかもしれないが、もうだめです。おおい、シルヴィアおばさーん、続きを書いてくださあい!

 蛇足・この日本語題では、読む前から成りゆきが分かっちゃうではないか!要・再考。

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990221 『北岸通りの骨董屋』 シルヴィア・ウォー 講談社

 「メニム一家の物語」シリーズの第4作。

 第2巻でメニム一家に力を貸し、スービーと無二の友だちになったアルバート・ポンドは、元教え子のローナと結婚するが、不思議な成りゆきから、ローナの母はブロックルハーストの屋敷を相続することになっていたのだった。

 そんなとき、マグナス卿は重大な予感におそわれる。メニム一家の造り手であるケイトの霊が彼らを離れて行く日が来るというのである。そんな予感など信じられない他の家族たちだが、その日に向かってぬかりなく準備を続けて行こうではないか、という体制に入る。そしてその日が来た!

 実業家としての才能のあるチューリップおばあちゃんはその才能を遺憾なく発揮して「その日」に備える。家族はそれぞれのやり方でその日を迎えるのだが、巻が進むに連れて一層家族のひとり一人の性格がはっきりしてきて、とてもボタンの目を付けた、ふわふわした布の人形などと思えないようなくっきりとした輪郭線で描かれるようになってきた。ヴィネッタはチューリップとぶつかることもしばしばだし、マグナス卿は老人らしい意固地さを増してきた。
 1,2巻ではむしろティーン・エイジャーたちの方に力点が置かれていたようだったが、この巻ではそれにくわえていっそう年配の登場人物の描写が際だってきている。

 この巻は1部と2部とに分かれているのだが、ちょうど全体の半分ほどのところで1部が終わったときにはあたかも世界が終わってしまったような気すらして、胸のつぶれる思いを味わうことになる。

 2部で新しく登場する骨董屋を営むデイジー・モーム、この驚くべき女性は2巻目でスービーと接近遭遇したビリー・モームの親戚にあたり、ビリーも再び登場することになる。
 まるで救世主のようにあらわれたこのデイジーは、メニム一家を「愛し」ていくことになるが、彼女を描く筆もまた愛情にあふれたものだ。ビリーとデイジーはさらにそれからどんな道を選択するのか?5巻に続く!

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990220 『屋敷の中のとらわれびと』 シルヴィア・ウォー 講談社

 「メニム一家の物語」シリーズの第3作。

 前作で、メニム一家の住む一角、プロックルハースト・グローブの危機を救うために一大運動を展開したのは、9番地に住む若い女性アンシア・フライヤーだった。ところがこのアンシアときたら、とにかくせんさく好きで、今まで40年以上ひっそりと暮らしてきたメニム一家が気になって仕方がない。その上メニムたちもどうもこの頃人の目につくようなアブナイ接近遭遇が増えている。一家の家長たるマグナム卿はついに、危機が去るまで一家を外界から孤立させる作戦に出た。そのため一家のひとびとは大きなストレスにさらされる。そしてついに、アップルビーの身に変事が起きてしまうことに…。

 マグナム卿は一家を守ろうとするあまり、外界の危機を不必要に大きくとらえて、逆に一家に大きな危機をもたらしてしまう。

 はねっかえりで自分勝手ではあるけれど、一家に活気をもたらす15才のアップルビーが、まさかまさかあんな事になってしまうなんて!作者があまりに思いきったことをするので、びっくり仰天してしまった。
 やがてアンシアが無事おさまるところにおさまり、外界の危機はすんなり去って行くのだが、一家には取り返しの付かない大きな傷と、顔を背けることのできない聖域がが残されてしまった。連作はスピードを増して第4巻へと続いて行く。(いっぺんに借りて読んで、良かった。)

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990215 『荒野のコーマス屋敷』 シルヴィア・ウォー 講談社

 「メニム一家の物語」シリーズの第2作。

 メニム一家の住むブロックルハースト・グローブが、高速道路の建設計画のため取り壊されるかもしれないと言う危機に見舞われる。

 あの世にいるはずのメニム一家の作り手ケイトがこの危機を察して人間の青年アルバート・ポンド(1作目と同名異人)のもとに現れて一家に手をかしてやるように頼む所から話が始まる。一家は今度こそ人間との初めての対面をしなくてはならない。「ふり」や「ごっこ」が通用しない相手、本物の人間なのだ。

 騒動を通じてアルバートとスービーはかけがえのない友だちになり、さらにもうひとり、人形と人間という道ならぬ恋(!)に悩む女性もでてくるのだ。
 全編を通じて、頼りないアルバートが一生懸命彼らに力をかし、慢性睡眠不足状態にあるのがなんとも現実感がある。また田舎での少年たちと人形の危ない接近遭遇、バイクで走り回る人形たちはお化け話を生む。

 危機もどうやら無事に乗り越え、人形たちにのめり込んでしまったアルバートはいやいや人間世界に戻って行くが、このとき働くのが超自然の存在のケイトでもびっくりするような、さらに計り知れない超・超自然の力。都合が良すぎるような気もするが、1作目から通じて人形たち自身が疑問に思っている過去の記憶をもたらす力も、これなのかもしれない。

 ストーリーももちろん面白いが、それぞれのキャラクターが良く書けており、ティーンエイジャーなりの、母親、祖母なりの思いやり、心遣い、悩みが手に取るように感じられる。ミス・クィグリーが思わぬ自己改革を遂げるところが女性作家らしいと言えるだろうか。40年変わらない人形たちも、それぞれにこうして少しずつ変わって行くのである。

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990215 『ブロックルハースト・グローブの謎の屋敷 シルヴィア・ウォー 講談社

 「メニム一家の物語」シリーズの第1作。

 主人公のメニム一家はイギリスのとある町の大きな屋敷にひっそりと暮らしているが、この一家は全員、なんと布でできた等身大の人形なのだ。

 以前ちらりとこの本のことを耳にしたとき、人形が主人公と聞き、借り暮らしの小人たちのように小さな人形たちが、ドールハウスの中でちまちまと動いたりしゃべったりする話かと思ってさほど興味を抱かなかったのだが、そうではなかった。借り暮らしの小人たちは、人形のように姿は小さいが、まるで人間と同じ。ところがこのメニム一家は、体は人間と同じサイズだが、人形なのだ。つまり、借り暮らしの小人たちの設定を裏返しにしたようなもの。

 この人々が、外界の人間と顔を合わせずに40年!と言う年月を、いかに過ごしてきたかについては驚くべきものがある。彼らは、外に出ていって、買い物をし、郵便局に行き、一家の父親はちゃんと夜警という職業を持って働いてすらいる。なのに、人間の誰ひとりとして彼らが等身大の人形であるとは気付きもしない。電話や手紙をフルに使い、電気器具、テレビ、何でも使いこなす。食べたり飲んだりはできないが、人間のように食べる「ふり」、お茶を飲む「ふり」をして、人間と同じような生活「ごっこ」で毎日を過ごしている。

 けれど、借り暮らしの小人たちと同様、彼らの毎日はいわば、煮詰まっているのだ!
 借り暮らしの娘アリエッティはだんだん大きくなって外の暮らしにあこがれていき、それが引き金になって彼らの生活は大きな転換を迎える。
 一方、メニム一家は、サザエさん一家と同じで、何年経っても彼らが作られたときの年齢から年を取ることはないが、サザエさんたちとは異なり40年の年月の間に各々それなりの経験と記憶を重ねている。そんな彼らの生活に大きな変化をもたらしたのは、舞い込んだ1通の手紙だった。新しく家主となった青年がオーストラリアから訪ねて来るというのだ。本物の人間が訪ねてくる!40年人間に気づかれずに暮らしてきたのに、この事態にどう対処したらよいのだろう!

 家族は70才のマグナス卿と奥さんのチューリップ、その息子ジョシュアと奥さんのヴィネッタ。その子どもたちは上から17才のスービー、15才のアップルビー、10才の双子プーピーにウィンピー、そして赤ちゃんのグーグルズである。ほかにお客として時たまやってくる(つもりの)ミス・クィグリー。40年前に屋敷に住んでいたケイト・ペンショウという女性が裁縫の才能を発揮して作り上げたこの人形の一家が、どうしたわけか彼女の死後、ふしぎにも命を持ってしまったのだ。
 新しい家主アルバート・ポンドが来る、来ないとやきもきしている間に、屋敷の屋根裏では新しい家族が命を得ようとしていた…。

 このような事態の中、一家のメンバーはそれぞれに40年も続けてきた人間の「ふり」や「ごっこ」をすることに疑問を抱き始めるのだが、人形たちがどうやってそれぞれ子どもだった頃、若かった頃の記憶を持っているのか、自分でも疑問に思ったりするあたり、なかなか哲学的なテーマを含んでいるなあと思う。
 スービーは真っ青な布で作られているが、どうして自分はこんな色でつくられたのか?いったいケイトの意図は何だったのだろう…おのずと厭世的、哲学的になるスービーが、屋根裏でケイトが未完成のまま残した双子の妹ピルビームを発見してからあとが一段と面白くなる。

 ひさしぶりにワクワクを感じさせてくれる作品だった。

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990112 『青猫の街 涼元悠一 新潮社

 第10回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作品である。小説にしては変わった体裁で、左開き、横書きである。

 1996年の10月、物語は始まる。システムエンジニア(SE)の神野は、高校時代からの友人Aが、アパートに古いパソコン1台のみを残して失踪した事を知り、その行方を追い始める。
 残されたマシン、PC-9801VMの画面にはただ1行、How many files (0-15) ? とだけ(うわあ、なつかしい!)

 神野は偶然知り合った探偵・佐伯の助力を得て、ホームレスのあいだを探しまわるが、一方Aの元同僚から彼らが開発しながら計画が頓挫したゲームソフト「Bluecat」の存在を知らされる。刑事がふと漏らしたことば、「青猫」を手がかりに、彼はインターネットの世界へAを探しにゆきアンダーグラウンドBBSに行き当たる。

 ハッカーもどきの作業を経て「青猫」の謎に近づいたとき、彼の身の回りにはエンドレスファックス、脅迫的内容のe−mail、メイル爆弾などが届きはじめ、アパートの扉にも赤ペンキの痕が…アオネコニキヲツケロ

 意外な人物の手引きでいよいよ青猫に相対したとき神野の目の前に開けたのは、思いもかけない世界であった。

 

 未読の方は、以下、読んだ際の興味が半減するおそれがあるので、次に進まれないことをお勧めします。

 次を読んでもいいよ、と言う方はこちらへどうぞ。

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990110 『風と木の歌』 安房直子 実業之日本社

 1981年に出版された短編集で、8編の作品からなっている。

 掲載順に「きつねの窓」、「さんしょっ子」、「空色のゆりいす」、「もぐらのほったふかい井戸」、「鳥」、「あまつぶさんとやさしい女の子」、「夕日の国」、そして「だれも知らない時間」である。

 今回は「きつねの窓」が読みたくて図書館で探した。安房直子は書棚のおよそ1段を占めていて、たくさん書いているのだなと実感した。ただし検索するといくらでもという感じででてくるので、これでも決して全部と言うほどではないだろう。 
 この「きつねの窓」は、勧められたことと、「こういう話を知りませんか」と問い合わせを頂いたこととで知ったものだが、イメージが美しく心を惹かれたのである。

 彼女の作品には珍しくない、若い男性の主人公が、ある日山の中で偶然一面の青いききょうの花畑にはいりこんでしまう。ちらりと見かけた白い子ぎつねを追っていくと、そこにあったのはきつねの染め物やだった。なんでも青く染めてくれると言う、子どもの店員は、確かにさっきの子ぎつねが化けたものに違いない。
 ことわるぼくに、「そうそう、おゆびをおそめいたしましょう。」と言うきつね。なんともかわいいでしょう!
 親指と人差し指をききょうの汁で青く染め、ひし形の窓のようにしてそこをのぞくと、一番見たいものが見えるという。子ぎつねが一番見たいものは、てっぽうでうたれて死んだかあさんぎつね。半信半疑で指を染めてもらったぼくにも、ひし形の窓の向こうに、なつかしいものが見えた…。
 けれども家に帰った僕は、何気なくその手を洗ってしまい、指の魔法は溶けてしまった。そして再びききょう畑の子ぎつねに会いに行っても、もう2度と会うことはなかったのだった。

 ほんとうに短い、無駄のない愛らしい作品である。繰り返し彼女の作品にでてくる、失ったものへの哀惜が、ここにも込められていて、切ない。

 また、彼女の作品では色のイメージが多彩なのも特色である。透明水彩のような、透過光の世界。
 この「きつねの窓」の青い、ききょうの色は言うまでもなく、「空色のゆりいす」、「夕日の国」のように題名からそれが伺える作品も多い。

 他の収録作品はどれもそれぞれに、「美しい」、「可愛らしい」に止まらない、どきりとするような洞察をうちに秘めた作品である。今の時点で強いてあげるならば、何百年も長生きをしている退屈しきった亀が、祭りの晩に自分の時間を村の皆に分けてあげて自らは死んでゆく、「だれも知らない時間」といえるかもしれない。

 どこか尾崎翠と共通するものを感じてしまう、安房直子。未読の方にはぜひお勧めしたいし、私もこれから片端から読みたいと思う。

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990110 『オルガニスト』 山之口洋 新潮社

 この作品は、第10回日本ファンタジーノベル大賞受賞作品である。

 千年紀が新しくなってのちのドイツ。
 ヴァイオリニストのテオは、南米に現れたという才能あるオルガニスト、ハンス・ライニヒが、9年前のある事件後姿を消した友ヨーゼフ・エルンストではないかという疑いを持つようになる。

 テオとヨーゼフ、のちにテオの妻となるマリーアの出会いと学生時代が描かれ、さらに悲劇的なヨーゼフとの別離が思い起こされる。そして現在、友ヨーゼフかもしれないライニヒを追うテオたちは、次第にライニヒとの距離を狭めてゆく。その最中、ヨーゼフの恩師である高名なオルガニスト、ラインベルガー教授の身に変事が起こる。

 未読の方は、以下、読んだ際の興味が半減するおそれがあるので、次に進まれないことをお勧めします。

 次を読んでもいいよ、と言う方はこちらへどうぞ。

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(暫定版)
1225 『
ゾッド・ワロップ』 ウィリアム・ブラウニング・スペンサー 角川書店 

 溺死した娘の死を受け入れられない作家・ハリーの作品の熱狂的なファン、レイモンドは、精神病患者である。彼らはハリーが精神療法を受けるために入所した精神科のクリニックで出会った。ハリーの退院後、レイモンドは病院仲間とともに病院を脱走して、ハリーの元にやってきた。レイモンドの結婚式のためである。それをきっかけに、ハリーの書いた子供向けの小説の世界がが次第に現実を浸食し始める。いっぽう、それを引き起こす元となったらしいドラッグ、エクニジンをめぐる製薬会社の勢力争いがそこにからまって…。

 舞台は、現実とハリーの創作した作品の世界とが交錯しあう世界なのだが、常にその要にあり現実の世界におろされた錘ないし錨となっているのはハリー自身の苦悩である。レイモンドは魔法使いの姿をとっているのでわかるとおり狂言回し(トリックスター)。

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1213 『ハンカチの上の花畑』 安房直子 講談社文庫 昭和52年

 「ハンカチの上の花畑」、「空色のゆりいす」、「ライラック通りの帽子屋」の3編が収載されている。私が単行本でむかし読んだのは「ハンカチの上の花畑」(あかね書房)だけのようである。

 郵便屋さんが、誰も住む人などないと思っていた「きく屋酒店」の酒倉に郵便を配達するところから話は始まる。酒倉にすむおばあさんに菊の花の酒を振る舞われるが、それは壺の中に住む小人の一家がハンカチの上の菊の花畑から造ったものだった。魔法の壺をおばあさんから預かった若い郵便屋さんは、その後結婚し、その壺のおかげでお金儲けをして一軒家を買って引っ越して行くが、その引っ越し先こそ、壺の小人たちの隣だったのだ。

 小人になってしまって以前の生活の記憶をなくし、おもしろおかしく過ごしていた元郵便屋さん夫婦。うっすら記憶が戻りかけて見上げた空は、本当に目に映る通りの空なのだろうか…。淡々とした美しい光景の中に深淵を見るような怖さを秘めた作品である。彼女の作品を、それほどたくさん読んだ訳ではないが、たぶん彼女のエッセンスが良く現れているのではないかと思われる。

 「空色のゆりいす」では、いすつくりのめくらの娘に、風の子が虹から取った空色の絵の具を持ってきてくれる。次の年は、ばらの赤の絵の具。、次の年は海の青の絵の具の代わりに、海が教えてくれた歌。そして次の年。
 これはイメージは素敵だけど彼女にしては大したことない作。

 「ライラック通りの帽子屋」は訪ねてきた羊の頼みで作った帽子の力で、西へ西へと、自分の願い通り好きな帽子を作っていられる「いなくなった羊の国」へ行ってしまう帽子屋の話。望み通りライラックの花で美しい帽子を作ったは良いが、帽子屋の元へ来る女の子はみな羊の毛の帽子をかぶってやってくるので、ライラックの帽子をかぶろうと羊の毛の帽子をぬいだとたん、女の子たちは元の世界に戻ってしまう。せっかく作った帽子をかぶる人が誰もいないので、帽子屋は段々帽子作りが苦しくなってしまった。西の国のイメージにライラック色が重なって独特の世界である。羊の毛のトルコ帽をぬいだとたん、元の世界にひゅうっと引き戻されてしまうところが滑稽で、どこか哀しい。

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0914 『ダブ(エ)ストン街道 浅暮三文 講談社 1700円+税

 あちこちのサイトで結構話題になっている、第8回メフィスト賞を獲得した作品である。
 どこか南の海の激しい潮流に囲まれたダブ(エ)ストンという、呼び名も定まらない大地を舞台とした主人公ケンの迷い迷いさまよう話。ケンは35歳、ハンブルグで恋人タニヤが夢遊病のために失踪してしまう。ダブ(エ)ストンから届いたタニヤからのはがきを頼りに彼女を捜しに出た…。
 さまよい続けたケンは、ダブ(エ)ストンについた最初の場所に戻ってくるが、話はいわゆる「行きて帰りし物語」にはならず、行ったまま迷い迷う旅を続ける物語となっている。でもその割にはみんなが目的の場所、たどり着きたい場所を持っているのよね。

 郵便配達アップル、森の熊、不吉な赤い影(これが実はね)、などの登場人物がそれぞれに個性があって面白い。私はサイドストーりーのように語られる王様一行が気に入った。
 ところで半魚人は水を媒介にしてあちこちへ出現できるようなのだが、せっかくのこの(どこかに出てきそうな)設定が中途半端に終わっていてもったいない。半魚人でなくて違ったキャラクターにこの力を持たせてトリックスターとして動かしてもよかったかな?

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0910 『白銀(しろがね)の誓い リンゼイ・デイヴィス

 「E・ピーターズ亡きあとの歴史ミステリーを牽引する待望のシリーズ」という惹句に、こいつは読まねば!と、他の積ん読状態本に先駆けて読了。
 けれども、カドフェルとは同じ歴史ミステリーとは言え、ぜんぜん違う世界である。
 舞台は紀元70年、ローマ。密偵ファルコはさる元老院議員の依頼で、銀のインゴット、通称銀の子ブタにまつわる横領事件をさぐることになった。銀の産地である辺境ブリタニアまで、はるばる出向くことになったのである。時代こそ古代ローマだけれど、物語の調子はまるきり現代そのものだから、カドフェルのような世界を期待するとちょっとちがうぞ。
 だいたい元老院議員の娘で美人で頭の切れるヘレナが何で簡単にファルコに惹かれちゃったんだろう?名前のせいか、どうも宮崎駿の「紅のブタ」の主人公ポルコを思い出しちゃうんだけど、偏見かも。ポルコも(見かけはともかく)かっこよかったけどね!
 でもミステリーとしてはわりにすっきりしていて、わかりやすいし、見せ場もあるし、テンポも快調だし、おもしろかった。大詰めの所の息詰まる(地下だからただでも苦しい)展開なんか、素晴らしいテンポだった。
 大変だったのは人名である。本人もディディウス・ファルコ、ほかにペトロニウス・ロングス、デキムス・カミルス・ウエルス、ペルティナクス、ウェスパシアヌス、エト・セトラ。これにはちょっとまいりました。
 原題はThe silver pigs、銀の子ブタであるが日本語題にすると何とも変。やっぱりシリーズを見通して「白銀の誓い」という題になったか?ちなみに続編は「青銅(ブロンズ)の翳り」「錆色のヴィーナス」と金属の名を冠した題で続いて行くとのことだ。

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0807 『エンジン・サマー』 ジョン・クロウリー 福武書店

これはたぶん私の今年のベスト1になるのではないかと思う。堂々ユニコーンソナタを押さえて!

 物語は、そう「ものがたり」なんだ、少年「しゃべる灯心草」が天使とよぶ少女に自らの来し方を語るという枠組みで物語られる。

 遙かな未来、ハイウェイが森に埋もれ、川に架かる橋が落ちかけ、いっさいの機械文明が過去の残骸にすぎなくなった世界のとある共同体リトルビレアに、「しゃべる灯心草」は暮らしていた。教師役ともいえる年長の女性「ペンキの赤」のもとに、ほかの子供らにまじって「真実の語り方」を学びに行った彼は、「一日一度」という名の女の子に出会う(日にひとたび、とでも訳せば良かったのかも、ワンスアデイなのだから)。

 毎春外の世界から訪ねてくる「ドクター・ブーツ」たちと一緒に「ワンスアデイ」がリトルビレアを出ていってしまった後、「聖者」になろうと思っていた「灯心草」は、一人故郷をあとにする。そして“聖者”「まばたき」に出会ったのち、大きな猫族と一緒に住む「ドクター・ブーツ」の共同体に行き、「ワンスアデイ」に再会するのだが…。
 銀の手袋とボール、水晶などのガジェットが物語に不思議な輝きと透明なイメージ、そしてなによりもはかなさを着せかけている。

 訳者・大森望さんも書いているように、ラストの部分で本当に切なくなる。「灯心草」がどういう状況でこの物語を語っているかが明かされたそのときに。ここでほとんど涙状態になるとともにびっくり仰天して最初の部分に戻り、天使と呼ばれる少女との会話部分を拾い読みしてみると、改めてこの枠組みがはっきりと見えてくる。
 もう失われた実体、失われた人たち…「灯心草」はこのあとどこへたどり着いたか。「一日一度」はどんな風に生きたのか。問うてみても知るものはいない。
 題名の「エンジン・サマー」は、昔の言い回し、インディアン・サマー(=小春日和)が長い時間を経て変化した形なのだが、「灯心草」たちのすむ地上の世界の、「嵐」を経ること何世代かあとのつかのまの穏やかなひとときを象徴し、しかもそのあとに来るのは冬、本当の冬であることを示唆している。
 春を待ち続けていた「灯心草」は、物語の終わりのほうでもはや春がこないことを悟ってそれを受け入れた。しかし、春を待ち望むことをやめたそのとき、すでに春が冬に取って代わっていたことを知った。これが、天使たちのよりどころになったのだろうか。現在の現実の地球にすむ私は、「地球の冬」の到来の予感を無視しようとすることしかできないが…。
 謎や比喩に満ちているので、つかみかねるところもまだまだ多い。繰り返し読む一冊になるだろう。

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0801『イニュニック〔生命〕 星野道夫  新潮文庫   喜びの箱へ行ってみる>

 96年、カムチャツカで取材中、夜中テントを熊におそわれて急逝した星野道夫の著書。もともと93年の本でその文庫化だ。著者のあとがきを見ると、マザーネイチャーズの連載に書き足したものだそうで、連載当時たぶん読んでいると思う。
 彼が熊に襲われたというニュースは、朝のFMで寝床の中で耳にし、信じられない思いだったが、ああ、彼は熊の神様に選ばれたんだと言う思いがあった。たぶん多くの人がそう思ったことだろう。そのしばらく前、母の友の連載の中で、彼が結婚したこと、子供ができたことなどを読み、彼自身心境の変化にふれていただけに、この突然のニュースはそのころまだ彼の忠実な読者ではなかった私にも深いショックをもたらした。

 そのようなことがあろうとはまだだれも予測しなかった93年のこの本。毎夏恒例の戸隠キャンプに持っていって自然の中で読んだせいか、彼のアラスカの自然に対する愛情やおそれ、消えて行くものへの惜別といったものはもとより、遙かに長いスパンにおける自然の輪廻にたいする認識が、ひたひたと心に迫ってきた。
 戸隠はこの時期大して目立った花もなく、下野草、西洋のこぎり、ヨツバヒヨドリ、ノリウツギ、うばゆりほか2,3の花しか目に付かなかったが、今回はいつもの年よりヤナギランが多くみられた。それで、この一文が目にとまった。 

―――「一ヶ月ぶりに帰るフェアバンクスは、乾いた真夏の日差しを浴びていた。アラスカ大学をすぎ、家に向かう途中の小さな草原が、ピンクのつぼみをつけたヤナギランで埋まっている。僕はなぜか、このヤナギランの草原で今どこに夏がいるのかを知る。きっと、誰もが無意識のうちに、そんな季節の在処を知る場所を持っている。」

 ベーリング海峡につながる島々一帯をベーリンジアという。氷河期が過ぎ去り海水面が長い間に上昇して今は海であるこのあたりは、1万年ほど前までは肥沃な土地であったという。現在の平均水深は40メートル、氷河期には海水面は今より100メートル低く、その差がベーリンジアであるという。最近ではベーリンジア平原は約2万5千年前から1万年前まで存在した。このとき、モンゴロイドがアジアからアラスカへ渡ってきた。最後にわたってきたのが今のエスキモーの祖先であるという。1万年といえば長いようだが、親の親、そのまた親と数えてゆけば、決して手の届かないほどの昔ではない。その年月がほんの足元の海水の下にある。星野さんは1万年前から次第に海に沈んでいったベーリンジアをボートの下に感じて海峡を渡る。このように時間を自在に行き来できる彼の認識は、どうやって生まれたのか、後付けながら読むほどに、星野道夫という人に驚異の念を覚える。

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最終更新日 2001.12.31 01:11:46