とぜんそう2001年7月分

これは日記ではありません。その日に書いたというだけで、日付と内容とが関連しているとは限りません。
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01/07/02

『市販本 新しい歴史教科書』(西尾幹二ほか13名、扶桑社)読了。

印象としては、歴史教科書らしくない主観的な記述の目立つ本だなあ、というところでしょうか。歴史に詳しいわけではないので書かれている内容が正しいか誤りかというのはよくわかりませんが、自分が使っていた中学生向けの歴史教科書はもっと無機質な事実の羅列ばかりだったと記憶しており、誤解を恐れないでいうなら、そういった観点からすればどちらかというと読みやすい教科書だろうとは思います。

こちらですでに指摘されているのでいささか書きにくいのですが、その指摘を読む前に感じたことなのでかまわずやってしまいましょう。最初に目がいくカラー口絵「日本の美の形」ではなにかというと「ギリシャ初期美術に相当するといってよい」とか「イタリアの大彫刻家ドナテルロやミケランジェロに匹敵するほど」、「17世紀ヨーロッパのバロック美術にも匹敵する表現力」などやたら日本の美術は海外の美術にも負けていないんだぞと繰り返していて、逆に美術の標準は西洋の作品や作者であり、日本のものはそれを基準にすることでしか語れないみたいな書きようです。これでは初手から日本の美術は西洋より劣っているような印象を与えはしますまいか。自国に誇りを持てるような教科書というコンセプトからいきなり外れています。

それから、かなり目に付くのが我田引水というか牽強付会ともとれる歴史解釈。たとえば聖徳太子が随の煬帝に宛てた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」で始まる有名な国書をとりあげ、「わが国は,中国から謙虚に文明を学びはするが,決して服属はしない――これが,その後もずっと変わらない,古代日本の基本姿勢となった」って、たんに海を隔てた僻遠の地だから侵略されなかっただけのような。

とはいえ、たとえば「大航海時代の背景」の項にはこんな記述も見えます。

 のちにヨーロッパ人は,この時代の世界進出を「大航海時代」とよんで自画自賛したが,実際には壁のように立ちはだかるイスラム教徒の力への恐怖を前提としていた。


コロンブスは「北アメリカ大陸への到達に成功」ですしね。ついでだから「ゲルマン民族の大移動はたんに拡大していくモンゴル帝国から避難しただけ」とか「『ルネッサンスの三大発明』は実は『三大改良』で原型はすべて中国にあった」とかも紹介すればよかったのに。

閑話休題、主観的な歴史記述はともすれば思いこみを招くし、河島英五とホモサピエンスの歌の文句を借りれば「自分を認めようとする言葉は なんて相手を非難する言葉と似ているんだろう」てなもんで、日本文化にはあまりなじまないかも。

もっとも、朝日新聞は、歴史とは過去との対話であって当時正しかったからといって今の目で見て正しいとは限らない、今をよりよくするために過去を見直すのが歴史の勉強だ、などと『新しい歴史教科書』を批判していますが、それって革命中国がやった歴史観の見直しのまねをしろということでしょうか。でないにしても、今の価値観だけで歴史を見ることには問題があると思うけど。

とか書いてたら、『新しい歴史教科書』が9カ所の訂正申請をしたというニュース。市販本を買った人に正誤表を配ってほしいなー。

あ、そうそう、P79の「弘法も筆の誤り」はことわざとしては間違いなのでぜひとも訂正してください。


朝日新聞ばかりでなく中日新聞の投書欄も取り上げてほしいというリクエストがあったので、きょうの中日新聞投書欄よりご紹介。

まずは27歳主婦のかた。

 先日、夫が会社から資料を持ち帰り読んでいたところ、漢字の読み方を聞いてきた。もともと漢字は苦手だというが、あまりにも何度も聞いてくるので、会社で文書を作成するときどうしているか尋ねると、すべてパソコン作成のため変換すれば済むので問題ないという。(略)
 これからの社会ではパソコンを早くから身につけることが望ましいが、それによって漢字の知識低下につながりはしないだろうか。手軽なパソコンに頼らない漢字習得を望む。


えーと。

読めない資料をもとにして漢字の読めない人が変換した文書で通用する会社というのがまずすごいですね。読めないのにどうして正しく変換されたとわかるのでしょうか。それ以前に資料の意味がわからないのにどうして文書が作成できるのか不思議。

つぎに、漢字が読めないという問題なのに文書作成について尋ねる妻。会社ではどうやって読んでいるのか聞くならわかるけど。このご夫婦、会話はまともに成り立っているのかしらん。

そして、漢字を読めない(漢字の表す意味がわからない)けれど適切に書けるという人はそうはいないものの、書けなくたってなんとか読むことぐらいはできるという人は多い。だからこそ(かろうじて?)成り立っているのがパソコンなどのかな漢字変換。

かな漢字変換のせいでせっかく覚えた漢字を書けなくなるのは確かなようですが、読めるのと書けるのとは別の話なのだから、漢字の意味を正しく身につけることとパソコン(のかな漢字変換)を使えるようになるのとは両立しないわけではなさそうな。


もうひとつ、83歳の無職男性のご意見より。

(略)関東の球団関西の球団を応援することは自由です。しかし、やはり地元球団に勝ってほしいと願うのが人情ではないでしょうか。


「関東の球団関西の球団を応援する」人には人情がないみたいな言いようはできるなら謹んでいただけないものでしょうか。ほら、さっきも書いた「自分を認めようとする言葉は なんて相手を非難する言葉と似ているんだろう」ですよ。

いやさ、中日新聞にはときどき地元球団礼賛の投書が掲載されるし、地元ラジオは野球中継以外でも地元球団一辺倒の放送ばかりだし、肩身の狭い思いをしている人も少なくないと思うのでね。関西で阪神びいきの放送を聞いてるときみたいなユーモアを感じることができればいいんですけど、ほんとに某在京球団憎しで凝り固まってますんでちょっと辟易してるんざますの。


【遙かならじブロードバンド】
きょう NTT から連絡があって、今月20日ごろから使えそうです>フレッツADSL

モデムの供給がようやく追いついてきたようですね。よかったよかった。

01/07/03

【中日新聞】
前夜の睡眠3時間という状態で勘違いしてましたが、中部地区に本拠地のある某球団の親会社は「中日スポーツ」じゃなくて中日新聞社だったことを思い出しました。礼賛の投書が掲載されてもしかたないかも。どうも失礼いたしました。


あちこち探し回ってようやく DVD 版「ウルトラQ」の第2巻を入手。出遅れが響いて第1巻は見つからず。

あの作品が4話収録で1枚3700円なら無理もない売れ行きかも。


【いや近しブロードバンド】
先月は範囲外でしたが、今朝ほど調べてみたら当地も Yahoo! BB の接続範囲に入ってました。

最高速度でフレッツADSL の5倍以上、月額は半分かあ。うーん、悩ましい。

ひょっとしてフレッツADSL が意外に早く接続できるのはこれのせいなのか?

01/07/05

『裏読み深読み国語辞書』(石山茂利夫、草思社)閲読中。

以前ここに書いたことのある『今様こくご辞書』(讀賣新聞社刊)の著者が、国語辞典が漢字を調べるためだけのものではないということを一般の人にも知ってもらおうとして書いた本。おもしろい。

詳しいことは読み終えてから改めて書くとして。

新潮社の現代国語辞典の見出しが漢語も外来語としてカタカナ表記してあるとこの本で紹介してあり(たとえば「栗鼠」は「リッソ」から来た漢語なので「リス」とか)、これはなかなか楽しそうだと思って書店で探してみました。

が、「紙」「文」の読みが「かみ」「ふみ」とひらがな表記、つまり和語として扱われていたのを見てそっと棚に戻しました。


なるほど、奇襲作戦でも宣戦布告でも同じなわけですね。了解しました。混み具合を確かめてから信号弾2発で強襲ということで>朋輩

雲で見えなかったかもしれないと思って2発目を打たないように(実話)。

いやー、テレビを見れる状況の時には本読むなりパソコンいじるなり逃避ができるのですが、車を運転中には情報量で AM ラジオになっちゃいますので、避けようがないんですよ>地元ラジオの偏向放送

公共の電波を使ってあれだけ悪意を含んだ放送をされると聞かされる方は深く傷ついて心のケアが必要になってしまいます。誰か私を癒して。

などといいつつ、最近「なにげに」「さりげに」以上に気に入らないのが「癒し」という言葉。気分によっては見たり聞いたりした瞬間に暴れたくなったりして。やたらと「癒される」とか「癒されたい」とかくりかえすかたには謹んで「癒しんぼ」という呼称を捧げたいと思います。

「心が洗われるような美しい情景」とか「のんびり温泉につかって命の洗濯」なんて表現は大好きなんですけどね。

01/07/10

先日讀賣新聞の書評欄を読んでいたら、『漢字道楽』(阿辻哲次、講談社選書メチエ)という本が紹介されていました。漢字の成立過程やら普及やらについて書いたもので、なかなか楽しそう。

ただ、書評の中でこの本のおもしろさを伝えようとして「息」という漢字の成り立ちを一例としてあげているのですが、これがなんだか。

(略)人の吐く息は目に見えるものではないから象形文字で作りようがない。息という字の中に「いき」と発音するものも含まれていないので表音文字でもない。(略)まさか中国の人たちは自分の心が抜け出たものを息と見做していたわけでもないだろう。(略)


まさか中国の人たちは「息」を「いき」と訓読みしていたわけでもないだろう。

漢字、ことにその成り立ちについての本の書評でこういうのは興ざめですが、ひょっとして本文にそのまま書いてあるなんてことは……それこそまさかだけど、本を見つけることができたら確かめてみるとしましょう。


aMIさんが勧めるので『ショー・バン』(森高夕次原作、松島幸太郎作画、秋田書店)の1巻から3巻までを購入。私にとってこの人がおもしろいという漫画にまず外れはないのですが、これまた予想外の大当たり。

パターンとしては、発展途上の中学生(でも素質十分)が指導者や先輩から謎の仕打ちを受ける、次第にその仕打ちの意味がわかっていくと技術的にも精神的にも一歩進んだ境地に至る、のくりかえし。この謎の仕打ちとその意味の解説がおもしろく、また、主人公たちの心の動きも生き生きと描かれていて楽しめます。なにも考えてないみたいな主人公の父親もいいし。

一口で言ってしまえばストレートなスポーツサクセスストーリーなんですけど、主人公の母親以外の女性がふたコマしか出てこない(推定)という『おさなづま』(あきやまひでき作画、週刊漫画アクション連載)の原作者とも思えない展開でなかなか読ませてくれます。お勧め。

01/07/19

ようやく本日からブロードバンド環境に。ほかに選択肢がないので NTT のフレッツ ADSL ですが。

それでもかなりさくさくと表示され……れ? こちらで夕方測ったときにはおよそ900kbps 出ていたのに、夜10時現在では100kbps になっている。

もしかするとここ数日夜9時ごろから11時ごろになるとプロバイダに接続はできるのにほとんど反応が返ってこない現象が起こっているので、それがブロードバンド環境のおかげで ISDN なみには動いてくれているのかも。ちなみに、この現象が起こるとふてくされて寝てしまうので更新ができなかったり。

まーなんにしてもきのうまでよりは快適な……ありゃ? メールソフトを起動するとインターネット接続窓が開くし、それをキャンセルすると接続失敗になってしまう。

うーん、メールが使えないのは困ったもんだけど、ひょっとして古いメールソフトが敗因?(某5.0)


【パール・ハーバー】
というわけで遅くなってしまいましたが、先週の土曜日に見てきました。

ひとことでいうと、「架空戦記・こうすれば勝てた〜真珠湾での零戦攻略法」ですか。

噂の「御前会議」シーンでは、館内のあちこちから失笑が漏れていて、この時点でこの映画の楽しみ方が示されるのは親切といえば親切。あとは完全なフィクションとして戦闘シーンを楽しめばそれで万事問題なし。大スクリーンと重低音の効いた音響装置での鑑賞に堪える見事なアクションシーンでした。

え、ラブストーリー? 友情物語? 山口百恵の「絶唱」のほうが感動できますよ、たぶん(見たことないけど)。

ひとつ注文をつけるとしたら、ヒーローとヒロインが戦闘機に乗って真珠湾の夕焼けを眺めるシーンで、BGM を「私の彼はパイロット」にしてほしかった「美しいだろう」とかいいながら映るのは戦闘機と夕映えに赤く染まった雲ばかりだったこと。なぜ上空から見た夕焼けの真珠湾を出してくれないのでしょう。

ひょっとして、夕日が真珠湾ではなくて湾の向こうの丘に沈むから?


【読点に『,』】
横書きの場合には『,』が正式のようです。

01/07/22

フレッツ ADSL になってからメールソフトが接続できなくなっていた件ですが、アカウントのほうに接続先の設定がありまして、それを無効にしたとたんに使えるようになりました。めでたしめでたし。


【パール・ハーバー】
図書館でちょっとまえの新聞を調べていたら、こんな記事を見つけました。7月11日付朝日新聞文化欄より。

 日本の観客に配慮し、攻撃中の兵士がゼロ戦から、ハワイの子供たちに「逃げろ」と叫ぶ場面を挿入するなど、数カ所小さな手直しもした。


これは真珠湾を目指して飛ぶ途中のシーンのことですが、日本軍の容赦のなさを際だたせて反感をあおろうという場面もあると聞いていたので、ずいぶん日本寄りな描写もあるもんだな、やはり子供は別格なのかな、などと思って見ておりました。

しかし、攻撃を受けた艦艇から海に逃れたアメリカ兵に日本機が機銃掃射を加えるなどのシーンを見ているうちに、さっきの「逃げろ」がやけにとってつけたようなエピソードに思えてきたのですが、なるほど、日本向けの編集でしたか。

それはそれとして、下部に魚雷を抱えて後部に銃座をつけた三人乗りの「ゼロ戦」が真珠湾攻撃に参加していたとは知りませんでした。


タイトルと表紙がなんとなく気になって買った『火消し屋小町』(逢坂みえこ、小学館ビッグコミックス、1〜2巻)が大当たり。

ひとことでいうと『おたんこナース』風味を加えた『(め)組の大吾』あっさり味、でしょうか。なかなかおもしろいし、楽しい漫画です。

01/07/26

先日、愛知県で行われたカッターの競争の開会式のもようがニュースで放送されたのですが、選手宣誓で「シーマンシップに則り……」。

なんだかおたがいに皮肉の応酬をする競争のような気がしてきました(<考えすぎ)。


毎日新聞によると、兵庫県明石市で起きた歩道橋での圧死事故に関連して、日本将棋連盟が報道関係の各社・各団体に「将棋倒し」の表現を報道で使用しないように要望書を送ったそうです。

同連盟ではまず弔意を示した上で「『将棋倒し』は本来、子供向けの駒を使った遊びで、単に倒れる状況だけを見た表現として事故などに引用される遊びではなく、将棋の文化的普及と振興を進めている当連盟としては大変遺憾に思っていた。こういった場面での使用は絶対にやめていただきたい」とし、今回の国内報道では「将棋倒し」の代わりに「雪崩」の表現があったとかで、どうもそっちを使うように、ということらしい。

しかし、人が密集した状態でひとり(または少数)から始まって連鎖的にばたばたと倒れていくようすは「単に倒れる状況」なんてものじゃなくてまさに「将棋倒し」。「雪崩」だと滑り落ちないとね。ちょっとイメージが違います。

で、広辞苑なんぞを調べてみますと「将棋倒し」という遊びは室町時代にはすでにあったようで、太平記でも「将棋倒しをする如く、寄手四五百人、おしに討たれて死ににけり」などと人がばたばた倒れるようすを表すたとえとして使われています(こういった辞書なんかの表記は対象外なんでしょうかね。いかにも思いつきみたいな中途半端な意見表明です)。

これほど歴史と伝統を持った表現を使えなくなるなんてのは惜しいけど、関係者がいやがってるんじゃねえ。あの状況を「将棋倒し」と呼べなくなるとすると今後は「ドミノ倒し」とでも表現するのかな。今はそっちのほうがメジャーだろうし(「雪崩」は問題外)。

でも、家庭用ゲーム機などの普及で将棋をさす子供も減っているであろう昨今、たとえ「将棋倒し事故」であろうとも将棋を思い出すきっかけが減るのは、さて、イメージが悪くなるのとどっちがマイナスなんでしょうか。

ちなみに私はドミノの牌がドミノ倒し以外で使われているのを見たことがありません。

01/07/27

【将棋倒し】
今朝のニュースを見ていたら、NHK ではさっそく「折り重なるように倒れ」たと表現しておりました。将棋文化を守るために日本の伝統的文化が一つ消えたわけですね。

ちなみにきょうの新聞の一面コラムでは、毎日新聞、産經新聞、中日新聞などがこの件を取り上げていたようです。軒並み太平記のあの表現を引き合いに出しているあたりがなんとも。

でも、あれは楠木正成の戦術の話なのだそうで、皇国史観の英雄のエピソードなんて消えてなくなったってかまわないやという声が聞こえるような聞こえないような。

あ、そうそう、きのう書き忘れましたが、「関係者がいやがるんじゃねえ」はマスコミ的には仕方がないだろう、ぐらいの意味合いです。あと、いちばんマイナスイメージになったのは、あの事故に「将棋倒し」という表現を使うなと訴えた当の日本将棋連盟だったりして。

01/07/30

『裏読み深読み国語辞書』(石山茂利夫、草思社)読了。

新聞社の仕事で日本語の問題を担当したことをきっかけに日本語や辞書について考察するようになったそうで、その際に知己を得た新明解国語辞典編者の山田忠雄氏や見坊豪紀氏に手ほどきされて日本語の世界に深入りしたらしい。

内容は日本語と国語辞書にまつわるあれこれで、とても興味深い話題が詰まっています。以前読んだ『今様こくご辞書』よりたぶんおもしろい。

たとえば辞書は意味説明や用例の中にメッセージを込めていることがあるとして、以下のような例解国語辞典の用例を紹介しています。

うそじ【嘘字】――「嘘字を新字体と称して広める」
ぞくじ【俗字】――「文部省は俗字を正字として教えるよう推奨している」


この用例は文部省の再編に伴って廃止されたそうです(嘘)。

また、国語辞典の商標争奪戦ともいうべき暗闘が繰り広げられているというのもおもしろい話題でした。

ことのおこりは赤瀬川原平の『新解さんの謎』。私自身このタイトルを見て、あれっと思った口ですが、じつは『新解国語辞典』というのは小学館の中学生向け辞書の名前です。それなのに表紙に載せてあるのはまがふかたなき新明解国語辞典(三省堂)の写真。狐につままれたような気分でいるうちにこの本がちょっとしたベストセラーになり、いつのまにやら「新解」が新明解国語辞典の愛称のような雰囲気になってしまいました。

おもしろくないのは小学館で、もともと「新解」を使ってたのは自分ちだとばかりに装丁を変えて改訂版を出したんですね(やや誇張)。すると、装丁が新明解国語辞典にそっくりだし、もはや『新解』はうちのブランドだ、と三省堂がねじ込んだ。

最終的に両社の話し合いで、増刷分からデザインと装丁を変更することで折り合いがついたそうですが、今現在『新解国語辞典』の商標権は三省堂にあるというのだから油断がなりません。

結局、使えそうな辞書タイトルは商標権を押さえておくということで、まあありがちな話が辞書の世界でも展開されているということです。

ただ、著者が辞書や編者と親しみすぎているせいか、全体的に考え方が辞書や編者に偏っていて、なにかあると編者側に組みする傾向があるようですね。

たとえば著作権法的にみると国語辞典は著作物には当たらないのだそうですが(むろん編集著作権はある)、これがどうにも気に入らないらしい。小学生の作文に著作権があってなぜあんなに努力して言葉を集めたり語釈を工夫したりする国語辞典が著作物ではないのか、と憤慨しています。

これに対する著作権法作成側の言い分は、国語辞典というのは日本語を使う人に共通の概念を表しているものであるから、国語辞典ごとに説明が違っているのではそもそも辞典として成立しない、ということのようです。そして、著作権は努力したから認められるという性質のものではない、ただし、語釈が個性的であればその部分については著作権が認められる、というふうに回答しています。

私なんかは、そりゃごもっとも、と思っちゃうんですけどねえ。ちなみに、個性的な語釈つながりでこんな話も紹介されてます。

新明解国語辞典が「進展」に「俗に進歩、発展の意に誤用される」と書いたところ、ほかの辞書には「進歩、発展すること」と書いてあるから新明解国語辞典は缺陥商品だ、という趣旨の脅迫を暴力団幹部から受けたことがあるのだそうで。

『シノギの手口』(夏原武、データハウス)を彷彿とさせるこの脅迫も、当時の三省堂が会社更生手続き中で失敗に終わったのだとか。

「あとがきに代えて」には辞書の選び方の基本も紹介されているし、辞書に親しんでいる人もこれから辞書を買おうと思っている人も一度読んでみてはいかがでしょうか。


ということで次の本にかかろうと『大漢和辞典と我が九十年』(鎌田正、大修館書店)を読み始めたら、こぼれ話のコラムに「閑話休題」というタイトル。

漢字について研究してきたはずの人にしてこのていたらく。ひとつひとつの字には強くても熟語には弱いのでしょうか。

そんなわけで閲読放棄。つぎいこ、つぎ。


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庵主:matsumu@mars.dti.ne.jp