症例9「電車と携帯電話」

今回は別に怒っているわけではない。ただ、こうした羞恥心のなさが、やがて公共の場における緊張感のなさへとつながっていくのではないかと心配なだけなのである。

十年ほど前、出張で何度か香港に行ったことがある。そこで驚いたのは、空港が街の真ん中にあって着陸の際に飛行機が民家上空すれすれを飛ぶことと、どの事務所もクーラーを異常なまでに強力にきかせていることであった。それともうひとつ、若者がトランシーバもどきの機器を持って往来を闊歩している光景にも驚かされた。その機器が携帯電話である。当時、欧米でも見かけたことがなかったので、携帯電話は香港が発祥の地といえようか。それから数年の後、携帯電話は日本に上陸することになる。

時たま町中で見かける携帯電話は憧れの的だった。持っている人間はいかにも仕事に追われるエリートで、公衆電話の前で長蛇の列を作る一般人とは違うんだなと思ったものだ。ところが、最近、携帯電話を持っている人を見ると哀れになる。忙しければ忙しいほど息抜きの一時ってものが必要だ。それを、いつどこで呼び出されるわからないのだから、可哀相でならない。

値下げが功を奏し、最近は仕事だけでなく普通の生活にも携帯電話が入り込んできている。十年ほど前のあの香港の光景が日本でも見られるようになった。電車の中も例外ではない。

電車の中で携帯電話を使用することは禁止されている。他の乗客の迷惑になるということだが、刑法で罰せられる訳ではないから、使っている人間もたまにいる。確かにうるさいといえばうるさいが、私にとっては我慢の範囲である。問題は他人に会話の内容を聞かれても平気でいられる、その羞恥心のなさなのである。

帰りの電車の中。呼び出し音がして若いサラリーマンがカバンの中から携帯電話を取り出す。「ああ、ぼく」「え?」「白菜?」「どこで?」「まだあいてると思うけど」「わかんないよ」「え?押してみて固いやつ?」「ああ、わかった」「それじゃ」

若い女性。「あっ、レイコ?あたしよ、あたし」「あんたヒロシ と別れたんだって?」「ちょっと、飽きっぽいんじゃない?ミチオの時もそうだったじゃない」「そりゃ、あんたがおかしいよ」「人生ってそういうもんじゃないよ」云々。

かくして、若いサラリーマンの奥方は夕食の鍋に使う白菜を買い忘れ、亭主に買って帰るように指示を出していることがこちらの知るところとなり、また、人生を知り尽くした若い女性の友人レイコ嬢の華麗な男性遍歴が白日のもとに晒されたのである。何度もいうが、私は怒っているのではない。ただ、こうした恥知らずが、やがて公共の場における緊張感欠如症候群を患うのではないかと心配なだけなのである。

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