「電車と吊り革」

電車に乗るとき、人それぞれに好きなポジションというのがある。大抵は座るのを好むが、満員電車の場合はそうはいかない。戸口付近の鉄柱に必死に掴まる者、扉に寄り掛かりたがる者、様々である。しかし、安定感という点からいうと座席の次にくるのは何といっても吊り革である。

この一本の吊り革をめぐって多くの人間が血を、いや汗を流す。ところが、この戦いにいともたやすく勝利する者がいる。人が掴まっている吊り革に手をかけ、最後に奪い取るという力技など使わない。実に巧妙な手を使うのである。

「カニ歩きおじさん」と私が命名した、ちょっと歳のいったおじさんがいた。初手は、座席のいちばん端にある手すり付近に陣取る。次に、押された風を装って、網棚の鉄の棒に片手を伸ばす。手の位置は、いちばん端の吊り革に掴まっている人のすぐ目の前あたりになる。さらに電車が揺れると、ああ押されちゃったといわんばかりに体を傾け、そのまま片足をいちばん端に腰掛けている人の脚の間に入れる。吊り革に掴まっている人の靴と腰掛けている人の靴、その真ん中におじさんの片方の靴が入り込み、ちょうどサイコロの五の目状態になる。

さらに電車が揺れると、またまたおじさんは、ああ倒れちゃうよ、どうしようなんて風に、今度はもう片方の手で網棚の鉄の棒を掴む。おじさんは、ついに吊り革に掴まっている人の前の空間を占拠したわけである。こうなれば、しめたもの、おじさんは仕上げに入る。両腕をぐいっと伸ばし、それまで吊り革に掴まっていた人を後方に押しやるのである。押された方はそれでもしばらくは吊り革を放さないが、それも時間の問題、ついには諦めることになる。こうしておじさんは悠然と吊り革に掴まったのでありました。めでたし、めでたし?

毎朝この手を使うおじさんとついに対決するときがきた。私はどうしたか?吊り革を持たないほうの手で、目の前の鉄の棒をおじさんより先に掴んだのである。文字通り、おじさんの手を封じたわけだ。電車が揺れてもおじさんはびくともしなかったのはいうまでもない。

「カニ歩きおじさん」の技もすばらしいが、なにせ時間がかかる。もっと短時間で吊り革を奪い取るのが「居座りおじさん」である。

このおじさん、必ず週刊誌か新聞を片手に持ち、小わきに薄っぺらいバッグをかかえて電車に乗り込んで来る。そして、吊り革につかまる人と人との間が少しでも空いているところを見つけるとそそくさとそこへ行き、例の薄っぺらいバッグをかかげながら「失礼」と一言のたまう。人が網棚に荷物を置くのを妨害する人間はまずいない。大抵は少しわきにどき、協力するものだ。その親切心がこしらえたわずかな空間におじさんは入り込み、持っててもじゃまになるとは思えないほど薄っぺらいバッグを網棚に置く。そしてそのままそこに居座る。すばらしい早業だ。

あの薄っぺらいバッグには何も入っていない、と私はみている。

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