遠いコンサート・ホールの彼方へ!
ホーム Nov.2003



ベルク:歌劇「ルル」


2003年11月22日 ハンブルク歌劇場 19時30分開演


指揮:Ingo Metzmacher

演出:Peter Konwitschny

美術・衣装:Hans-Joachim Schlieker

照明:Hans Toelstede


ルルMarlis Petersen

ゲシュヴィッツ伯爵令嬢:Anne Gjevang

学生:Tamara Gura

画家:Jurgen Sacher

シェーン博士:Andreas Schmidt

アルヴァ:Albert Bonnema

力業師:Andreas Horl

シゴルヒ:Hermann Becht

公爵:Peter Galliard





必見!二幕版演出の決定版か?

2003119日プレミエの演出で今日が回目。正直に言えば、見ていて私の頭は若干混乱した挙句に、「やられた!!」というものでした。もっとも、ホテルに戻って、メモ書きをしている時に気付いたのですが、たとえドイツ語が不自由でも、当日の配役表を隅から隅まで見ていれば、多少は混乱が和らいだかもしれませんけれど。

この人が演出するならば、まずはそれから述べなくてはならないと思わせる演出家ペーター・コンヴィチュニー、東ドイツの指揮者コンヴィチュニーの息子という紹介が通じるのはひょっとして日本だけかもしれないほど、そんな説明が不要の名物演出家。前シーズンは、脚本のみならず音楽まで解体してしまったモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」@ベルリン・コミッシェ・オーパーで物議を醸しましたが、当夜も思わず唸ってしまう演出でした。

まず、劇場に到着するやすでに演出は始まっている。道路を挟んで仰ぎ見るハンブルク州立歌劇場のモダンなガラス張りの外壁にLULUとBERGの文字が色鮮やかなネオン管で浮かび上がらされ、さながらどこかのキャバクラという感じ。カメラを持ってこなかったのを後悔したのですが、幸い劇場の月刊誌の表紙がその写真だったので、HPではそれを利用しようと持ち帰る。

さて、この劇場、去年の秋にベリオの歌劇「真実の物語」を見た時から改装されていまして、地下1階のかつてクロークがあった場所に、床も壁も含めてきれいな改装されたバー兼ロビーに変わっていました。クロークはそこへ降りる中央の大きな階段の下と左右の階段のところに設けられており、CDショップが無くなっていました。ショック。

このバーの背景は時間と共に照度が変わる5つの大きなパネルがあり、一つ一つに楽譜が模様のように書かれていましたが、誰の曲が書かれていたと思います?モーツァルト?ヴァーグナー?ヴェルディ?いえいえ、そんな日本のどこぞの歌劇場のような保守的な趣味をここは持ち合わせていませんし、何よりこの劇場にゆかりある人々の作品を取り上げるのが劇場のアイデンティティとしても必要でしょう(となると、あの劇場はどうなるんだ?)。まずは向かって左側から、復権著しいコルンゴルトの歌劇「死の街」、続いてはヘンツェの歌劇「ホンブルクの公子」、さらにシュニトケのバレエ「ペール・ギュント」、そしてこの人は知らないのですが、クールノのバレエ「オデッセイ」、そしてトリがラッヘンマンの歌劇「マッチ売りの少女」と、とても私ごときには歌えない作品ばかり。

それを眺めてから1階(日本的には2階)にあるロビーに移動すると、ギターを片手に歌っている人が。実は、ホールの中に入ろうとした時、私の前にギターを抱えた大道芸人風の人が歩いて入り、さらにパルケット入り口のある1階に昇っていったこともあり、何で歌を止めないのかおかしいなあとは思っていたところロビーでCDショップを発見し、どこかで聞いたことある旋律だなあと思いつつ、いつものようにCD漁りに夢中になるのでした。

そのうちに開演を告げるベルがなったので、慌ててプログラムを買い、席に移動。今日はパルケット1列右9番。歌も聞こえる、表情も指揮者も見える個人的にオペラをみるには非常に良いと思っている席です。と、そこには、幕を開けっ放しの舞台が、そして唖然とする光景が展開されていたのでした。舞台全体は、観客席側だけ壁を無くした巨大な四角い温室、あるいは最近のドイツを旅行された方ならば、フランクフルト空港やミュンヘン空港を思い浮かべるような白い鉄骨とガラスで覆われた建物になっており、さらに、その奥に怪しい紫色の光のもと5つの「飾り窓」が。いやあ、経験したことはありませんが、ハンブルクの赤線地帯レイパー・バーンにも居ないかもという美女が下着一枚で大きく足を上げたり、開脚したりしてその「窓」の前を通行する男どもを誘っています。もっとも、左から2番目の窓はブラインドを下ろしっぱなしで今日は営業していないようですし(あるいは貸切かもしれませんけど)、右一番端は、ぶくぶくに太った中年女性でして、ちょっと私の趣味ではなかったのですが、まあそこは蓼で食う虫も好き好きですからとやかく言いませんと思いつつ、見上げると、舞台上にはピンク色のネオン管のような感じの光で文字が書かれていましたが、ああ翻訳できない悲しさ、忘れてしまいました。確かルルのセリフにあったような気がしたのですが、ともかく、キャバクラじゃなくて、"SEX SHOP HAMBURG STADT OPER へようこそ!"という感じ。

さて、見ていると男性ならばだんだん下半身が落ち着かなくなるような舞台を前にしてようやく開演ベルが鳴り、扉が閉められたのですが、照明はなかなか落ちないし、指揮者のメッツマッヒャーも登場しない。するとロビーで聞いた歌を歌いながら、二人のギタリストがパルケット後方の左右の入り口からそれぞれ舞台に向かって歩いてくるではありませんか、あっそうだ、これはヴェデキントの「リュート歌曲」じゃないか、建物だけでなく、すでにロビーも演出の一部だったのか!

彼らがほぼ全曲を歌い終わると同時に、照明が落ち、巨大な大太鼓の音が、前口上の太鼓にしては大きすぎると思っていたら、いきなり違う音楽が、いや違っていない、「ルル」だ、しかし第3幕最終場、あるいは「ルル交響曲」の変奏曲だ、えっ、いきなり最終回!と思っていると、本当に幕を引っ張って閉めながら左右の袖から入場する登場人物達。本当に「終わり」なの?音楽共々、私の頭は大混乱状態に陥りました。なんせネイティヴではないし、ベルリンやフランクフルトの歌劇場と違ってここは字幕がなく、音楽と登場人物の動き、主要な単語から、セリフを順番に思い出して当て嵌めているので、カットは勿論のこと、イレギュラーな扱いは困る所に、あまりに予想もしていなかった始まり方だったので、初めて大学を受験をした時、傾向と対策とまるっきり違った問題形式を示されて愕然としたのと同じ衝撃を受けたのでした(因みにその年の入試は失敗)。

彼らのコスチュームは、当劇場でのコンヴィチュニー演出のベルクの歌劇「ヴォツェック」の続きであることを示唆するようなタキシード、ただし、ルルのみ長い黒のロングドレス。いかにもお葬式という感じの悲しそうな、お互い抱き合って慰めあうような仕草をしていると、後で画家と分かった登場人物が、脇から大きな包丁を脇から取り出してルルの方へ、そしてシェーン博士だとこれも後で分かった人(アンドレアス・シュミットくらい顔を覚えておけと言われそう)にそれが渡される、と、ルルは男達に引っ張られて幕の後ろに。ルルは彼らに抵抗し、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢も阻止しようと揉み合っていますが、果たせず。悲しげなゲシュヴィッツ令嬢の、ドイツへ帰らねばという第3幕の歌が歌われると、左右のスピーカーからルルの最後のセリフ、”Nein, nein,,,,,,,NEIN!!”と叫び声。同時に背景から蹴飛ばされたり殴られたりして大きく揺れる幕。ギーレン指揮ベルリン州立ウンター・デン・リンデンですら出せなかったような悲痛な大音響が消えていくと、血塗れのシェーン博士が左右の幕の隙間から登場し、一仕事終わったぜと言ってゲシュヴィッツ伯爵令嬢の頬を血塗られた指で弄ぶ、でも彼女を殺さないで立ち去り、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢はその幕の隙間にルルを求めて飛び込むのでした。唖然、呆然、陶然。

これで本当に終わったらどうしよう、今日はNDR so.のコンサートは無かったし、あってもヴァントのブルックナーには興味ないし(もうとっくに死んでいるよ)と思っていると、聞き慣れた前口上の音楽が、しかし幕は閉まったまま、そしてスピーカーから猛獣使い=力業師の声が、これがいかにも、いわゆる精神異常者っぽいしゃべり方の上に甲高い声で気持ち悪い。さて、スポット・ライトが舞台に当てられているのですが、誰も出てこない。この間実は、オケ・ピットでは緊急事態発生中。プロンプター・ボックスのピットに隠れた部分がずっとがたがたと動いていまして、それをBOXを挟んで右手のティンパ二奏者と、左手のピアノ奏者が心配そうに眺めたり、首を振って諦めるように促したりして演奏している。果ては舞台装置の人がやってきたりして、どうやらあそこからルルが登場するはずだったんだなあ、まあライヴに事故は付き物、このままルルが登場しないのも演劇的には一興一興、舞台の中心は空虚である、なーんてね、と思っていたら、舞台の幕の隙間からぴょこんと飛び出した、ただし、小さな女の子が。

彼女(ドイツ語ならまだ”es”だ!って精神分析じゃないんだけどね)、照明を眩しがったり、恥ずかしそうにしたりして、猛獣使いの前口上の間ずっと舞台に立っていました。先月コヴェント・ガーデンで見た「ボリス」を演出したタルコフスキーの映画のシーンを一瞬思い出しつつ見ているうちに、ルル役のPetersenの小さな頃に似ているような気もしてきて、ふーむ、そうかファム・ファタルはこの段階からすでに萌芽があるということかね、と思ったのですが、これは後になって殆ど間違った解釈でありましたので、ここに謹んで取り下げていただきたく存じ上げます。そう言えば、DVDで見たチューリッヒ歌劇場の「ルル」の演出には少女が登場しますけどね。

ようやく幕が開くと、舞台向かって左奥のイーゼルの背後でタキシード姿の画家が絵を書いており、舞台中央に女性用の黒い靴を持ったこれまたタキシード姿のシェーン博士が立ち、舞台右手前のベルを模した銀色のソファー(見ようによっては女性の乳房)の上にルルが片足は若干前に出し、もう一方の足を若干屈折させて立ち、腰を屈めてシェーン博士・画家の方に向きながら(あの格好ならば胸がみえるな)、大きなペロペロ・キャンディをいやらしく舐めている。さらに最初に登場した時と違って、頭の両側で髪を束ね、白いソックスに赤い靴、そして着ている服は、うーむ、私には「魔法使いサリーちゃん」が着ている物と同じにしか見えない(世代がばれるな)。いかにも子供子供とした感じを強調していました。



 こんな感じ



うーむ、自分の書いたビュヒナー並に汚い(でもビュヒナーのような内容はない)字面のメモを解読できんぞ。

いらつくシェーン博士が靴を投げ出して出て行くと、画家が猛然とルルに襲い掛かり、嫌がってモデル用の髪型だった鬘まで取れるほど暴れるルルから、女児用のパンツを脱がして、スカートを捲し上げて犯してします。ご丁寧にというか細かいというか、Petersenは肌色(今は政治的正しさゆえに使用禁止でしたっけ)のパンツを履いて、前がすっぽんぽん状態を再現していまして、ベルリン・ドイツでの「サロメ」のようなヘアー丸出し演出ではありませんでした(これはまだDVDになっていないんですよねえ、ってヘアーが見たいわけではありませんよ、誤解の無いように)。

この情景を、ガラス張りの家なので、帰宅したまたまたタキシード姿の医事官が見ておりまして(面倒なので先に書くと、ルル以外の上記主要登場人物は、冒頭同様にタキシード姿で登場します)、ベルを鳴らす。情事をしているのがベルを模した椅子で、これがバイブレートするのか余計に二人は興奮するのですが、さすがに医事官が入って来るのを見て、途中でSEXを中止。ルルは着衣は乱れているのに、ポーズの格好をし、画家は絵に飛んで帰り、絵を客席側に向けて絵筆と布を間違えてしまい、そのまま書いている振りをするのですが、この絵、ルルの肖像画のコンセプトとしては私は秀逸だと思ったのですけど、青地に真っ赤なペロペロ・キャンディ。場内は私も含めて大笑い。それと、脱色したぼさぼさの髪といい、画家はアンディ.ウォーホールのパロディだったんだなあ、とここまで来てようやく気付いた次第です。まあ、この手の軽いパロディはこちらのオペラでは随所にありまして、分かり易い例でいくと、昔々みたゲッツ・フリードリヒ演出の「薔薇の騎士」@ベルリン・ドイツ・オペラは、19世紀末から20世紀初頭の舞台設定でしたので、第1幕のイタリア歌手を、太ってあごひげを生やし、燕尾服に右手に白いハンカチを持ったそれとわかる人物にしていました(なお、その夜の指揮者は幸か不幸かレヴァインではありませんでした)。日本のオペラ専門演出家はこういうことをしませんねえ、遊び心に欠けるよなあ。


医事官が死ぬと、ルルは舐めていたペロペロ・キャンディを医事官に咥えさせ、自らは赤い子供服から、黒のロングの服に着替え、赤い靴も捨て黒の革靴に履き替えます。子供から女へ、ボーヴォワール的に言えば2度目の誕生シーンに我々は立ち会ったという訳かな?しかし、それはルルにとってのことだけだったのが明らかになるのが第1幕第2場以降なのでした。

まあ、それにしてもルルは第1幕ではSEX三昧。医事官の死体処理に画家やシェーン博士たちが来るシーン、ここでまたベルが鳴るのですが、それもあってか、例のソファーの上でオナニーをして喘ぎ声を出して自分だけで達してしまうし、第1幕第2場、画家との新婚生活では、やって来た父親のシゴルヒのズボンを下ろしてフェラチオをし、これまたシゴルヒ役のBechtが気持ちよさそうにしていってしまいますし、それを画家が見ているのですが、その画家を相手にしたセリフが終わった直後にルルにはあって、口の中の物をどう処理したのだろうか?とふと思ったりしましたけどね。シェーン博士はシェーン博士で来て早々にルルとSEXをして、これまた家の外から画家に見られるし、さらに画家が絶望しながら隣りの部屋(といってもガラスで仕切られているだけ)に入るとシェーン博士はまたもやドアの前で、画家の叫びと向かって左壁面のガラスにぶちまけられる血とそこに当てられる照明の怪しい雰囲気の中、立ったままルルを抱きかかえてSEXするし、「一体シェーン博士って何歳だろう?負けた」と思ったりして。さらに画家の死体処理のため警察が来ているのに、アルヴァとシェーン博士ともども3Pをしたり、正上位でルルとシェーン博士、ルルのバックからアルヴァという格好で、迫真の演技。いやあ、見ていてここまでやるかねと思いましたね(ここまで書くかねという人もおられるでしょうが、書かないと見ていない人には分かりませんので、止むを得ず書いております)。

では、こんなSEXシーンだけかというと、それでは劇になりません。背景の「飾り窓」も含めて、あくまでこれらは全体の効果のために必要なものでして(と私は信じて見ています)、冒頭のシーンを含めて私の解釈するところの、意味の一端を明らかにしたのが、第1幕第2場でした。まず肖像画が登場します、ただし第1場で登場したペロペロ・キャンディではありません、第1幕で登場したサリーちゃんのようなルルの子供時代の「等身大のフィギュア」です。

“Child Abuse”という言葉があります。日本では折檻で子供を殺してしまう事件が報じられる一方、こちらでは子供を性の対象とする虐待がカソリック教会をはじめとして良く報じられています。その理由については多少は分かります、かわいいんですよ、白人の子供は。でも親をみるとあれ?という例が枚挙に暇がありません。例えば、11月2日にベルリンからロンドンに戻る飛行機の中、3,4歳くらいのふっくらとした頬のブロンドの愛らしい女の子が前の席にいまして、機内中をうろうろすると無関係のおじいさんおばあさんをはじめ、皆が目を細めて見ている。で、その母親なんですが、疲れた感じの中年に差し掛かろうかという黒髪の女性で、うーむどこかで見たことあるけど、親子かなあと思ってしまいました。実は10月30日にラトル指揮BPOのコンサートでリゲティのヴァイオリン協奏曲を演奏していたタスミン・リトル母娘だったのですが。ともかく、「かわいい」から"Child Abuse"に行き着くのはまた別問題ですけど、成長後と成長前だと大分違うのも事実です(同じ事は男について言えて、かわいらしい、あるいは紅顔の美少年が父親をみると、うーむ、親子かなあと思うケースも多々あります。まあ良く分からんという人は吉田秋生の描く"Banana fish"でも読んでくださいな)。

さて、本筋に戻ると、SEXシーンは豊富ですが、キス・シーンが殆ど記憶に残らないほど無いのです。さらに画家もシェーン博士もアルヴァもルル人形には執着して、撫でさすったり、抱きかかえたりし、挙句の果てに画家とシェーン博士は、二人のセリフのやり取りの時、ルル人形の取り合って引っ張り合い、真っ二つに裂いてしまいます。その片割れを持って画家は泣きながら部屋に篭ってすさまじい自殺を遂げ、今度はアルヴァが自殺した部屋から片割れを拾って大事そうに抱えます。人形フェチかね君たちは。

この第1幕第3場から、だんだんと演出家の意図が明らかになっていきます。



第2幕で力業師にあんたの卑猥なオペラは親父さんの力でようやく劇場に掛かったんだと、詰められる、そのオペラが裏手で掛かっているシーンですが、薄暗いぼんやりとした青い照明の中、アルヴァは、子供服を着て、恍惚として巨大な鉛筆でノートに音符を書いています。この格好を見て、コンヴィチュニー演出のヴァーグナー演出「ローエングリン」、例の学級委員会に縮小されて、ルードヴィヒ2世が見ていれば、バイエルン王国の財政破綻は無かったかもねえという演出をまず思い出し、次にブリテンではなく、ヴィスコンティの映画版「ヴェニスに死す」のタッジオかあ、やっぱり"Child Abuse"かねえと思いつつ、いやいや巨大な鉛筆とノートを態々使っているのは見やすさだけではなく、200211月プレミエのホモキ演出のシュレーカーの歌劇「王女と小人」@コミッシェ・オーパー&モネ劇場(こっちで見た)を意識して、あれは無邪気な王女の我侭だったけど、ルルの意図せざる我侭に付き合って消え去るアルヴァの運命を暗示しているのかと思いつつ、一方で前後のセリフ関係からすると、これはひょっとして最近復権著しく、2004年のザルツブルク音楽祭ではオペラのみならず、ヴァイオリン協奏曲(小澤指揮ヴィーンpo.独奏ベンジャミン・シュミット)、交響曲(ヒュー・ウルフ指揮フランクフルト放送o.)まで取り上げられる作曲家(当劇場で初演されたオペラの台本、上述、はヴィーンの音楽批評界に絶大な影響力をもった親父さんによる)のパロディだろうと思っていると、ルルが登場。これが、2004年10月5日に観たプッチーニの「トゥーランドット」@ベルリン州立歌劇場ウンター・デン・リンデンの記憶が蘇るような「巨乳」。正確にはサザビーかクリスティズにおいて6000万円で落札された村上隆氏のフィギュアを髣髴とさせるという点で、さらに洋物アダルト映画やその手の日本のエロ・アニメや漫画で見かけるような豊胸手術でもしないと見かけないような、ドイツの書店でもそうした日本漫画が並んでいて驚きましたけど、そんな胸でした。

アルヴァがこれまた子供のように喜んでしまい、ルルの胸のブラジャーを外して胸に吸い付くんですよ、もう男性の幼児性丸出し状態、第幕後半、第幕で示される生活力の無いアルヴァの「おこちゃま」振りを明示するコンヴィチュニー。そしてルルがオペラの筋の中での舞台に戻ると、アルヴァは、「あの女を題材にきっとすばらしいオペラが書けるに違いない」云々と入れ子構造のようなというかメタレベルのセリフを吐くのですが、いやあ、アルヴァのオペラ、一体どんなものやら想像付きません(フランクフルトのはきっと「サロメ」だろうと思いますけどね)。このアルヴァのオペラでは、元の台本での劇場支配人役、付き添いの女性が倒錯していて、男性が尼さんの格好(はっきり行って見たくない)、女性が飛び出したペニスを持つ悪魔役でして、あの巨乳といい、一体どんなオペラでしょうかね。

この後のシェーン博士が許婚に婚約破棄の手紙を書くシーンになるのですけど、実は当夜の演出で未だに腑に落ちないのがここでして、鞭を持って、ルルの子供時代のパンティを蹴散らしながら、「舞台に出ろ」と威圧的なシェーン博士と、それに子供のように怯えていたルルの立場が、いつの間にやらスルリと変わってしまい、最後は喜びながらシェーン博士が手紙を書いていまして、ちょっとあっけに取られてしまいました。巨乳の力かな?

ここで休憩。照明が戻ると、背景の「飾り窓」のお姉さん達が営業開始。左から番目のブラインドだけが相変わらず閉まっていて、何の意図かとしばし考えつつ、ロビーに。

幕第1場、シェーン博士の家、といっても舞台に大きな変化はなし。ただし、ガラスの蓋が開閉する棺に、ガムテープでぐるぐるに縛られている等身大のルル人形が。また、舞台中央にドアがするすると下から出てきます。

そこにゲシュヴィッツ伯爵令嬢が登場。ルルにではなく、ルル人形に花を渡し、そこに登場した白地のブラウスに黒のロング・スカート、黒のリング・ブーツ姿のルルの巨乳を取り外して場内の笑いを誘います。女性の目からは「異常」だし、レズビアンの彼女には全く魅力的ではないのでしょうね。その後に続々と登場するシゴルヒ、力業師、学生もルル本人ではなく人形の方に擦り寄っていきますし、彼らの行動に不機嫌なシェーン博士は嫌がるルルのスカートをたくし上げて彼女を犯した後は直ぐに人形に擦り寄っていきますし、明らかに現在の「大人のルル」にはSEXの対象以外の興味がなさそう。

さて、力業師達ががルル(あるいはルル人形)に擦り寄っていく様に対して、ついにシェーン博士の嫉妬が頂点に達し、彼のピストルから逃げ惑う人々、ここでも一つ古典的ながらこのオペラでやるかねという面白い演出がありまして、シェーン博士が、「空砲じゃないぞ!」というセリフと共に一度銃を撃つシーン、舞台の方に向かって撃ったところ、喜劇ならばお約束の観客席からの「あー」という呻き声、普通の演出ではコミカルながらも徐々に緊迫度が増していくのに、一気に笑いで崩壊。そしてもっと驚いたのはルル役のPeterssenでして、彼女は私が見た中では、映像のテレサ・ストラータスも含めて、一番大きいルル役でして(ルツェルン音楽祭でのC.シャーファーの代役で聞いたアニヤ・シリアを含めても。彼女はドホナーニの棒でこの劇場でルルを歌っているとプログラムに書かれていました。11月のこの時期はバスティーユ歌劇場でゲシュヴィッツ伯爵令嬢を歌っていた)、ドイツ人の男性陣に混じっても負けないほど背が高く、肩も腰もがっちりしていて健康美人という、およそルルとは遠そうな感じでして、スカートがはだけて黒いパンティに包まれた形の良いお尻が丸見えになるにもかかわらずさっと逆立ちをしますし、前後開脚、片足を前に、もう一方の足を後ろに伸ばしてそのままぺたんと座るという姿も見せますし、確かにこれなら力業師が興行で使おうと考えるのもムベなるかな、という体のやわらかさ。第1幕のSEXシーンでもよくあんなに足を広げられるなあというほど広げていましたが、オペラ歌手は皆これほど体が柔らかいのだろうかとか、少なくとも佐藤しのぶにはこの演技は無理だなあとか思いましたよ。

ここで突然佐藤しのぶの名前を出したのは、2005年2月の新国立劇場で彼女がルルを歌うと告知されていたからです(モーツァルトの同時代人の作曲家によるオペラ「ルル」違いではないですよね?)。指揮者の名前は、私はまだ聞いたことが無いARTE NOVA盤の幕版を振っている人で、確か新国立は幕版と予告されていたようなので大丈夫かなあとか思いましたけど、パウントニーの演出なんで見てみたい。ただ、このオペラ、ここまで長々と演出の話を書いていましたが、主役のルルが歌も演技もルックスもこけると、その時点でどんな演出であっても終わりです。彼女がパウントニーの演出に応えられる演技が出来るのか、幕最後まで声がまともに出るのか、さらにそこまで音とリズムをきちんと取れるか(ヴィブラートをつけてごまかすなんて許されません)、懸念は山ほどありますので、席狙いで最初は行こうかと思っています。音も来ますし、舞台もそんなに見えなくも無いので私はコスト・パフォーマンス的に4階は好きでけれど。

さて、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢以外はみな逃げ惑うのですけど、手で目をかくして見えないから隠れているという倒錯した論理−ダチョウですな−で、シェーン博士のセリフになると突っ立っているだけ。ゲシュヴィッツ伯爵令嬢もプロンプター・ボックスから引きずり出されて結局同じ格好をしていまして、場内の笑いを取っていました。

さて、こんなおちゃらけた中、私が勝手に考えている「ルル」の中でも重要なセリフの一つ、「人が私のために自殺したって、私の価値が下がったことにならない」をルルが歌うところで、一気にコンヴィチュニーはその意図の鮮明化を図るのです。

このシーン、これまで映像を含めて見た4演出で怒るのはシェーン博士だけでしたが(それは皆が隠れているからという前提もあるでしょうけど)、コンヴィチュニーはそうはしません、どの男達も、アルヴァも力業師も学生もいきり立ってルルを囲み、彼女に向かって唸ったり唾を吐いたり、腕を出そうとしたり、それを必死にゲシュヴィッツ伯爵令嬢が庇おうとする。

人形のような子供の自分達に都合のいいルルには愛情を注げても、自立して自らの価値と男性たちと対等であることを主張する大人の女性、ルル、を彼等全員がまともに愛することが出来ず、ただのSEXの対象としかみていないことが明らかになる。だから「ようこそ SEX SHOP HAMBURG STATD OPERへ!」、だから彼らは誰もがルル人形にばかり関心を寄せ、だからこのセリフに怒りだす。個人的にはようやくルルのこのセリフにふさわしい演出が現れたと思って感動してしまいました。ルルはファム・ファタルではなく、それが彼女を都合よくそう解釈したい男達そしてベルクに対する、そして少女趣味でもあった原作者ヴェデキントに対するコンヴィチュニーが与えた痛烈な批判の演出です。だからベルクも本能的にこれをカットし得なかったのでしょうし、第3幕第1場の公爵とルルとの会話、そして、最後のなし崩しの死に至る道筋がより鮮明に現れてくる。第3幕を単純な男性という性による女性への復讐劇という解釈は、甘っちょろいアルヴァや「あなた」の解釈でしかない。

一方で、どうみても大人の働く女性、そのままドイツ連邦鉄道(DB)の制服を着せたら翌日ハンブルク駅で働いていた女性車掌そっくりのPeterssenならば可能な演出だったのも事実で、やはりどこか少女の面影のあるシェーファー、テレサ・ストラータスではルックス的にも体格的にもコンヴィチュニーの今回の演出は難しいと思わざるを得ない。

このシーンの後、シェーン博士はルルに腹に3発撃たれます、ここで途切れ途切れのセリフをしゃべりながら、最後に扉をあけると、そこには、黄色の地にピンクの油絵の具っぽい筆遣いで書かれた女性の陰部の絵が、そしてまさにその出口・入口に設けられた隙間からシェーン博士は退場します、いや子宮に回帰していったのでしょう、さようならシェーン博士。

ここから裁判から脱獄までの映画音楽になります。ト書きにあるようにこのシーンを映画で上映するのか、フランクフルト州立歌劇場での演出のように上映しないかと思っていると、白いスクリーンが下りてきまして、ここは映画をやるんだなあと思っていると、ここでパルケットの右サイド後方から突然ブーが飛びました。おいおい、まだ第2幕の中間だぞ、音楽も続いているのにとムッとしていると、今度はパルケット中央からブラボーが飛びました。音楽は続いているので、私を含めた他の客は含めてどうしていいのか、と思っているとブーを飛ばしたと思しき客が、ドアを思いっきり大きな音を立てて出て行きました、やれやれ、シュトゥットガルト州立歌劇場でのラッヘンマンの「マッチ売りの少女」の時ですら、他の客が迷惑し無いように比較的静かに帰って行ったというのに。一方、スクリーンでは、、、またも唖然。

映し出されたのは、つい数時間前にコートを預けた同劇場地下の中央クローク、そこで係りのおばあさんが本を読んで終演を待っているシーンを淡々と映し出しているのです、さらに舞台の袖のドアから先ほどブーを飛ばした中年夫婦が現れたではないですか、ブーもあらかじめ先取りして演出してしまっていたとは!二人して何か文句をつぶやきつつ歌いながら中央に歩み寄り、男が預り証をスクリーン上のおばあさんに渡したら、おばあさんコートをとって男に渡す、すると男がスクリーンの隙間からコートを取り出す、もうずっと場内は笑いっぱなし(まるでアニメと実写の共演のよう)。一体これがオペラ「ルル」とどう関係するのか気にせず私も笑い出してしまう。中年の女性がまだぶつぶつ喚いていると男がポケットに大きな包丁を発見し、ニタニタと笑い出すと、女をいきなり刺し殺してしまう、続けてそれを覗き込んで見ていたスクリーン上のおばあさんに包丁を突き出すと、おばあさん、ワンテンポ遅れて腕を上げて驚きのポーズ、さらに「早くお帰りください」のドイツ語の吹き出しのセリフ。場内大笑い。我に返った男は、困った表情をすると、急に何かに気付いたようで、刺し殺した女に向かって包丁を突き刺します、ただし先ほどとは逆の順序で、すると、女は蘇り、コートを脱いで係りのおばあさんに返し、二人して何事か喚きながら、後ろ向きに歩いて舞台のドアから去り、再びドアを大きな音で開けて席に戻りました。場内これには笑いと拍手、明らかにベルクの作曲技法やト書きで示される映画へのパロディですね。ずれて行きながら、どこかできちんと繋がっているコンヴィチュニー演出の面目躍如でありました。

そして、スクリーンが上がるとさらに驚きの世界が待っていました。精神病院に舞台が移されていたのです。

第2幕第2場

タキシードの上着を脱ぎ、白いステテコに靴下という格好で、横長の机に左からゲシュヴィッツ伯爵令嬢、一つ椅子を挟んで力業師、さらに椅子を挟んでアルヴァが座っていました。呆けた表情と、このシーンがセリフだらけであることをいいことに、力業師をはじめとして、喋り方が異常者そのもの、さらに彼等の手には、ミニチュアのルル人形が。各人それぞれにルル人形を弄んでいるのですが、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢は赤い服を脱がしてタキシードを着させようとし、力業師は鉄棒に腕をくっつけてぐるぐる回転させ、アルヴァはアルヴァでピアノお稽古の真似事をさせている、それぞれがルルに何を期待していたのかが良く分かります、そしてその患者たちに薬を与えてる看護婦がルルだったのです。もう、第2幕第1場とどう繋がるのかということは考えられません、だからこそあの奇妙な映画があってスキップしてしまったのだと納得しつつ、一方でコンヴィチュニーお得意の無関係なセリフも時々入って、発作的に笑うアルヴァの狂気ぶりともども、ルルの喪失感で一杯の感じで繋がっているようでもあり、もう理解の範囲を超えつつある感じ。

その時、トイレを流す音がして看護婦=ルルに付き添われたシゴルヒ登場、支えようとするルルを拒否し、敬礼の格好を維持しながらルル人形をいとおしく抱っこする、そう一応彼はルルの父親。続いて学生が登場し、彼女はタキシード姿だったのですが、彼等と同じようにされ、ルルがコレラで死んだと聴いて絶望のあまり薬を大量に飲み死んでしまう、ああこれでパリへの道が開けた、ユングフラウ鉄道暴落に奇妙な郷愁を覚える私には嬉しい演出(第3幕では学生は登場しません)。しかし、夢はみるものではありません、アルヴァとルルを残して机が沈み、彼等(正確には彼等とゲシュヴィッツ伯爵令嬢)は退場。そこに舞台向かって右のガラス扉を開けて、鞄を抱えた前口上で登場した女子が登場。鞄をおいて、舞台向かって左に走って去って行きます、それをうろんな目付きで追うアルヴァ。一方、舞台上では、ルルが「自由、なんてすばらしい」と歌って看護婦の格好から鞄の中にあった、ターコイズ・ブルーのタンクトップ、体の線にぴったりした黒のズボン、皮のロング・ブーツ、それに黒のジャケットと、金融街The Cityでも良くみかける働く女性の姿に着替えるのでした。一方、舞台には、左右の壁と平行な格好で下からドアがせり上がってきていました。そうか鞄か、クプファー演出の「ラインの黄金」でも神々が抱えていたし、アムステルダム行きのD-Zugに乗る時もあったから、旅のメタファーとしてパリ行きの急行に乗るはずの二人にも必要だよなあ、ユングフラウ鉄道にも乗るのかな、でも上にはロッジしかないしあの格好では寒すぎて凍死するぞと思っていたのですが、あっ、まだ「若き恋人たちへのエレジー」の感想を書いていないからリンクできないや、舞台上ではアルヴァは呆けたまま、グラツィオーゾだの、カンタービレだの歌っている。ルルが怒りつつも、一緒に来てくれるのね?と尋ねても、彼はろくな返事をしない、そしてルルは、怒り爆発で最後のセリフを叩きつけて、ドアを開けて舞台を一人で走り去って行くのでした。凄い、凄すぎる演出だ、でも第3幕はどうなるんだ?

再び、ルル交響曲の変奏曲が流れはじめ、綿のジャケットに綿パンに着替えたアルヴァが呆けた表情でその旋律にうっとりしていると、俄かに小さな手帳とペンを取り出し、やっぱり第1幕第3場はパロディだったんだと確認させてくれた上で、その旋律を書き取っていくのでした。細かいようですけど、きちんと5回横に線を引いていたのを私は見逃しませんでしたよ、折角1列目の席を取ったのですから観察せねば(一体私は何しに行ったのかとも少しは後悔しています)。そして前ににじり寄り、客席に手帳を見せながら、青鉛筆をピットに落としてしまいましたけど、ブツブツと歌っている(殆どクチパクでしたけど)。そして、「そ、それはゲシュヴィッツ伯爵令嬢の歌だぞ!」と思わず呟きそうになった「ドイツに帰らねば」をアルヴァが歌うと、突然スピーカーからルルの”Nein”の声が、これに対してアルヴァの表情が一変し、客席に手帳を示しながら、必死の形相で私の作品だと示す。NeinMeinが交錯するその頂点で、ルルの叫び、それが終わると、アルヴァは「一仕事終えたぜ」と切り裂きジャック=シェーン博士のせりふ述べて退場、そして、舞台上方には、緑のネオン・サインで

“Uber die liesse sich freilich eine interessante Oper schureiben“

の文字が。さすがの私もこれは理解できました。





あの女を題材にきっとすばらしいオペラが書けるに違いない」




ものの見事にやられた、2幕版を使ってここまでコンセプトの読み替えで、多少の無茶を承知の上で推し進めるコンヴィチュニーに改めて驚き、そして最初に殺されたのは、どんなに革新的であっても、「ルル」の物語の枠組み、既存の見方から脱出できなかった過去の演出でもあったのだという思いを抱いて劇場を後にしたのでした。

さて、演出について長々と書きましたが、実はこの演出を支えるには、歌手が相当しっかりして、ある意味でリアルさを出していないとだめです、というところでどの歌手も演技が素晴らしかったと書いておきます。そして歌についても、途中で書いたようにルルがだめだったら全くだめと書いたことの裏返しで、最後の最後まで実に素晴らしい声質と安定的な発声で、非官能的な若々しく元気なルルをPeterssenは示してくれました。シェーファーやストラータスの少女の面影を残す無邪気な部分は、容姿・演技だけでなく声や歌い方からも完全に排除していまして、この歌手を得て演出家冥利に尽きる舞台に仕上がったのではないでしょうか。

そしてアルヴァですけど、こちらも演出かの意図が良く伝わるようにしていましたね。演技によるダメさ加減といいますか、生活力の無さを声色を様々に使い分けて達者に示していましたし、ちょっとたれ目気味の表情で呆けた部分、あまちゃんさがよく伝わるものでした。そしてこれまであまり注目していなかった力業師ですが、コンヴィチュニー演出のせいで、歌手ではなく役者が演じているかのようで、上手いと言うのではなく面白かったです。

一方、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、今回の演出では精彩にちょっと欠け、かつ歌も少ない、「ルル、私の天使」が無いのは、最後にこれを聴いて、ああこのオペラは、実は唯一純粋な自立した人であるゲシュヴィッツ伯爵令嬢のオペラなんだよなあと私は思わずにはいられないのですけど、その歌が聴けないのはちと残念ではありますが、まあ、良かったのではないでしょうか。

重要な役回りのシェーン博士のアンドレアス・シュミットは、PeterssenBonnenmaと並んで良く通る声と、コミカルな演技でした。ただ、先にも書いたとおり第1幕第3場のシーンもあり、良かったのだけど、あそこが分からないのは演出か歌手のせいかなという気になりましたねえ、でも第2幕第1場最後の呟きは、歌とは言いづらいのですけど、中々に味を出していましたね。

終わりに、指揮とオケ。この組み合わせではこれまで数回聴きました。「ボリス・ゴドノフ」(多分ロイド・ジョーンズ版)をここで聴いた時には、なんてヘロヘロのオケだろうと思い、録音の「ヴォツェック」を聞いてなんて立派に精妙に演奏できるんだろうと思い、さすがノーノの「プロメテオ」全曲他「我らが時代の作曲家」の作品を多数指揮している指揮者だと感心し、ベリオの「真実の物語」を見聞きして、「ヴォツェック」の印象こそ正しそうだと思ったら、今年のルツェルン音楽祭での夜中にあった「二十世紀音楽なんて怖くないinルツェルン・ヴァージョン」で、弦がちと薄いしホルンとフルート、ピッコロが難だなあ、でもノリが良くて楽しい演奏し、まあいいかと若干の疑念を持ちつつ、翌日の朝のツィンマーマンの「若き詩人のためのレクイエム」では、良く振れるし、音が取れるよなと考えを若干改めたものの、同日夜のリストの「ファウスト交響曲」で、この曲こんなにつまらなかったっけ、当方も疲れているけど彼等も疲れているのかなあという演奏で、今回の「ルル」の演奏は、吉と出るか凶と出るか不安でした。結果的には、演出抜きでも、「吉」それも「大吉」でした。

ギーレン指揮ベルリン州立歌劇場ウンター・デン・リンデンの演奏が、セリーを全て聞こえさせましょうという解釈に、少し野暮ったいところもあるオケの響きとが融合して(?)、くっきりとしながらもゴツゴツとした響きの演奏で、シェーファーのクリスタル・ヴォイスを支えていたのに対して、当夜の演奏は、非常にしなやかで、セリーを踏まえつつもその瞬間の響きや雰囲気をより重視しており、歌手とは裏腹にとっても官能的。でも、元アンサンブル・モデルン出身のメッツマッヒャー、細かい部分にもきちんと配慮していまして、同じように第一列で聞いたベルリン以上に様々な楽器の響きを出していまして、楽譜が見たくなってしょうがなかったです。確かに、第3幕の薄い、セリーの骨格だらけに聞こえるオーケストレーションも演奏するならば、ギーレンの解釈は、それを気にさせないように、あらかじめベルクのオリジナル部分を痩せさせておく上手い手だと思いますが、今夜は2幕版、そうプログラムに少し小さめの字で印刷されていまして、第3幕を考えなければこうしたより官能的でムーディー部分も聞かせる、でも弛緩はしない演奏は大満足です。オケの響きも重心が心なしか低いし、密度が詰まっていまして良かったですから。

なお、ここで幾つかのシーンをフラッシュでみることが出来ます。上記の印象的なシーンはほぼすべてみれます。



ホーム