道楽者の成り行き
ホーム


6.頽廃音楽ですが、何か?


12月27日 シュトゥットガルト

1月26日

ヴィーン 曇り

22日と同じルートを辿って再びヴィーンに。全く代わり映えしない風景が続きましたが、ヴィーンに着いたらこれが非常に寒くて、歩いているうちに凍死してしまうんではないかと思われました。時間があまり無かったので、今回はザッハーでは事務所へのお土産にトルテを購入しただけで、ケーキは食べませんでした。夕食は、岡山県人にはおなじみの「天満屋」デパートが何故か和食の店を出していたので、サンマの塩焼きに惹かれて入ってしまいました(今日は聖シュテファンの日で休日で行ってみたいところは皆休みでした)。サンマは、明らかに冷凍かつ全然脂が乗っていないので失望しましたけど、久しぶりだったので綺麗にたべてしまいました。あまりオペラ前の食事とは言いがたいでしょうけど。

12月27日

ヴィーン 曇り?朝早くて良く分かりませんでした。

本日はザルツブルク・ミュンヘンを経由してシュトゥットガルトに向かうコースです。この間に含まれるザルツブルク−ミュンヘン間は、1999年にザルツブルク音楽祭に行った際、昼間のザルツブルクではすることがないのでミュンヘンまで戻って美術館や博物館(ドイツ博物館というV2ミサイルやUボートの実物が展示してある)を見物をした際に何度となく利用したのでよく覚えています。しかし、あの時の季節は夏、周りの風景はこれぞR.シュトラウスの「アルプス交響曲」だったのが、冬にみると、うーむ、これぞR.シュトラウスの「四つの最後の歌」に大きく印象が変わっていました。そういえば、99年のザルツブルク訪問では、最後の最後で大ボケをしてしまいまして、危うく帰れなくなるところでした。

脇にそれますが、99年の旅行は、飛行機の都合上、ベルクの「ルル」を見終わってからミュンヘンに戻って一泊するという計画を立てていました(昼のうちにミュンヘンに出てホテルを取り、荷物は先に移動させておいた)。感動的な「ルル」が終わり、時間通りにザルツブルクに来たパリ行きのDB他の共同運航による夜行列車に乗って、ミュンヘン市内にあるミュンヘン・オスト駅までのただの小旅行だったはずなのですが、列車の中でうとうとしてしまったのがまずかった。ハっと目を覚ますと、時計は夜中の1時5分過ぎ、時刻表ではちょうどミュンヘン・オスト駅に着く時間を示していました。さらに列車は止まっていますので、窓のカーテンを少しだけ開けて外をみると、そこには「オスト・ミュンヘン」という看板。「いかん!ここで下りないとパリまで行ってしまう」と慌てて降りてみたら、周りは真っ暗、え?と思っているうちにDBは走っていってしまいました。おかしい。たまたま駅で工事をしていたので、作業員に聞いてみたところ、ここは「オスト・ミュンヘン」で「ミュンヘン・オスト」とは全然違う駅だと言われ、さらに、ここからミュンヘン中央駅(ここのInterCityホテルに宿を取っていた)までどれくらいの距離かと聞いたら、Fifty kmだと答えられまして、頭の中が真っ白になりました。周囲はまさに「魔弾の射手」にもで出てくるような森で(何故か序曲が頭の中をずっと流れていた)、店もない、公衆電話もない。例の黄色の時刻表をみると、朝一番の列車に乗ったとしてもミュンヘン空港から出る飛行機には間に合いそうにない、さてどうしようか、「50キロ」でなく「15キロ」だということを確認してから歩くかどうか、ドイツ語だと1550は明確に発音が違うのでドイツ語で聞けば間違えようがないよなとか思っていると、ザルツブルク方面から列車が来て、駅(といっても無人駅)に止まったではないですか、あれに乗らねば!と向かうと車掌が降りていたので、切符を見せてミュンヘン・オストまで乗せてくれと乗り込んで(車掌は止めようとしていたみたいですけど)、腹が痛い振りしたら食堂車に案内されました。約20分後、私はミュンヘン・オスト駅に降り立っていました。実はこの列車はDBではなく、民間の鉄道会社が走らせているNight Trainというもので、DBの切符では乗れないし、たまたまその日の晩だけ走っていたようで、言葉が通じないことをいいことに乗り込んでしまったもの勝ちで助かりましたけど、翌朝の飛行機に乗った時は、奇跡とか神の恩寵とか胡蝶の夢ではないかとかいろいろ考えたりました。もっともシャルル・ドゴール空港の日本向けゲートのブランドだらけの巨大御土産屋を見る頃にはわすれてしまいましたけど。ただし、あの瞬間は車掌が森の隠者に見えたのは事実でしたね。

さて、話を戻しまして、その区間は全く寝ずに、今日はミュンヘン中央駅なので間違えようがないのですけど(これは終着駅型の駅です)、過ちは繰り返すまじと目を皿のようにして外を眺めていました。

ミュンヘン中央駅に到着し、ドイツの誇るICに乗り換えて一路シュトゥットガルトへ。ただし、この区間まだ高速化のための工事中で、ウルムまでは時々スピードを上げたかと思うと在来線並のスピードで走ったりとあまり高速鉄道の雰囲気がありません。

その間、喫煙席しか座れる場所が無かったので、そこに席取りの印にコートを置いて食堂車へ入り浸りました。窓からの風景は、ちょうど薄明で、うっすらと靄もかかり、フリードリヒの絵のようでした。もっとも、高速化工事で防音壁を作っていて、風景が壊れていましたねえ。

ウルムを通り過ぎると、ガイスリンゲン峠超えが始まります。日本で言えば碓氷峠越ですが、日本の新幹線はトンネルで通過するところを、こちらの新幹線IC(「こだま)ですけど)は、うねうねと山を越えていきます。在来線は客車の前後に機関車をつけて上り下りしていますがICは単独で峠越をします。カーヴが多いので窓から大きく回りこみながら上っている様は、思っていたよりも凄いものです。

さてガイスリンゲン駅を過ぎたのでもうそろそろ荷物を出口に移動させようと席に戻ってみると、人が座っていて、コートについて尋ねると車掌が持っていってしまったという。ようやく見つけた車掌(何人もいるのうちの一人)は、英語で何か問題があったのかとわめき散らすばかりで何もしない、来いというと、ここからの先の車両は管轄外とか言い始めたので、かちんときてを無茶苦茶な英語を怒鳴りながら無理やり引っ張って席まで連れて来て、この席にあったコートはどこだ!とどなると客のドイツ人が通訳してくれて、漸く他の車掌が持っていったコートを持ってきたのでした。ふざけている。

ともかく無事にシュトゥットガルトに到着。去年(2001年)の10月に24日の強行軍で東京からラッヘンマンの「マッチ売りの少女」(ムスバッハ演出、ツァグロセーク指揮シュトゥットガルト州立歌劇場管弦楽団他。ライヴ録音のCDがKAILOSから出ています)。を見に来て以来。相変わらず駅舎の上にはメルセデスのシュテルン(星)が燦然と輝いていました。ここは現在のダイムラー・クライスラーの本社があるのです。

早速街歩き、楽譜屋を発見し(王宮前の立派な建物のパッサージュにありました)、楽譜を物色していると、何を探しているのかと店の女性店員が聞いてきたので、例のごとくスカルコッタス、アーッレ・メリカント、A.シュナーベルの楽譜を探しているというと、メリカント以外は知っていて調べてくれましたが、いずれもレンタル譜ばかりでした。残念。

旧王宮前には仮設スケートリンクもあり、その周辺にホット・ワインの店など縁日的に出ていました。日本のように年賀年中どこもかしこも「ハレ」の国ではないので、こういうクリスマス・シーズンの時のみ移動遊園地などが出て「市民」は楽しんでいるようです。私もそこでワインを飲んだのですが、これが効果覿面で、あっという間に酔っ払ってしまいました。

結局、疲れもあって、千鳥足でホテルに帰って、思い起こせば夕食も食べずに(列車内で食いすぎたこともあり)そのまま寝てしまいました。因みに、ここのホテル、InterCityの対応はこれまで泊まったドイツ中のどこのホテルよりも対応が良いです、ちょっと高いのですがね(1107ユーロ)。


 「2002年12月28日」シュトゥットガルト」へ
 「頽廃音楽ですが、何か?」目次へ
 「2002年12月24、25日 マインツ」へ
 「道楽者の成り行き」へ