青い花

第3部「夢は枯野」(1)


 「お父さま、そうこうしているうちに、1694年に来てしまいましたわ」
 「おうおう、日本か、大阪か」
 「しかも、花屋の裏座敷でございますわよ」
 「なんでも、名のあるお方が大往生の最中とか」
 「そ、『俳諧の大宗匠』松尾芭蕉。ailas 宗房、alias 桃青、alias 釣月軒、alias 泊船堂、alias 夭々軒、alias 坐興庵、alias 栩々斎、alias 華桃園、alias 芭蕉洞、alias 素宣、alias 風羅坊……」
 「なんと、ハンドルネームを次々変えおって、怪しげなやつよのお」
 「そのカレが、まさに死ぬところなのよ」
 「大往生か、人間はいいよのお」
 「こういうのを大往生っていうの? ひとんちの屋敷でさ」
 「ま、大宗匠だからね、タニマチってとこか」
 「弟子たちが集まって、次々、お別れの、『末期(まつご)の水』を与えている」
 「『死ぬ行く者への祈り』ってなもんだね」
 「おとうさまったら! それは異教の……」
 「あ、いや、その、ま、死もいろいろあるわな」

 1694年10月12日、俳諧の大宗匠、松尾芭蕉は、花屋仁左衛門の裏座敷で、死の床にあった……と、芥川龍之介が、そう書いているわけではないが、とにかく、その臨終の様子を、400詰め原稿用紙、20枚とちょっとで、描いているのが、『枯野抄』という短編である。芥川は、芭蕉の弟子一人一人の、その師匠の死に立ち会った姿を、例によって、外科医のメス捌きにも似た筆捌きで描出している。そこには、元禄7年という時代の、日本の、大阪の街の、旧暦10月の、空気というものが充満している。だだっ広い座敷ながら、妙に圧迫感のある空間。われらは、生まれながらにして、瓶の中に飼われるBonsai Catなのか?(注:アメリカのどこたらの大学生たちが考え出した、残酷なネコの飼育法。文字どおり、瓶の中でネコが飼われ、ネコはそこを『世界』として生きるしかない。ネット上に、その「飼育法」を公開したページがあり、子供たちへの影響も考え、FBIが調査に乗り出したと、『フランスの』のニュースにあった)

 一方、トロイアでは、アキレウスの部下パトロクロスが討たれ、その武具が、ヘクトルによって奪われた。その武具は、もちろん、アキレウスがパトロクロスに貸したものであり、もとはと言えば、アキレウスの父が神々から賜ったものであった。パトロクロスは、頭を、胴体から切り離され、その胴体を、トロイアの街へ運び去られようとしていた。もとはと言えば、アキレウスのみがかわいいゼウスは、このヘクトルの行いを快く思うわけがない。「調子に乗るな、ヘクトルよ!」てなもんである。「今のうちは、とりあえず、活躍させてやるけどな」てなもんである。
 いま、トロイアは、パトロクロスの遺体をめぐる攻防戦。メネラオス(アガメムノンの弟にして、ヘレネのダンナ)+アイアスのアカイア(ギリシア)軍は、なんとか、パトロクロスの遺体を彼の主人であるアキレウスに届けたい。すなわち、敵方から、味方の遺体を守ることは、遺体の尊厳を守ることであり、戦士たちの義務である。また、相手側からすれば、敵方の遺体から必要な武具を調達し、なおかつ、「見せしめ」のために遺体を持ち帰ることは、目的である。
 それにしても、トロイアの空間は、生首が飛び交い、血にまみれていようと、なんと広々として明るいのだろう。

 「ひとつ、死にかけているBaseoとやらに、見せてやろう」
 「なにを?」
 「もちろん、イリオスじゃよ!」

 青畳の上に寝る、萎びかけた白髭の「老人」は、うっすらと目を開け、何事かをつぶやいた。しかしそれは、師匠の死というもの感傷的なものに、頭の中が占領され、いかに悲しむかのみに心を奪われていた弟子たちには、まったく気づかれなかった。彼はイリオスを見た。乾いて、光に溢れた砂浜を。真っ青な海を。桃色の肉体を。

 旅に病むで夢は枯野をかけめぐる海を背にして振り向くをんな

 享年51才、満で言えば、50才。「翁、翁、」などと呼ばれ、すっかり老人気分であったが、Baseoは、まだまだ男盛りであった。

 手枕に細きかひなをさし入て(B)+睦言かはすエーゲの砂浜(A)

 きぬぎぬやあまりか細くあでやかに(B)+ヘパイストスの金の寝台(A

 きみがため磨きあげたるこのbody(A)+馬に出ぬ日は内で恋する(B)

 藍色の夜を通した格闘も(A)+はげたる眉を隠すきぬぎぬ(B)

 うす絹を風が奪ひし春の海(A)+わが稚名を君はおぼゆや(B)

 よつ折りの蒲団に君が丸く寝て(B)+21世紀の星屑や降る(A)

 「アテネや、なにを悪戯書きをしておる! 馬が泣いておるぞ!」

 おっと、いけねえ! トロイア戦争であった! この戦争をどうにかしないことには、レキシは進まない。はてさてどのあたりであったっけ? 馬が泣いて? おお、そうだ、アキレウスの親友にして忠実な部下、パトロクロスが殺されて、彼はアキレウスの武具を身につけていたのだけど、その武具は、トロイア側に奪われてしまったから、あとは、せめて遺体を、ギリシア側に持ち帰りたいところだ。そして、それをめぐる攻防戦___。自分たちの御者をつとめてくれていたパトロクロスの死を知って、クサントス、バリオスの、ニ頭の神馬が涙を流して泣いているのである。
 ゼウス「おうおう、かわいそうにな。おまえたちは不死だが、人間って辛いな。その辛さを垣間見てしまったか。おまえたちにとっては、よい人生、いや、馬生勉強よ」
 「おとうさま、あたくしの役目ってなんでしたっけ?」
 「おまえはあれだ、アカイア勢の一人一人を激励するんだ」
 「わかったわ」
 「おっと、娘や!」
 「なあに、おとうさま」
 「衣を着るんだ、衣を」
 「あ」
 アテネは一糸纏わぬ姿で戦場に飛び出すところだった。それに気づいて、「衣」、すなわち、紫色の雲を身に纏った。

 ……見たこともない輝く体をした女が、紫色の雲を身に纏って野っ原を走り抜けていく。これが「あの世」というものか。もしそうなら、あの女はいったい何者だ?
 途中、アテネはひとりほほえんだ、それは、まだ往生していない、Baseoに送るアイサツではなかった。アカイア軍の金髪のメネラオスが、神々のなかでも、真っ先に、自分の名をあげて、祈ってくれたからである。メネラオスよ、おまえに力を与えよう。敵方のヘクトルの親友を殺し、パトロクロスの遺体を守り抜くだけの力を。この戦い、どうせ、おまえたちが勝つに決まっておるのだが、お父さまも、なかなか、トロイア側への援助をやめぬのでな。おまえたちも、「終わり」までは、苦しむであろう。とくに、お父さまは、アポロンを使って、ヘクトルを励ますのじゃ。アポロンよ、ええい、小癪なやつめ、覚悟はよいか!
 メネラオスは、アンティロコスを探し出し、パトロクロスの死を、アキレウスに伝えるように頼む。二人のアイアスが「援護」するなか、メネラオスとメリオネスは、パトロクロスの遺体を担ぎ上げ、運び出すのに成功する。両アイアスは、トロイア中最強のニ将、トロイア王家の嫡子と遠縁の者、ヘクトルとアイネイアス相手に、厳しい戦いを続ける。

 芭蕉の命は、元禄の世に別れを告げる。彼の、20才年上の師、北村季吟は、あと11年生きる。彼より2才年長のアイザック・ニュートンは、この時、「月の理論」に関する草稿をしたためており、その輝かしいキャリア形成の、いまだ途上にあり、あと30年は生き延びることになる。確かに昔は、「人生50年」といった。その「昔」は、それほど昔のことではないだろう。江戸時代の平均寿命といったら、確かにそのあたりかもしれないし、平安時代にまで遡れば、それは、もっと短いに違いない。しかし、それはあくまで、平均値であって、そのなかには、成人する前に死ぬ人々も多く含まれているだろう。すなわち、医療とか衛生設備とか、健康状態とか、戦争とか、そういった、老齢による病気とはべつの因子が作用している。
 芥川龍之介の『芭蕉雑記』に、ちらりと書かれてあったところによれば、芭蕉の死因は、「腸カタルかなんか」だそうである。筆者はいたずらに、そういう文献を漁り、歴史上の人物の死因を調べようというシュミはないが、老衰というよりは、急性の病気なんだろうな、とは思う。まだやり残したことがあったのではないか。無念の死だったのではないか。

 「ここはね、ヤオヨロズの神さまたちが疲れを癒しに来るお湯屋なんだよッ!」

 「まあー、なんてみっともない神さまたちなの? お父さま、あたくし、日本人てものがまったく理解できませんわ。神といったら普通、人間より、中身や能力はもちろんのこと、容姿もすぐれているのがあたりまえじゃなくって? それも、人間とそれほど変わらない姿で、しかもぐんと美しいというのが、あたくしたち神々ですわ。それなのに、なあに、あの不格好なモノどもは!」
 「神というものの観念がまったく違うんだよ」
 「神というのは、そもそもなあに?」
 「まあ、いろいろ、だな」

 芭蕉死して、はちねんご、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、藩主浅野内匠(たくみのかみ)長矩(ながのり)の仇を討つ。時の将軍、徳川綱吉の幕府のお沙汰は、助命派、極刑派、侃々諤々、「結論」が下ったのは、元禄15年12月15日の討入りに対して、翌年の2月4日であった。結果、主人の仇を討つという忠義は、幕府のイデオロギーと合致、しかし、法治国家たろうとする幕府の方針ゆえに、結社および武器集合罪により、「切腹」(武士の罪としては「正式」なものだとか)! 「切腹」は、「義士」(と、彼らは敬意を持って呼ばれた)たちが「事件後」、9から10人ずつに分けて、それぞれ預けられた城主宅の邸内であった。
 これらの臣下の者たちに比べ、事件の原因となった主人、浅野長矩の切腹は、大名としては屈辱的な、身柄を預けられた城主宅の庭の片隅で、であった。切腹とは言え、三方に置かれた短刀に手を伸ばすや、介添人が首を切って落とすのである。これでは、カタチだけ切腹の、その内実は、「打ち首」と同様であるが、当時の切腹とは、そういうものであった。ま、その方が、無駄に苦しまずにすむしー。浅野は、有名な時世の歌を残している。

 風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残を如何にとかせん(浅野長矩)

 水ぬるみたる新しき土(B)

 (脇は発句と同季で、韻字留めにする。春(水ぬるみたる))

 1693年、元禄6年、6月、芭蕉死の前年、「馬がものをいうとの噂ひろまり、幕府取締まりにのりだす」(大系『日本の歴史10』小学館1989年刊、巻末年表より)。

 1694年、元禄7年旧暦10月12日(新暦11月下旬頃)、芭蕉没……それはすなわち、11月21日頃であり、パリに、ヴォルテールが生まれた時であった____。

 ゼウス「ぬあんと! 芭蕉翁は、パリで、ヴォルテールとなって蘇ったか!」
 アテネ「ふふふ……これからの人生が楽しみね!」
 


「夢は枯野」(1)了







前章へ

次章へ

目次へ