第3部「夢は枯野」(2)
吉田健一『ヨオロッパの人間』(講談社文芸文庫)によれば、ヴォルテール(氏はヴォルテエルと記述しているが)は、十代の頃から詩人として知られていて、名文を書く人々が最も尊敬される時代に、名文家として名をなし、社交界の寵児であった。「女の問題」で、ごたごたに巻き込まれ、豪華ホテルにも似たバスティーユの監獄に送られたが、イギリスに渡りたいという申請を出して受け入れられ、イギリスに渡った。そこで見聞きした、イギリスの様子を、最初、「イギリス通信」のようなものとして書くつもりあった。だが、彼が帰国して完成したLettres philosophique 『哲学書簡』は、単なるイギリス案内や、紀行を通り越して、「哲学書」になってしまった___。たとえば、そこで、ヴォルテールが、イギリスの議会制度のようなものを紹介しても、「自由とは何か?」のようなところにまで行ってしまう。これが、立場を替えて、イギリス人がフランスに渡り、フランスについて何らかのことを著そうというなら、やはり律義に、その国の案内のようなものになるだろうと、吉田氏は言っている。ここに、フランス人のフランス人らしさがある。つまり、行くところまで行ってしまう、考え出したら止まらない、「自分が書きたいことだけ」書く、という。
「おとうさま、ここには、われわれギリシアの神々についても言及がありますね。つまり、ローマ帝国崩壊以来の1000年間、われらはヨーロッパ人の意識からは完全に消えていて、それが、『ルネッサンス』で『発見』された……」
「あの、くそいまいましいキリスト教のせいじゃ。北方の蛮族すべてを取り込んだのじゃ」
「ペトラルカはもはや、ギリシア語を読めなかったというではありませんか」
「娘や、われらの言葉は、死語になったのじゃ」
「長い長い眠りでしたわね」
「正しきものは、必ず復活するのじゃ」
「でも、おとうさま、あのヴォルテールの、どこが、芭蕉なんですの?」
「やつは記憶してはおるまい、『前世』のことなど」
「あまりと言えば、あまりな『前世』」
前世やルイの世紀に籠められし
芭蕉の生きた時代(1644__1694)というのは、ルイ14世が、絶対君主として、フランスに君臨した時代(1643年即位__1715年没)だった。それを、1694年生まれのヴォルテールは、『ルイ14世の時代』という本に著したのだった。それは、彼の区分によれば、これまで存在した、特筆するに足るべき四つの時代の一つであり、最高の世紀、多くの天才を生んだ、芸術が最高度に「解され」「尊敬される」時代(1、プラトン、アリストテレスの出た「フィリップとアレクサンダーの時代」、2、キケロ、ヴェルギリウス、オヴィディウスの出た「シーザーとアウグストゥスの時代」、3、「コンスタンチノープルがマホメット2世の手に帰した時代」___トルコ人に国を追われたギリシアの学者たちを、メディチ家がフィレンツェへ招聘した。これが、『ルネッサンス』となった)だった。奇しくも、閉塞的な箱庭の国、日本でも、「元禄文化」なる時代ではあったが、果たしてそれが、これらヴォルテールの挙げる時代に比肩しうるかどうか、筆者は今のところ、判断しかねる。
大阪の冬ざれた街の、花屋の奥座敷で「死んだ」私は、埋葬され、心と記憶を失ったが、こうして、「死んだ」当時のことを一時的に思い出すのは、冥界で血を飲んだからだ。
「お父さま、これはホメロスのテキストそのもの……。いったいどういうおつもり?」
「つまり、Baseoは、あの世でホメロスを読んだんだな」
「でも、なんでヴォルテールなんかに生まれ変わったの?」
「例の『穴』じゃよ」
「もう……。あれはほんの冗談だったのに」
「『穴』はどこにでもあるぞ」
「今度の『穴』はどこにあったの?」
「決まっとるじゃないか、1694年は日本は大阪の花屋の奥座敷、だよ」
「だだっ広い畳の座敷の、いったいどこに『穴』があるのよ?」
「押し入れの中じゃな」
「まッ、死者を押し入れに入れましたの?」
「生きているうちに、だよ」
「そんなのどこにも書いてないわ」
「あたりまえじゃ」
冬ざれたパリの街を行く私の耳に、まるで小鳥のさえずりのように、ゼウス親子の声が聞こえてくる。まったく、何千年も生きて、まだ飽きないのか? 人の運命を操っては、一喜一憂、いいかげんにしてくれよ、と言いたくなる。神々にとっては、世界は、宇宙そのもので、全体にのっぺりと均一で、そんな中で「色を添える」のは、重力の移動による「出来事」だ。そしてそれが、何万年も、いや、測れないほど長く、続いていく。だが、われわれ人間にとっては、たとえ、転生しても、世界は、ざらざらとした手ざわりを持ち、この手ざわりこそ、生きている実感と言うものだ。
ルイ14世が即位する前のフランスは、どうしようもない寂れた国だった。それは、鈍い色の川が活気もなく流れる大阪の街の比ではない。政治と言える政治もなく、権力者たちは星占いを信じ、罪のない者でも平気で火あぶりにしてしまう。街は不潔で荒れ放題。権力は、ローマの法王とその手先に握られ、民衆は奴隷そのものであった。
ルイ14世の母は、アンヌ・ドートリッシュ、スペイン王フェリペ4世の娘、フェリペ4世は、オーストリアはハプスブルグ家の嫡流。ルイ14世の父、ルイ13世の母は、マリー・ド・メディシス、フィレンツェは、メディチ家の出身。ヨーロッパの王家は互いに混じり合った。
私は書く。ヨーロッパの国々の、その悲惨な状況を余すところなく記述し、人間にとって、真に文化的に生きるとはどういうことかを考える。のちに、フランス革命の基盤となるものを、私は用意する。
襤褸を纏った人々が陰鬱な表情で立ちすくむ街を、ネズミが飛び出してくる街路を歩きながら、私は、かつて、俳諧の大宗匠と呼ばれた頃のことを脳裏に描いていた。「箱庭」の閉塞もあれば、未来を閉ざされた閉塞もある。17世紀末のヨーロッパで、名もない民衆に生まれた人間の生の意味を私は考える。
初しぐれネズミも蓑をほしげ也
「おとうさま、『ルイ14世の世紀』第25章におもしろい記述がありますわね」
「『鉄仮面』のことじゃな」
「『鉄仮面』という題名は、ほかならぬ日本人がつけたというじゃありませんか」
「しかしこの、鉄の仮面を被りつづけた男、『鉄仮面』というほかないではないか」
これは落ち穂拾いのハナシです、と、ヴォルテールは書く。ルイ14世の宮廷をめぐるエピソード。そのなかにあって、人の心をぐいと引きつけてやまないものは、彼が、「鉄の仮面を被りつづけた囚人」と、記す男の話。「被り続けた」ではなく、「被らされ続けた」でしょ? すでに陰惨な匂いがするわ。人々はそんな陰惨な匂いが大好き。「得体の知れぬ囚人が一人、極秘裡に、プロヴァンスの海にある、サント・マルグリット島の城に運ばれていったが、この囚人は、背丈は普通以上、年が若く、よにも端麗な風貌をしていた」(岩波文庫『ルイ14世の世紀』丸山熊雄訳)___囚人ではあるものの、人々の態度は丁重、食事もりっぱなもので、望むものはなんでも与えられたとか……。事情を知っていると思われる数少ない人々も、この男が誰か、ついぞ漏らすことはなかった。
「これは、あれですわね、レオナルド・ディカプリオ主演の『鉄仮面』でしたっけ? 三銃士の活躍する話ですわ。三銃士のそれぞれには、ジェラール・デュパルデュー、ジョン・マルコヴィッチ、ガブリエル・バーンのおじさまスターが扮し、まことに豪華キャストでございました。あれによりますと、例の『鉄の仮面の男』は、王にそっくりな男で、性格は邪悪な王と正反対、正義の味方というものでした。王は彼を邪魔に思って、鉄の仮面を付けさせて牢に監禁したのでした。その男のほんとうの素性は、王の双子の兄弟であり、二人とも、実は、王妃が、三銃士の一人のアラミスと契って産んだ子でした……」
「あの奇妙な事件のくだりを読んで、デュマ父は、そういう荒唐無稽なオハナシを考えついたのだな」
「王って、ルイ14世のことですの?」
「知らんな、わしゃ」
「鉄の仮面を被せるだなんて、人間て、ほんとにグロテスクなことを思いつきますわね」
「ヨーロッパ王家はまったくグロテスクじゃ」
口がバネでできていて、ものを食べるのには不自由しない鉄の仮面を被らされた囚人は幽閉されている搭から、銀の皿を投げた。それは、下の海をゆく漁師の船の上に落ちた。その皿には、ナイフで文字が刻まれていた。それを拾った漁師は、司令官のところへ届けた。漁師は文字を読めるかどうか問われ、「読めない」と答えた。ほんとうに読めないかどうか調べられ、ほんとうに読めないとわかると釈放された。そこにはなにが書かれていたのだろう? ヴォルテールはなにも記していない。彼自身もなにも知らなかったに違いない。街は急にしぐれてきた。この時代に、長く留まりすぎた。
謎多きルイの世紀もしぐれ哉
(この章、了)