今(1010年)から、およそ二百年前より、京都賀茂神社、伊勢神宮には、未婚の皇女ないしは女王が、斎院、あるいは、斎王として、神にお仕えする巫女のような役目を果たしておりました。その斎院の女房で、中将の君という者が、わたくしの弟惟規の恋人で、ある時弟に文をよこし、わたくしがそれを読みました。それによると、中将の君とやらは、自分ほど思慮深く、教養のある女はいないと書いており、なにやら、むかっ腹が立ちました。というのも、世間というものから隔たった神社におれば、現実というものに面と向かうこともなく、世の中とはすこしズレていても、気がつかないからでございますし、そういうところでは、大して気を使うような出来事もないからでございます。
斎院と言えば、伊勢の斎院の斎王、なにがしの皇女と、関係を持った在原業平のことを思い出します。業平というのは、まさに、二百年近く前に生きた男でございます。後世の人は、われわれのことを、同じ時代の人間のように考えがちですが、業平はわたくしにとっても、はるか昔の人なのです。
古い時代、古き官職、古き土、古き風。そうです、風は吹いていたのです。
皇后定子亡きあと、わがお仕えする中宮彰子さまの競争相手となるお后もおいでにならず、われら女房たちも、平和のうちに過ごしておりました。中宮さまは、女房たちが、男たちと戯れたりするのを好まず、しからば、われらも、おとなしく静かに、しだいに口数も少なくなってゆきました。そんな日々を送るわたくしですので、あの勝手気ままの現実知らずの、斎院の中将の君のいい気な文面が許せなかったのでございます。
しかし、どれもこれも、腹を立てるという熱い感情も、この確固とした現実も、今し方消えた白檀の香よりもたよりなく、跡形もなく消え去っていくのございましょうね。
人よここは甘き香の巫女ひとり男を待って暮らした神殿
しかしながら、わが中宮さま、幼いときより、悪目立ちする女房を見かけ、あんなふうになってはいけないと自らに言い聞かすあまり、何事にも「地味め」を好み、自分というものを押し殺して生きてらっしゃる。自然、女房たちも、それに習うことになる。ことに、「いとなんごとない」家からお出での「姫君」たちは、いつまでも、「お嬢様」で嫌になる。何事も目立ちすぎず、ひっそりと暮らす。それが、利口な女というもの。そんなふうな風潮が、わが宮殿にある。そんなふうにして日々は過ぎていく。そんななかで、「目立つ」女三人。
その一、和泉式部、31才。その歌は艶めいて、人の気を引く。正式な作法や理論を知っているわけではなさそうだけど。皇子たちとも交渉を持ち、「浮かれ女」とあだ名される。色で言うなら、彼女こそ、「紫」の人。49才まで生きた、という証あり。
そのニ、赤染衛門、49才。わけ知り女。風格の人。人生の酸いも甘いもかみ分けて、堂々と生きる人生。81才まで。どうだ、ボーヴォワール。色で言うなら、えび茶色。
その三、清少納言、43才。いやん、オバンやん。かく申すわたくしは、まだ、36才だもんね。なによ、この女、でかい態度で、自分ほど頭のいい女はいないって顔して、宮中を歩いてる。よく見りゃ、漢字は間違いだらけ。いい年して、軽薄でさ。桃色。その没年には、開きがあり、55才で死んだのか、62才まで生き延びたのか?
しかし、この三人が、つまんない宮仕えを面白くしてくれているのは確か。
西へ行く恋のつばさにことづてよ時の上書き書き絶えずして
「式部、そなたは、ジュリエットか!」
行きめぐり誰も祖国に帰る旅王子は見たり父王の霊
「ぬあんと!」
「お父さま、あたくし、式部は式部でも、ム・ラ・サ・キではなく、イ・ズ・ミですのよ」
「ぬあんと!」
果たして、どれくらい昔のことなのか、忘れてしまった。あまりにも時が錯綜し、経ちすぎたから。だけど、私の体は覚えている。乾いた荒野に日が高く上り、なんの化学物質にも汚染されていない清らかな河をぎらぎら輝かせていた。しかしその日は、この世で最悪の日、その清らかな河は、血で赤黒く濁り、人馬の屍で埋まる___。そうだ、あの、豪勇の武将、アキレウスが荒れ狂うからだ。親友、パトロクロスをトロイアのヘクトルに殺されて、仇を討つべく……。しかも、神々までが、二手に分かれ、戦闘を開始する始末。厚顔無恥にも私に立ち向かってきた神は、血腥いことの大好きな軍神アレス。ばかめ。おのれの実力も知らずに。長槍で突いてきたこやつから私はさっと身を退き、拾った大石をこやつの首筋めがけて投げつけてやった。鋭い石の角がこやつの皮膚を裂き、血管を壊す。こやつは全身が萎えて、その巨体を長々と大地に伸ばして横たわった。私は心の底から大声をあげて笑った。
アプロディテが、アレスを引き摺っていこうとする。それを見て、ゼウスの妻ヘラが私に声をかける。
「アテネよ、牝犬が疫病神を引き摺っていこうとしておるぞ。このままにさせておいてよいのか! すぐさま追いかけよ!」
「オッケー!」私はにやりと笑って追いかけ、アプロディテの胸に空手チョップを食らわせた。アプロディテはアレスを放し、大地の上に倒れた。
「アプロディテよ、よい度胸をしておる。トロイア軍もこのように勇気があったらよいのにな。そうすれば、われらはとっくにトロイア城を攻めて落としておるわ!」
「アテネよ。『和泉式部の穴』におるのではないのか?」
ときおり、日が陰り、どこぞの時空にいるらしい父ゼウスの声が聞こえた。お父さま、今はそんな場合じゃないのよ、それは、なんというか、ヒマな時の夢想……。今は血で血を洗う争いの時。
「アテネよ、よく言った」
白い腕のヘレは満足げに言った。
ポセイダオンも、トロイアの味方をするアポロンと一戦を交えようとしたが、アポロンは相手をせずに立ち去った。この二人こそ、トロイアの古王、ラオメドンに雇われて、トロイア城を築いたり、トロイアの家畜の世話をし、言わば、トロイアという街を形作ったのであるが、王の裏切りに合い、結局賃金を払ってもらえず、揚げ句の果てに脅されて、追い払われたのであった(いくらゼウスの命令とはいえ、なんで神が人間に雇われねばならぬのか?)。ゆえに、ポセイダオンは、トロイアに深い恨みを抱いていて当然であるのだが、アポロンの方は、おそらくは「故郷」だったので、トロイア側についていた。しかし、彼はあえて、戦うことをしない。
そんな彼を苦々しく思ったのは、姉のアルテミスであった。
「そなたは逃げるのか、アポロンよ。父上の屋敷で、『ポセイダオンと戦って見せる!』と、切った啖呵はただの寝言だったのか! 意気地なしめが!」
狩りの女神はこのように弟を罵ったが、ゼウスの后ヘラは、彼女を叱りつけた。
「いい気になるなよ、田舎者めが! おまえは、獣と戦っているのがお似合いさ。間違っても、わらわに立ち向かおうなどと思うな!」
そして、彼女の手から弓を奪い取り、彼女を打ち据える。アルテミスは泣きながら、ゼウスの宮殿へと戻っていく。
「おとうさまあ!」
いやはや……お父さまったら、いろんなところで子どもをこさえたりするもんだから……。
なんで、こんなことになったのか___。とにかく、神々が二手に分かれて戦い始めた。もともと神とは、戦い好きなのかも知れない。
そしてアポロンは、密かにイリオス城へ忍び込んだ。その城のことが気がかりだったからだ。ギリシア勢に陥落させられはすまいかと。トロイアの王、プリアモスが、城の櫓に上ってみると、アキレウスが猛威を奮い、すぐそばまで来ていた。
「た、た、たいへんだ! あの男に入られたら最後だ。味方がすべてなかに逃げ込んだのを見届けたら、すぐに門扉を閉じるのだ!」
しかしてアポロンは、一人の戦士に力を注ぎ込む。アキレウスに立ち向かわせるために。その名をアゲノル。彼の内部にみるみる勇気が満ち、アキレウスに立ち向かっていく。
「ばかめ! おまえも死ににきたのか!」
アキレウスは言って、彼に襲いかかろうとしたが、そのとき、アポロンは深い霧を張り巡らせて、彼の姿を隠した。そして、アキレウスには、トロイアに近づけないようにする___。いかに駿足のアキレウスといえ、アポロンの味方するアゲノルには追いつくことはできない。ほんのちょっとの距離を埋めることができない。そのあいだに、トロイアの面々は、城壁のなかに逃げ込んだ___。
死ぬとわかっていて、なぜ戦うのか? 滅びるとわかっていて、なぜ守ろうとするのか? 傷つくとわかっていて、なぜ、……武器を取るのか? アテネよ。愛しいこの私よ。なぜなら、傷は、……日の光によく映えるし、記憶するための一手段であるから。