月にじっと見入ることは不吉だと言われる……。堪えがたい孤独に、夫が残した漢籍などを取って読み耽る。ほかの女房たちがそれを見て、
「いけませんわ、女が漢字など読んでは。経本さえ読むものではないと言われておりますのに。あなたが幸薄いのは、きっとそのせいですわ」と言う。
漢籍よりほかに、私の逃げ場所はない。私はきっとアマチュアに違いない。愛のアマチュア。
「それって、『プロフェッショナル』は、いわゆる『商売女』と言うこと?」
女友だちが言う。
「違うわ。この時代に、果たして、『商売』が成り立っていたのどうか、知らないけど、この場合の『プロフェッショナル』は、たとえば、あの方のような……」
『和泉式部日記』は、1003年の旧暦4月十何日、ということは、新暦5月中旬から、始まっている。中宮彰子出産のために帰った里邸、土御門殿の、秋の気配濃厚ななかでの読経から始まる紫式部の日記とは大違い。和泉は、恋人の為尊(ためたか)親王を亡くしたばかりで悲嘆に沈んでいるとはいえ、五月の木漏れ日のなか、その弟、敦満(あつみち)親王のアプローチを受ける、これがほんとのプロってもんね。
敦道は、兄の使っていた童に、橘の枝を和泉に届けさせる。この花を見て、なにかお言葉をいただきたいと。
亡き人を思っているのに、言葉など……。そう思いながら、和泉は、歌を返す。
香しい花の匂いで思い出す季節の鳥はよく似た声だわ
敦道の返歌
そうですよ私は兄と同じ枝とまって鳴いてるお気づきですか
シトラスの花。甘酸っぱい官能の香……。女は顔を上げる。緑色の影に染まった顔を。
敦道、23才。為尊は前年26才で死亡。和泉式部、25才。
その時、紫は、30才だった。ニ年前に夫を亡くしていた。それ以後、私はずっと、一人でした。一人の恋人も作りませんでした。なぜなら、私には、没頭するものがあったから。……ほんとうだろうか? どうしようもない寂寥感を、あの物語を書くことで、かろうじて支えていた……。紫よ、おまえの顔は、イザベル・ユペール似ている……。
「と、くれば、和泉は、アジャーニかしら?」
二人のイザベル。青白い顔のユペール、扇情的なアジャーニ。
つまんない二人の歌のやりとりはどんな神にも捧げられない
愛のアマチュアだからこそ、物語を書き得るのだ。私は聖母の祭壇に、官能の物語を捧げる。
聞くだけでコードに触れるその話処女のごとくにわれは捧げる
「ふん、『愛のアマチュアだから書き得る』物語ね……」そう掃き捨てるように言う赤いマニキュアの女、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、60才。『老い』という著作を書き上げたばかりだ。人は「老いる」のではない、「老い」は社会が、文化が規定してくるものだ。第一部「外在性の見地」1、「老いと生物学」2、「文化人類学の資料」3、「歴史的社会における老い」4、「今日の社会における老い」第2部「世界内存在」5、「老いの発見と仮説」6、「時間、行為、歴史」7、「老いについてのニ、三のサンプル」結論。____
ご丁寧なことに、シモーヌとは、上記著作の末尾に、「補遺」として、老人の性的能力についてのキンゼー報告を添付している。なにが言いたいのか、シモーヌ。老人になっても、ほら、結構性的能力ってあるものよ、とでも? 80才の白人だか黒人だか知らんが、男性が、週に何回射精しようが、そういう統計というか、そういう統計を支える思想は、もはや21世紀に通用しない。21世紀は、「そして誰もしなくなった」の世紀なのだ。
未だシモーヌは、coit(性交)だの、ejaculation(射精)だのという単語に囚われていた。彼女の頭は、そういった「用語」でいっぱいだった。そういう資料をつきつけてみることが「フェミニズム」だと思っていた。
60になっても、赤いマニキュアを欠かさない女の足元は、赤いハイヒールで被われているだろう。そのハイヒールは、黒く湿った墓場の土を踏む。確かに彼女みたいな人がいたからこそ、今日のララ・クロフトみたいな、完全無敵、戦うことが三度の飯より好きな女がいるのだ。しかし、ボーボワールは現実の人、ララは、ゲームの中のキャラではあったが。まあ、とにかく、彼女が墓場を行くと、そこには、正真正銘の、世間から、いや、あらゆる世界から見捨てられた「老人」がいて、墓場を掘っているのだった___。
それは、シモーヌより二つ年上で、三年長く生きた、サミュエル・ベケットの登場人物、クラップ氏だった。
「わかってない女だな」と、クラップ氏は、シャベルで土を掘り返しながらつぶやいた。
「ムッシュウ、いま、なにか言いました? 『わかってない女』とかなんとか……、それって、あたしのことですの?」60才にして、未だ色香が漂ってないこともないシモーヌは足を止めて尋ねた。
「そうだよ、おまえさんのこった。ほかに誰がいる?」
「あたしは、あの賞(注1)はわたしにこそ与えられるべきだったと思ってる女です。あなたみたいな……」
「ははは。口ごもったな、ばあさん」
「ばあさんですって!」
「そうだよ、ばあさんだよ。おれの定義じゃ、あんたはすでにばあさんだ。あんたの本じゃ、65才以上ってことになってるみたいだけど」
「あんたみたいな汚い老人に、ばあさんなどと言われる筋合いはないわ!」
「抗議しても無駄さ、あんたとおれでは、所詮、住んでる次元が違うんだ。もちろん、おれの次元の方が高級ってことだけど」
「このお! くたばりそこないめが! 警察に言いつけるぞ、墓なんか掘って」
シモーヌは老人の胸ぐらをつかもうとしたが、あまりに汚らしいので手が出せず、老人に向かって唾を吐いた。クラップ氏は気にもかけず、土を掘り返す作業にもどった。歌まで歌いながら。
「よいこらさ、ラムが一瓶と……♪」
シモーヌは、どこかで聞いたことのある歌だと思って、首を傾げながら遠ざかっていった。
「おとうさま、人間て、悲しい生き物ですわね。でも、『老い』を避けたいという気持ちが、われわれ不死の神を作ったとも言えそうですわね」
「ばかもん! 人間がわれわれを作ったのではないわい! その逆じゃ!」
「あらま。でも、クラップ氏はいったい、誰の墓を掘り返していたのかしら?」
「決まってるだろ、シモーヌの、だよ」
「あらま」
きみがため秋の墓場を掘り返す赤きヒールで歩かせるため
注1:1964年にサルトルが拒否したノーベル賞のこと。ベケットは1969年に受賞、その前年には、Kawabata Yasunariが取っている、どーでもいいが(笑)。