「青い花」

第6部「大きくなったら何になる?」


 紫式部の父が弟に漢籍の講義をしたところ、そばで聞いていた式部が先に覚えてしまい、「この子が男の子だったら」と、父が嘆いたというエピソードは、『紫式部日記』で、式部自らが書いていることだった。そしてこの部分は、日記の中にはめ込まれた、誰かへの手紙の形になっている。式部はいったい誰に宛てて、この手紙を書いたのか。言葉遣いからいって、身分の高い人のようである。この長い手紙のなかで、式部は、近代人が抱えるような悩みを、憚るところなく語っている。しかし、その手紙は人に読まれてはいけない、用心に用心を重ね、新しい紙ではなく、古い手紙を使って書いていると書いてる。すでに書かれた手紙の、掠れ始めた文字の、余白に、激しい内面を綴ったのだろうか?
 私のように美しい女……とは、もちろん言っていない。しかしある女房が、それははっきり名指しで、左衛門(さいも)の内侍(ないし)という女が、私のことを、「学があると思って、いい気になっている」「才能をこれ見よがしに見せびらかしている」みたいなことを言いふらしている、と言っている。人の目が気になる。だから私は、屏風に書かれている文字さえ読まず、ふるまいには十分注意を払っている。一条天皇に、拙作『源氏物語』をお見せした時は、「あなたは『日本書紀』を読んでいますね。ほんとうに才能のある人だ」と言われ、それを耳にしたその女、左衛門の内侍=橘隆子は、「あーら、『日本書紀のお局サマ』だわー」と、私が通りかかると、聞こえよがしに言ったりする。中宮さまに、『白氏文集』をご講義申し上げていると、彼女が知ったらどんなことを言われるか……。まったく世間の目というものは煩わしいものである。もう年が年だし、早く出家してしまいたい。いまは、ひたすら阿弥陀仏におすがりする日々です。でも、そんなふうにしても、心はまったく安らがないのです。目も老眼になってきて、経文も読みにくいし……。ほんとうに、どうしようもないわたくしでございます。
 あなたさまからのお手紙は、すべて焼き捨てました___。This is NOT Japan...No, no,no...This is NOT Japan...No, no, no....

 「バカな女だ。阿弥陀如来に手紙を書いて、いったいどうなる?」
 「宮中では才女だと評判で、人の目が煩わしいって言ってるけど。自意識過剰じゃないかしら?」
 「『聖』になりたいと。『聖』というのは、男の坊主だろ」
 「もはや、男か女かもわからなくなっているのよ」

 This is NOT Japan...No, no, no...
 「歌っているのは誰だ?」
 「左右の目の色が違うイギリスの歌手ですわ、お父さま」
 「これが日本でないとして、いったいどれが日本だというのだ?」
 「日本は、お父さま、これですわ」
 「これって……」

 わたしには言葉がない。今のわたし自身の気持ちを表わす。部屋のなかには「おまる」がある。その匂いが、すべてのロマンを台なしにする。わたしたちは長い髪と衣装をたくし上げて、衝立の陰の「おまる」にまたがる。そこに人がやってくることもなきにしもあらず。それでどうやって、心ときめく恋愛が成立するというのだろう? もともと部屋は薄暗く、汚いものもよく見えないのだけれど、匂いは隠すことができない。もちろん、香で隠すのだけど。だから私は、隠したものをことさらに思い出させる香が嫌い。白檀も沈香も、伽羅の匂いも、私には、排泄物を思い出させる。
 This is NOT Japan...No, no, no...This is NOT Japan...No, no, no...
 
 白のTシャツに、白い、体にぴったりしたパンツを履いた金髪の男がこっちにやってきた。左の目は青、右の目は緑。タバコを銜えながら歌っている。どうしてタバコを銜えながら歌えるのか? この男の特技である。庭の植え込みの中から姿を表わした男は、タバコをぽいと、池の方に放り投げ、ちんけな格子戸を開けた。そこには、髪の長い、男の知るかぎりでは、ロンドンのホームレスを思わせる薄汚れた女が、すでに文字の書きつけられた紙に、しきりに文字を書きつけていた。女はあっけに取られて顔を上げた。男と目が合うと、男はにっこり笑って手を差し出した。それは、紳士が淑女に差し出す手だった。
 「マドモワゼル……」
 「あなたさまは……?」
 「阿弥陀如来です」
 
 「あらあらあら、お父さま。式部ったら、驚きもしないで、自分の手を彼の手に重ね、なんともしあわせそうな顔をして行ってしまったわ! 阿弥陀如来って、あんな男だったのォ?」

 わたしがほんのこどもの頃、父上に訊いた
 わたしは何になるのかしら? 玉の輿? 女学者?
 すると父上は言った 
 Que sera, sera
 Whatever will be, will be...
 未来なんてくそ食らえさ

 わたしが宮仕えした時、中宮さまに訊いた
 わたしはどんな女房になるべきでしょうか? 何事も胸に秘めた? 如才ない?
 すると中宮さまは言った
 Que sera, sera
 Whatever will be, will be...
 宮廷なんてくそ食らえよ

 わたしが恋に落ちた時、相手の男に訊いた
 わたしの歌はいかがでしたか? お気に召しましたか?
 すると恋人は言った
 Que sera, sera
 Whatever will be, will be...
 きみ以外のものはくそ食らえだ

 Que sera, sera
 Whatever will be, will be...
 Que sera, sera...



(C)Jay Livingston & Ray Evans for the words "Que sera, sera"




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