青い花

第7部「春の夜の夢」(1)


 シューベルトのピアノソナタを聞きながらひとの愛撫に身をまかす午後

 本棚の本を抜きたるその時にひと近づきてわれは目を閉づ

 おまえの歌は、なんていうかこの、すごく特殊だ、と道長さまは言われた。直裁な恋の歌も、ただ単に風物を詠んだだけの歌もない。必ずある場面があり、まるで三十一文字の中に、物語が存在しているようだ。あるいは、歌の主は、まず誰かを演じ、その人物の立場で、詠んでいるかのようだ。考えてみれば、おまえの「日記」も、罪のない記録文とは言えない。関白家の栄華を記録しながら、覚めた目の作者が、フィクショナルな面白さを狙って、構成しなおしてあるようだ。いけませんわ、道長さま、あなたさまには奥さまが、そして、愛人も……。そう言いながら、私は、彼の愛撫を促すように目を閉じるのだった……。夢のなかでもなお……。そう、夢のなかでも、なお、彼の愛撫を全身に感じられるように、本棚の前に立ったまま目を閉じるのだった。

 春風やちがうオトコの腕のなかでも同じオトコの夢を見るうう

 使用済みティッシュペーパー鼻に当て深呼吸するベアトリーチェよ

 おっといけねえ、あわてて飛び起きた。道長の愛撫に恍惚としてるなんて、冗談じゃない。夢とはまったく不条理なものだ。あの、権力志向、マッチョな中年オヤジにうっとりさせられるほど私は落ちぶれちゃいない。だいたいあの羽織袴(のわけはないが、そんなイメージ)がダサい。娘の懐妊だけをただ心待ちしている態度も嫌悪を催す。しかし静かな春の午後の図書室で、本棚から本を取り出そうとしている私に近づいてきて、手を伸ばし、私の体に触れようとしたのは、まさにこの邸の主人だ。彼はダブルのスーツを着ている。そして、向こうの方には、彼の妻や家族、友人たちがいて、お茶を飲みながら談笑している。これは、ある金持ちの家で催されたミニ・コンサートのあとのパーティーだ。

 「式部、私は道長ではないよ」
 「いけませんわ、あなたがたとえ誰であっても。だって、私には……」

 そう、私には、愛人がいる。それも、若い。しかも、美しい。しかも、聡明な。しかも、繊細で心優しい。しかも、私を深く愛している。それなのに、なんで、その男の愛撫をも受けようとするのだろう? つまり官能は、というより、官能への欲望は……ちがうものなんだ。

 めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに身を委ねゆく女なりけり

 鹿を撃つ鬱蒼としたその森で待ってみようか千年のちを

 つまりここは、さる貴族の別荘。その別荘は、やがて、そこの使用人=農奴に買い取られる……。バブルの始まりだ。

 お母さまお姉さまさらばわれわれの桜はけふが見納め

 「あらあらあら、いつしか『桜の園』になっちゃったわ」
 「別荘地を買い取り、市民の家庭菜園として貸し出す。まさに、ロシア・バブルの始まりじゃ」
 「それってもしかして、日本に先立つこと百年近く……」
 「いいかげんにしてよ、アテネ。あなたっていつもいいところでぶち壊す」
 「官能なんて、バカみたいだからよ」

 1903年、チェーホフは、結核療養のために転地した、「ロシアのリヴィエラ」と呼ばれる風光明媚なクリミア半島の保養地、ヤルタで、最後の作品、『桜の園』を書いた。「ヤルタ会談」で有名なあのヤルタである。分割された東西ヨーロッパを作り上げたこの会談には、公式の議事録が残されていない。それがどのような会議であったかは、すべて、同行者たちのメモ等に頼るほかない。

 ヤルタ三吟『ヤルタの春は何もない春です〜♪』

 成立1945年2月7日、実のところ、ヤルタより三キロ西方のリヴァディア離宮(体の不自由なルーズヴェルトの宿舎)。

 連衆 ルーズヴェルト(アメリカ合衆国大統領、63歳)
    チャーチル(イギリス首相、70歳)
    スターリン(ソ連首相、66歳)

(初折表)
1雪残る断崖黒き真昼かな (ルーズヴェルト)
2海水青く檸檬にほふ浜 (チャーチル)
3潮風にひとむら棕櫚の春みえて (スターリン)
4プラハに響く兵士の靴音 (ル)
5街はなお霧わたる夜に残るらん (チ)
6エルベのこちら秋は来にけり (ス)
7泣く人の心無視して草枯れて (ル)
8生死をとへばあらはなる罪 (チ)

(初折裏)
1人民の施設やあらし乗り越えて (ス)
2心地よきかなこの大広間 (ル)
3今更に心がかりは総選挙 (チ)
4ドイツを追ひてどこまでもゆく (ス)
5満開の花こそ敵のしるしなれ (ル)
6まだひそむ日の散る前の影 (チ)
7落ちつるとナチつつき鳥のかへるらむ (ス)
8森林ゆけば引く線もなし (ル)
9閉める間も裾はしぐれの社会の窓 (チ)
10わが草原を月や照らさむ (ス)
11犬つれた人妻思ふ秋の午後 (ル)
12映画をはりて吹きわたる風 (チ)
13バルカンを走る列車は笛鳴らし (ス)
14明日の平和よわれにかからむ (ル)

(ニ折表)
1能もなきフランス男よ恥を知れ (チ)
2クロワッサンのバターべたべた (ス)
3朝食の卓に添へたる花毟り (ル)
4進退決める春の戦線 (チ)
5柔らかき月の光に安堵して (ス)
6いびき聞こえる秋のあけぼの (ル)
7霧たちて銃弾込めるスナイパー (チ)
8息を殺して手袋はめる (ス)
9冷える日もコート一枚バーバリー (ル)
10頼もしきなりわがブランドは (チ)
11贅沢はブルジョワジーのお楽しみ (ス)
12正しき競争正しき結果 (ル)
13開票を待つことにする恋人に (チ)
14なおうらめしき世間の眼差し (ス)

(ニ折裏)
1つらぬけばこれは特ダネスキャンダル (ル)
2タイプ打つなりローマの休日 (チ)
3帝国は今たそがれの断末魔 (ス)
4観光名所も名残こそあれ (ル)
5名にしおふアウシュビッツも草の原 (チ)
6トラウマ残し夢にめぐらん (ス)
7分析医ザッハトルテを食べ残し (ル)
8また旅立む罪を逃れて (チ)
9逢ひたくてバカンス過ぎた海に立ち (ス)
10夏の思ひ出抱きしめてゐる (ル)
11郷愁もヘルマン・ヘッセ命取り (チ)
12ラインはすみて月の輝く (ス)
13人類の小さな一歩偉大なり (ル)
14未来の自慢暖炉なき部屋 (チ)

(三折表)
1冬枯れの平原に立ついい男 (ス)
2もすこし欲しい彼の身長 (ル)
3丈高きガリバー春の野さまよへる (チ)
4菫手にして溺れつる女(ひと) (ス)
5散るべきか散らざるべきか花残り(ル)
6チルチルミチル木の実ひろいか (チ)
7秋来ればクレムリンも時雨るらん (ス)
8宮殿に出る月は欠けたり (ル)
9今はまだ修業中の身ミッテラン (チ)
10隠し子残し墓穴へ去る (ス)
11大いなる家族集へる新世紀 (ル)
12通信衛星違法の探査 (チ)
13NATOとは内政干渉のまたの名か (ス)
14It's NOT a war, it's a GENOCIDE! (ル)

(三折裏)
1ソマリアは飢餓を仕掛けて武器にする (チ)
2それでも月の出るぞ哀しき (ス)
3露わけてひとり残さず連れ帰れ (ル)
4故郷のヒース野なれに見せたし (チ)
5鶉入りパイの食べたし昼下がり (ス)
6お持ち帰りはお一人様一個 (ル)
7待ちかねてワインを開けてひとり飲み (チ)
8酔わずをられぬ心察して (ス)
9政治よりただ難しき恋の道 (ル)
10忘れたはずがすぐ燃え上がる (チ)
11「総統」になど文学のわかるらん (ス)
12こぼれ落ちたるものこそ美なれ (ル)
13暖かき黒き畑を掘り返し (チ)
14人は目ざめる春の農場 (ス)

(名残折表)
1極東の山に鴬訪れて (ル)
2さくらさくらの暗号を解け (チ)
3うるわしの花ある国に背をむけて (ス)
4古き都で逢瀬かさねる (ル)
5年上の女王陛下身をひいて (チ)
6わが兵隊の闊歩するとき (ス)
7手放せばなおさら惜しいひとの土地 (ル)
8指をくはえて堪え忍ぶ日々 (チ)
9与ふれば手におへぬゆえの自決権 (ス)
10じゆうじゆうとひとの泣くらん (ル)
11秋風の旅の宿りも寝つかれず (チ)
12窓を開ければ有明の月 (ス)
13ミサイルが萩色の空飛んでゆく (ル)
14ひやりとさせるきみの冗談 (チ)

(名残折裏)
1さりとても添い寝の床の夢のなか (ス)
2幾たびも見て慣れることなし (ル)
3英雄も役者もいつか死に絶へて (チ)
4ロボット眠る春の海底 (ス)
5ときはいまヤルタの彼方かすむらん (ル)
6黒いパン焼く町の煙よ (チ)
7クリミアは何事もなく果てるべし (ス)
8ただポツダムの道ぞ正しき (ル)


 ヤルタ会議は、正式にはクリミア会議と呼ばれた。開催地を隠すためであったと言われる。この会議で決められた、第二次大戦後の東西世界の分割は、その会議に参加できなかったフランスのドゴール将軍によって、「ヤルタ体制」と名づけられ、この名称は、その後、普遍的な概念になった。
 この、黒海にのぞむ、クリミア半島にある風光明媚な保養地は、スターリンによって民族が強制移住させられるまで、モンゴルートルコ系の住民が住んでいた。この町に来るためには、アメリカからも、イギリスからも、厳しい旅路であった。もともと病身であったルーズヴェルト大統領は、この会議のニヶ月後に脳溢血で死んだ。チャーチルは、五ヶ月後の、日本への無条件降伏要求が決定されたポツダム会議の最中に、総選挙に破れ、首相の座を追われた。ヤルタでの「地の利」を大いに利用したスターリンは、1953年まで生き延びた。

 北の国では悲しみを暖炉で燃やしてるのか今ははる




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