親父の話 2008.10.12

今年の秋の彼岸に私は用事があり、家内に我が家を代表して田舎に墓参りに行ってもらった。私は自宅の仏壇におはぎをあげ線香をあげて鐘を鳴らしただけだった。両親、ご先祖様、私のずぼらをお許しください。
../ohaka.gif 歳をとったせいか最近親父のことを思うことが多くなった。親父のことを思うと言っても、親父がどんな人であったとか、なにをしたかとを考えるのではなく、私が何事かを決めるときに親父だったらどうするだろうと考えるようになったということだ。
親父が死んでもう30年近くが経つ。親父が死んだとき生まれていなかった息子は、親父が死んだときの私の年と変わらない。もっとも当時私は結婚して娘がいたが、息子はいまだ独身である。
時が経つのは早い。葬式などで親戚に行くと、中学生の頃の記憶しかない子供が既に結婚して子供がいたりすると、過ぎた歳月を実感する。
自分自身でも今までの人生で見聞きした世の中の事件と、我が家の出来事の前後関係つながりを把握することがだんだんと困難になってきたのを否定しない。
いえ、たいそうなことではない。例えば子供たちとドライブしていたのが近場の遊園地に連れていくのに変わったのは第二次オイルショックのためだったのだろうか? いやそれはその後の不況の時だったのだろうか? 第二次オイルショックの時は、ビールが高くて晩酌は焼酎に変えたのだっけか? などという記憶が定かでなくなってきた。
しかし私はそれを単純に歳をとって記憶力が衰えたためとは思いたくない。人間には取り扱える記憶容量に限界があり、それを超えると使わない方から頭の中のハードディスクのゴミ箱に移していくのではないかという気がする。そういうことにしておこう。

親父ならどう考え、どう決断するかと思うようになったと言っても、私が親父を尊敬していたとか、親父のようになりたいと思っていたということは、まったくない。
それどころか、私は子供の時から親父が死ぬまで葛藤の連続で対立していて、睦まじいの正反対であった。
どんなことで仲たがいしたのかというと、取るに足らないことばかりであったが、その根本にはやはり世代が違い、考え方が違ったためであったろう。決して単なるいっときの行き違いではなかった。
どんな時代であっても(それこそピラミッドにも書いてあるように)世代対立はあるのだが、私と親父の世代の違いは極めて大きかった。当時は戦前の思想、価値観と戦後の価値観の対立があった。戦後民主主義なんていうサヨク思想に染まらなくても、旧来の男尊女卑とか親の言うことは絶対だという思想は、やはり自由というか素直にものを考える者には納得いかないのは間違いない。
まして軍隊出身のオヤジはなにかというと暴力をふるい、子供たちや母親にビンタをした。今で言えば家庭内暴力というのだろう。そしてそれは我が家だけではなかった。当時は引き上げ者の安普請の長屋に住んでいたので、隣の家のけんかは聞こえたのである。隣の大工も奥さんや子供に暴力をふるったし、反対側の家ではご主人が酒乱で酒を飲むと大騒ぎだった。隣の奥さんが我が家に逃げ込んでくるなんてことは、日常茶飯事とは言わないが、年に何度もあった。
そして歯がゆいのは我が家でも母親がそういう父親の考え行動を、当たり前のこととして是認していることであった。母親になぜ反発しないのかと聞いても、しょうがないのだと言うばかりであった。サヨク教育とは無関係に、そういうことに疑問を持ち反抗するのは当然だろう。

そして私にとっては更に重大なことがあった。
今、年金問題が日本が滅亡する大問題のように騒がれている。でも私の子供の頃にはまともな年金制度はなかった。当時は子供が親を養うのが当然と思われていた。そして子供といっても長男であることは当然だった。
もちろん私の父はそれが当たり前という認識だった。当時の年配の人にとってそれも当然だったのだろう。しかし私にとってはそれは嬉しくないことだった。
それは私が田舎を出ることができないということを意味したからだ。私より5・6歳上の人は集団就職の時代である。蒸気機関車に中学を出たばかりの子供を満載して都会に旅経っていった。私も小学の頃、親戚の人を見送りに駅に行った記憶がある。まさに三丁目の夕日の時代だ。
集団就職列車とはハーメルンの笛吹きの現代版だったのだろうか? 

私の姉ふたりは集団就職の時代より少し下るが、高校を出ると都会にパンストを作る女工として就職していった。当時繊維産業は今で言えば半導体産業のような基幹産業だった。
私の中学の同級生も高校の同級生も半数以上が卒業と同時に都会に出て行った。都会は天国だと思うほどウブでもなくバカでもないが、都会は田舎より就職の機会はあり、いろいろなチャンスに恵まれているのは間違いない事実であった。八重洲で飲んだとか、池袋で遊んでいるなんて聞いてもうらやましいとは感じなかったが、夜間の大学にいっているなんて都会に行った友人から聞くと、自分は置いていかれてしまうという焦りを感じた。
ともかく私は田舎にとどまり、田舎の会社に就職して、親父と母親と暮らしていた。
それば定め、運命であったのだろう。

就職してからも結婚してからも、私と親父、そして母親とは葛藤の連続だった。間違っても親父に相談することもなく、親父に泣きついたこともない。結婚も自分ですべて決めすべて取り仕切った。オヤジは私の結婚式に来なかった。
やがて親父も病気になり私が送った
それも定めなのだろう。

親父とは戦い、いさかいの思い出しかないが、親父の歳になると自分が親父のような価値観になってきたのではないかという気がする。
お断りしておくが、私は家内や子供たちに暴力をふるったことはない。
いやあった。
娘がテレクラに電話をしたと聞いたとき娘を叩いたのが唯一であり、息子が我がままを言ったときに座布団をぶつけたのが一度だけである。
息子は今でもそれを覚えており、冗談半分でいつもひどい目に会っていたという 

そして今、いろいろと考え判断するとき、親父ならどうするだろうかと考える自分に気づくのである。
お彼岸になり、秋風とともに昔のことを思い出すのは、やはり私が歳をとってきたのだろう。
親父に対する反感、憎しみというものが風化して今親父が懐かしくなってきたということなのだろうか。


のんきなとうさん様からお便りを頂きました(08.10.13)
親父のはなし
いいですね親父のはなし。私も時々もう会えないのか、という何とも言えない悔しさと悲しさに襲われます。中学、高校のときはけむたくて避けていましたが、小さかった頃は好きでした。お風呂でのことですが、父が、両手でお湯を囲って、両手を絞ると噴水のようにお湯が上に飛ぶのです。それが面白くて、「教えて、教えて」とせがんだのですが、教えてもらえなかった。親になると親の気持ちがわかりますね。子供は宝です。

のんきなとうさん様 こんな個人的なつまらない話にコメントいただき感謝です。
子は宝・・・なのですが、私に子はいても孫がいないのが悲しいことです。


ひとりごとの目次にもどる