品質保証再考 08.11.04

これは、のんきなとうさんと私が意見交換する中で浮かんできたアイデアである。もちろん文責はすべて私にある。
ただそのきっかけを与えたくれたのは、のんきなとうさんであることを明記する。

本日はひとつ仮説を提起する。
それは「ISO9001に関わっている人々の多くは『品質保証』の意味を理解していない」というものである。
そんな初歩的、基本的なこと知らない人がいるはずがないとも言われるかもしれない。
もちろんあなたご自身は「品質保証」の意味をご存知ですよね?
「ふざけるな!」とか、「ばかにするな!」とかおっしゃいますか 
しかし現実にISO関係者が語っていることから推察するに、多くの人々は「品質保証」の意味を理解していないのではないかと思う。

では論を進める。
世の中で、書籍、雑誌、討論会、ウェブサイト、ネットの掲示板、そういったところで語られる「品質保証」とは、JISやISOで定義されている「品質保証」ではなく、日本語の「品質+保証」であったり、ひどいものは「品質+補償」とか「品質+保障」であったり、あるいは「広義の品質管理」や「狭義の品質管理」はたまた「品質改善」であったりする。
【保証】
1間違いがない、大丈夫であると認め、責任をもつこと。
「納期を―する」「彼の人柄を―する」
2 債務者が債務を履行しない場合に、債権者に代わって履行する義務を負うこと
「身元−人」
【保障】
ある状態がそこなわれることのないように、保護し守ること。
「国家の安全を―する」「社会―」
【補償】
損失を補って、つぐなうこと。特に、損害賠償として、財産や健康上の損失を金銭でつぐなうこと。
「労働災害を―する」「公害―裁判」
品質保証とはかくも融通無碍であったか 
「品質保証」の定義も時代とともに若干変わってはいるが、「品質管理」とか「品質改善」あるいは「品質保障」を意味したことは一度もない。
この図の概念はISO以前から変わらない品質保証ってこれだよ

具体的証拠を提示する。
まずISO9001の大御所、飯塚先生「品質保証は日本人になじみの深い品質保証、つまりお客様に安心していただける製品・サービスを提供するためのすべての活動という意味ではない。ISO9000がいう品質保証は、あらかじめ合意した仕様の製品・サービスを提供できる能力があることの証拠を示して、信頼感を与えるという意味です。品質保証とは国際的にはこのように認識されている」と語り品質保証が日本国内では誤解されていることを憂慮している。
実際に品質保証の意味が誤解されているかどうかはともかく、彼はそう認識しているわけだ。(彼もというべきか?)

確認のためにISO9000:2000の品質保証の定義を下記に示す。
「3.2.11 品質保証
品質要求事項が満たされるという確信を与えることに焦点を合わせた品質マネジメントの一部」

検索エンジンで「品質保証」とか「品質保証とは」と入れて探ってみれば、ISO9000あるいはJISQ9000の定義通りの「品質保証」を書いているものは3分の1もない。ほとんどが「広義の品質管理」とか品質保証体系図なんて論じている。「品質保証」を分かっていない人が「品質保証」を語っているのである。 では本題である。
1992年頃に日本でISO9000sがブームになったとき、誰もがそれを品質保証の規格だと受け取ったはずだ。だって私の目の前にある1987年版ISO900s対訳本に「品質保証の国際規格」と書いてあるのだから。
品質保証の国際規格
◇ISO規格の対訳と解説◇
増補改訂版
監修 久米 均
日本規格協会
そんな20年も前の古い本なんて知らないよという方のために、左図に示す。

品質保証という観点から見れば、この1987年版は怪しげな2000年版などよりはるかにしっかりした規格であることを保証する。なぜあんな2000年版に変えたのか? そんなものに飛びついたのか? それで品質が良くなるなんて勘違いしたのか? それが20世紀最後の謎である。
そして再び2008年版という怪しげなものを作ったのが21世紀最初の謎である。
1987年版ISO9000sに出会ったとき「品質保証」とはなんなのか? ということをしっかりと確認し理解しなかったことが間違いだったのだろう。
恋愛は美しき誤解から始まると言われるが、品質保証の定義の誤解はISO崩壊の始まりだったのだろうか?
参考までにISO9000:1987の定義を挙げる。
「3.5品質保証
製品又はサービスが、所与の品質要求を満たしていることの妥当な信頼感を与えるために必要なすべての計画的及び体系的活動」
関係者はこれを理解していたのだろうか?

認証が一巡した90年代中頃、「ISO9001を認証しても品質が良くならないんだよ」そんな話は耳にたこができるほど聞かされた。そう語る人々はISO9001の規格を満たせば品質が良くなると思い込んでいたのだ。品質保証によって一定品質が確実に担保されると確信が持てるのではなく、品質が向上すると理解しているのだ。
もし品質保証の意味を正しく理解していたなら「ISO認証したけど品質が良くならないのよ」という声は出なかったはずだ。
だって「製品又はサービスが、所与の品質要求を満たしていることの妥当な信頼感を与えるために必要なすべての計画的及び体系的活動」から期待できるものは「製品又はサービスが所与の品質要求を満たしていることの信頼感」であって「製品又はサービスの品質向上」ではないのは当然である。
ということはやはり「ISO認証したけど品質が良くならないのよ」と語った人々は「品質保証」の意味を取り違い、「品質保証とは品質向上すること」と誤解していたのだ。

そしてそういう声に応えてISO9001:2000を品質マネジメントシステムなんてしろものにしたのは更なる誤解であったのではないだろうか?
つまり規格作成者たち自身が「品質マネジメント」を「品質向上」と同じと解釈したのではないだろうか? あるいは「品質向上」のための規格をとりあえずでっち上げようとしたに違いない。
だがしょせん誤解の上に6階を建て増ししても理解にはならない。誤解をいくら重ねても誤解である。バベルの塔は決して完成せず、「品質向上」も「品質保証」も実現しないのは当然であった。
だからいくら品質マネジメントシステムと自称しようと品質は良くならず、品質偽装は起きたのである。
つまり「品質保証」を実現するためには「品質保証」の規格でなければならず、仮に1987年版が不十分であったなら(私は不十分だったとは思わないが)「品質保証」の規格として熟成しリファインしていくべきであったのだ。

さてISO9001も2008年版になった。
なんとマネジメントシステムの規格だという。ホラもホラ、大きく出たものだ 
マネジメントシステムを評価あるいは審査できる審査員がそのへんにころがっているものか!
しかしまあ、ISO規格がどう変わろうと私はあまり拘泥しない。私は企業は良い品質の製品やサービスを提供するべきであり、その手法としてISO9001がどう変わろうと役に立つと思っている。
もちろんその効果は小集団活動とかTPM活動と同じ程度を想定している。
経営を良くするなんて妄想を語ってはいけない
しかし、規格が変わろうと会社の仕組みを変えるなど思いもつかない。すべての会社には創業以来構築され常に改善されているマネジメントシステムが存在するはずである。そしてその改善にISO規格の考えは参考になるだろうが、規格改定があったからと会社の仕組みを変えるなんてありえないと考えている。
私たちは、ISO規格など変わろうと変わるまいと、しなければならないことは決まっているのだ。
それは品質管理、品質保証、品質改善である。
そんなことISO9001が制定された1987年よりも前から、厳然として変わることはない真理である。それができない企業は社会から排斥され存続を許されない。そんな当たり前のことはISO規格が変わろうと変わるまいと、変わらない真理なのである。

ところであなたの会社では品質保証の仕組みがしっかりしていますか?
ISO規格が変わろうと元々しっかりしているからなにも影響ありませんよね!?
そのはずなんだけど実際はどうでしょうかねえ?

なぜ私が品質保証にこだわるのか?
外部に対して表明する必要があるのは品質管理でもなく品質改善でもないと思う。
まして品質経営というわけのわからないものの基準を作って、それの審査をしようなんて架空の金融商品の売買のようなものではないか?
品質管理とか品質改善は内部事情である。経営を良くしようと良くならなくても、長期的デリバリーについては関係があるがそれを顧客が一定水準であることを要求することにいかなる意味があるのかちょっと理解しがたい。
製品・サービスを購入する人が真に願うのは品質保証であると考える。
そして品質保証のみが外部と内部の価値観、考え方が一致するのではないだろうか?
反論のある方も多々いらっしゃるだろう。
言い方を変える。
顧客が最低要求するのは「品質保証」であることはご同意いただけるだろう。
その品質保証さえ応えられないなら、品質改善やマネジメントシステムを良くするというのは嘘であることは間違いない。
違いますか?


本日のタイトル
なぜタイトルが品質保証再考なのかといえば、以前品質保証愚考というのを書いたからごろ合わせである。
次回のタイトルは品質保証最高といきたいものだ 



うそ800の目次にもどる