ISO3.0(アイエスオーサンテンレイ) 09.10.31

もう過去の話だが、WEB2.0(ウェブニイテンレイ)なんて言葉が流行ったことがある。私がWEB2.0とはいかなるものかも理解しないうちに、時代は既にWEB3.0の時代なんだそうだ。まあそんな言葉はキャッチフレーズに過ぎないのだが、ひとつの時代をワンフレーズで言いきるということはそれなりにものすごいことだと思う。
もっとも私は依然としてネットをさ迷うばかりで、WEB2.0どころかWEB1.0の時代のじいさんに過ぎないのだろう。
しかし転んでもただでは起きない、いやどんなつまらないことからでもあっという間に3,000字を叩きだす才能(?)を持つ私は、これをヒントに駄文を書くことにする。
ISO第三者認証制度というものはどのような変遷を経てきたのか? 年寄りの私は語る資格があると思う。
誰だ!書かなくても良いなんてぬかす奴は 

ISO 0.0
1991年頃、ヨーロッパがECからEUになるとき、ヨーロッパに輸出するにはISO9000s認証をしなければならないということになった。地球の裏側の規制にも日本は無縁ではなく、ヨーロッパに輸出していた企業は真っ青になった。
当時のことは忘れてしまった人が多いだろうが、21世紀のROHS規制やREACH規則と同様のインパクトがあったのだ。
1980年代には日本の製造業は世界一なんて鼻を高くしていた。そして1987年にISO9000sが現れたときには「なんだ、そんなもの」という認識だったのである。当時私は製造部門にいたがISO9000sというものを聞いて、いったいなんのためにそんなものが必要なのか理解に苦しんだ。だって当時だって顧客とあるいは部品メーカーと品質保証協定はあり、それに基づいて品質監査をしたりされたりしていた。それはあいまいもこなISOの品質保証要求事項よりもっと即物的で、現実の品質と密接なものだった。だからISO9000sを見て驚きもしなかったし、感心もしなかった。
そんなわけで欧州への輸出のために1991年に認証をしなければならなくなった企業も、まじめにISOに取り組んだところは少なかったと思う。いや真面目に取り組む以前に、当社はISOのQMS以上の仕組みであると考えていたのではないだろうかと思う。そしてそれは間違いでもなかったと私は考える。
当時私が認証するに当たってどういうアプローチをしようかと考えた。その結果は会社の現実を規格要求事項に当てはめること、いかに現実がISO規格を満たしているか、当社の仕組みは規格以上ですよと説明するかというスタンスであった。あの時から私とISOの関わりは20年近くなるが、一度としてバーチャルなシステムを作ったり、事実と異なる虚偽の説明をしたことはない。それどころか新たに何かしなければならないとさえ思いもしなかった。
当時ISOに取り掛かった企業はみなそういうスタンスだったと私は思う。ISO認証のために何か新しいことをしよう、しなければならない、でっちあげよう、なんて考えた会社はなかったのではないだろうか?
とりあえず、ここではその黎明期がISO0.0の時代だということにしよう。
文学的表現をすれば古事記に描かれた神代(かみよ)の時代である。

ISO 1.0
やがてほんの1・2年でISO認証は優良企業の証(あかし)のような雰囲気となり、多くの企業が認証に向けて走り出した。
猫も杓子もという言葉があるが、国土交通省が入札条件にISO認証などと言いだしたものだから、建設業界はなだれをうってISO、ISO、佐渡へ佐渡へと認証まっしぐら。どこもかしこもUSO800でバーチャルなQMSをでっちあげ、認証件数はうなぎ昇り、第三者認証制度関連の売り上げもうなぎ昇り・・そして認証機関の門前には客が列を作り商売繁盛で我が世の春を謳歌したのである。そしてコンサルもしっかりと儲けたのだ。
 いや、結構なことだ。
私は人が儲けることを妬むほど下賤ではない。
私が実態を離れたシステムをバーチャルだと揶揄するが、そういった会社が審査において虚偽の説明をしたとは思わない。認証を得るために実際と別のISO審査用のシステムを作ったとしても、刑法犯ではない。
JABや大学の某先生などが虚偽の説明と語るのは、法違反を隠すとか、事実と異なる説明をすることである。
法違反を偽ることはいわずもがなの犯罪だろう。
ところで虚偽の説明をしているぞ!と語る人々は、証拠を持っているのだろうか?
なにせ、我々はISOの世界に住んでいるのだ。証拠なく語ってはいけない。

ところでこのバブルともいえる大流行した認証ビジネスによっていったいなにが向上し、日本産業界にどんな貢献をしたのか?
 21世紀の今になって振り返ると・・まったくの虚業だったように思える。
もちろん認証やコンサルのためのお金が動くということは日本のGNPに貢献し、企業で働けなくなった役立たずやロートルが審査員あるいはISOコンサルとして録を食むことができ、妄想だとしても彼らが生きがいを感じることができたことは、やはり社会貢献事業としては意義があったのではあろう。
今となってはそのバカバカしい時代に異議を申し立てたい企業もまたたくさんあることだろうが・・
そんなアスピリンエージあるいはISOバブルの時代をISO1.0の時代ということにしよう。
アスピリンエージとは大恐慌以降のアメリカの一時期をいい、アスピリンでも飲まないと正気を保っていられないよと言われたことにちなむ。

ISO 2.0
ところでマンハッタンには地面を掘って金銀を掘り当てようとするのでなく、金融工学なんて称してデスクの上のコンピュータから黄金財宝を生み出そうとした人たちがいた。いっときはそれが真の価値があるように見えたけど、実際に彼らが見つけたのはホンモノの金ではなく、愚者の金だったようだ。無から有を生み出そうとしても所詮は自然の原則に反する。だからバブルははじけた。ずるいことをしようとしても、神は見ている。
保存の法則はいかなる分野においても真理なのだ。
さてISO規格をダシにして金儲けをしようとした人々がいた。だが所詮虚業は永続しない。ISO第三者認証制度が虚業と言わずしてなんであろうか?
バーチャルな金儲けを金融工学というなら、金儲けのための第三者認証は品質工学だなんて言ったら、田口先生がお怒りになりますよ 
私がISO第三者認証とその関連産業が虚業だと言ったことに異議が来るのを待っている。

実を言ってISOバブルはまだ破裂していない。しかしビッグバンのように劇的ではないが、ゴム風船から空気が漏れるように、おだやかに時間と共に認証件数は減り続けている。
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ISO業界からは「大変だ!オマンマの食い上げになる。なんとかしよう」という悲鳴が聞こえる。
そしてISO業界はなにを血迷ったのか、認証を受けている企業が虚偽を働いているから第三者認証制度の信頼性が低下していると結論付けたようだ。己の行動を省みず、責任転嫁することは天に唾することと同じ、第三者認証制度の信頼性低下を加速するに違いない。
2003年の負のスパイラル報告以降の閉塞感漂う混乱期、退廃時代をISO2.0と呼ぶことにしよう。現在ISO2.0の闇の時代の真っ最中である。はたして夜明けは来るのだろうか?

ISO 3.0
ISO9000sが制定されたとき、第三者認証制度を前提としたものではなかった。それどころか第三者認証という仕組みは眼中になかったと思われる。本来は二者間の品質保証の規格として使ってもらうことを目的としたものであった。そして規格は内部品質保証への活用にも言及していた。
ISO9001やISO14001と第三者認証制度はリンクしたものではない。
ISO規格がなくても第三者認証制度は存在する。エコアクションやエコステージは第三者認証制度の一種である。
また第三者認証制度が崩壊しても、ISO規格は困ることはない。取引に当たってISO9001を品質保証基準にしましょうと契約してもおかしくない。というかそもそもそのために規格ができたのだ。
正確にいえばISO9001:2008は品質保証協定に使える代物ではない。ISO9001は度重なる改悪によって、もはや品質保証には使えなくなってしまい、といって品質経営になんて恥ずかしくて言えない、どんな用途にも使えない、くだらないものになってしまったのだ。
誰がISO9001を貶めたのか!恥を知れ
ISO規格に基づくQMSが再度脚光を集めるには、品質保証とは何かを理解して、そのためのあるべき規格を考え、そして正しい使い方をすれば正当な評価を受け、社会的に信用を回復するだろう。それが実現するとき、ISO3.0と呼ばれる時代が来るに違いない。
しかしそのときそれは第三者認証とは異なるだろうと思う。
いい加減なこと、批判だけ言うのは卑怯なことだ。私が考えているISO3.0とは次のようなものだ。
規格は、品質保証や環境管理についての要素についてさまざまな事例を示すなどして、組織が活用でき、かつ効果を出せるようなものであること
利用方法は、第三者認証などではなく、かつ規格すべてをまとめていくらというものでもなく、組織が自分にあったところ、身の丈に合わせた程度の利用ができるもの、自由度があるもの
なにせISO9001:1987ではテーラリングを認めていたのだ
例をあげると抜取検査の規格のようなものをイメージしてほしい。
抜取検査と言っても、一回もあるし二回抜取もあるし、AQLの段階がある。あるいは判明した不良品を戻すのかはじくのか、その他多種多様な抜取方式を規定してある。
供給側と受け入れ側が協議してその中から取引に適切な方法を選択し利用する。
ISOに基づくマネジメントシステムと言っても一様である必要はない。多様こそあるべき姿ではないのだろうか?
生物多様性だけでなく、マネジメントシステム多様性を保存しようじゃないか。
現行規格でも一律的なことを求めていないとあるじゃないかとおっしゃいますか?
だが要求事項をすべて満たさないと認証も自己宣言もできません。
そんなじゃなくて、たとえば文書管理ならa項とb項は採用するが、c項以降は採用しないというような使い方ができることが良い。
もっとも認証も自己宣言もなければそんなことを考えるまでもないかもしれない。
認証機関は「もし、そうなったらオマンマの食い上げだ」なんて心配することはありませんよ。そのときはISO規格に基づいたシステム構築を指導すればいいじゃないですか。現在の個人的経験とか個人的才能による改善コンサルではなく、規格にもとづいたコンサルがあってもよいではないですか?
もっともそんなビジネスが成り立たないかもしれない。そのときはやはり認証機関というのは虚業だったのだと納得するしかありません。
「反社会的組織はISO認証しない」ということになっているそうだ・・ISO認証機関がそうではないと思う

インターネットのウェブの世界は、どんどんと進化し変化していく。それを見てある状態あるいは一時期をWEB2.0と呼ぼうと、また別の一時期をWEB3.0と呼ぼうとインターネットは気にもせずに自己改革のメタモルフォーゼは突き進んでいくだろう。
それに反してISOの世界は関係者が一致団結して、ISOを本来のあるべき姿に戻そうとしなければ消滅してしまうだろう。そこがネットと大きな違いだ。
ISOが2.0の時代で消滅するのを潔しとしないなら、規格をあるべきところに戻し、あるべき使い方をしなければならない。
それは品質マネジメントの規格などと僭称することでもなく、第三者認証などという金儲けにいそしむことでもないだろう。
それを理解しないなら、滅びるのはやむを得ない。

しかし認証スキームに属している人々はそんなことを少しも考えずに、新たな規格を考え出しては認証ビジネス(金儲け)を新設している。そういう蜃気楼にすがるのはもう現実が破滅的なためなのか?
ラクダは猛獣に追いつめられると砂に頭を突っ込んで恐ろしいものを見ないようにするという。
柘植久慶氏の本を読むと、敵兵に追い詰められて銃を向けられても目をつぶるなと書いてある。相手が射撃ミスするかもしれないし、隙が出るかもしれない。そのとき相手を襲う機会があるかもしれない。目をつぶっても目を開いてもいて撃たれるのは同じだ。
危険や恐怖を見ないふりするのではなく、その姿をしっかりと見つめて対策を考えなくてどうする?

私? 別にISOと心中しようとは思いません。元々ISOで飯食ってませんから。
ISOで飯食っている人たちこそ、ISO3.0を考え、社会に提案しなければならないよ。
がんばってね〜♪

本日の言葉
私はISO3.0を待っている


Yosh師匠からお便りを頂きました(09.11.01)
とうた様、
私はISO3.0を待っている
どうせなら“ISO1000.0を待っている”では如何でせうか?
勿論これは茶々であります。

Yosh師匠
茶々とはいえ
ISOがそんなに長続きするはずはありません

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