システムの改善

11.08.21
裸の王様という童話というか寓話がある。内容はご存知でしょうけど、みなが不思議だと思いながらもあえて口にしないことを、まわりを気にしない子供が「おかしいよ」と言った瞬間にそのタブーが破れてしまうというお話です。
裸の王様のお話を聞くと誰もが、自分はそんな仕立て屋(はた織り職人?)のうそにはだまされないぞ、自由に考え発言することができると思っているだろう。しかし現実にはありもしない服が見える振りをしているのではないだろうか。それを大人の常識というのかもしれないが、そうだとすると私は還暦を過ぎても大人になれずにいる幼子(おさなご)である。
幼子が純真無垢で天使に近いわけではない。社会のモラルに従わない者は、周りに迷惑をかける。私のように。
最近では私の知り合いのほとんどはISO9001もISO14001も認証しているので、認証のお手伝いしてほしいという依頼はあまりない。その代わり私にシステムを改善したいのでマニュアルを見直してほしいとか、改善のアドバイスをしてほしいというご依頼を受けることが多々ある。
まあ、私は自動販売機ならぬ、ISOに関してならただで手伝ってくれるとみなされているようで、そんな声をかける人がたくさんいるのだ。そして私もホイホイとごきぶりのようにいうことを聞いているのだから、そのおばかさに自分でも呆れる。
そんなことをしていて感じていることを述べる。

私は、品質マニュアルとか環境マニュアルというものは、会社の仕組みの説明書あるいは会社のマネジメントシステムのサマリーであって、最上位の文書ではないと考えている。
もしマニュアルというものを、最上位の文書とかたいそうなものだと思っている、審査員、コンサル、企業の人がいれば・・大勢いることは間違いないのだが・・そんな人たちは会社で働いたことがないのかもしれない。いや、会社で働いた経験はあっても、会社の仕組みを理解していないのだろう。あるいは、会社の仕組みというものをよく理解しているものの、ISOというのはそれとは無関係なバーチャルなもので、見えない衣服と考えているのかもしれない。
コンサルの中には、マニュアルに会社の仕事のすべてを書ききって、下位文書を作らないほうが良いと語っている人もいる。別にそのような思想を否定する気はないが、そんなことを語っている人は100人とか200人、あるいはそれ以上の規模の組織を動かしたことがないのだろう。どんな方法でも数十人規模の組織なら管理することは可能だ。その程度の規模なら、マネジメントシステムを考えることもないだろう。
これは暴言でもなんでもない、自然の摂理である。1個小隊なら隊長個人の力量で指揮することはできるだろうが、一個師団になれば師団長の力量だけでは動かすことはできない。そこにマネジメントシステムの必要性があるのだ。ナポレオンが敗れたのは、彼が指揮できる以上に彼が権力を持ってしまったからだろう。
もし下位文書などいらないという方がいましたなら、1000人の部下を指揮してみてから文句を言ってきてください。ちなみに私は過去には280人の部下を持っていたことがあります。

要するに、マニュアルを見て改善しようという発想は、かなりおかしなことだと思う。もちろんマニュアルが仕組みを正しく表しているとしても、会社というものはEMSやQMSだけではないので、その全体像を把握していなければ品質マニュアルとか環境マニュアルを論評することはできないということだ。
と言ってもその意味さえ理解できない人も多かろう。特にISO信者は・・・

マニュアルだけではない。手順書なるものがある。多くの人は手順書とは手順書というオブジェクトがあると思っているようだ。だが手順書もひとつの概念である。
もっともMSというものも概念であり、どの会社にもどの組織にも使えるようなマネジメントシステムなどない。そしてISO規格はその概念の仕様を示したものに過ぎない。だからISO規格を基にシステムをつくろうなんて考えるのも、かんぺきな間違いである。ISO規格を満たすようにシステムを作るという表現は意味的には正しいかもしれないが、その考えも間違っていると思う。私は存在しているシステムがISO規格を満たすことを説明するというのが正しいと思っている。もっともISOの認証機関でさえそのような間違いをしているところもある。
手順書というものは、社内に展開した文書を意味するのであって、組織ごとにその呼び名は異なるだろうし、性質も異なるのが当たり前だ。会社はすべて個性があり、同じものは二つとない。それぞれの会社の目的や文化に応じて、社内の文書体系は異なるだろうし、そこに展開されている手順書も異なる。文書体系を持たない文書化もあるだろうし、文書化されない手順ももちろんある。

何をだらだらと語っているのかとおっしゃいますか? そうです、組織を動かすにはマネジメントシステムが必要であり、それはしっかりとしたものでなければならないということです。しかし、同時にそれぞれのマネジメントシステムはユニークなものであり、単に品質とか環境という切り口だけでは改善しようなんてことは恐れ多いことだということです。
考えてご覧なさい、会社の仕組みを見直そうとするとき、品質からとか環境からというアプローチ方法は部分最適でしかありません。ISO認証している会社に行くと、「品質記録」「品質文書」「環境記録」とか、場合によっては「ISO記録」なんてラベルを貼っているファイルを見かけます。笑いをこらえるのに苦労しますというか、私は笑っちゃいますよ。
そんなことをしている方は、ご自身が恥ずかしくないのだろうか?
会社の文書に「品質文書」もなければ、「環境文書」もありません。会社にあるのは業務を遂行するための文書だけです。記録にも品質も環境もISO記録もありません。存在するのは会社の業務がルールに基づいて行われたことの証拠しかありません。
もちろん会社の業務には役立たないが、法律で定めてあるから仕方なく記録しているものもある。それも会社の合法性を立証するという立派な役目はある。

つまりISOのマニュアルというものは会社を一つの切り口で切ったものであり、それをレビューしてもたいしたどころか成果がでるわけではないのです。
私は問題を大きくして煙に巻き、難しい問題から責任逃れをしようというつもりはサラサラない。まったく逆です。マネジメントシステムを改善するということは、会社の包括的な仕組みを、より整合性を高め、無駄や冗長を省き、効率を良くするアプローチでないといけないよということです。
だからEMSの見直しとかQMSの見直しというのはありえない。そういうご依頼を受けたときは、まず品質マニュアルとか環境マニュアルというものが、会社の仕組みを本当に表しているかをみます。そうしますとISOの仕組みは実際の会社の仕事というか仕組みから遊離したバーチャルであることが多いのです。
であれば、まず「ISOのためのマニュアル」が現実の仕組みを表すように見直すことが第一番目のお仕事になります。そのときISO規格に合わないとか、審査員にいちゃもんがつけられるという心配も多々あるでしょう。しかし現実の仕組みがあるのであれば、まず現実を文書化し、それが本当に規格を満たしていないのかを考えなければなりません。そして会社が過去5年10年と存在してきたなら、その仕組みは欠陥がないことが実証されていることになります。
そりゃ欠陥があっても問題が起きなかったという幸運の場合もあるだろうけど 
だったらISO規格を満たしているはずでISOのために何もせずとも間に合うはずでしょう。
そしたらその仕組み、現実のシステムに何か問題があるのか、改善の余地があるのかを考えることになります。そういうアプローチが当たり前だと思いますよね?
しかし、マニュアルと現実を比較して、現実にマニュアルをあわせることによって、ほとんどの場合は問題が解決してしまいます。というのは、やはり現実の仕組みはさまざまな試練を受けて検証され、リファインされ、改善されてきているので、あまりほころびはないのです。
そのように現実を文書化して、いや既に文書化されている現実をISOの仕組みだと言い切ることによって、ほとんどの組織・企業は改善を果たせます。
おっと、大きな問題があります。
それはやはり、その現実がISO規格を満たしていることを説明することですね。もっともそれは審査員の力量というか、認証機関の力量によって不要となることも多いです。
認証機関の力量が不足しているときは、多少頭を使って説明を考えなければなりません。あるいは力量のある認証機関に変えることこそマネジメントシステムの改善につながるかもしれません。

私は内部監査を良くしたいので内部監査員教育をお願いしますなんて頼まれると、内部監査員教育よりも内部監査システムを見直さなくてはならないと応えている。同じく、マニュアルを見直したいと頼まれると、マニュアルを真実のマネジメントシステムにあわせることをお勧めしている。

本日の寓話
品質マニュアルとか環境マニュアルなんてのを読むと、へえ、おれっちの会社ってこんな仕組みになっているのか? ちょっと実際と違うようだけど、建前はそういうことになっているのか、なんて納得されちゃ改善の余地はありません。
おかしいなあ、不思議だなあと思うことから改善は進みます。
ニュートンは言いました。りんごは落ちるけど、月はなぜ落ちないのかと

本日の内輪話
本日は、娘夫婦が遊びに来た。
うれしかったですよ・・・私も親ばかですから 



ダストコマンダー様からお便りを頂きました(2011.09.21)
おばQ様こんにちは。
お説を拝読させていただきました。
私は、外国のことは知りませんが、日本においては多くの場合、システム以前にトップの想いのようなものが不足しているのではないかと疑っています。その熱い想いの息吹がMSに吹き込まれ、そこから隅々へ魂の流れが行き渡らないと、MSはうまく機能しないような気がします。
でもサラリーマンの延長線上でトップになった人は、そうした想いは薄いのでしょうね。上から認めてもらえるように行動することと、組織をどう動かしてゆこうかという視点は別次元なのでしょう。もちろん私も社長になったことはありませんので、大きなことは言えませんが。

ダストコマンダー様 毎度ありがとうございます。
おっしゃることはよくわかります。私も過去20年間、環境方針とか品質方針なんてものを何度も書きました。そのとき、お前の考えは分かった、わし(工場長が)作るからいいわと言われたことは過去2度くらいしかありません。あとは私がうやうやしく提出したものに「どこにサインするんや」ということでおわりでした。
社長(あるいは工場長)が自分の頭で考えて自分の文章で書く必要があると思います。
いや、これはISOばかりではないのですよ。社長と言えばアメリカなら独裁者かもしれませんが、日本では居並ぶ大名と同格って場合も多いし、上には会長とか先代社長もいるわけで、調整役にすぎないケースもあるでしょう。
社長と言えど、稟議で出てきたものに自動署名する機械に過ぎないのかもしれません。まあ、私も社長になったことがないので大きなことは言えません。


名古屋鶏様からお便りを頂きました(2011/9/25)
トップの想い、という話が出てましたが・・・
宗教集団との揶揄もある某多業種企業の環境方針には、会長でも社長でなく、「部長」がトップマネジメントとしてサインをしています。
こうなるともう、想いも何も・・・

名古屋鶏様 毎度ありがとうございます。
それはISOゴッコという見方もあるかもしれませんが、あるいはISOを信用していないから職階の低いもので良いという会社側の考えの表れかもしれません。
そうみれば、ISOとは会長や社長の仕事ではなく、部長で十分ということなのでしょう。
心配ない、マイペンライ、無問題、ケッチョナヨ


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