ISO認証の価値

11.10.02
数日前に会社の同僚と、なぜISO認証をするのかという話をした。お互いに、ISO認証の裏も表も知っているので、うぶなネンネでもないし、ISOをありがたがるようなこともまったくなし。といっても私と違い、話し相手の同僚は紳士だから、認証機関の批判は言わない。まあ、そんな雑談から頭に浮かんだ妄想を・・

ISO認証の信頼性が低下していると語る人がいる。
実を言って大勢いる
じゃあ、ISO認証の信頼性ってなんですか?
 ISO認証しているなら品質や環境以外も不祥事は許せない!
 不祥事を起こしたら認証取消よ!
 外為法違反も、脱税も、認証取り消せと言う人もいる
 おっと、どっかの大学教授は会社を良くしないISOは意味がないという。
しかし、ここで一つ疑問があるのです。信頼性が下がったのは企業不祥事のせいだといいながら、企業不祥事が増えたというデータを提示した論者はいません。例えば1990年は不祥事発生率が上場企業では0.5%だったが、2000年には0.7%になり、2010年には1%を超えたなんておっしゃっていただければ、非常にビジブルではやり言葉でいえば見える化というのでしょうか?
でも、不祥事が増えたデータはありません。
おっと、待ってください、不祥事ってのも定義されていません。粉飾は昔から犯罪でしたし、誰もが悪いことであると認識していたことでしょう。
談合は昔から犯罪でしたが、今ほど悪いこととは思われていませんでした。マンガの「釣りバカ日誌」には談合のお話も載っています。それどころか今でも官製談合というものもあるのです。企業も、しょうがないなあと言いながら、お役人の指導を受けて悪事を働いています。
悪代官と越後屋の役割が逆のようです。
暴力団とか総会屋などの反社会的団体との関係も、昔は悪いことだと思われていませんでした。大手企業のエライさんが総会屋と友人だなんてこともありました。
セクハラというのは、前世紀は悪ではなかったでしょう。会社に出入りしている塗料屋が毎年ヌードカレンダーを持ってきました。先輩がそれを塗料調合室の壁に貼っていました。パートの女性も多かったのですが、まあそんなことで目くじら立てたり、大騒ぎする人はいませんでした。
危険物取扱所に可燃物を置くのは消防法違反ではないのでしょうか? 
会社の内紛とかお家騒動は犯罪ではありませんが、祝事ではないので不祥事なんでしょうか?
と長々と書きましたが、不祥事はどんなもので、ISO認証の信頼性を揺るがす不祥事はどこからどこまでなんでしょうか? そして、ISO認証の信頼性と関わらない不祥事とそうでない不祥事の違いを教えてください。

ところで実は、何をISO認証の信頼性というかということは明確なのです。
IAF/ISO共同コミュニケというものがあり、その中で、ISO認証の意義は「認証範囲について信頼感を与えること」となっています。
 * 認定された ISO 9001認証に対して期待される成果
 * 認定された ISO 14001認証に対して期待される成果
つまりISO9001は製品やサービスの品質保証であり、ISO14001は環境法違反や環境事故に関する環境保証でしかありません。
ご注意!保証の意味はassuranceですよ。
E塚教授は日本語の品質保証を知っていても、assuranceという概念を知らないようですが・・
外為法違反も、脱税も、会社を良くすることも、ISO認証とは関係ないのです。と、ここまでは考えることもないのですが・・
前述のように、いろいろな人が語る信頼性といいますか、期待といいますか、求めるものをながめますとそれらの要求は多様ですが、カテゴリーが異なるのではなく、期待水準が異なるのではないかという気がしてきます。
つまりもっとも基本的なベースにあるものがIAFのいうところの、認証範囲である製品やサービスの品質であり、あるいは環境法違反や環境事故を起こさないことでしょう。そして、その上に省エネや廃棄物削減といったパフォーマンス向上があり、更にその上により広い意味の企業倫理があり、そしてその上にはフェアトレードなど社会貢献という階層になっているのではないかと思うのです。
とするとIAFが提供しようとしている階層では、当たり前すぎて社会はISO認証に意義を見出さないのかもしれません。
更には某大学教授がいう会社を良くするのもあたりまえのレベルというか、いまさらISO認証すると改善しますよといっても、相手に感心されないのではないでしょうか?
世の中は既にそんな品質だとか改善というレベルを脱しており、そんなことは当たり前で更に企業倫理をしっかり徹底した企業運営を当然と認識しているのではないでしょうか?
そんなことを考えると、ISO認証が非常に限定的なものを提供するだけでは、社会から相手にされず、評価されないというのは当然とも思えます。いや評価されないということではなく、存在が許されないのかもしれません。
さればISO認証が社会から信頼され、存在意義を認めてもらうには、すべての遵法と道徳的なことまで含めて審査して社会にそれを示さなければならないのでしょうか?
どう考えても、それは非常に困難なように思えます。
CSRのISO規格が作られています。ISO26000はガイダンスであり認証はしないということになっているが、世の認証機関は企業家精神旺盛であるから、ISO14005と同じように認証するのは間違いないだろう。
しかし、果たしてそんなものの審査を請け負うことのできる認証機関があるのでしょうか?
少なくてもISO9001やISO14001の審査で苦情を受けたり、異議申し立てを受けたり、審査員が忌避されているような認証機関では歯牙にも・・以下略
では、それができない場合はどうなのでしょうか?

ひるがえって考えてみれば、ISO認証制度は粗悪品が横行している状況、あるいは公害がひどい状況においては存在意義があったと思います。しかし品質が向上した時代、公害が撲滅された時代においてはその必要性は大きく減じたのではないのだろうか?
今、品質が悪いとか、基準を満たさない排水を排出したと報道されるのは犯罪レベルであって、それが合法である状態ではないのです。
1987年にISO9000sが制定されたとき、日本にはTQMがあると相手にしなかった判断が正しかったのかもしれない。

そもそもISOマネジメントシステム規格ってなんなのだろうか?
規格とか標準というものは、その語義から当たり前ですが一定基準を示すものです。そして認証制度とは規格を満たしているかどうかを第三者が検証して対外的に表明するものですよね。
多くの会社や組織が環境活動をしようというときに、最低限この程度のレベルはやってねというラインを決めたものじゃないですか。そういう社会的要請に応えたものが環境でも品質でもマネジメントシステム規格というものです。
決して、会社を良くしようとか、理想のあるべき姿を実現しようとしているわけではない。もしそのような高尚な狙いのものであるなら、そのへんの会社の審査では不適合ばかりだろうし、審査の結果の適合となる組織は数えるほどだろう。
実際はそうではない。だからその求めるところは、会社が悪さをしない程度のものであり、従来から悪さをしていない会社は、なにもせずに審査で適合になるレベルである。
もっとも審査員も認証機関も、何もしないで審査で適合にするのではありがたみがないと思ってか、会社側に無駄な仕事をさせよう、余計な仕事を増やそうとやっきになっているようだ。
私の20年にわたる経験から確信をもってそういえます。
認証とは、許可ではなく、責任を持たない表明に過ぎません。いわば、うわさ、評判に過ぎませんから、みながそれを信じてありがたがれば価値があり、相手にしなければ価値がありません。

お金には兌換紙幣と不換紙幣というわけ方があります。お金というものはそもそもの始まりは銀行の借用証でした。(ホントですよ)その借用証を銀行にもっていけば誰がいつか分からないけど、その銀行に預けた金(きん)と交換してくれるもの、それが兌換紙幣です。預かった金(きん)がなくても借用証(お札)をドンドン発行することも物理的には可能です。但し金がないのですからその紙切れ(お札)を銀行に持っていっても金に交換してくれません。
1000

日本銀行券
★★千円

★★DE6289000
え! ただの紙切れ!
そうなんです。ドル紙幣も、福沢諭吉もみなただの紙切れです。
じゃあ、それをどうしてありがたがっているのでしょうか?
不思議です。
日本のお金は市中銀行の借用証ではなく、日本国が設立した日本銀行が発行していますから、国家が保証しています。でも国家の保証といっても、果たしてそれは具体的にはなんなのでしょうか?
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国家の銀行ばかりがお札を発行しているのではありません。香港ドルは市中銀行が発行しています。中国の元は実は中国政府ではなく、中国共産党が発行しているお金です。
人民解放軍だったかもしれません。忘れました。
でも、国家が発行しているからみな同じかと言えば、価値のあるお金と、価値のないお金があります。
アイスランドのお金は誰もほしくない、ユーロより日本円がほしいということがこの世界では普通であり、だからアイスランドのお金など価値がなく、円がユーロに対してドンドン高くなるという現実があります。

話を戻しますと、認証とは認証した企業になにごとかあったとき、認証機関が保証することはない不換紙幣ですから、いったん信用できないぞとなった瞬間に価値を失います。
昔1973年のこと、電車かバスの中で女子高性が「あの信用金庫が危ないよ」と冗談をいったことを発端として、取り付け騒動が起きたことがありました。銀行の経営状態は現実ですから金庫にあるお金はうわさでは増えたり減ったりしませんが、信用とは心の状態ですからうわさを信じれば信用は上がりもし下がりもします。
ISO認証は製品やサービスの品質を裏書するものではなく、品質が大丈夫であると説明する品質保証ですから、うわさによってその魔力は変わってしまうのです。
魔力を信じる人には魔法が有効で、魔法を信じない人には威力がない、変な話ですがそのようです。

「会社は悪さをするもの」といったらお叱りを受けるでしょうが、「会社の事業活動は環境に負荷をかけるもの」というのは事実です。もちろん「人間が生きているだけで環境に負荷をかけている」ことを忘れてはいけません。
ともあれ、事業活動は環境に負荷をかけているのですから、それをしっかりと管理しなければならないことになります。もちろんゼロにはできないでしょうけど、妥協できるレベルとして決めたものが法規制ですし、ええかっこしいの会社は自主基準などといって法規制よりも環境に配慮しようとしています。そんなふうにみながしっかりした行動をとれば大騒ぎするような問題は少なくなるでしょう。
しかし、そうするとおかしな話ですが、ISO認証する意味がなくなる。会社側から見れば、ISO認証してもしなくてもどの会社も環境管理をしっかりとしているので自慢にならない。じゃあ、認証するのは止めようか、
一般社会から見れば、ISO認証してもしなくてもどの会社も環境管理をしっかりとしているのでわざわざ認証しろというまでもない。認証している会社を高く評価することもない。
環境配慮が進めば進むほど、ISO認証制度は不要になる。
品質だって、ISO9001認証しなくても品質保証どころか、品質を保証するようになれば、ISO認証してねなんて言うまでもないこと、

私は中国に行ったことはありません。最近は高速鉄道や地下鉄でいろいろとトラブルがあるようです。もっともこの国は外国に知られない限り事故は存在しないという魔法の国ですから・・
かってのソ連は、事故も不祥事もない国でした。外国人が乗っていない限り飛行機事故はなく、犯罪もなく、核事故もありませんでした。あるときソ連の原子炉が破壊して遠くスカンジナビアまで放射能が流れ、ソ連はウソがばれると同時に崩壊しました。
情報隠蔽は共産主義国家の常套手段のようです。日本だってほんとのことを発表しないとかいってはいけません。中国版新幹線事故で、あっという間に事故車両を埋設したり、毒餃子は日本で毒が入れられたと言っていたことを忘れてはいけません。
ともかく、このような国ではISO9001でもISO14001でも認証するという意味はあり、認証は価値があると思います。
中国じゃ、お金を出せば認証できるとか、実運用は違うのだとかいろいろあるでしょうけど、私は認証していないところよりは認証しているほうが少しは良いと思います。少なくても悪くはないでしょう。
もっとも毒餃子の天洋食品はISOもHACCPも認証していたのだが・・・

だから日本でISO認証の価値が低下しているとか、認証しても信頼できないということは、日本という国はもう飽和状態に至っているということかもしれない。であれば、それはISO認証ビジネスとしては困ったことだが、社会全体から見ればよいのではないだろうか。
ヨーロッパに輸出するのでISO認証を要求されたなんて場合は、そりゃしょうがない。
よくCSR方針に、児童を雇わないとか、奴隷労働をさせないとか書いてますが、あれはグローバルではそういうことが行われているので日本の企業でも盛り込まなくちゃならないということらしいです。
グローバルスタンダードとは高いレベルではなく、低いレベルなのでしょう。
まあ、世間にあわせて身を落とすのもしょうがないか・・

本日は格調高く参考文献リストがある。
 星 新一「紙の城」
 藤子不二雄「ぼくは神様」
 岩村 充「貨幣進化論」
 浜 矩子「通過を知れば世界が読める」
 作・やまさき十三、画・北見けんいち「釣りバカ日誌」
 朝日新聞(2008/2/1)毒餃子報道記事
2ちゃんねるでは朝日新聞が書いていることと反対のことをするとうまくいくといわれているのだから格調高くはなかったか 



ダストコマンダー様からお便りを頂きました(2011.10.06)
ISO認証の価値について
おばQ様こんにちは。
おばQ様の、
 ・何年も続いている組織なら、日常業務の範囲でISOの要求事項は充たされている
 ・だから特別のことはする必要はない
 ・組織の活動の中に要求事項を充たす要素があればよい
要求事項に肉付けをするのは無駄な仕事を増やすだけの御説は、実は私の先輩事務局の説と同じなんです。
でもこういう表現をすると大概、
「はあ??」
と拒否反応されます。
おばQ様、いつまでも長生きしてこの当たり前の考え方を広めてください。
お願いします。

で先輩はいつも
「ISOの要求事項なんて、日本のまともな組織なら出来てて当たり前。みんな難しく考えすぎ」
「でも、品質保証課で組織全体の部分最適の仕事の経験しかないようなマネジメントを理解出来ていない審査員さんが、的外れの指摘をすることがある。どうかすると認証機関全体がそうなっている。それでおかしくなってる。」
とも語っておりました。
組織の事務局は顧客と向き合わずISOの為のバーチャルシステムを作り、認証機関は組織の現実から眼を背け認定機関の顔色をうかがう審査に勤しむ。
ほぼ転職者で占められているはずの彼らですが、長いものに巻かれたくて新天地を求めたのでしょうか?

ダストコマンダー様 毎度ありがとうございます。
過去より、生産性向上や品質改善のための方法やアイデアはたくさんありました。
QC7つ道具、小集団活動、提案制度、シックスシグマ、JIT、ほとんど忘れてしまいましたが
ISOもそのようなものの一つと思って間違いないでしょう。しかしQC7つ道具にしても、小集団活動にしても、一定条件下においては十分有効であり成果を出してきたことは間違いありません。
ISOもうまく使えば十分に成果を出すでしょう。しかし提案制度が件数を争うことが目的となったり、小集団活動が発表会のためのものとなったように、ISOも今既に衰退期にあり、会社を良くするためのツールであったはずが、ISOのための仕組みが存在することを正当化しているのではないかと思います。
私はISOが良いとか、立派という受け止め方はまったくありません。ある条件においてISOが役に立つなら使えばよく、ある条件において役に立たないとか費用対効果がないというなら、廃棄物のように捨てることが全うだと思います。
ただ諸般の事情においてISO認証をしなければならないというなら、せめて会社を悪くしたり、無駄なことをしないように注意すべきでしょう。
世の審査員は無駄を増やそう、会社の仕事を増やそうと一生懸命ですから、十分に気をつけないとISOのための無駄が肥大する恐れがあります。


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