「司馬遼太郎の意外な歴史眼」

12.06.25
著者出版社ISBN初版定価(入手時)巻数
福井 雄三主婦の友社4-07-260681-02008/6/20570円全一巻

退職後、このところ日露戦争物、日清戦争物などを読んでいる。
一つの本を読んでいると引用文献、参照している本などがでてきて、それを読むとまたそこで引用している本があり・・と、行き当たり場当たり、流れるままに読み継いでいる。

以前は本とは買うものという意識があった。というのは現役時代、私は「月月火水木金金」という海軍のような仕事というか生活をしていたので、図書館に行く暇がなかったからだ。
今は暇を持て余す身、そしてお金がない暮らし向きと相成り、図書館は暇つぶしに最適の場となった。
ということで図書館に行く時間はいくらでもあるので、図書館から借りている。市の図書館で間に合わなければ大学の図書館に行くし、なければ他の大学からも取り寄せができる。今の時代はなかなか便利でよろしい。
ということで本の世界をさまよっている。

「司馬史観」という言葉がある。「歴史小説家の司馬遼太郎の一連の作品に現れている歴史観を表した言葉」なんだそうだ。そういう言葉が存在すること自体おかしいというか不思議なことだ。大学教授でもなく歴史学者でもない単なる作家が、世の下々の民に歴史を教え聞かせようというのだろうか?
おっと、大学教授であろうと、研究者であろうと、歴史を知っているかといえば、それは怪しい。
しかしながら新聞連載の娯楽小説から、歴史の真実を知ろうとか読み取ろうということは、まったくの見当違いではなかろうか?
そもそも、裏を取ろうとしても引用文献リストもないなら、そりゃ批判に耐えられんぜ。

私は青年期に「竜馬が行く」の連続テレビドラマを見て感動し、以降たくさんの司馬の作品を読んできた。司馬の本を読んで、坂本竜馬、清川八郎、乃木希典(まれすけ)、秋山真之、東郷平八郎などを、司馬の本に書かれたような人だと思ったことを白状する。

だがあるとき、ちょっとおかしいぞと感じた。
それは203高地の話であった。司馬遼太郎の言によれば、乃木将軍と伊地知参謀長の無能によって日本兵が数多く戦死したことになっている。
まずこの短い文章、真であろうか、偽であろうか?

そもそも私が司馬遼太郎の語るのがおかしいとおもったきっかけは、名前は忘れたが外国の観戦武官の203高地の乃木の指揮をまっとうだと書いたものを読んだことによる。
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戦艦三笠
悲しいことであるが近代になるほど、戦争や騒乱での死者は多くなった。1789年フランス革命の死者は200万という。1815年6月18日のワーテルローの戦いでナポレオン軍の戦死者4万以上、連合軍の戦死者は2万以上であった。1863年7月1日から3日にかけてのゲティスバーグの戦いで南北両軍の戦死者は7,900人という。
関ヶ原の戦いの死者が8,000人、明治維新の一連の戦闘での死者は30,000から45,000人、西南戦争で両軍合わせて13,000人といわれる。そして、203高地の乃木軍の戦死者は155日間で15,860名という。
日本人が経験した戦争で、しかも一か所の戦闘として、203高地での戦死者は異例に多いことは確かだが、世界的に見れば平凡な戦いだったのかもしれない。
ゲティスバーグの戦死者が少ないと思われるかもしれない。
しかし、アメリカの南北戦争当時の双方を合わせた人口は2000万人くらいだったらしい。
ということは、人口比からいえば、日本の明治維新前後の内乱による死者の3分の1が数日で戦死したという強烈なものだったのだ。
それで近代戦における大量死(マスデス)を知っている外国の観戦武官から見れば、203高地の戦いがそれまでの攻城戦に比べて特段悲劇的なものではなかったのだろう。当時の感覚では、要塞攻撃をすればそれくらいの戦死者が出るのは当然だったということのようだ。
とにかく、多くの人が死ぬことは悲劇であるが、乃木軍で15,000人の戦死者が出たことをもって、乃木将軍が無能とは言えないだろう。
なお司馬遼太郎は203高地の地図と戦力を基に紙上演習を行い、自分ならもっとうまく攻め落とせたと語ったそうだが、それは後知恵というもので、そういうことは語ってはいけない。それは乃木将軍に対してだけでなく、戦死者に対する冒涜であろう。

ちなみに時代が下るにつれて、戦争や騒動での死者は増える一方だ。
太平洋戦争で何百万人も戦死、病死した。それはものすごい悲劇なのだが・・それどころではないのはたくさんある。
文化大革命での死者は5000万人といわれている。1989年の天安門は定かではないが、死者3,000人と言われている。天安門は戦争じゃなくてデモ隊相手である。
ポルポトの殺戮は200万とも300万ともいわれているが、当時カンボジアの人口800万というから人口比率から言えば文化大革命よりもすごい。
北朝鮮の餓死者もすごい。2011年12月から2012年4月までで2万人という。もっとも1990年代の餓死者数は33万という。そんな国が人工衛星を打ち上げるとか、核実験するなんて異常としか言えない。
なお、日本軍の戦死者というのは、実はその9割が病気や餓死である。日台戦争という歴史にない戦争で、日本軍は5000人もの戦死者を出した。それほど台湾人の反抗は激しかったと書いてある書物が多い。実は日本軍の輸送船が出港する前からコレラ患者がでていて、これらによる死者がほとんどで、実際の戦闘による戦死者は160人だったという。ともかく日本軍はどの戦争でも敵の攻撃で戦死した人は5%くらいしかいないようだ。残りの9割は餓死と病死である。これは戦場の事前研究不足と兵站の考えがなかったからだろう。
なお、アメリカ軍は熱帯の病気に備えてDDTなどの殺虫剤や食料補給により、病死、餓死はほとんどいない。

小説家なら戦場の悲劇、英雄的行為を描くことは当然だろう。しかし戦史の真実を書いているかどうかは定かではない。いや、書き方次第で英雄にもなるし、匹夫にもなる。
100人切りというのは、新聞記者がかっこよく書きすぎて、悪人になってしまった例だろう。
司馬遼太郎は娯楽小説としては優れているが、歴史とか軍事については素人であり、オハナシ、物語であるということを我々は忘れてはならない。
司馬遼太郎がほめる人物が優れているわけではなく、無能だと評した将軍が無能のわけではない。
最近NHKなどで「坂の上の雲」などを放映しているが、このような前提を忘れては、司馬遼太郎のお話を真実だと誤解してしまうだろう。司馬遼太郎は真実を書いていないのに、司馬史観などと大層な評価がされたのが間違いの元なのだ。単なる娯楽小説が歴史の研究書になってしまったことが重大問題である。
そのような誤解を防ぐためにこのような本を司馬本と同時に読まれることを期待する。
もちろんこの本が100%真実でもない。要するに相対化、客観的に比較して、早い話が疑って読まねばならないということだ。
司馬遼太郎がうそつきとは言わないが、彼が真実を書いているわけじゃないんだから

なお、本書のタイトルは正直ではない。
「司馬遼太郎の『意外な歴史眼』」というタイトルを素直に読めば、司馬遼太郎がすばらしい見識で歴史を見たということを意味すると思う。しかし著者、福井雄三は正反対の意味で使っている。ちょっと騙された気がする。


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「近現代史をどう見るか−司馬史観を問う」

12.07.05
著者出版社ISBN初版定価(入手時)巻数
中村 政則岩波ブックレット4-00-003367-01997/5/20400円全一巻

最近、司馬遼太郎、特に司馬史観とやらに関するものを読んでいる。そして図書館で十把ひとからげに借りた時、この冊子も混じっていたということである。
司馬史観というのは作家、司馬遼太郎が頭に描いた近現代の日本の成り立ち、歩みを意味するらしい。
司馬史観への批判は、明治という国家は正しくて昭和という国家は悪なのか!という方向からのものが多いが、この本は逆であって、明治という国家も正しいのか?というほうからの司馬史観批判である。
著者が9条の会の幹部ということで、サヨクオーラがメラメラと・・・
まあ、それをおいといても、私はこの冊子を読んで、どうもおかしいと思うことは多い。
ノモンハンで日本軍は一方的にやられたと著者中村うれしそうに書いているが、ソ連崩壊後の情報公開で、ソ連軍の方が被害がはるかに大きかったことは、この冊子が書かれた1997年時点では明らかになっていた。それを無視してそう書いているのなら偏向が激しすぎるし、知らなくてこの冊子を書いているなら不勉強だろう。
うれしそうに書いていると書いたが、まったく無邪気にソ連が勝つとうれしく、日本軍が負けるとうれしいというのがはっきりしている。
読んでいて中村氏の反応を見て、楽しくなってしまう。
日露戦争のロシアも、ノモンハンのソ連も、南下する意図はなく、日本を攻撃する可能性はなかったという。そうなのだろうか?
私はわからない。
しかしそう書いてある書籍を並べられても、帝政ロシア時代からの現実の拡大路線、ソ連の東欧の恐怖政治を思えば、日本がソ連の領土になったり、属国にならなくてよかったと思うのは普通の心情だろう。
そんな誰かが書いた論文なり書籍に、ロシアが日本を責める意図がなかったと言われても、日清戦争も日露戦争もせずに、ロシアあるいはソ連の下に入ったほうがよかったとは思えないね、私には

とにかく、読んでいると、この人は日本が滅ぶことを期待しているとしか思えない。
日本人は謝罪すべきだ、日本人は悪いのだ、日本人は反省すべきだ・・・そういう言葉のオンパレードである。そうかもしれない。日本人には中村さんのような悪い人もいるから謝罪すべきかもしれないし、反省すべきかもしれない。
しかし、ちょっと待ってほしい。
ソ連の人は悪くないのか? ノモンハンのとき捕虜交換で日本がソ連の捕虜を返しても日本兵の捕虜を返さなかったという記録もある。ドーナンダ? 中村君
中国人は悪くないのか?
朝鮮人は悪くないのか?
と、問うだけ無駄なのだろう。逝ってしまった人に声をかけても聞こえるはずはない。
いや、この人は単なる自虐史観でもないようだ。思ったのは人種差別主義ではないのだろうか。もっともそれは日本人が差別されるべきだという人種差別観のようだ。黄色人種は白人の下という発想でもない。日本人や朝鮮人や中国人よりも下にあるという差別である。
100年前、日本が欧米の植民地になり、今は日本語という言葉も失われていたら、この方の理想なのではないかと思う。この人のスタンスは宇宙人が空から日本人が右往左往しているのを見て論評しているという感じを持つ。
とにかく傍観者であり、日本人の観点は全くない。日本が滅ぼうと、破滅しようと、思い入れも何もなく、遠くから眺めているという風にしか見えない。

ともかくこの人の論理はわけがわからん。
しかし読んだ甲斐はあったと思う。
この世の中にjは、いろいろな考えの人がいる。司馬遼太郎などは許容範囲というか、まっとうすぎると認識して生きていかねばならないということだ。

偏った人がいることを知ったことに感謝


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「司馬史観と太平洋戦争」

12.07.05
著者出版社ISBN初版定価(入手時)巻数
潮 匡人(うしお まさと)PHP新書978-4-569-69307-12007/7/2700円全一巻

この本を読んだ感想を一言で言えば、中庸でまっとうだと思ったということだ。
書かれた事項の個々について真実か否かということは、わからない。いや私がわからないというのではなく、歴史学者であろうと、その場にいた人であろうと、真実はわからないだろう。それが歴史である。
しかし歴史とは何か? といえば、歴史とは事実を時間的経過に並べて書いたものとは異なる。歴史とは民族の物語であるということだ。
潮はそういうことを知って書いている。中村政則のように日本は悪だという思い込み、前提で考えていない。

潮は毎年夏に平和主義者が反戦、平和と唱えるのとカルト宗教という。まさしくそのとおりだ。平和と叫べば平和になることは絶対にない。戦争を防ぐのは無抵抗主義ではなく、武装した兵士のみが維持できる。
人間の盾なんて粋がってイラクに行った連中は、連合軍の盾に使われた消耗品である。フセインを倒したのは平和主義ではなく、武力であった。
非武装で平和が得られるのなら、アラファトに非武装に徹せよというべきだった。だがパレスティナのテロを称え、イスラエルの武力を非難する平和主義者は掃いて捨てるほどいる。
ピースボートが中東で海賊の攻撃を受けるからと海上自衛隊の護衛を頼んだのは有名な話である。彼らの平和主義は日本の国境を超えると無力のようだ。
海上自衛隊の護衛を従えて航行するピースボート
海上自衛隊の護衛を従えて航行するピースボート

真に平和を議論するには、お互いの認識の基本を合わせないとそれこそ話にならない。
靖国参拝反対を唱えれば、日中平和が実現するのかと言えば、世の中そんなに甘くない。中国は次の要求を持ち出してくるだろう。そしてどんどんと押しまくり、最後には日本というものがなくなり、中華人民共和国日本省ということになるのは火を見るよりも明らかだ。
今のチベットを見れば、中国の支配下に入ることは恐怖だと感じなければ異常である。
だが日本のサヨク、マスコミ、経団連はそうなることを願っているのではないだろうか。
お金のためになのか、日本が嫌いなのか、中国に従うことが好きなのかは私にはわからない。

そういうことを考えずに、日中平和を語り、靖国参拝反対どころか、靖国解体を叫ぶ連中がいる。
戦後教育とはいかに破壊的であったのかということに感心する。
A級戦犯を批判する朝日新聞も読売新聞も、そこからかってA級戦犯になった人が出ていたということを忘れたのだろうか。そしてその人たちは、軍部から強制されて活動したのではなく、自らの意思で戦争を推し進めてきたのではないか。
A級戦犯は悪いことをしたというなら、自らを省みて反省文を掲げるべきだろうし、自社の幹部がA級戦犯になったのは連合軍の事後法によるものだと語るなら、靖国に祀られているA級戦犯についてどう語るのだろうか?
いずれにしても、今しゃあしゃあと反戦平和を語る資格はあるまい。
ナベツネが東條をヒトラーと呼んだが、ちょっと待ってくれ
ナベツネこそ、平成のヒトラーと思うのは私だけだろうか?
結局、朝日も読売も、何の考えもなく、時代に迎合し、権力に迎合し、己の利益を確保するという権力機構でしかないと思える。社会の木鐸でもないし、ジャーナリズムでもない。
単なる金儲け、ゼニゲバである

潮は今の社会は司馬史観に支配されているというが、私には単に金儲けのマスコミに支配されているだけと思える。
マスコミが司馬を称えたから司馬史観と呼ばれるようになっただけだろう。
そしてマスコミが司馬を称えたのは連合軍にとって都合の良い考えだったことであり、マスコミが力を持つための算段であったということだ。

日本国憲法は無効だというつもりはないが、一旦1945年にさかのぼって日本をやり直すべきではないだろうかと思う。
このままでは日本の明日はない。
もっともマスコミはそれが狙い目かもしれないけど・・・


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