「干し草のなかの恐竜」

2014.03.04
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、ぜひ読んでいただきたいというすばらしい本だけにこだわらず、いろいろな本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからこの本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

著 者出版社ISBN初版定価巻数
スティーブン・ジェイ・グールド早川書房4152082984
4152082992
2000/9/102100円2巻

「アイザック・アシモフの科学エッセイ」シリーズという本がある。占星術から古代のできごと、原子力、宇宙、生命、化学とさまざまな分野について書いている。書きなぐっていると言った方が良いかもしれない。 アシモフ 中には、アシモフが書いたときは最先端であっても、現在では既に時代遅れになったものもある。しかし、とてつもなく面白い。もしお読みになっていなければ、ぜひ読むべきだ。決して後悔はしない。但しものすごい分量があり、文庫本で20数冊のシリーズである。面白いからと一晩徹夜するくらいはともかくとして、10日間も徹夜したら死んでしまうかも。それほど面白い本である。
残念ながらアシモフおじさんは、1992年に72歳でお亡くなりになった。だからもう面白い小説も書いてくれないし、最新の科学技術の解説もしてくれない。私は非常に悲しい。

彼の後を継いでくれる人はいないのだろうか?
スティーブン・ジェイ・グールドという人がいる。彼もアシモフおじさんと同じく科学者で、科学解説やエッセイを書いている。しかも年齢がアシモフより20歳若い。じゃあ期待できるのかと思っていたら、彼も2002年に60歳という若さで亡くなってしまった。
しかも残念なことに、グールドおじさんの書いたものは、アシモフおじさんに及ばない。アシモフおじさんに比べると、面白味が1ランクどころか2ランクは落ちる。もちろん私は原文でなく日本語訳を読んでいるわけで、原文の文体や本来の比喩などはわからない。言い回しの面白さとか文章のスタイルは、翻訳者の優劣によるのかもしれない。しかしストーリーは翻訳に関係ないだろうから、アシモフおじさんはやはり文才があるのだろうし、グールドおじさんはあまり文才がないのだと思う。
と、しょっぱなからグールドおじさんをけなしているが、グールドおじさんが平均よりもヘボなわけではなく、天才アシモフおじさんには敵わないということである。

さて、ここでとりあげたのはそのグールドおじさんの科学エッセイ「干し草のなかの恐竜」である。 恐竜 タイトルの意味は干し草の中に恐竜が潜んでいるというわけではなく、干し草の中にいるカマキリを恐竜と呼んだわけでもない。科学とはものすごい量の干し草の中から1本の針を探すようなもので、膨大な研究や調査をしなければならないという比喩である。
取り上げているテーマは、貝殻とか日食とか類人猿など多種多様だ。そのへんはアシモフの影響を相当に受けていると思う。アシモフファンの私にとっては、はっきり言ってアシモフの亜流にしか見えない。

その本の中にあったお話の一つから・・・・
昔の人は地球を平らだと考えていたのだろうか? それとも丸いと考えていたのだろうか?
昔といっても100年前も昔、500年前も昔、1000年前も昔、3000年前も昔である。それぞれの時代はどうだったのだろう?
旧約聖書を書いた人たちは、地球は平面だと考えていたらしい。羊飼いをして夜空を見ていた人たちにとっては、地球を平面と考えても特段不都合はなかったのだろう。
地球 ギリシアのエラトステネスは紀元前3世紀に地球の大きさを測ったそうです。アリストテレスも地球は丸いと教えていました。当時ギリシアでは地球が丸いのは当然と考えられていたらしい。ギリシア時代はエジプトや中東そしてバルカン半島より北の方まで行き来があって、場所によって夏至のとき柱の影の長さが異なることに気がついていました。それを説明するには地球が丸いと解釈するのが妥当だったのです。
ところがずっと時代が下ってコロンブスが地球は丸いから西に向けて航海すればインドにたどり着くと主張したとき、いや地球は平面だからたどり着かない、海の果ては水が流れ落ちているからサンタマリア号は落ちてしまうとかいろいろ議論があったと言われている。
なぜ地球が丸いことが忘れられてしまったのか? それはヨーロッパ中世が暗黒時代でギリシアやローマ時代の英知が忘れられてしまったからとか、キリスト教会が聖書に書いてあることのみが正しいと教えていたからだとか、言われています。

この本「干し草のなかの恐竜」では、それはまったくの作り話だという。地球が丸いということはギリシア時代もローマ時代も、ヨーロッパの中世でも、そしてコロンブスの時代でも、当然のことと考えられていたという。地球が丸いということは、理屈ではなく、船で航海すると実感として感じることであり、提督でも水夫でも地球が平面だと信じるわけがないとある。
コロンブスが航海に行くとき、インドにたどり着けないと言った人々は確かに大勢いたという。しかしその理由は地球が平面だからではなく、コロンブスが考えているよりも地球は大きいからインドまでたどり着くことはできないだろうということだったそうだ。そしてそれはそのとおりであって、コロンブスがインドだと思ったところはインドのはるか手前であり、インディアンはインド人ではなく、西インド諸島はインドではなかった。
おっと西インド諸島とはずっと後になって名付けられた。コロンブスが西インド諸島と名付けるはずがなく、もし名づけるなら東インド諸島としたはずだ。

じゃあ地球は平面だと教えていた人は誰だったのか!? キリスト教会は地球が丸いと言っていた人を弾圧していたんじゃないのか?
このグールドおじさんは過去の資料を調べて、コロンブスが航海した時代以前に地球が平面であると主張した人々を探すのだが、聖職者にも科学者にも見当たらないという。そして地球が丸いと言った人を弾圧した記録もないという。

今でもアメリカには、地球は平面だと信じる人や団体があるそうですが、それは単純に聖書に書いてあることをそのまま信じることから来ているようです。
少なくてもアリストテレスなどが地球は丸いと語ったことを否定した文書はないそうです。
ちなみに日本の福音派の信者たちは、地球が平面とは主張していないそうです。

地球が平面だと主張する人がいないとなると、なぜ「地球は平だと主張する人々と、コロンブスが論争した」と書かれたのかが疑問である。
もうひとつ面白いこととして、コロンブスの航海のときに地球が平面だと反対されたという文章は、1870年以前には見られないとある。地球が平面だからインドにたどり着かないと言われたという記述は1880年以降に見られるそうだ。なおコロンブスの航海は1492年である。
ここまでの文章を読んで、おかしいと思う人は正常である。

ではなぜ1880年になって、1490年頃にコロンブスが航海するときに、地球が平面だと主張する人が大勢いたと言われるようになったのかが不思議である。
あなた興味がありませんか
グールドおじさんは種々論文を探して、ラッセルがそれを論じたものを見つける。ラッセルが語るには「平らな地球伝説は、(中略)西洋史に偽りの二分法をあてはめて科学の勝利をもっともらしく歌い上げることで正当な地位を獲得したのだ」という(p.84)。
つまり19世紀末科学の時代になろうというとき、科学思想を正当化するために、コロンブスが暗黒の中にいる人々に対して地球が丸いと主張しなければならなかったとねつ造したというのだ。

何か難しそうな理屈だが、要は簡単なことだ。
個人であろうと団体であろうと体制であろうと、己を正当化しようとすると、前任者や過去の体制を否定しなければならない。今までは悪かった、だが私たちは明るい時代を豊かな生活を自由な権利をもたらすと宣言しなければ、己を正当化できないし人々の支持を得られない。

そのような例は多々ある。
レーニンが帝政を否定した。スターリンがレーニンを否定した。フルシチョフがスターリンを否定した。ソ連はまさに先人を否定することの積み重ねである。
他人を否定しなければ自己の存在を合理化できないとは薄っぺらだよね
明治維新以降、江戸時代には民百姓は虐げられ、切り捨て御免とか年貢の取り立てが厳しかったと教えられている。しかしその多くはウソである。
民百姓とは農業だけでなく職人や商人など、武士や僧侶を除いた人々である。
「江戸時代の農民は何を食べていたか」という本もあったが、理屈で考えればわかるはず。
水戸黄門に限らず、代官は悪逆非道を尽くすことになっているが、実在した代官が書いた日記などを読むと、そのようなことはまずない。幕府や各藩の代官の監視や内部牽制は、いまどきの内部監査よりははるかに厳しい。もし私腹を肥やすような代官がいれば即切腹だったし、飢饉になって餓死者が出れば代官の責任、一揆が起きれば代官の責任と、代官は藩主の代理者(representative・代官)として民百姓の安全、生活を保護する義務があった。そして一部例外を除いてまじめに仕事をしていた。
よく古い神社とか旧跡には、江戸時代に代官が親孝行な人や開墾に尽くした百姓をほめたたえてご褒美を出したなどという故事が書いてあるのを見る。代官は治めている地域の発展、平穏を守るために一生懸命だったのだ。女をはべらして酒を飲んでいる暇はなかったようだ。
もちろん例外は何にでもある。
また、暴れん坊将軍、大江戸捕り物帳、銭形平次とか剣客商売をみると、日常茶飯事に殺人事件や果し合いがあったように思える。だがあれは小説だ。現代だってテレビドラマの「相棒」や「科捜研の女」とか「古畑任三郎」、「十津川警部」のように毎日毎晩、殺人事件が起きているわけではない。
いろいろな本を読むと、江戸時代の犯罪は今以上に少なかったようだ。もちろん罪になる犯罪の閾値は時代とともに変わるが、少なくても人々がいつ辻斬りにあうと心配していた風はない。

第二次大戦が終わったとき、「戦前は悪かった、暗い時代だった、明治憲法は悪の憲法だ」と語ったこともその過半はウソである。だがそう言わなければ新しい支配者であるアメリカも、勢力を伸ばそうとした社会主義も共産党も己を正当化できなかった。
嘘を許すな 単に戦前の政府がABCD包囲網や国民の貧困を解決するために戦争を始めたというだけなら、新しい秩序を正当化するにはパンチが弱い。だから、「天皇が悪い、軍部が悪い、国民は虐げられていた」と大声で叫び日本人を洗脳することによって戦後の日本は成り立ってきた。
広島にある「過ちは繰り返しませぬから」の意味を理解できる人は天才、いや基地外である。正しくは「過ちは繰り返させませぬ」ではないのか?
誰の過ちを? アメリカでしょう
アメリカが原爆を落としたことを、なんで被害者の日本人が反省しなければならないのか?
「過ちは繰り返しませぬから」なんて、よほどのマゾでなければ思いつかない発想である。
「戦後民主主義」とはねつ造とプロパガンダで成立している。正しい歴史を知れば、「戦後民主主義」とは共産主義の宣伝とウソにまみれた噴飯ものでしかない。「9条の会」はその代表である。

「従軍慰安婦」という議論がある。
これもそういう見方から考えると非常に簡単だと思う。
韓国という国がある。かの国は一度として独立国家だったことはない。かの国は、中国の一部か中国の属国という歴史しか持たない。
1945年、日本が戦争に負けて、たまたま朝鮮半島が日本から分離されて独立させられた。それが独立国韓国の歴史の始まりだ。 ところでそのとき韓国人がなにを考えたかというと、日本に戦争を仕掛けて占領しようとしたのである。これを知らない人が多い
あなた知らなかったでしょう。メモしておくように。
ところがそれに乗じてソ連と中国の支援を受けた北朝鮮が韓国に攻め入った。これが朝鮮戦争だ。
その結果、アメリカを主とする国連軍が参戦し、南北の分離国家として緊張が続き、今に至る。
さて、そんな韓国の指導者として何を考えるだろう?
韓国韓国国旗 には、国としての誇り、栄光、自尊心、そんなものはないし、その元となる歴史を持っていない。
でも対策は簡単だ。歴史を作ればいいじゃないか。
過去には朝鮮半島には偉大な文明があった。それを日本が併合した45年間ですべてが破壊され失われてしまった。朝鮮の若い女性を強制連行して性奴隷にした。若い男性は日本本土に連れて行って強制労働に従事させた。ちなみに韓流ドラマというものは、衣類も時代背景もストーリーもすべて事実とは無縁の創作である。非常に悪いことをしたと言い出したのが、そのときとか終戦直後ではなく50年もたってから言い出したのも、なぜかコロンブスが地球は平らだという人から攻撃を受けたというのと同じ手法のように見える。悪いのはすべて日本である。日本は謝罪して、お金を貢がなければならない。そういう歴史をねつ造した。
もちろん朝■新聞や村山富一の支援もあった。
その結果、現在、韓国の若者に「朝鮮戦争とはどの国と戦争したのか?」と質問すると「韓国と日本」と答える人が多いという。
おお、これこそ韓国が60年間とってきた政策であり、これからも取り続ける政策である。なぜならそれ以外に取るべき手段がないから。
かの国では「嘘も100辺いえば本当になる」というそうだ。
私たちはそれでは困る。真実を真実だと伝えなければならない。韓国の主張はねつ造であると主張しなければならない。
地球が丸いのは事実でありそれを説明するのに、地球は平面だと主張した人を作りだし、その人を貶めなければならないわけではない。
同じく、韓国が己の自尊心を持つのに、日本を貶める必要はない。自国が立派になればよいだけではないのか。だが現実は過去20年の間にも国家破産、高い失業率、大学を出ても仕事がない、国民の窮乏、人口減少など国の先行きを憂いることは山積だ。2014年現在、新たな国家破産が心配されている。
この危機を乗り越えるために日本をスケープゴートにという気持ちも分らぬでもないが、そういう方法をとっても問題は解決しない。パク・クネが大統領になって1年、日本批判をいくらしようと、経済においても政治においても何ら成果がでていない。各種指標は悪化する一方で、混乱は増すばかりだ。パク・クネだけでなく、韓国人は自国の歴史を真正面からみて、考え直さなければ永遠に誇りを持つことはできないだろう。そして国家再生はままならないだろう。

いや、ISOにまつわる議論だって同じだ。
1990年代初頭のこと、小集団活動や提案制度、日本的経営など日本の高度成長時代に流行った手法をさんざんけなして、これからは国際標準のISO認証が会社を伸ばす方法だと語った人が大勢いた。彼らはISO認証制度を売り込むために、ISOが良いことを立証せずに、従来の小集団活動が悪いもので、ダメなものだと大声で語った。
それは本当だったのだろうか?

小集団活動も日本的経営も、毀誉褒貶いろいろあることは事実。しかしそのガムシャラな活動が、その熱意が、日本企業を世界に進出させる原動力になったのも事実である。
ではISO認証とはといえば、あれから20年、いまだかってその価値を立証していない。
結局、ISOも、戦後民主主義、憲法9条のように、過去を否定して己を正当化しようとする唾棄すべき手段ではないのか? その証拠に、自らはその価値を立証していない。

この本を読んでそんなことを考えた。
図書館から借りてきた本からこれだけ妄想が湧き上がってくるとは、上下巻読むのに5時間費やした価値はあった。
参考までにこの6,400字の文章を書くのに要した時間はジャスト1時間であった。

ぬれ落ち葉 本日の教訓
なにごとかをけなす人がいたら、その人は怪しいものを売ろうとしているのに違いない。
真に素晴らしい人は、自分をすばらしいといっても、他人を貶めることはしないだろう。
おっと私の場合は、人をけなすのではなく、間違った人を導こうとしているだけだ。勘違いなさらぬように。


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