引退して1年10か月

14.02.205
今まで、引退して1か月引退して4ヶ月引退して1年のとき暮らしぶりや心境を書いた。では1年10か月たった今の状況を記録しておくのも意味があるかもしれない。1年10か月とは中途半端と思われるかもしれないが、いささか心境の変化があったので・・

定年を過ぎても嘱託としてちょっと働いてから引退した。とりあえず働かずとも、家内と二人食うだけはできそうだ。ということを確認して、もう仕事はしないことにした。とはいえ、寝て飯を食って寝るだけでは生きていけない。それでは引退して何をしようかということになる。
いったい定年退職、あるいは現役引退された方はどんな暮らしをしているのだろう?
私のオヤジは56で定年退職した。定年の年齢は勤め先によって違うだろうが、今から50年も前は公務員も一般企業も55歳とか56歳くらいだった。
オヤジは会社を辞めても体を動かしていないとならない性分で、近くの自動車修理屋にタダで手伝いに行ったり、頼まれもしないのに町内の道端の雑草刈りをしたりとか、そんなことを毎日していた。見る人から見れば感心な人かもしれないが、母はそんなことをせずにゴロゴロしていればいいのにといつも言っていた。
私が結婚したのはオヤジが会社を辞めて数年経ってからだが、家内の実家が農家だったので、親父は喜々として家内の実家に農作業の手伝いに行ったものだ。田植え、田の草取り、稲刈り、また蚕様をしていたので桑の葉を取りに行ったり、桑の葉をかけるのを手伝ったり、まあ一生懸命であった。義母は毎日のようにやって来る我がおやじに呆れた。オヤジは農家の生まれだったから、大抵のことはできた。日曜園芸ではなく本格百姓である。
なにがそんなに働くことに義務感があったのか? あるいは心底働くことが好きだったのか? それとも単に何もしないでいるということができなかったのだろうか?

私が会社を辞めたとき、働く気はないと書いたが、何もしたくなかったわけではない。実は以前から考えていたことが一つあった。私は泳げない、カナヅチであった。だが泳げるようになりたくなかったわけではない。泳げるようになりたいというのが、ずっと前からの念願だった。それで退職すると泳ぎを習おうと、すぐにフィットネスクラブをあたった。
私の住まいは郊外と言えば聞こえはいいが、はっきり言って牛の臭いのする田舎で、歩いて行けるところにフィットネスクラブはない。いやそれどころか本屋もなければパチンコ屋もない。交番もなければ、ファミレスもなく喫茶店もない。最寄駅の前にあるのは、床屋とラーメン屋、小さなスーパー、そして広大な自転車置き場だけだ。
最寄駅から電車で二駅の範囲に、フィットネスクラブは7つある。私はそのうち5箇所に行って説明を聞いた。年配の初心者向けのスイミングスクールがあるのか、プールはどんなものか、きれいか大きいか確認した。もちろん料金も重要だ。比較検討してそのひとつに入会した。
スイミング


泳いでいる人を、外から見たのとプールの中からみたのでは、泳いでいる人の姿形がまったく違って見える。
水中から泳いでいる人を見るとこんな風に見えるのだ。
背中の部分はマントではない。手足を動かすので泡が立ち水の色が明るく見えるのだ。
初心者コースは私を含めて男女4人だった。私は子供の時から運動オンチであったし、高校を出てから46年、運動といえるようなことをしたことがない。私はすぐに息切れはするし、それどころか体が固くはじめはクロールの腕輪ましもできなかった。最低レベルの生徒であったろう。
ともかく泳げるようになろうと、週1回のスイミングスクール以外に毎週3回プールに行った。といっても泳げるわけではないから、水中ウォーキングとか「けのび」をひたすらした。いい年の大人がビート板をもってバタ足をするのは恥ずかしいと思ったが、まわりには似たような人がいっぱいいたのでその心配はなかった。ともかく一生懸命練習をしたつもりだ。
じゃあ上達したのかと言われると、そんな簡単ではない。
バタ足がなんとかできるようになると腕を回すことになるが、腕を回すと足が止まる。腕と足が動くようになったときには翌年になっていた。そして息継ぎができたときは1年が過ぎていた。だが息継ぎをすると、足がパタと止まる。これはどうしてなのだろうか?
なんとか25m泳げるようになって、次は50m、次は75mと頑張った。そして習い始めて、今1年と10か月たち、なんとか200m泳げるようになった。今年末には1キロ連続で泳げるようになりたいというのが願望である。そんなわけで今は少しでも長く泳ごう、泳げるようになろうとしているところである。

かっこいいだろうで、お話はここからだ。
今までは泳いでいるときプールの底の印を見て、何メートル来たから反対側まであと何メートルと考え、反対側にたどり着いてターンするとまた何メートル来たからあと何メートルということを常に考えていた。しかし100mを超えて泳ぐようになると、そんなことを考えるのはまったくおかしいと思うようになった。プールの反対側にたどり着くことが目的ではなく、泳ぐこと自体が目的としなければならない。言い方を変えると次のターンまで何メートルかを気にするのではなく、今泳いでいることそのものを楽しまなければ長く泳ぐことはできないように思えてきたのだ。つまり泳ぐという状態を終えることが目的ではなく、泳ぐという状態を続けることが目的であると考えないと、泳ぎ続けることが精神的にできないと感じてきたのである。

話は変わる。私は職場をいろいろ変わったが、サラリーマンとして長年働いてきた。そのときプロジェクトであろうと定常的な仕事であろうと、仕事という塊をこまかくブレークダウンして、これをいつまでに片付ける、これをいつまでにかたづける、全体をいつまでに終えるということを考えた。豊臣秀吉が崩れた石垣を修繕するときのアプローチは真理であろう。
そして仕事をしながら、常に予定と進捗を比較してフィードバックをかけた。予定より遅れれば、いろいろと手を打って挽回しなければならない。また予定より進んでいればよいというわけではない。特に自分一人でなく大勢を使っている場合は、予定より早く終わることは、人を遊ばせることになる。そのときは、次に何をさせるかを考えて手を打たねばならない。仕事とはそういうものだと思う。いや、誰でもがそうだろうと思う。
ワープロ作業が楽しい、ずっとしていたいと思う人がいるだろうか。監査に行って伝票チェックが面白い、いつまでも伝票をめくっていたいと思う人がいるだろうか。早いところ今していることを終えて次の仕事にかかろうとか、仕事を終えて帰りたいと思うのが普通ではないか?

私の場合、それは趣味でも同じだった。今では付き合いでしかしないが、20年も前、囲碁は私の数少ない趣味のひとつだった。普通の方は「碁を打つこと」が趣味なのだろうが、私は「一刻も早く勝つ」ことが目的であった。なにしろ仕事が忙しかったから、この1局を打ったらすぐに会社に行って仕事しなくちゃとか、早いとこ終えて帰って寝よう・・・などと頭の中で考えていたわけだ。そんなわけだから、序盤は相手に遅れず(相手より不利にならないこと)にササット片付け、中盤は相手の意表をついてチャンチャンバラバラをして、中盤を過ぎたら形勢が良ければ店じまい、悪ければイチかバチかでおしまいという筋書きでいつも早碁を打っていたのである。私と打った人は、私の性格というか打ち方を見て、呆れた方が多いようだ。碁はヒマ人の趣味と思われるが、私は忙しかったから早く終わるための碁を打っていたのである。
ところで終わりのない碁はない。石を置く場所は361箇所しかないから、いくら長びいても361手打てばゲームは終わりだ。コウになっても、無限に続くことはありえない。
だが、スイミングは終わりがない。泳ごうと思えばいつまでも泳げる。いや長く泳ぐことが望みだ。となると25mまではササットいって、50mまでは全力で100m過ぎたら軽く流すなんて泳ぎ方では200mから先どうするんだということになる。無限ということはないが、300mとか400mとか泳ぐつもりなら、プールの反対側に着くことが目的ではなく、泳ぐこと自体を目的としてそれを楽しまないと、途中で息切れというか泳ぐことに飽きてしまうのである。最近は息が続かないとか疲れたというのではなく、泳ぐことに飽きるというか止めたくなってしまうというときもある。
言い換えると、気の持ちようで長く泳げるのである。次のターンまであと何メートルという気持ちで泳ぐと体より先に気持ちが疲れてしまうけど、泳ぐことを楽しめば疲れない。
そしてまた仕事においてはスキルアップと作業改善によって、少しでも早く少しでも良い仕事ができるように常に努めるのが当然のことである。だが定年後の暮らしにおいて作業改善は必ずしも善ではないように思う。健康増進のスイミングにおいて、少しでも速くなろうとする努力は必要ではないだろう。囲碁を一局1時間10分で打っていたのを1時間にしよう、50分にしようと工夫することもないだろう。老人クラブの行事の打ち合わせを2時間かけていたのを1時間で済むようになったなら、みんなの楽しみが半減してしまうかもしれない。くだらないことを長々と話すこと自体が楽しみなのだから。

会社を辞めて間もないときは日々何をしようかと悩んだが、いつしか毎週のルーチンができてきた。フィットネスクラブ、マンションの行事、図書館、講演会、老人クラブ、そんなこんなで予定が埋まり明日何をしようかと悩むことはなくなった。
しかし最近はそれではいけないのではないかと思うようになったのである。そのようにスケジュールを埋めて、片端から片付けていくという生活というか心構えでは、結局会社勤めのときの生活パターンと変わらない。そうではなく、太公望の心構えで時を過ごすこと自体を楽しまないといけないのではないだろうか。スイミングでプールの向こうに着くのが目的ではなく、泳ぐこと自体に意義があると感じてきたのと同じだ。
だが頭でそう思っても、まだそう体得するまでには至らない。悟りきるには、更なる修行が必要だろう。

落ち葉 本日の諦念
人生とは、細かく千切って片端から処理していくようなものではないのかもしれない。
川の流れのように区切りがなく滔々と続いていくようなもので、いつのまにか大きな海にでていたというようなことなのだろうか?
まあ、最後にたどり着くところが彼岸であることは変わらないのだが

落ち葉 本日の危惧
ひょっとしてオヤジのようにただひたすら働くのが人生のあるべき姿なのだろうか?
それもちょっといやだなあ〜


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