規格適合の意味

15.08.06
この文章は、小説もどき「審査員物語」の中に私が考えていることを書き込んできたのだが、私の認証についての考えというかスタンスを登場人物の言葉でなく一度は自分の言葉で発言しておくべきと思った。いやshouldでなくshall、発言しておかなければならないと思うに至った。それで改めてここに書く。私の語ることを、そんなこと当たり前だ、何を今さらとおっしゃるなら、私としては本望である。

マネジメントシステム認証とは「組織(企業等)のシステムがISO 9001やISO 14001などのマネジメントシステム規格に適合しているかを第三者機関が審査し、証明すること」である。
いや、これは私のオリジナルな見解ではなく、ISO/IEC17000:2004(翻訳規格としてJISQ17000:2004)などに定義されている。そしてまたJABを始め認証機関のウェブサイトには第三者認証についての説明として概ねこのような趣旨のことが記載してある。

多くの(と言っても最近は減少しつつあるが)企業や行政機関が、認証を得ようと労力を投じ大枚を資しているが、その努力の結果得た認証というものがいかなる意味があるのかと考えると不思議なことである。まったく意味がないように思いませんか?

もちろん認証機関、コンサルタントたちはISO認証するといろいろなメリットがありますよと声高に叫んでいる。
  1. 作業が標準化される
  2. 作業手順が明確化(可視化)される
  3. 責任・権限がはっきりする
  4. 管理の仕組みが明確になる
  5. PDCAが回るようになる
  6. 啓発・教育がレベルアップして社員の意識が向上する
  7. 社内外のコミュニケーションが良くなる
  8. ノウハウが定着・蓄積しやすくなる
  9. 会社が客観的になるなど会社の質向上により、人の採用がしやすくなり定着率も向上する
  10. 製品・サービスの品質が向上し均質化する
  11. 第三者(顧客や一般社会)から信頼される
  12. QMSにおいては顧客満足が向上する・EMSにおいては遵法と汚染の予防が実現する(そもそもの目的です)
  13. 顧客の品質監査/環境監査などが免除される
  14. 入札やグリーン調達の際に優遇される

上記は認証機関などのウェブサイトから集めてきたもので内容が整理されているわけではないが、大きく分けると
(1)会社の仕組みの整理上記 1〜4
(2)それによるシステムの向上上記 5〜9
(3)それによるパフォーマンスの向上上記 10〜12
(4)商取引における優遇上記 13〜14
のようになる。
おっと上記はネットなどから拾ったものを、適当に並べ、適当に分けただけだから、分け方や分類について違うご意見があっても良い。ここは、認証のメリットにはいろいろあるということをご認識頂ければよい。

では次に進む。
認証のメリットとして挙げた項目は、本当に認証のメリットなのかを考えてみよう。
  1. 作業の標準化
    作業の標準化ということは、ISO9001が生まれた1987年以前から言われていることである。私が若い時から座右の書としている「おはなし社内標準化」(日本規格協会)は1979発行であるが、更にその昔、私が1960年代に社会人となったときから、そんなことは現場の当たり前だった。ディミング賞のPDCAだって標準化を前提にしているのは自明。
    もしISO認証のために標準化をしましたとかいうなら、それは己が未熟だったということであり、ISO認証のメリットではない。
    なお、行政機関(官公庁、市町村、自衛隊ほか)は元々が業務手順が徹底的に文書化され、どのような事態においてはなにをどうすべきかが決まっている。逆に決まっていないことはできない。阪神淡路大震災のとき、県知事から依頼がないために自衛隊が災害救助出動ができず目の前の人を救えなかったというのは有名な悲しいお話である。
    そういうふうに手順が決まっているとき、改めてISOのための文書も手順もいるわけがない。いや、その手順が悪いということさえできないはずだ。まさかISO規格(JIS規格)風情が、国家機関の定めた手順よりも優先するなんてたわごとは言わないだろう。すなわち行政機関はISO認証の必要性がゼロなのである。

  2. 作業手順が明確化(可視化)される
    これは標準化と同義というか、見方を変えただけのものである。

  3. 責任・権限がはっきりする
  4. 管理の仕組みが明確になる
    これも同じことを言っている。中小企業でたまに見かけるが、役職名と権限がずれているケースがある。あるいは誰が決裁するのか分らない・決まっていないということも散見される。それはそれで管理上問題であるが、それは会社の仕組みをはっきりさせていないというだけのことであり、ISO規格とは無縁のことだ。
    ISO規格を関係ない当たり前のことをして、ISO規格の効果だとか、認証の効果だというのでは、ISO規格は苦笑いするしかない。

    以上を考えると、ISO認証によって「会社の仕組みが整理される」というメリットは事実ではない。そんなことは認証とは無縁のことであることははっきりしている。

では、認証によってシステムが向上するのか?
前述したように、それもまた偽であることは明白だ。我々工場で働く者、いやオフィスで働く者でも流通で働く者でも販売員でも飲食店であろうとも、自分の仕事を改善するのは義務とか言うのではなく、息をするように当たり前のことである。今の仕事をより良くより早くより簡単にしようという意欲なければ大人ではない。
なにもISOが要求しているとか、ISOのためなんて理屈をこねることはない。言い換えるとISO認証したから改善が進んだというなら、今までが努力していませんでしたと白状しているだけのこと。

製品・サービスの向上し均質化する
勘違いしてはいけないが、ISOMS規格とは名の通り、マネジメントシステムの規格である。ものづくりはマネジメントシステムとか管理だけではないということを再認識すべきだろう。

成  果
矢印矢印矢印
固有技術管理技術士 気
矢印
ISO規格の守備範囲

固有技術がなければ手も足も出ない。ファイトがなければ効率は上がらない。
もちろんISOの管理方法が悪いというわけではない。しかしそれが役立つのは良い品質のものを作る技術と意欲があったときで、管理を良くすれば、良い品質のものを安定して生産できるようにはなるだろう。
テクもなく、頑張りもない人間が管理を良くすれば品質が上がると講釈を語っても笑われるだけ。泥臭い技術・技能そして汗を流して手足を動かさなくては仕事は進まない。
ISO認証で皆の意識が変わり手順も見直して、そのおかげで品質が良くなることがあるかもしれない。だが、その場合であってもISO認証を受けなくてもそういうことはできたはずであり、ISO認証を持ち出すのはおかしい。いや、間違っている。

ということになると、最後に残ったのは「商取引における優遇」である。これは期待できるだろうか?
元々、ISOMS規格なるものはなかった。その基となったのは「品質保証の国際規格」と自称したISO9000sである。これはマネジメントではなく品質保証の規格である。私の語ることは信用ならないとお疑いならISO9001:1987のタイトルを見よ。
そしてその規格は第三者認証の用途を目的としたものではなかった。二者間の取引において活用してほしいと書いてある。二者間の取引って? なんて言われると困る。売り手と買い手がいて、取引する製品やサービスの品質保証を取り決めるときに、ISO9000s規格を使ってほしいというのがそもそもの目的だった。品質保証とは、悪いものがあったら取り替えますとか、損害が出たら賠償しますという品質補償ではない。継続的な取引があるときに、品質保証が要求されるのは昔から普通のことだった。それは取引する製品の品質を確実にするために、製品そのものの検査なり品質水準を決めるだけでなく、製造工程の管理を取り決めそれに基づいて生産することを要求することである。

一般消費者向けのビジネスにおいて品質保証ということは考えられなかったように思う。理由はふたつだろう。ひとつは継続的取引ではないことと、もうひとつはオーダーメイドでなくレデイメイドだから。だから一般消費者向けの製品やサービスに関わっている人はいまだに品質保証ということが頭にないかもしれない。
1987年にISO品質保証規格が制定されたが、日本ではだれも見向きもしなかった。当時は日本の品質は世界一と豪語していたし、品質保証協定も形式的なISO9000sではなく、それぞれの製品・サービスの固有の特性に合わせて中身を決めていたわけで、ISO規格が今までの品質保証要求事項に比べて優れていたわけでもない。ここ重要

しかし1993年のEU統合の際に、EU域内の商品移動にISO9000s認証が要求され、波及的に域外からの輸入品についてもISO認証が必要となった。当時日本からおびただしいOA機器、パソコンが輸出されていて、輸出企業は必要に迫られてISO認証をした。それが発端である。ISO認証とはそしてそれ以上でもそれ以下でもなかった。単に輸出するときの手段にすぎない。アメリカに電気製品を輸出するときにUL認定を受けるのと同じだ。
そもそもISO認証すれば企業が良くなるとか、品質が上がるなんて意見もなかったし、発想もなかった。
だからNTTのような大手企業は、ISOなにものぞ、我々の品質保証要求の方が優れているのだと語っていたし、そのように行動していた。NQASなんてご存じないか? まあ、結局は多勢に無勢、黒船に押し切られちゃったけどね、
少しくらいメリットがあるだろうとお考えかも知れない。ISO認証していると工場に品質監査には来なくなったのかといえば、そんなことはなかった。
えっ、ISO認証しても品質監査に来るの?
もちろん来ました。だってISO9000sの審査では会社の仕組みだけを審査するのです。工場で具体的になにをどの基準で管理しなければならないかなど技術に関わること、あるいは製品固有なことは審査してくれないじゃないですか。じゃあ、買い手が監査するしかないでしょう。自分が金を出して買うとき、どこの馬の骨か分らない人の審査を受けてISO認証しましたと言われても、安心しないのが普通の人です。
なおISO17021:2011 3.4注記4にある「合同審査」とは元々認証機関によるシステムの審査と書い手による詳細手順や運用の審査を一緒にすることだったと記憶している。最近は複数の認定機関が一緒に認定審査することに使われているようだけど

*監査と審査は英語では同じくaudit、日本では一者、二者の場合に監査を使い、第三者のときに審査を使う。初歩を語ってすみません。

じゃあ、入札やグリーン調達の際に優遇されるというのは本当か?
国交省や一部行政団体の入札の際に加算点が付くというのは本当らしい。とはいえその前に基本的なことを満たしていなければならないわけで、認証の加算点とは現実的には気は心程度であろう。

*グリーン調達においては・・・・私の知るかぎりISO14001認証必須という会社はないのではないか? 興味ある方は「グリーン調達におけるISO14001 その2」参照のこと

ということはほとんどメリットがないように思える。いや、思い当たるメリットがないのだ。

認証することで会社の改善が進むという方もいる。
先ほど述べた製品・サービスの品質向上とは異なる。組織あるいはそのシステムが良くなるという論である。
それは本当だろうか?
私を疑い深い人とか、善人ではないと言ってはいけない。人生を生きていく上で、証拠ないことは信用してはいけない。おっと法律で「善意」とは事情を知らないという意味であった。
そもそもマネジメントシステム規格の前身である品質保証規格は、企業を改善するためにつくられたわけではない。買い手が期待することを実施することを要求しているだけだ。製品は大事に扱え、計測器はしっかり校正しろ、雨風にかからないように保管しろ、作業者はよく教育しろ、それは企業を良くすることと似通っていることはあるかもしれないが、一致しているはずがない。また当然であるが金額的なこと、人事管理、衛生などに言及しているわけではない。現実の企業活動においては、リソースとの兼ね合い、投資対効果をみて対策するのは当たり前だ。そういう意味では、完全な是正処置を打つことがベストではなく、ベターでさえない。最近ISO作成者はリスクなんて言葉を好んでいるようだが、起業においては常にリスクを考え、ある程度のリスクを負うことを前提としている。
大昔は品質保証規格だったかもしれないが、21世紀には品質マネジメントシステム規格に脱皮したというご意見があるかもしれない。そうとは思えない。根本的なところを変えずに、言い回しを変えても変身はかなわない。
それよりももっと重大なことがある。ISO9001が品質保証に有効であるという証拠を私は知らない。ISO14001に適合していれば遵法と汚染の予防が実現できるという理屈を聞いたことがない。
ISO9001の意図は顧客満足だ、ISO14001の意図は遵法と汚染の予防であるといっても、本当に規格を満たせばそうなのかどうか、説明なり証明なりされていないということに留意すべきである。ココ重要

*ISO14001:1996年版では「序文」で「二つの組織が、同様な運用を実施してはいるが異なる環境パフォーマンスを示す場合であっても、共にその要求事項を満たすことがあり得る」、2004版では「序文」で「二つの組織が、同様な運用を行っていながら異なる環境パフォーマンスを示す場合であっても、共にその要求事項に適合することがある」となっている。1996年版と2004年版は単に訳が異なるだけのように見えるが、原文がmayからcanに代わっており、訳も「あり得る」から「ある」なっている。
2015年版DISでは「成功のための要因」で「二つの組織が、同様の活動を行っていながら、それぞれの順守義務、環境方針のコミットメント、用いる環境技術及び環境パフォーマンスの目標点が異なる場合であっても、共にこの国際規格の要求事項に適合することがあり得る」と逃げを打っている。
これらを読むと、規格改定のたびにトレランス(公差)が広くなり、責任を追及されないように、いや責任逃れがひどくなってきたと感じるのは私だけだろうか?


かようなISOMS規格であるから、第三者が点検した結果ISO規格を満たしているというお墨付きを出したとしても、それが規格の意図を実現しているかとは全く関係ないのだ。

*「お墨付き」とは将軍や大名が臣下に、領地を与えるとか、生まれた子供を認知するなどを記述した証拠のこと。効果がなければお墨付きではない。

ISO規格適合と規格の意図が実現するとは同じことではない

問題はもっとある。
ちょっとたとえ話をする。金銭消費貸借契約(要するに借金)において保証人という制度がある。AさんがBさんからお金を借りるとき、BさんがAさんは返済するかどうか信用できなければ保証人を付けてと言う。Aさんはつてを頼ってCさんに保証人になってもらうことにした。Aさんが払えなくなったりドロンしたりするとAさんに代わってCさんがBさんに支払わなければならない。もしCさんが連帯保証人になってしまったら、Aさんがお金を持っていてもBさんから請求されればCさんが払わなくてはならない。アブナイから連帯保証人にはならないようにしよう。

*民法第446条 第1項 保証人は、主たる債務者がその債務を履行しないときに、その履行をする責任を負う。
同 第458条  第434条から第440条までの規定は、主たる債務者が保証人と連帯して債務を負担する場合について準用する。

保証人という考えは人間社会ができたときからあるらしい。旧約にもでてくるし、日本でも古事記の中にも保証人という考えがみられるときく。そういやゴッドファーザーのマフィアの抗争にも出てきたな。結婚の仲人も保証の一つである。
ではISO認証した結果、認証された組織が問題が起きたときはどうなるのか? 残念ながらそういう事例は皆無ではない。そのときその組織を認証した認証機関は何らかの責任を負うのだろうか?
おっと、その時いったい誰がAさんでBさんでCさんなのか?
それは簡単だ、組織つまり認証を受けた会社がAさんで、認証機関がCさんである。Bさんは誰かって? Bさんは世の中の人々である。第三者認証とはそういう仕組みだ。

 金銭消費貸借契約第三者認証
Aさん 借り手 認証を受けた会社
Bさん 貸し手 世の中の人々
Cさん 保証人 認証機関

では認証を受けたAさんが不祥事を起こしたとしよう。誤解があってはいけない、その不祥事は認証に密接に関わる事案とする。
本来なら保証人であるCさん、つまり認証機関は認証を受けた会社に代わって世の中に謝罪すべきだと考えられる。
だが現実には、CさんはAさんに代わってBさんに謝罪や賠償をするのかといえば、まったくそんなことはない。通常の場合、通常というのもおかしいが、CさんはBさんに代わって、Aさんを誹謗中傷する。いや、言い方が悪い、CさんはBさんに代わって、Aさんを非難するのだ。
どうしてかと聞かれても私も困る。そういうのが現実だとしか言いようがない。
借金の例に戻れば、AさんがBさんからお金を借りました。Aさんが払えなくなったりドロンしたりするとBさんに代わってCさんがAさんを非難するのです・・・これっておかしくない?

となるとBさんはCさんが保証すると言っても安心できません、というよりも責任を負わない人を信用しませんよ。Aさんにお金を貸すの止めたとなるでしょう。認証で言えば、世の中の人々は認証機関を信用しなくなります。責任を負わない人を信頼するはずがありませんね。
認証を信頼しないのではなく、認証機関を信頼しないのですよ

*権限を裏付けるものは責任です。
部下が上司の命令を聞くのは、命令に従って行動した結果、失敗してもその責任は上司にあり、部下はその責任を問われないという論理が貫かれているからです。当然ですが責任逃れする上司の命令は聞いてもらえないでしょう。
世の中そういうものです。だってそれが理屈ですから。そうじゃないと言うのを屁理屈といいます。

ISO第三者認証とはそういうものなのです。となると、ちょっと戻りますが、「商取引における優遇」というのは無制限ではなく買い手が損しない程度だけしか優遇できないということになりますよね。それは論理から言って当たり前です。

誤解に備えて
そもそも第三者認証が発祥したとき、認証機関/審査員は顧客の代理人と自称した。そのことからCさんはAさんの保証人ではなく、Bさんの代理人であるという異議を予想する。
そういう発想もあってよい。
ではその場合であってAさんに不祥事が発覚したとき、CさんはAさんを非難する資格があるかといえばどうだろう。
どうだろうというのは間違いだという意味ですが
その場合、CさんはBさんの依頼を達成していなかったということになるだろう。だからBさんはCさんに対して損賠賠償の民事訴訟を起こすことになる。もちろん訴訟になる前に、CさんがBさんに和解に持ち込むかもしれない。日本の民事裁判の3分の1は和解で決着がついているという。いや、これは関係なかった。
ところで第三者認証が顧客の代理を自称しようと、Cさんと一般社会(Bさん)は審査履行の代理人契約を結んでいるわけではない。Cさんが自発的にそして自分自身のお金儲けのためにAさんを審査しているという実態がある。ではその審査結果に対してはCさんが一般社会に対して全責任を負うと考えてもおかしくない。
だからいずれにしても不祥事が発覚したなら、Cさんは私の能力が足りなかったと反省し、Bさん、つまり一般社会に対して謝罪するしかないと考える私はおかしいだろうか?

ところが第三者認証のルールはまたまた違う。
実を言ってISO17021:2011定義3.5では、審査の依頼人は組織つまりAさんとなっている。この場合、不祥事が発覚したとき、Aさんがお金を払って規格と適合しているかの調査を依頼しているわけだから、その調査に瑕疵があったことになり、CさんはAさんに損害賠償するのは妥当であろう。CさんがAさんを責めるのではなく、AさんがCさんを責めなくてはならないのだ。
どう考えても、CさんがAさんを責めるのは筋違いであるというのが結論となる。
もちろん異議は認める。挙手の上発言してください。ハーイ
ハイ、前から三番目の方、どうぞ

いろいろと考えてくると、どうも第三者認証というのは制度としてはじめから破綻しているような気がしませんか? どう考えても論理的にバランスが取れていないのです。
物理の法則でも数学の公理でも、矛盾があっては成り立ちません。矛盾がなければ現実には存在していなくても理論は成り立ちます。虚数とか非ユークリッド幾何学なんてのは初めは誰も見たことがありませんでしたが、誰もおかしいと思いませんでした。論理に矛盾がないからです。
でも提供するサービスに責任を負わないというビジネスが成り立つのでしょうか?
サービスに責任を負わないなら、サービスの品質を気にすることはありません。つまり顧客満足を考えることがない、そんなものサービスとは言いません。もしそういうビジネスが成り立つなら、まさに無から有を生み出す永久機関なのかもしれません。
もっともこの永久機関、発足から四半世紀でもうエネルギーが枯渇して止まりそうです。まもなく坂を下り始めるのでしょうか?

だらだらとなってしまいました。
ともかく論点はいくつかありますが、
(1)
ISO認証はISO規格を満たしていることを保証していません
(2)
ISO規格を満たすと規格の意図が達成されるとは、誰も証明もしていませんし、保証もしていません。
(3)
ISO認証は問題が起きたとき、誰も責任を取りません。
もちろん組織は民法に基づく損害賠償責任を負いますが、それはISO規格ともISO認証とも関係ありません。
(4)
ISO規格も第三者認証制度も、会社を良くする効果はありません。

うそ800 本日の提言
私は第三者認証制度が無意味だというつもりはない。ISO規格が信用できないというつもりもない。
私はISO規格とはこんなものです、第三者認証とはこの程度のものです、というところから始まるのだということを言いたい。
美辞麗句を騙り、仲人口を語っても、最後にはばれてしまう。そうなればいろいろ言われるのは見えている。
真実を語り、それでも価値があるのだ、価値を創り出すのだという意思と実行力こそが第三者認証制度を生き返らせる道だと思う。

続きがあります。



外資社員様からお便りを頂きました(2015.08.07)
おばQさま
いつも興味深いのお話を有難うございます。
私の会社はISO認証をされる側ですが、試験屋の仕事をしているので、とても参考になるし、自分の仕事の意義についても考えてみる機会になります。
私は規格適合の意味(効果)は、用語の統一だと思っています。 他社を監査する場合、特に取引先として調査する場合には、同じ用語が使えるのは大きなメリットだと思います。
会社には、会社固有の文化と歴史がありますから、同じ言葉や概念が使えるとは限りません。特に、似て非なる場合や、微妙に概念が異なっている事を同じように誤解すると、後で大きな誤解になる事もあります。ISOに基づいた共通の用語や、対応する規格、社内文書が判る事で、このような調査はずいぶんとやり易くなると思います。
ですから、ご指摘の認証会社の言うISO認証の効果は、認証された会社に対してというよりも、外から見た効果と考えた方が良いと思います。
つまり、その会社内部の権限や役割分担、社内規定が、外から判り易くなる、または対応が容易になるのだと思います。実際、これは言葉の違う、海外の工場を監査する場合には、大きなメリットになります。ISOに対する訳語は異なれども、項番を比較すれば、相手の言う概念は理解できますし、文書が何に関するものなのかわかるのです。
もちろん、おばQさまは、そんな事はお判りの上お書きになっているのでしょうが、私は個人的な体験の中で思うことを言えるだけなのです。
認証試験会社の保証人としての位置づけは、私のような技術系の試験屋から見てもおっしゃる通りなのです。試験というものは時間や費用の関係から、すべての調査は不可能ですから、当然に抜き取りになります。ですから、試験に合格したにも関わらず、市場で製品の不具合があれば、まず試験屋は原因分析をします。
大きくは次の3つです、
1)試験に問題があった:試験会社の責任
2)試験方法に問題があった:規格団体の責任
3)製品に問題があった:製造者の責任

1)の場合は、当然に試験の記録を再調査をします。
2)は、抜き取りにより抜け項目や、試験方法が問題を検出できていない可能性を確認します。
これは試験規格を作った規格団体と試験会社が共同して行います。
3)は、実際に市場で不具合を起こした製品を入手して再試験、不可能ならば市場から製品を複数入手して再試験を行います。試験を受けたサンプルは開発部門が確認の上受験しますので、量産品が異なる事もあります。
私達が、このような試験が有効だといえる根拠は、市場で不具合が発生すると、このような調査サイクルを回して「継続的な改善」に時間とお金をかけているからです。 つまり、価値の維持にはお金と努力が必要なのです。しかし、世の中は栄枯盛衰、どんな技術だろうが衰退しますから、これだけ努力しても時間の推移とともに試験件数は減りますから、また新たな規格の試験に取り組む必要があります。
お話を伺うに、ISO認証試験会社でも、だれの責任だという前に、上の1)2)3)に相当するサイクルが回るべきなのです。 それでなければ、合理的な審査、試験のシステムではないと、試験屋は思います。このようなサイクルが普通に無いと認証システムの「継続的改善」などできないと思います。

外資社員様、毎度ご指導ありがとうございます。
正直申し上げますが、外資社員様からメールを頂くたびに心臓が速まります。なにせ言いたい放題語っておりますが、日々実戦で闘っておられる方のご意見を頂きますとそりゃ心配です。
おっしゃること、すべて同感です。
認証制度というものが絶対だとか、認証に不具合はありえないという発想ではなく、一定のリスクがあるのだという当たり前のことを認識し、その上で認証の信頼性をいかにあげていくか、その前に信頼性をどのような指標で評価し、いかほどを目標値あるいは許容値に設定するかという検討判断があるべきだと思います。
現実はISO認証制度の人たち、認定機関、認証機関、ISO委員などは2015年の今でも、企業による虚偽の説明のためにISO認証の信頼性が損なわれたと書籍、雑誌、ウェブサイトに書いています。
20年間、企業側で認証制度に関わっていた者として、そのような責任転嫁には納得いきません。子供っぽいと言われても断固糾弾したいという気持ちを押させることができません。
外資社員様のおっしゃるように理屈を通していれば、認証試験のようにマネジメントシステム認証も価値があっただろうにと残念です。
認証機関のエライサン、ISO委員たちは品質管理を知り尽くしているはずですが、自分たちが提供する認証サービスの品質については何も考えないのでしょうか?
そこんところが残念というか、イッツシェエムですよ

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