「ISOマネジメントシステム強化書」
 ISO14001:2015 規格の歴史探訪からAnnex SLまで

2016.06.22
ISO9001とISO14001二つとも2015年に改定されて解説本もいくつも出たが、引退した身、何冊も本を買う金もなく対訳本を買っただけだ。だいぶ前に同志から三代さんの本が出たというメールがあったので買ってみた。引退してから遊びほうけていて忙しい身()、なかなかまじめに読まず、やっと二度ほど読み終え考えをまとめたので感想文を書く。

書名著者出版社ISBN初版価格
ISOマネジメントシステム
強化書
三代 義男オーム社97842742182932016.02.152,500円

著者の三代さんには二度ほど研修会で習った記憶がある。ISO9001の5日間研修と2000年版改定対応の研修だったと思う。とはいえ前者は20年前、後者でももう15年前のことで、覚えているのは三代さんが独特の襟をしたシャツを着てネクタイをしていなかったことくらいだ。

この本を読むと三代さんは、規格ありきという発想があるように思える。規格ありきというのは、規格を満たすことを優先する考えと理解してほしい。彼は供給者の立場で顧客要求を満たし品質監査で問題を起こさないようにしなければならないという立場だったからそういう発想であろうと思う。私もISO9001を担当していた時代は全く同じ立場であり同じ発想であった。
ただISO14001においてもその発想、考え方は通用するのだろうか? ISO9001と同じスタンスでISO14001に対応すべきだろうか?
ISO9001は2000年版から品質保証の規格ではなく品質マネジメントの規格になったと自称している。それが正しいかどうかよく考えなければならない。というのは品質保証というのは相手がいてのことであり、ISO9001が品質システムと自称してもその発想の上にある。
ところがEMSというのは、広義の品質保証の規格といえるが、説明する相手は顧客ではなく自分自身だと思える。だからQMSとEMSを同じ考えで取り扱えるのかといえば、疑問符が付く。
じゃその違いは何だと言われると、簡単に言えばISO9001は要求をすべて満たさなければならないと思うが、ISO14001は要求事項をすべて満たさす必要はないのではないかと思うのだ。いやISO14001を満たす必要があるのかどうかと考えると、その必要性は自分が決めることである。
私は当初品質保証を担当していて、その後その一環としてISO9001を担当し、その後業務のシュリンクなどにより環境管理に移りISO14001が現れてそれを担当し、一段落したのちは第二者環境遵法監査と仕事を変わり職場を流れてきた。そんな遍歴を経てきた者として考えると、ISO14001の要求事項を満たすことが重要だとは全く思えなくなった。ISO14001オリジナル版では規格の意図は「遵法と汚染の予防である」と言っていた。そして序文で「レビューと監査だけでは遵法と方針の実現を継続的に満たすことは十分ではないかもしれない」、そのためには「体系化されたマネジメントシステムが必要」と述べている。そしてそのマネジメントシステムのひとつの形としてISO14001があるという記述であった。
つまり組織が遵法と汚染の予防につとめるには多様な方法があるというのは規格作成者は理解していたわけで、組織が遵法と汚染の予防のためには別の方法をとることも、異なるshallからなる規格の存在もあるだろうと考えていたわけだ。
これが第二者に対する品質保証から発展してきたISO9001と、己の遵法と汚染の予防を確実にすることを目指したISO14001の違いだと思う。
そしてそれを実現するための一案であるISO14001は今回の改定でだいぶ重装備となってきたが、それが遵法と汚染の予防実現に必要かつ十分なのかは定かではない。というかそれ以前に方向がずれているのではないかという気がする。
というのが私のISO9001とISO14001そしてそれらの2015年改定についての印象である。

ところで三代さんは環境管理をしたことがないように思える。ここでいう環境管理とはISO14001認証とか環境広報ではなく、公害防止とか省エネといった工場管理、省エネ設計とか物流における環境負荷低減といったものと考えてほしい。何が違うのかというと、実務において省エネとか地下水汚染といった仕事をしていると、環境側面とか法規制の把握なんてものは改めてするものではなく過去からわかりきっていたことであり、改善とは日常業務であるという認識であるということだ。
環境管理に従事していなければならないとは言わないが、三代氏の本を読んでいてあれっ!?と思ったところがいくつもあるのはそのせいかと思うのだ。
以下、具体的に取り上げて論じる。

第1章 規格の歴史探訪


第2章ISO14001:2004年版の再認識


総括である。
ISO規格改定についての解説本は多々あるが、いずれも「規格があって企業がある」という発想に見える。現実はそうではないだろう。「企業は存続することが目的である」とドラッカーは半世紀も前に語った。ISO規格は企業が存続していくために使うツールあるいはインデックスにすぎない。企業はISO規格を存続のために役に立つなら使うだろうし、役に立たないと考えたらいつでも捨ててしまう。生き物は環境変化に適応するために体形や食物、生き方を変えていく。そうしなければ生存できないから。企業もそれと同じだ。
ISO規格を満たすことが目的ではなく、存続・生存に役立つならISO規格を満たすだろう。生存に役立たなければISO規格を無視するだろう。そう考えると「ISO規格にあるから」なんて言い方を聞くと片腹痛い。妥協と政治的取引の結果であるISO規格が、聖書ほど価値があるとでも思っているのか? いや法律ほどの価値もない。「ISO規格にあろうがなかろうが、やる、やらない」という決断があってしかるべきだ。もちろん二者取引を除いてだが。
そして判断基準にしても手法にしても、それが常に正しいということもない。判断基準や手法が、生存・存続に役立つか否かは、そのときの生物や企業を取り巻く環境によって変化する。
ISO規格解説本は多々あるが、根源的なところまで戻って、ISO規格とはなんなのか、その存在意義、規格を満たす意味、を再吟味すべきではないのか?
もっともそんなことをすればISO規格は不要だという結論になるかもしれない。
お断りしておくが、私は汚染OKとか遵法無視という考えではない。遵法と汚染の予防は企業存続の必要条件である。考えなければならないのは、遵法と汚染の予防にISO14001は役に立つのかということである。
現状を見ると、その目的にはISO規格はあまり(ほとんど)効果がなく、もっと違った手法を考えなければならないのではないかと思う。少なくても2004年版から2015年版になっても、改善効果はまったくないと断言する。
そもそも規格を変えて環境配慮が向上するなら、規格を替えずとも向上したはずだ。なぜなら環境活動はISO規格によって変わるのではなく、見えざる手によって導かれる。見えざる手とは資源供給、規制、コスト、社会的評価、などなどだろう。
じゃあISO規格の意味は何か? 認証制度の意味は何かとなるが、意味はないというのが真実ではなかろうか?
ということはあまたの規格解説本の存在意義もなさそうだ。規格解説本は、認証をたやすくするために存在する。

三代氏は企業から規格を考えているだろうと思っていたが、そうではなく規格から考える天動説のようだ。ISO関係者はみなこの病に感染しているなら恐ろしいことだ(棒)

うそ800 本日の駄文を3行にまとめると


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