「外来種は本当に悪者か?」

2017.04.13
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

最近、生態学に凝ってそれに関する本を図書館から借りだして読んでいる。もう10冊は読んだ。
なぜそんなことに興味を持ったのかとなると、話は長い・・・・
かっては私の仕事であり今は私の趣味である、ISO認証のことである。最近ISO認証件数は減る一方だ。
素直に考えるとある業界の市場規模が縮小すれば、その業界に存在する会社も減るだろう。というのは会社が存続していくには儲からなければならず、固定費を回収できる規模が必要だ。固定費は売り上げが変わっても固定だから固定費、固定費を回収できなくなる時が損益分岐点、損益分岐点以下になれば存在できない。いやそうなるまえに先を読んで撤退するだろう。
ISO9001とISO14001合わせた認証件数はピークであった2007年に63,000件あったものが、2017年第一四半期はなんと50,000件である。実に13,000件、20%の減少だ。そうではあるが認証機関はそれほど減っていない。わずか5%減である。まだ損益分岐点よりは上だとしても、そうとう厳しいはずだ。
さてここで考えた。存在できる認証機関の数は売上規模(≒認証件数)の関数で表されるはずだ。となるとそれはどんな関数(算式)で表されるのかと考えた。もちろん認証機関といっても同じ規模ではなく、シエア20%くらい占めるガリバーもあるし、3ケタに届かない零細もあるだろう。それに自動車メーカーや製鉄のような基本的な投資額がとてつもないものもあるし、認証機関や弁護士事務所のように投資額が小さいものもある。それらも含めて一般的な方程式はないだろうか。
経営学で市場規模と会社数の関連の論文があるのかと探したが、ネットではみつからなかった。簡単な方程式などにはならないのだろうか?
そんなことを考えていて、そうだ!とひらめいた。
生物の個体数が餌の量や天敵など与えられれば決まるなら、それを援用すれば存在可能会社数が推定できるのではないのかと考えた。そういう方程式はないだろうか?
というわけで生態学の初歩の本から読み始めた。

そんなことを言うと「よくそんなアホなことを考えたものだ」と思われるだろう。そもそも生物と企業は似て非なるものだろうし、いや似てもいないかもしれない。いや、そんなことを考える必要もないだろう。もっと別のことをしたほうが生産的で良いという声もあるに違いない。まさしくそのとおり。でもこれを機会に今までかじったことのない生態学を勉強するのもまた楽しいだろう。
実を言って環境管理に携わっておりましたなんていっても、私は生態学も自然保護も生物多様性も知りません。知っているのは公害防止と廃棄物処理だけです。知らないことを知ることは楽しく、それによって物事の理解が深まるのはうれしい。
ともかくそういった流れで生態学を学ぼうとしたわけです。私のことですから本を買うなんてことはしません。 読書 ネットでいくつかそういうサイトをながめて、そこで引用している本をリストアップしました。そしてネットの図書館蔵書検索で検索しあるものを次から次と予約したわけです。あとは寝て待てば図書館で品ぞろえするたびにメールでお知らせが来ます。メールが来れば引き取り、フィットネスクラブへの行き帰り、掃除や洗濯のスキマ時間にひたすら読むということになります。

さてそういった本を読んでいるうちに、生態学が面白くなってきましてもう認証機関の生息数(?)などどうでもよくなってきました。そして環境保護とは何かとか、生物多様性はあるべき姿なのかとか、環境にやさしいとはなにかなんてことに考えが広がり、環境保護とか自然保護といったことで今まで聞いていたことがなんだかなあと感じるところが出てきたのです。
つまり今のエコロジーとか、環境保護というものは、本来のというか、あるべき行為、活動とは少し方向が違うんじゃねーかと考えるようになってきたということです。

そして今現在、生態学に関する本を乱読をしているさなかなのですが、今まで読んだ中で一番面白かったので話のとっかかりにこれを取り上げました。実を言って面白かったというのも、そのときの条件、状況によるわけです。微分方程式がズラッと並んだ本を斜め読みした後は方程式のない本はわかりやすいと思うし、感情の叫びが書かれた本を読んだ後は淡々と理屈を重ねた本が心地よく、だからこの本が最高といういうわけでもない。私がこの本の前にどんな本を読んだかによって左右されるでしょう。ともあれこの本だけでなくいろいろ読んだ本の結果として私が考えたこと、疑問に思ったこと、頭に浮かんだ妄想などを書きます。

書名著者出版社ISBN初版価格
外来種は本当に悪者か?フレッド・ピアス草思社97847942221212016.07.201800円

タイトルからは、外来種は悪いのか、そうでないのかを論じた本と思われるだろう。だが、これは日本語訳のタイトルが悪い。原題は「The new world」であり直訳すれば「新世界」だが、著者は生態系とは秩序ある静止したものではなく動的でうつろいゆくものであるだと従来の静的な生態系の考えとは違うぞという意味で「The new world」という言葉を使っている。

生態系とはなんだろう?
普通は「生物群集やそれらをとりまく環境を、ある程度閉じた系であると見なしたとき、それを指す」とある。そしてそれは一定環境下にあれば遷移して最終的に極相という安定した状態になると考えられていた。
だがこの著者はそんなことはないという。
生態系とは動的なものであり、一定環境にあってもその中における種の位置は変化するという。そしてまた人間が「自然」と考えているものの多くは人の手が入ったものであり、かつ長い歴史を持っているものではないという。
確かにそれはある。里山が日本の原風景と言われているが、実はそんなものは100年くらいしか歴史がないらしい。明治維新の頃、外国人が撮った日本の風景写真では、人間の住んでいる近くの山は木々の代わりに草が生えているのが多い。
ルーズベルト大統領はアフリカの偉大な大自然を称えたが、その大自然は彼がアフリカを訪問するたった数十年前に出来上がった姿だという。
アマゾン河にスペインやポルトガルの兵隊が侵攻した頃は、アマゾン川流域には都市や田園が広がっていたという。それが侵略され人々が放棄して崩壊し、熱帯雨林になったという。河沿いの熱帯雨林の下には遺跡が見つかるという。
北アメリカの大平原もオーストラリアも、毎年原住民が野焼きして新しい草が生えるようにしたという。そういったことによって自然(?)というか原風景が維持されていた。このように現実に存在していた生態系は、自然のものではなく極相でもなかったという。フレッド・ピアスばかりでなく、多くの人、本が写真付き、証拠を上げて語っていることだから間違いないようだ。これは覚えておかなくてはならない。
となると里山保全とかアマゾンの熱帯雨林を守れというのは何なのかと?

従来言われている極相に至るまでの森林の遷移
草草 矢印


草草草
草草灌木草灌木草 喬木草喬木喬木喬木
裸地 →1年生草本多年生草本草地に木々が散在する森林

そして大きなことだが、極相というものはないのではないかという。例としてカリフォルニア湾を挙げている。そこでは上流で大雨があるたびに湾内の貝や海草もそこに住む魚類も流されてしまい、生態系がリセットされてしまうそうだ。大雨は数年ごとにあり、そのたびに湾内の生き物たち、生態系、食物網が入れ替わるのである。
話は変わる。私事であるが私は大腸ポリープができやすい体質だ。それで毎年1度は大腸内視鏡検査をしなければならない。毎回検査前に大量の下剤を飲んで胃腸を空にする。その結果便だけでなく腸内細菌も根こそぎ排出される。すると検査後数日は腸内細菌が安定していないために便秘したり下痢したりが繰り返し、ガスもたまり非常に落ち着かずいやな感じである。一週間もするとあたらしい生態系というかフローラが構成されて大便も安定してでるようになる。このようなことは私だけでなく、大腸内視鏡検査をしたり下剤を飲んだりするとかなりの人がなるようだ。新しくできた腸内の生態系は、検査前のものとは細菌の種類も割合も異なるという。
カリフォルニア湾もそれと同じなのだろう。毎回新しくなる生態系はそのときの条件と偶然で作られる。決して同じものが再生されるわけではない。
それは私の腸に限らずカリフォルニア湾に限らず生態系全般に言えるらしい。「自然のバランスなどというものはない。自然は常に変化し続けており、同じ状態ではないのだ(p.223)。だから一般的な極相というものはなく、そのときの条件で異なる最終状態になる。
となるとどうなるのだろう?
ありのままの自然という状況があるわけでなく、最終的に安定状態になるにしてもその最終的な形に決まったものがないなら、自然保護とはどういうことなのか?
お魚
生物多様性ということについても疑問を呈する。
サンゴ礁には多種の生物が生息してお互いに助け合い食物網を構成している。一種類の生物を取り除いてもサンゴ礁は変わらないが、二つ三つと生物を減らしていくとあるとき突然生態系が崩壊してしまうという話がある。この著者はその根拠があるのかと辿るとなかったという。都市伝説ではないかという。
いや、多様性がないと生態系が崩壊してしまうということは真実かもしれないが、証拠というかそうなった事例はないということだ。ニホンオオカミがいなくなって鹿害が増えたというのはちょっと単に捕食者がいなくなっただけで、それとは違うだろう。
それが真実か否か私にはわからない。だけど私の元同僚には生物多様性信者が多いから、今度会ったときは「そのソースを教えて」「それが書いてある論文を教えて」とどちて坊やのように聞いてみたいと思う。

もうひとつ大きなことだが、地球温暖化である。
地球の温度は過去数万年で暖かくなったり冷たくなったりしてきた。氷河期だって何度もあったじゃないか。温暖化になってもたかだか2度くらいなら問題ないじゃないか?
だが地球温暖化教徒は動じない。確かに過去の温度変化は大きかった。しかしその温度変化は何百年もかかって変化した。だけど今の人為的な温暖化は数十年という短期間で進んでいるから問題なのだと答える。特に植物は移動できないから枯死してしまうという。
本当なのだろうか? 地球温暖化に動植物は対応できず食糧生産ができなくなり人類は滅んでしまうのか?
チョウチョ この本では蝶を大量につかまえて緯度の異なる場所で放してどうなるか、という実験について書いてある。その結果あまり影響はないようなことが書いてあった。
この本ではないがブライアン・フェイガンは「古代文明と気候大変動」や「歴史を変えた気候大変動」などで17世紀には10年ほどで数度も低下したという。気温が数度違うとはとんでもない変動である。もちろん人間も餓死や病気によって人口は大きく減らした。日本でも、
だがその結果人類は滅亡したわけでなく、植物や動物・昆虫が死滅したわけでもない。
そんなことを考えると地球温暖化で大混乱になるというのは言えるだろうが、人類や動植物が死滅するというのは無理気味だ。

この本を読んで生態系が分かったというわけではないが、微分方程式があふれている本を読んだ後に読むと少し安らぐ。

ただ著者は外来種といってよそから来たものを排除してはいけないというが、実際には外部から来た生き物がすべて嫌われ排除されているわけではない。現実の世界では外部から来て人間に害を与える生物が嫌われ排除されている。西洋タンポポを嫌う人はめったにいないだろうが、ブタクサは花粉症その迷惑を受けているから嫌われているわけだ。著者はそういう人間中心の価値観というか人間にとっての利害という価値観を無視というか考えていない。
もちろん在来種であっても漆とかツツガムシなど害を与える動植物はあるけど、それは長い年月で日本人も諦めというか慣らされてきたということもあるだろう。その善悪というか人間の対応もおかしいのであるが、著者はそういった現実を見ていない。
結局、自然保護も地球温暖化も人間中心の価値観の問題なのだ。現実社会は人間中心の価値観であるに対し、この著者は生物の繁栄を重視しているようで、そこんところは留意して読もう。

ついでに読むまでもなかったものを一つ上げておく。

書名著者出版社ISBN初版価格
生物多様性入門鷲谷いづみ岩波書店97840027078532010.06.09600円

もう教科書通りというか、自然保護主義者いや自然保護教徒というべきか? 
森林の生産性として単一種よりも多種多様な木々があったほうが生産性が高いという(p.17)。それは太陽エネルギーの有効活用とかいう点ならそうだろうが、経済性を考えればそうではない。人間中心の自然保護を語りながらときどきご都合主義を織り込むとは自己矛盾。前出のフレッド・ピアスさんとも違い一貫性がない。生態系におけるドミノ倒しを熱意を持って語るがその証拠の提示はない(p.31)。このへんはぜひともフレッド・ピアスさんと論戦してほしい。
「外来種は本当に悪者か?」を熟読したのち、この本を読み、フレッド・ピアスと鷲谷いづみ両者への批判を考えるとよいかもしれない。

老人ドライバー 本日の決意
うん、生態学は面白い。あと20冊も読むといっぱしのことは語れるようになるかもしれない。


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