*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。
伊丹は上野と工藤と砲兵工廠での講義(講演?)について議論している。
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「第一回はどんなテーマでいきますかね」
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「木越少佐の条件は面白くなければ即オシマイだ。あまり長い目で考えることはできないね」
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「第一回からみんなの関心を集めて、次回も聞きたいと思わせないとならないということですか」
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「テーマもだが、聴講者が多岐にわたっているから、みんなまとめてというのはどうだろう。兵、下士官、幹部によって仕事も違うし興味を持つことも違う。みんなに同じ話をしてもうまくいかないんじゃないかな」
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「どうでしょう、2時間あるのですから1時間は一般論を語り、残りでその具体例を語れば幹部は前半分を重点に、下士官や兵は後半に興味を持つのではないですかね」
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南条さんがお茶を持ってきた。 ![]() |
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「私が口をはさんでよいかどうか存じませんが、話に関心を持ってもらうのではなく、その人の関心があることを話さなくちゃダメですよ」
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「と言いますと?」
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「その人がなぜ働いているのか、どんな価値観なのか、どんな考えなのか、何が望みなのか、相手の立場に立って考えないと、 例えば、なぜ私はここで働いているのでしょう?」 | ||||||||
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「そりゃお金を稼ぐためだろう」
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「そう言っちゃそうですが・・・それだけなら別にこの会社でなくても女中であろうとお店であろうと電話交換であろうと、私は一人前の仕事ができると思いますよ」
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「それじゃ南条さんはなぜここで働いているのですか?」
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「面白そうだからです」
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「面白そうだって?」
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「上野さんは皇国大学で心理学を勉強したんでしょう、それにしては人の心をわかってないのね、 私がここで働いているのは、今日会社でどんなことが起きるだろう、新しい知識に出会えだろうと思うからです。毎朝、出勤するのが楽しくてワクワクします。上野さんは会社に来るのがワクワクしないのですか」 | ||||||||
![]() 伊丹は南条の言葉を聞いて、ホーソン実験が頭に浮かんだ。 とはいえ、あれは1920年代、今よりも15年もあとのことだ。 ![]() | |||||||||
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「おっしゃる通りですね、南条さんは人間の心理に詳しい。 ところで南条さんがワクワクするのはわかりましたが、砲兵工廠の人たちがワクワクするのはどんなことでしょうかね?」 | ||||||||
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「そんなこと私にわかるはずがありません」
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「へえ!」
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「講義の中でどんなことに興味があるのか、困っていることは何か、考えていることは何かを聞いたらいいじゃないですか」
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「おお、それはそうですよね、私たちがここで頭をひねっても分かるはずがない」
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「伊丹さん、そんなことおっしゃっても、落語の三題噺じゃありません、お題を出されてもすぐに思いつくわけありませんよ」
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「まあ、そうだけどさ、構えずに自然体で行ってみようじゃないか。 とりあえず明日は私が2時間話すことにする。上野君にそれを見てもらい次回は二人で手分けしてやることにしよう」 | ||||||||
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「次回があればですが」
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「月2両の仕事は手放したくないからそれなりに一生懸命やるよ」
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「俺は注文取りに歩くから、砲兵工廠の方は伊丹さんと上野君よろしくお願いします」
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翌日、伊丹が上野を連れて砲兵工廠に出向く。● ● 案内されたのは50人ほど入れる教室だ。黒板もある。 定刻前に見覚えのある由比上等兵、黒田軍曹、藤田中尉、それに木越少佐が現れ前の方に座る。それから開始までにいやいやながら来たという感じの人が30名くらい2列目以降に座った。 ![]() | |||||||||
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「本日はお忙しいところご出席いただきありがとうございます。 話は毎回完結にせよというご注文ですので、あまり大きなテーマとか深い話よりも、みなさんが日常している仕事について改善とか疑問とかについて参考になるようなことを話そうと考えております。 まずはみなさんのお仕事をお聞きしたいと思います。 ええと、由比上等兵殿でしたね、上等兵殿はどんなお仕事をされているのでしょうか?」 | ||||||||
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「自分は調達している部品の受入検査をしています」
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「受入検査とはなにをするのでしょうか?」
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「調達している部品は図面で寸法や精度、あるいは表面仕上げなどが指定されています。自分の仕事は、納入された物が図面指定を満たしているかどうかを確認し、良品のみを受け入れることです」
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「受入検査で不良となるものはあるのでしょうか?」
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「あります。毎回と言っていいほどありますので、受入検査は必要です」
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「不良が出たらどのようなことをするのでしょう?」
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「業者に返却します。良品だけ受け入れて支払いします」
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「上等兵殿の仕事の手順は文書で決まっているのでしょうか?」
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「受入検査業務手順書というものが定めてあり、自分はこれに則って仕事をします」
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「ありがとうございました。受入検査とは重要な仕事ですね。 黒田軍曹殿、あなたの仕事はどういうことをされているのでしょうか?」 | ||||||||
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「自分の仕事は、業者が良い品物を作るように指導をすることです」
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「指導と言いますと、具体的にはどのようなことを?」
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「先ほど由比上等兵が話しましたが、調達品の不良品や良品の状況をみて普段と違うことが起きた場合、あるいは継続的に不良が多い場合など、業者を呼んで状況を聞いたり、先方に行って指導をします」
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「もっと具体的に言っていただけると良いのですが」
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「あまり細かなことになりますと秘密です」
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「軍機ということですか?」 ![]() ![]() ![]() | ||||||||
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「いえいえ、そんな重大なことではありません。私が編み出したことで、あまり他人には言いたくないのです」
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「それは良くわかります。 ええと一般的には5Mなんて言われていますが、そういったことかと思います」 | ||||||||
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「ゴエムとはなんですか?」
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「英語でMから始まる言葉で仕事の管理をするために重要なものが5つあるといいます。 マン、これは人ですね。人と言っても誰でもいいわけじゃない。教育されて一定の技量がある人でないといけません。 マシン、これは機械とか道具です。機械が故障したり道具が摩耗したりしているとこれもいけません。 メソッド、これは方法です。工程甲をしてから工程乙をすることになっているとき、工程乙から始めてはこれもいけません。 マテリアル、これは材料です。図面に定められた材料でないといけません。あるいは図面上同じでも錆びていたり汚れているということもあるかもしれません 五番目のMは人によってさまざまです。メジャー、つまり測定方法とか測定器ということもあり、マネジメントといって管理方法を取り上げる人もいます。お金をあげる人もいますが、それだと前の4つとだぶるような気がしますね。まあいずれも重要な切り口と言えるでしょう。 たぶん軍曹殿のされていることもそういった、人が代わっていないかとか、工具が摩耗していないかとか、作業方法が変わっていないかとか、材料がおかしくないかとか、そういった観点から異常を見つけ原状復帰させているのだろうと思います」 | ||||||||
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「イヤハヤ、伊丹さんはお見通しですね。正直言ってそういった切り口を、常日頃調べて記録しているのです。問題が起きて行ってみると、ほとんどが以前とは違うところがあります。そのほかに天候や周囲に建物ができたとかで環境が変わっていることもあります。 いずれにしても正常なときの条件を把握しておかないと、異常はわかりません。なにせ異常とは正常と違うことですから」 | ||||||||
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「軍曹殿、そういった手法は文書に定めてあるのでしょうか?」
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「いや、定めてありません。先ほどの上等兵の申し上げたような定型的な業務については手順を一、二、三と書き綴ることは可能です。しかしなんといいますか漠然としているとか、過去の経験を基に判断するということは手順にするというのは難しいかと思います」
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「なるほど。しかしこう言っちゃなんですが、軍曹殿は自分が編み出した手法を人に知られたくない、教えたくないという気持ちはありませんか?」
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「うわー、伊丹さん、それは露骨な質問ですね。正直に言えばそういう気持ちもあります。仕事の手順として定めてなく、また先輩から伝えてもらっていない自分が編み出した方法というのは自分の存在意義だと思うのですよ。もし私が編み出した方法を全部後輩や部下に教えてしまって誰でも同じ仕事ができたら、私が下積みから軍曹にまでなった努力が無になってしまいます」
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「おっしゃることは良くわかります。ただ下士官となれば他人ができないことができることは誇りではないでしょう。他人に教えることを誇りとすべきではありませんか」
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「そういわれるとそうかもしれませんが、なんとも」
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「軍曹殿、ありがとうございました。別に私は木越少佐の密偵でもありませんし軍曹殿の査定をするわけでもありません。皆さんのお話を聞いて改善できることはないかなと考えているだけです。 ええと、藤田中尉殿、あなたのお仕事というのはどういうことを・・・」 | ||||||||
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2時間の講義が終わると、木越少佐がちょっと話をしようと言って伊丹と上野を自分の部屋に呼んだ。藤田中尉と黒田軍曹も一緒だ。● ● ![]()
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「伊丹君の今日の話はなかなか面白かった。今日聞いた話で気が付いたことがいくつかあったので教えてもらいたい。 ええとまず、すべての仕事というものは決まった手順を定められるものだろうか、そしてそれを紙に書く必要があるのだろうか?」 | ||||||||
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「先ほど黒田軍曹殿がおっしゃったように、現場的、定型的な仕事は手順1手順2と定めることは可能です。ただ仕事の階層が上がるほど判断要素が多くなりますから、手順は定めることはできてもそれは具体的ではなく、いくつかの状況を総合的に勘案して決定せよという風になると思います。 例えば二等兵なら上官から右向け右と言われたら右を向けばよいわけですが、あの高地をとれと言われた小隊長は軍曹と相談してどう攻めるか考えなければなりません」 | ||||||||
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「貴様はなかなか物知りだな。軍隊では訓令、命令、号令という分け方がある。知っているか?」 ![]() ![]() | ||||||||
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「存じております。その言い方をすれば由比上等兵は号令で動き、黒田軍曹殿は命令、藤田中尉殿は訓令になりますか」
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「訓令となれば師団長クラスで中尉ということはないだろうが、まあ意味するところはそういうことだ オイ軍曹、お前は己の技量を後輩に伝える気持ちはないのか? 先だってとある研修会で聞いたことだが、イギリス海軍では何人の艦長を育てたかということが艦長の評価だそうだ。軍曹は何人軍曹を育てたかによって評価されるわけだ」 | ||||||||
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「木越少佐殿、お気持ちはわかりますが、それは条件によるでしょう」
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「条件によってとは?」
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「そのイギリス海軍ですか、そこでは士官はほとんど定年まで勤めるのではないでしょうか。つまり途中で海軍を辞める人はいないのではないかと、 それに対して砲兵工廠では職工や兵は長年継続して働く人は少ないと思うのですが、いかがでしょう?」 | ||||||||
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「伊丹さんの言うことはわかります。正直なことを言って、この砲兵工廠では毎年職工の2割から3割が辞めていきます(注2)。また兵も流動的です。由比上等兵もいろんな工場からお誘いが来ています。 砲兵工廠は先端企業ですからここで技術技能を身に着けて一般企業に行けば相当優遇されます。ですから職人や兵・下士官は己の持っている技量を他人に見せたり教えたりすることはあまりありません。それは自分の財産ですから」 | ||||||||
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「なるほど、状況によって判断基準は変わるわけか、 となると手順書にするとか文書化するということも難しいわけだ。文書を丸ごと持ち出されたら大変だ。頭の中なら盗まれないと」 | ||||||||
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「大きな目で見れば、砲兵工廠は国家が高い技術技能を育成するという意味合いもあると思います。それによって国内の技術レベルがあがれば国力の向上です。しかし個人の立場では自分が創意工夫したものが、やすやすとまねされてはかなわないでしょう。砲兵工廠の職人や兵士が継続して働くという状況であれば軍曹殿も安心して後輩を育成できるが、軍曹の技術を盗んで退職されてはたまりません」
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「いやあ〜、伊丹さんはそこまでお考えでしたか。さっきは私が未熟かと反省しました。しかし毎年何割もの部下が入れ替わるわけで、伊丹さんのおっしゃる通りです」
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「ということはこの講義もあまり意味がないということか?」
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「少佐殿、対象を区分けして情報を規制したらよろしいのではないでしょうか。必要な人にだけ教えるとか、あるいは教育を受けた場合一定年限の勤続を義務付けるとか」
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「技術が広がるのを是認して、その代わり新しい方法を考えた人を顕彰するという方法もありますね。例えば、黒田軍曹殿が考えた方法を正式に『黒田方式』などと命名すれば、お金をかけなくても考案者の名誉は確保されます」
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「なるほど、それだけでなく考案工夫には顕彰するだけでなく報奨を出すべきだな。そうすれば全体的な向上になるだろう」
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伊丹は上下関係を気にしない自由な討論をみて、自分が若かりし頃、バブル前の雰囲気を思い出した。職場で議論するでなく居酒屋で酒を飲みながら仕事の方法、改善などを熱く語り合ったものだ。 この国はまだ高度成長どころか第二次産業革命の真っただ中、だけどそこで働く人は熱いんだなあと感動する。そして自分が少しでもこの国に貢献したいと思うのだった。 |
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注1 |
訓令という考え方はナポレオン打倒のために考えられ、師団という組織が作られた。しかし世界的に見ても多くの場合、師団の裁量範囲は狭く単に大きな連隊のようであったと思える。 第二次大戦以降、戦場の状況に応じて柔軟に対応することが必要だという認識が共有化され自由度が大きく運用されるようになった。 参考文献「超予測力」2016、早川書房、フィリップ・テトロック, ダン・ガードナー |
注2 |
1910年頃、日本の大企業における企業からの移動率は年20〜30%、第一次大戦後は40%にもなった。 参考文献「科学的管理法の日本的展開」1998、有斐閣、佐々木聡 |
懐かしの小集団活動のような雰囲気が良いですね。 こういうものは戦前、戦後を問わず、階級意識が薄い日本には向いている気がします。 一方で、個人の名誉を追及することを嫌うことも日本の職場の特徴ですが、名を残し実は取らないのならば、受け入れられる気もします。 |
外資社員様、毎度お世話になっております。 異世界というか技術の発展段階が異なる世界に行って何か改善指導をしようとしたとき、どうすればよいでしょうか? どんな部品ひとつとってもこれと同じものを作ればいいというわけにはいきません。そこに至るには製造技術、加工、材料、用途など状況が違うのですから同じものが作れるかどうか以前にそれが受け入れられるかということがあります。そしてまたすそ野というか周辺技術が多岐にわたり、そのものを作るためには思いもよらないほど必要とする技術や条件は広がるでしょう。 そんなことを考えると異世界審査員物語はとんでもないテーマだったと若干反省しています。 とはいえ、私は誰の挑戦でも受けるつもりですから、なんとかお話がまとまるようにしていきたいと思います。 ネット小説は未完のものが多数、まさに死屍累々です。まあそれでも多数の中にうずもれていますから恥ではないのでしょう。でも私のウェブサイト内でみじめな様を見せたくありません。頑張ります。 |