*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。
承前、 朝の打ち合わせを終えると、伊丹、工藤、上野の三人は歩いて10分ほどのところにあるお菓子の包装をしている作業場に行く。そこの親方というか長尾社長が能率改善をしたいと工藤に相談してきたのだ。 伊丹も上野のツッコミにとんがったわけではないが、上野がからんできたので自分流の作業改善を見せたいという気持ちもある。
すぐに長尾社長が出てきて作業場に案内する。商店だった土間に床を貼り壁や天井には目張りして埃を防いでいる。そこで、割烹着に手ぬぐいをしたおばさんたちが15人くらいいる。煎餅やカリントウを紙袋に一個一個包装している。手は速いが作業方法を工夫しているとは思えない様子だ。 | |||
「煎餅なんて、駄菓子と言っては悪いけど、大きな袋にガサッと入れて売るものと思っていたけど、今じゃ一個一個きれいに包装しているのかい。驚いたねえ〜」
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「このお菓子は昔からあって工藤さんが言うように大袋で売られていたものだ。しかし最近は高級路線とかでこんな風にきれいに包んで箱詰めして、今までの3倍くらいの値段をつけても売れているらしい。まあ、俺にすれば仕事があってありがたい」
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「社長さんの希望は、この袋詰めを速くできるようにしたいわけですか?」
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「速くというのもあるけど、見ていると袋を広げるとか入れてから折りたたむとかやりにくいのが分かるでしょう。そういったところを、やりやすくできないかなと思っているんだ。初めてこの仕事をした人はイライラしてしまう。俺も時々手伝っているんだけど、不器用なもんで」
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「今はみなさん同じ仕事を並行してしているわけですか」
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「うん、作業分担して流れ作業でした方がいいかなと試したことがある。材料の送りを手で運んでもしょうがないから、コロの上にお盆を置いて送ってみたりしてみた。でもそれぞれの作業時間をピタリに合わせることも難しく結局これが一番かなあなんて思っているんだ。仕事の増減があっても、休みがあっても、個々人がすることは変わらないしね。 先日、染屋に遊びに行って、工藤さんのところで作業改善とか能率改善の指導をしていると聞いて声をかけたんだ」 | |||
「ありがとうございます。こちらはウチの伊丹と言いまして、お聞きの通りすごい成果を出している技術者です」
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「上野さん、各作業の時間を図ってください。それと作業場のスケッチをしてください。ええと全体のレイアウトと各作業者の机に何をどこに置いているか描いてください」
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上野はあまり面白くないような顔をして言われたことを始めた。 伊丹も首をひねったり斜め上を眺めたりしている。アイデアがないようにも見えるし、あるいはもう結論が出てしまったようにも見える。 | |||
「社長さん、この煎餅を作っている会社を見学できますか?」
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「ああ、いいとも。ここから歩いて10分もかからんよ。今から行ってみようか」
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作業場から表に出ると、工藤は砲兵工廠に行くと言って別れた。 社長は伊丹と上野を伴って煎餅を作っている工場に行く。 長尾社長は煎餅工場のそばの小屋に顔を突っ込む。
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柳沼社長
「おお、いたいた。柳沼社長こんにちは。ちょっといいかな」
「これはこれは長尾さん、どうしたの?」
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柳沼社長と話し合っていた背広を着てネクタイをして、いかにも銀行員という感じの人が立ち上がった。 | ||
「そいじゃ社長、今日はこれで失礼します。近々うちの支店長とお伺いしますんでよろしく」
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「ああ、よろしくね」
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銀行員らしい男はそのまま出ていった。 | ||
「あれ、新橋銀行の大塚さんじゃないの。柳沼社長のところは景気がいいからまた機械でも入れるの? うらやましいねえ〜」
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「アハハハハ、そうじゃないよ。 ところでどういったご用件?」 | ||
「こちらは柳沼社長さん、こちらはウチの作業改善を頼もうとしている伊丹さんです」
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「はあ、なんでしょう」
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「長尾社長から煎餅を袋詰めするときの改善をお願いされまして、そもそも煎餅とはどうやって作っているのか知らないものですから、ご見学させていただけないかと」
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「ああ、そうですか。一応食品工場なので、入室の際は白衣を羽織って帽子をかぶっていただきます」
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柳沼社長は煎餅工場に案内する。 七輪に網を置いて団扇でパタパタ扇ぐようなのは昔のことらしい。今では金網のコンベアにたくさんの煎餅 を載せて加熱炉の中を通って出てくるよう自動化されている。 加熱炉を出ると扇風機で冷やしている。まあ、これくらいでないと大量生産はできないだろう。 安物はそのまま袋詰めされて、高級品はお盆に載せている。お盆は更に箱に積まれて長尾社長のところに運ぶという。 伊丹は煎餅生産機械の後方に、だいぶスペースがあるのに違和感を持った。作業場なり機械なりを設けるにぴったりのスペースだ。 伊丹は柳沼社長に煎餅の高級化路線はうまくいっているのか聞く。柳沼社長は駄菓子から高級菓子への脱皮は成功したという。もちろんすべての煎餅が高級菓子になれるわけではない。ここのものは昔から有名で土産物になるくらいだから個装して高く売れるのだろう。 30分くらい見学して社長においとました。 表に出ると伊丹は長尾社長に、改善策をまとめて、初期的な案は明日にでも提案すると言う。長尾社長とはそこで別れ、伊丹と上野はまっすぐ会社に戻る。 ●
会社に戻ってきてもまだ昼前だ。二人は会議室に座ってお茶を飲む。● ● | ||
「伊丹さん、能率改善のアイデアはまとまりましたか?」
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「うーん、改善以前に、どうしたもんかなと思ってさ。 工藤さんが帰ってきたら相談するつもりだ」 | ||
「伊丹さんはどんなアイデアを思いついたのか知りたいですね」
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「うーん、改善策はあるんだけど、それを実行することがいいとは思えない。まあ正直に言えば何もしない方がいいかなと思えてさ」
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「はあ!そうなんですか。改善策が見つからなかったというわけですか。 私はいろいろアイデアが湧いてきました。基本はやはり流れ作業ですね。以前指導したハミガキの包装でも一人が全部していたのを流れ化して大幅な時間短縮をしました。 長尾社長がタクトが合わないとか言っていましたが、袋詰めの冶具を考えるとか、余裕のある人が材料供給をするなどバランスをとれば、今の5割増しは軽くいくと思います。 お盆というのかパレットというのか、ラインの後ろまで行ったら前に戻すのではなく、それをそのまま柳沼社長のところからの運搬に使うのもいいかと思います」 | ||
ちょうどそのとき工藤が帰ってきた。 | ||
「どうですか、旨い方法が見つかりましたか?」
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「柳沼社長のところに新橋銀行の人がいました。融資の話だと思うのですが、柳沼社長が何をしようとしているのかわかりませんかね?」
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「調べてみましょう、まずはご本人に聞いてみましょう」
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工藤は部屋を出て、10分もしないうちに戻ってきた。 | ||
「話してくれました。柳沼社長は煎餅の包装まで自分の会社でするつもりだそうです。既にそのためのレイアウト工事を終えて、今は包装の設備を手配中だそうです。 別に銀行から借りるほどではないらしいのですが、銀行が貸したくて柳沼社長にお願いしているようでした。 今日、長尾社長とみなさんが来たのには、柳沼社長も困ったようでしたねえ〜」 | ||
「となると、このお仕事はお断りするしかないでしょう」
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「能率改善どころでなく、長尾社長には仕事がなくなると、話さなくてはいけないですね。先ほどのお話では明日にも改善案を提案するということでしたね。それじゃ明日それを」
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「長尾社長もかわいそうというか、いい面の皮だ」
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「えっ、どういうことですか?」
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「柳沼社長は自分のところで包装まで一貫生産を計画していて、それができるまで長尾社長のところに外注していたということだ」
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「なるほど、長尾社長が改善してもすぐに無駄になるということですか。 それで何もしないことが最善手なのですか」 | ||
「最善手かどうかはわからないけど、与えられた範囲で最善を考えるだけでなく、視野を広くすれば別のものが見えてくることもあるさ」
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今日は砲兵工廠の講義の第4回目だ。伊丹と上野はいつものように講義の1時間前に到着する。● ● すると藤田中尉と黒田軍曹がニコニコしていつもの教室に案内する。 | ||
「伊丹さん、先日は貴重な資料をいただきありがとうございました。あれを参考にいろいろ試作しました」
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「お役に立ってよかった。ところで、どんなものを?」
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黒田軍曹がテーブルの上を指さす。 先ほどからいろいろなものが置いてあるなとは気が付いていた。近くに寄って眺めると、まさにノギスというかバーニヤの付いた測定器のオンパレードだ。 | ||
「オッ、いろいろとやりましたね」
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「まず自信作はこれです。測りたい長さもいろいろです。特に長いとノギスを作るのも大変でしょう。それでノギスを二つに分割して、50センチとか1メートルとかピタリの寸法に作った、まあブロックゲージですな、その両端に二つに分けたノギスの部分をねじ止めして長いものを測れるようにしたのです。 間に挟むブロックゲージを変えればいろいろな長さを測れます(注1)」 | ||
「こういったものは初めて見ましたよ。ただ、どうでしょう、測定する長さごとに専用のものを作った方が精度は高いでしょうけど。 あっ、否定してしまってすみません」 | ||
「伊丹さんのおっしゃる通りかもしれません。まあ今はみんなの関心を集めるために、とにかくものを作ってみせることが必要と思いまして、いろいろ試作しました」
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「いただいた資料にハイトゲージというのがありました。今はトースカンでスケールから寸法をひろって罫書きしてますが、これは寸法を合わせて即罫書きできますし、寸法も測れます」 注:罫書き(けがき)とは尖ったもので傷をつけること | ||
「深さ測定専用に徹したのがこのデプスゲージです(注2)。実際に使ってみたのですが、ノギスのお尻を使うよりもこれの方が安定して精度が良い。やはり餅は餅屋です」
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「資料にあった穴のピッチノギスです。これを一回使うと、穴の内外を測って平均するなんてめんどうなことはできなくなりました」
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「いろいろ検討されたのはわかりました。今日はいかがいたしましょうか。私が話をするよりも、藤田中尉殿と黒田軍曹殿から、測定器の試作結果をお話されたほうがよろしいかと思います」
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「実はそうしようかと考えていたのです。うちだけでなく海軍工廠とか大学の先生も聴講に来ますので、よろしければそうさせていただこうかと」
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「木越少佐殿はご了解されているのですね」
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「ウチの研究報告をしたいと言いましたら喜んでいました」
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「そいじゃそのように進めてください。質疑の時間にはコメントさせてもらうかもしれません」
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「ぜひとも」
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伊丹は藤田中尉と黒田軍曹が見せたいろいろな測定器をみて、伊丹が提供したカタログを参考にはしているが、そのままの真似でなく、自分たちの力でできることを踏まえて試行錯誤しているのを理解した。形だけの真似ではないのだ。それだけ真剣に考えたのだろう。 それにしても結果として21世紀のものとそっくりじゃないか、収斂進化(注3)というものだろうかと伊丹は思った。 ●
数日後の昼休みである。食事を済ませて工藤と上野がお茶を飲んでいる。● ● 今日、伊丹は大学の先生から研究装置の相談を受けて出かけており、不在だ。伊丹はこういう仕事はいかがなものかと首をひねっていたが、工藤は金のために我慢してくれと言って送り出した。 南条さんはみんなの食器を下げて洗い物をしている。 ということで工藤と上野しかいない。 | ||
「どうだ、陽二、このところ伊丹さんと一緒にいてなにか学んだことはあるか?」
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「うーん、学んだというか、気が付いたことはありますね」
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「どんなことだろう?」
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「あの人は専門家じゃないです。難しい言葉は使わないし、考えることはだれでも思いつくようなことで、学問があるとは見えません。要するにどこにでもいるただの人です」
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「そうか、じゃあここに来て残念だったな。それじゃ退職したらどうかね、俺はお前が辞めても困らない」
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「叔父さん、実は真面目にそれを考えてるんですよ」
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工藤は甥っ子を見て、こいつはダメだなあ〜とため息をついた。
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注1 |
もう昔と言ってもよいだろう1990年頃、ミツトヨのカーボンデジマチックキャリパというものを見て大いに驚いた。同僚は水に浮くとか言っていたがまさかそれは冗談だろう。 それまでは1.5mは別格としても1mのノギスでも持ち運ぶのも測定するのも重労働だった。外注工場ではそんな大物ノギスを持っていないので、必要なときはタクシーでそれを持って行って仕事をした。 それと同等以上の精度なのに、この軽さ! 技術の進歩はすごいと感じた。 残念なことにそのとき私は、ノギスを使う仕事からうそ800の品質保証のお仕事に変わっていて、そのノギスを使うことはなかった。 長尺ノギスは高価で買うのが難しいときは、こういったことを考える人もいるかなと思って書いてみた。 |
注2 |
40年も前のこと、部品のメクラ穴の深さを測る必要があったが、それは奥まったところにありノギスやデプスゲージでは測れない。それで右図のように、穴のフチに引っ掛かるだけの肉厚の薄いパイプの中をシャフトが通るようにした専用簡易デプスゲージを作ったことがある。このときバーニヤではなくダイヤゴナルにした。 人間追いつめられるといろいろ工夫するものだが、素人が作るにはバーニヤよりダイヤゴナル(ダイアゴナル)の方が難易度が低い。外側を斜めに切り落とし、外周に横線を切り斜めと横線から深さを読むようにした。 ダイヤゴナルとは斜めの意味で、測定器においては斜線を利用して目盛りを拡大して読み取る方法で、具体的には種々ある。 左図は固定部に斜線を引き、可動部との交点を読み取るもの。 左図では5oより大きく0.3の横線とクロスしているから大体5.3ミリと読める。斜線だから直線より長くなり読み取り精度が高くなるわけだ。 バーニヤよりもこの方法が直感的に考えつきやすい。そのためかバーニヤが現れる前、チコ・ブラーエとかケプラーの時代に望遠鏡の微調に使われた。バーニヤノギスが一般化する前にはこういった形式のノギス(?)も多々存在した。 えっ、こんなこと書かんでもよいって? 少し自慢させてください。 |
注3 |
収斂進化とは 系統の異なる生物が、同様の生態的地位(暮らしぶり)の場合、身体的特徴が似通った姿に進化すること。 例えば、魚竜(爬虫類)、イルカ(哺乳類)、サメ(魚類)、ペンギン(鳥類)はみな種が違うが、水中を速く泳ぐということで体形が似通っている。 |