異世界審査員27.新しい仲間その4

17.10.05

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。

異世界審査員物語とは

1980年頃、当時働いていた職場で2,500万ほどの工作機械を入れた。当時から現在までの40年間の物価上昇が3割くらいだから、今なら3,000万以上か。一台の機械としては安いものではない。
その機械を扱うのは私だった。普通、まったく新しい機械を導入するときは、担当を命じられた者は一度くらいメーカーに出張し、研修というほどではなくても現地で操作についてメーカー担当者から説明を受けるものである。しかしそのときはそんなことはさせてもらえなかった。当時は円高不況でそれどころではなかったのだろう。
いよいよ搬入するから立ち会えと言われ、休日出勤してメーカーの人がフォークで機械を降ろし、水平を出して固定し、電源をつないで動くまでを確認した。操作を聞こうとしたが、メーカーから来た人は設置専門で、刃物のこととか機械操作は知らなかった。
でもって翌週からその機械を動かすわけだ。オイオイ、大丈夫か?、俺
電話帳のような取説を一生懸命何回も読んだ。結果はなんとか動いたのだが、期待した精度が出ないので私はだいぶ責められた。どうやってもスペック通りの精度がでない。とうとうひと月くらいしてから計画部門がメーカーを呼んで点検してもらった。すると機械の仕様よりこちらが計画した負荷が大きいということが判明した。工作機械の剛性が足りないのだ。それはメーカーの責でもなく担当者である私の責でもなく、計画部門のチョンボだった。どうしようもなく最終的にモーターのパワーアップとかフレームの補強などして使えるようになったが、それまでには相当な費用が掛かった。
その職場には10年以上いた。はじめの頃は新設備を設置するときは単に床に置くということはあまりなく、設置場所を掘って基礎を打ち直した。しかし時と共にどんどん簡略化され、いつの間にかフォークで床にポンと機械を置くだけになった。そんなんでいいのかと思ったが、現実は大した問題は起きなかった。
一度だけ大きなNCフライスを当初しっかりと基礎を打って設置していた所から、補強してないところに移動したことがあった。それ以降、精度が落ちたので調べたら水平が出ていない。重みで床が地盤沈下したのだろう、そのためだろうとなったことがある。要するにあまり気を使わなくても良いのかもしれないが、全く気を使わないとまずい程度なのかもしれない。よくわからない。

NCテープ

私はその職場ではじめは一作業者だったが後々は現場監督になって、今まで自分がしたことがない加工や作業も見るようになった。機械や設備には日常点検というのがあり、始業前に動作が正常か、異音はないか、油漏れはないかなどをチェックして記録するということをする(注1)。現場監督は毎月、職場の点検表をとりまとめ設備保守部門に送付する。設備部門は内容を確認し、異常が記録されていれば現場を確認し対策する仕組みだ。
あるとき機械が故障した。やってきた保守部門の親方は、今まで日常点検で見つけていないのはおかしいという。確かに故障発生を予防するのが日常点検なのだから、その予兆を発見できなくては意味がない。ということで保守部門とその機械の担当者と私で話し合った。すると担当者は点検表には異音がないこととあるが、どういうのが異音なのだと問う。日常点検には何をみるかだけでなく、正常/異常の判断基準が記載されている。そこをみると「異音がないこと」とあるだけだ。もちろん日常点検基準は保守部門が機械導入時に作成するもの。そんな基準では判断しようがないという話になったのを覚えている。
確かに正常時の音がどうで、異常がどうとはっきりしていないと点検のしようもない。とはいえ、どんな音が正常か異常か知らずに何年も点検したつもりでいても困る。
現場の人が作業しやすい環境を作るには、しっかりした機械設備、しっかりした保守、操作手順や判断基準を定めて、それを教育しなければならないと実感した。
しかしながらその対策をする前に、私はチョンボして現場から品質保証に移った。当時品質保証は日陰の部門、二線級の人の仕事だった。

品質保証に異動してまもなく出現したISO9001:1987が工程管理(当時)についての要求事項が少なく漠然としているのを見て、どこもそういうことを気にしていないのかなと思った。あるいはISO規格作成者が、生産設備の操作や保守に関心がないのか詳しくなかったのかもしれない。私の言葉をご理解いただけないかもしれない。具体的には、検査の要求事項に費やされた文字数あるいはshallの数と比較して、製造やサービス提供の管理(工程管理)に使われている文字数/shallが少ないことに気づいておられるか?

shallの数の推移
ISO9001版19871994200020082015
検査121054注2
工程管理6655注2

注2:引退した私は2015年版のISO9001まで買う余裕がありません。規格をお持ちの方shallを数えて教えてください。
ついでに言えば、私の表に数え間違いあれば教えてください。
注3:shallの後ろの述部が複数来ることもあるから、shallの数イコール要求事項ではない。しかし各項番の文字数をみればだいたいの傾向は分かるだろう。

そんなISO9001の規格をみれば、「品質は工程で作りこむ」なんていう思想とは真逆のようだ。
思うのだが、ISO9001は1987年に現れたときの「客に不良品を渡さない」という本音のところは変わっていないのだ。何年経とうとISO9001は品質マネジメントシステムどころか品質保証の規格でさえない。それは「不良品を出荷するなよ」という客の要求に過ぎない。おっと、顧客の立場としてはその要求は妥当であるのはもちろんである。しかし品質保証とか品質マネジメントシステムの規格であるというなら、検査とか不適合品の管理ではなく、出発点である品質計画についてもっと厳密に規定しなければならない。ましてやそんなものが会社をよくするなどとは笑止である。
いやいや、規格作成者がものの本質を知らないってことがほんとのところだろう。

藤原、伊丹、両夫婦一緒に鮭と海苔と漬物で朝ご飯を食べながら、今日の予定を話し合う。
朝ご飯 藤原氏の奥様は幸子と一緒に銀座にウィンドウショッピングに行くという。伊丹が慣れない街に出掛けて大丈夫かと心配すると、女中さん二人にお供してもらうので心配ないと幸子が返す。藤原夫人が21世紀の物を着て来たので、着るものはどうするのかと聞くと、藤原夫人は幸子の和服を着ていくという。
伊丹はそういえば藤原氏の服装もいささか明治末期には不似合いだと思ったが、こちらはしょうがないと諦めた。街で多少人目を引いても、江戸時代の朝鮮通信使のように群衆に取り囲まれるほど物珍しくはないだろうと自分自身に思い込ませる。それに服装だけでなく髪型のほうが差異が大きいかもしれない。
現代の原宿に侍が現れた
明治末期の服装で現代の原宿を歩いてたらどうかと考えたが、21世紀の日本では誰も気にしないのではないだろうか。
では江戸時代まで遡って髷を結い刀を差してたらと考えると、人目を引くより早く銃刀法違反だと警官が走ってくると思う。
渋谷駅まで行って山手線に乗り新橋で降りる。駅から会社まで徒歩10分もかからない。
藤原は会社の建物が立派なのに感心する。そして間借りしているのでなく丸ごと一棟借りていると聞いて更に驚いた。
定例の朝の打ち合わせで、工藤が藤原の紹介と今日の行動予定を説明する。
打ち合わせを終えると、工藤、伊丹、上野、藤原の4人で砲兵工廠に出掛ける。最初は上野を連れて行くつもりはなかったが、上野がぜひと言うので工藤はしかたがないと認めた。


藤田中尉には、藤原は引退した卓越技能者であり、専門家の目で工場を見てもらいこれからの指導に反映したいと説明した。とりあえず今回は、ひととおり現場を見てもらい気が付いたことについて意見交換をすることになっている。
意外かもしれないが、当時は現場作業者だから身分が下に見られるとか差別されることはなかった。史実の海軍工廠では、優秀な技能者で工廠の佐官クラスより月給が高い人が何名もいたという。もちろん工廠としては高い月給を払いたくないので、卓越技能者には技師になれとか技術下士官になることを勧めたそうだ。職工の方としてはそうなると月給が下がるのでなりたがらなかったという(注4)

会議室で藤田中尉と本日の予定の確認をしていると、木越少佐が顔を出した。

木越少佐
「おお、工藤社長、伊丹さん、おはよう。そちらが機械加工のベテランさんか?」
工藤社長
「少佐殿、おはようございます。はい、こちらは藤原と申します。私も伊丹も切削加工の門外漢ですので、本日は藤原に工廠を見てもらいいろいろアドバイスをしてもらいたいと考えております」
木越少佐
「面白そうだから俺も参加するわ」
藤原一郎
「私がここに来るのもこれきりかもしれませんので、現場で気が付いたことを都度お話します。できればどなたかメモをしていただければうれしいです」
黒田軍曹
「ハイ、自分が記録します」
黒田軍曹藤田中尉木越少佐藤原一郎工藤社長伊丹上野
黒田軍曹藤田中尉木越少佐藤原工藤伊丹上野

都合7名が工廠の機械工場を巡回する。
工場に入ってすぐに藤原が立ち止まる。
藤原一郎
「機械の音が変です。これもそうですが、他の機械も音が変なものが多いですね」
黒田軍曹
「うーん、いつもこんな風ですが」

藤原がしゃがみこんで目の前の旋盤を眺める。
当時の旋盤はモーターを備えておらず、変速のためのギア機構もない。主軸台と一体のプーリーは天井のメインシャフトから動力を受けるのだが回転数を替えるために数段になっている、その他はベッド、往復台、心押し台しかない。きわめて簡単な構造のスケスケのスケルトンである。

藤原一郎
「脚がボルト止めしてないですね」

皆、藤原が指さす方を見つめる。4本の脚のうち1本が止めてない。そしてその脚は床より浮いているようだ。

上野
「これくらい問題ないですよ。私はほかの会社の指導もしていますが、みなこんなもんですよ」
藤原一郎
「これはそのままアンカーを締めたら機械が歪むと思ってボルトを締めなかったのでしょうね。機械を設置する前に床というか脚の所だけでも水平を出しておかないとダメでしょう。機械が固定されてないからビビッて、変な音がしているのです。たぶんその周期で仕上げ面にも影響しているはずです」
上野
「藤原さん、これくらいは問題ないって分からないんですか、大丈夫ですって」
工藤社長
「陽二、ちょっと黙っていろ」
木越少佐
「おい、お前、機械を止めろ。それから軍曹、機械保守部門を呼んで来い」

黒田軍曹はすぐに駆け出した。伊丹は工場内を走るなんてと思う。
操作していた職工は機械を止めた。皆は機械に近づいてしげしげとみる。
木越少佐は別の脚を止めているボルトを手でくるくる回してみる。

木越少佐
「これはボルト止めはしてあるが、緩んでいる。これじゃ意味がない」
藤原一郎
「元々3本しか止めてないから振動で緩んだのでしょう」
上野
「だから・・ボルトが緩んでいても問題ないですって」
木越少佐
「うるさい、お前は黙っておれ」

黒田軍曹が工具箱をかついだ工員数人を連れて走って戻って来る。

木越少佐
「おい、この機械の水平を出して4本脚を固定をしろ、大至急だ」

駆けつけてきた工員たちは一瞬顔を見合わせたが、すぐさま取り掛かった。ベルトを外して、アンカーボルトを外し、みなでヨイショと掛け声をかけて旋盤をずらす。水準器をとりだしてバタバタと作業に入る。
当時の旋盤は今の時代に比べれば単純素朴で簡単で軽い。工作機械というよりも作業機械である。
木越少佐
「藤田中尉はここで作業を立ち会え、他の者は前進だ」
明治末期の旋盤
100年前の旋盤の絵がないかと探したが、ちょうどしたのがない。それで50年前工業高校で埃をかぶっていた骨董品を思い出して描いた。
旋盤なんてもう30年も触ったことがないが、あんなもの時代が代わろうと本質は変わらない。ワークを回す仕掛けとバイトを動かす機構があればよいとサッサと書いた。ベッドが短いとか、往復台の構造がおかしいなんて言っちゃいけない。なにせ半分ボケた頭に残った記憶で描いたんだから、
しかし今の旋盤はなんで肉付きが良くてボリュームがあるのだろう?それが不思議だ。
藤原一郎
「床にだいぶ切粉が落ちてますね」
木越少佐
「軍曹、切粉の清掃はどのようにしているのか?」
黒田軍曹
「通常は作業者それぞれが作業が一段落したら、箒で掃くという塩梅ですね」
木越少佐
「もっと清掃の頻度を上げればよいのか?」
上野
「能率向上から言えばなるべく清掃の回数を少なくすべきです。切粉が多くても少なくても清掃の時間はそんなに変わりませんから」
木越少佐
「お前は黙っていろ。今度余計なことを言ったらつまみ出す」
藤原一郎
「清掃よりも、まずは切粉が飛び散らないような方策を取りたいですね。例えば樋のようなもので直接の箱に入れてしまうとか、除塵機で吸い込むとか、切粉が散らばるのは製品に傷が付いたり作業者にも危ないですから。鋳物はともかく流れ型の鋼材はね」

藤原一郎
「バイトはみな作業者が自分で研磨しているのですか」
黒田軍曹
「はいそうです」
藤原一郎
「そうするとばらつきが大きいですよね。今通り過ぎた旋盤のバイトは前逃げ角が少ないように見えました。刃物研磨も上手くなれ、切削加工も上手くなれと言っても・・」
黒田軍曹
「それはそうなってもらわなくては」
藤原一郎
「でも刃物研磨と切削加工の技能は別物です。作業者がみな刃物研磨も機械操作も上手になる必要はないでしょう。管理する側としてはなるべく仕事を単純化して、誰でもできるようにした方がよいですね」
木越少佐
「バイトの形状は基準とかあるのか?」
黒田軍曹
「自分が知る限りはありません。職工はみな自分が使いやすいように研削するでしょうし、その形を他人には教えないでしょうし」
木越少佐
「もし刃物研磨専門の担当者を置いて、バイトをみな理想形に研磨してすべての工員に使わせたらどうなるのか?」
黒田軍曹
「それはある面では理想でしょうけど・・・
少佐殿、そうでなくても工廠で数年働いて一人前になると、民間に引き抜かれるとか自分から売り込んで移るのが多いのです(注5)。刃物研磨とかバイトの形状をどうすべきかといったことを皆に教えるようになると、それを武器に今以上に移動が激しくなるでしょうね」
木越少佐
「職工を多能工でなく単能工として育成すれば、熟練するのが早くなる一方でつぶしが効かなくなるから転職が減るということはないかな」
黒田軍曹
「水が高きから低きに流れるように、腕がある職人が賃金の高い方に移動するのを止めることはできません」
工藤社長
「軍の工廠は、この国の技能者養成の場と割り切ることも必要ではありませんか」
木越少佐
「そんなかっこいいことを言ってもなあ〜、何年もかけて養成して一人前になると逃げられてしまう。ここは月給を払う職工養成所のようだ、」
藤原一郎
「確かに難しいですねえ〜、賃金を上げるといっても限りがありますし、
ただ働く人達に、ここは最高峰の技術があり、そして更に工作方法を研究していく場であると認識させれば、誇りをもち定着するようになるかもしれませんね」
工藤社長
「ノギスや計算尺など既に新しいことを開発しているじゃないですか、ああいったことで働く人の意識は変わりませんか」
黒田軍曹
「実はね、それどころじゃないんですよ。ノギスを持ち出されてそれをコピーした模造品が売られているのです。愛社精神なんてのは持ち合わせていないようです」
伊丹
「そのコピー品の寸法精度はどうなのでしょう。まさか工廠製のノギスよりも良いなんてことはないでしょうね」
黒田軍曹
「いくつか入手して調べましたが、見た目は似てますがウチで作ったものにはかないませんよ」
伊丹
「それを聞いて安心しました」
藤原一郎
「ところで工廠のノギスは何を基準に校正しているのでしょう?」
黒田軍曹
「ええっと、まだ1年も経っていませんから校正はしていないのですが・・・制作時は工廠の基準尺というのがありまして、それで検査をしています」
藤原一郎
「トレーサビリティをしっかりしないといけませんね。そこが工廠の売りになるでしょう」
木越少佐
「そのさ、トレーサビリティというのは重要なのか?」
藤原一郎
「重要ですよ。トレーサビリティのないものは計測器ではありません。そしてトレーサビリティのとれた計測器で検査していないものは良品とみなされません」
伊丹
「工廠のノギスは持ち出し禁止なのですか?」
黒田軍曹
「もちろん規則はそうでありますが、現実には紛失したという届は多数あります」
木越少佐
「そういうのは厳しく罰しないとまずいぞ」
伊丹
「私も民間の企業から工廠製のノギスが欲しい、口をきいてほしいと頼まれています。いっそのこと工廠製のノギスを販売したらどうですか」
木越少佐
「うーん、それは工廠の本分ではないなあ〜」

藤原一郎
「ほう、これはハイトゲージですか?、自作ですな」
黒田軍曹
「伊丹さんから頂いたノギスをいろいろな用途に使えないかと検討しました。今まではトースカンで長さを写し取っていましたが、これは直読で測定も罫書きもできます」
藤原一郎
「これはブロックゲージですか?」
黒田軍曹
「ブロックゲージという寸法の基準があると聞きましたが、これはそんな立派なものじゃありません。単に鋼材を100oに仕上げたものです」
藤原一郎
「なるほど、これじゃね」

四角い鋼材の端面は平滑どころか、カッターのナイフマーク波形が分かる。

黒田軍曹
「今は立派な計測器はありませんが、少しずつこういったものを整備していこうと思います」
藤原一郎
「そうですね、なにごとも少しずつ積み重ねていくしかありません」

一行は工場を一回りして入り口に戻ってきた。
旋盤の水平を出す作業をしていた工員たちが、工具の片づけをしているから工事完了したようだ。

木越少佐
「おい、藤田中尉終わったか?」
藤田中尉
「少佐殿、ちょうど工事が終わったところです」
木越少佐
「よし、それじゃ早速加工してみろ」

脚の固定状態をみると、中央に穴をあけた鉄板を数枚挟み込んで固定されている。先ほどボルトが止めてなかった所だけでなく、4か所の脚すべてに鉄板をはさんでいるのをみると、真面目に水平を出したようだ。
工員は旋盤を回し始めた。保守部門の工員たちも立ち去らずに、作業を見つめている。
無負荷状態での音は先ほどとは違い、唸りがなくなっている。ワークを削り始めて負荷が増えても唸りは発生しない。

木越少佐
「うん、俺が聞いても音が違うのはわかるぞ」

黒田軍曹は今加工が終わったワークと、先ほど加工したワークを手に取り一瞥してから木越少佐に手渡した。

木越少佐
「なんだこれは、仕上がりが全然違うじゃないか」
黒田軍曹
「全然というほど違うとは思いませんが、確かに表面仕上げは良くなりましたね。今まではビビリがそのまま加工に出ていたようです」
藤原一郎
「機械が変な振動していれば、唸り音も出ますし、加工面に波が出るのは当然です」
木越少佐
「おい、上野君、君は脚をボルトで止めてなくても大丈夫だと言ってたな。大丈夫じゃなかったようだぞ。アンカーボルトで固定するのはごりやくがあるようだな(注6)
木越少佐はそういって二つのワークを上野に渡した。上野上野は渡されたワークを見て聞き取れない声でボソボソと独り言を言っている。

一行は会議室に戻って一休みである。兵隊がお茶を出してくる。

木越少佐
「どうですか、藤原さん、改善点などについてお話を聞かせていただけますか」
藤原一郎
「細かいことは多々ありましたが、主な点としてはですね、
ひとつ、機械設備の点検や保守のレベルを一段階上げたいですね。同じ機械であっても点検や保守の方法を見直せば、機械の故障も少なくなり、製品も今より良い精度で加工できると思います。
ひとつ、刃物の管理ですね、バイトを同一の形状・寸法に研磨して作業者に使わせる仕組みにすれば能率は良くなるし、旋盤工は研磨から解放されて加工に全力を注げると思います。そもそも現在の刃物をみると研磨状態が話になりません。まっとうに刃物研磨できる人がいないのではないですか。
ひとつ、すでに進めていると聞きましたが、計測器の改善を一層進めたいですね。まずは基準になるものをしっかりとしたい。それと計測器やゲージ類が結構無造作に扱われているようです。もっと大事に扱わなければいけません。
そのほか、工場内の整理整頓の徹底です。切粉の始末もありますし、そうそう、先ほど軍曹殿が少佐殿の命令で保守部門を呼びに行ったとき駆け足でした。工場内の駆け足は厳禁です。そういうことを徹底したいですね」
黒田軍曹
「反省します」
木越少佐
「ええと工藤さん、藤原さんはお宅に勤めることになるのか?」
工藤社長
「正直言いまして、まだ決定じゃありません」
木越少佐
「もしお宅で雇わないなら工廠で嘱託として雇いたいな。今日歩いただけでもいろいろためになった。藤原さんは強力な助っ人になるだろう」


会社まで戻ると上野はすぐに自分の席に座ってしまった。工藤はその様子を見てしばし苦虫を噛み潰していた。
工藤、伊丹、藤原の三人は会議室に座る。南条さんが早速お茶を持ってくる。

工藤社長
「藤原さん、今日はお疲れさまでした。藤原さんが技量があるのは分かりましたが、その反面、藤原さんがこちらのレベルがあまりにも低くて指導する気が薄れたかもしれませんね」
藤原一郎
「いやいや、実際の工場を見て指導したいという思いが増してきました。作業者の技能指導、刃物や工具の管理、機械の点検保守といった切り口で、いろいろとお役に立てるかと思います」
工藤社長
「しかし転職率が高いというこの世界の状況を考えると、技能者を育成しても、それがそのまま工廠の成果に現れるかとなるとどうかなあ〜」
伊丹
「そこは指導ではなく管理の問題として、工藤さんや私が考えるところでしょうね」
工藤社長
「確かにそうだね、そこは木越少佐と相談しよう。
藤原さん、とりあえず今ここで決めなくちゃならないことではありません。奥さんもこの世界で暮らしていけるかどうかお考えもあるでしょうし、とりあえず奥様とよくご相談下さい。1週間もしたらまた来ていただいて話し合いをしましょう」

うそ800 本日の後悔
私は製造部門の作業者から監督にまでになったが、機械の点検や保守については素人でしかない。もっと自部門の機械を知っておくべきだったと思う。
しかし監督は機械の保守点検ばかりが仕事ではない。今日の出荷は○○台だと言われると、人を集めたり外注に頼み込んだりということもあるし、病気や交通事故で人が急に休んだときの対策もある。所属員のご家族に不幸があれば焼香にもいかなければならないし、まあ一生懸命やってきたつもりではあるのですよ。

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注1
労働安全衛生規則は機械や作業ごとに何十とあるが、その中で定期自主点検、使用前点検の義務が定められている。例として、プレス、といし、ロボット、回転軸のある機械などなど
多くの会社では法で定めるもの以外でも、操業のリスクを下げるために日常点検をしているのが普通だ。
注2
、注3は本文中に記載
注4
参考文献「鳶色の襟章」、堀 元美、原書房、1976
注5
1910年頃、日本の大企業における企業からの移動率は年20〜30%、第一次大戦後は40%にもなった。
参考文献
「科学的管理法の日本的展開」1998、有斐閣、佐々木聡
注6
機械設備をアンカーボルトで固定していない会社はけっこうある。振動防止、品質維持などで固定すべきだろうと思っていたが、それだけでなく地震の際の被害に大きな差があるという研究論文まであった。
参考文献

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