*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。
ある朝のこと、定例会議が終わって皆が立ち上がったとき、藤原が伊丹に声をかけてきた。 ![]() | ||
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「伊丹さん、ちょっと相談いいですか?」
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「ナイショ話ならここで伺いましょうか」
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「実を言いましていろいろやりたいことがあるのですが、やっていいか悪いか判断がつかないのでご意見を伺いたく」
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「深刻な話ですか?」
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「いえいえ、そんなことじゃありません。だいぶ前、こちらに初めて来たときに伊丹さんが、こちらの世界には具体的な物を提供することはしてはいけない、情報だけ提供するようにとおっしゃいましたね」
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「ああ、そういうことですか。そうですね、一律的に断定はできません。個々の事例によって良し悪しを判断しなければならないでしょう。まず基本的にこちらの世界のものではなく、別の世界から来たものであると分かってしまうものはだめでしょう。 具体的には製造年月や製造会社名が刻印された銘板の付いている機械を持ち込むとか、まだこの世界で発見されていない理論を使った機械、例えば電卓とかはまずい。 だけど高精度ではあっても計算尺ならいいと思います。もちろん銘板なしで」 | |
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「今現場で指導しているのですが、やはり測定器を何とかしたいなと感じます。まず基準となるブロックゲージが欲しいですね。それからダイヤルゲージ。 実を言って私の工場に加工用で使っていたあまり精度の良くないブロックゲージ、多少歯抜けがありますがワンセットあるのですよ。それとダイヤルゲージをいくつか持ってきて使わせたいのですが」 | |
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「私個人としてはダメと言いたいですが、私の意見だけでも拙いでしょう。 ここの総意という意味で工藤さんにも入ってもらっていいですかね」 | |
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「その方が良ければ」
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![]() 伊丹は工藤を呼んできていきさつを説明した。 ![]() | ||
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「お話はわかりました。そちらの世界のブロックゲージをもってくるのではなく、藤原さんが向こうで自作して持って来たらどうですか。この世界で高精度のブロックゲージはいらないでしょう。ノギスやマイクロを校正できる程度でよいのではないかな」
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「私が作ったのでは、まともなブロックゲージより誤差がふた桁み桁大きくなってしまいます | |
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「わかりました。そういうことでしたらそれなりの物を作ってきましょう。 それとダイヤルゲージも欲しいのです。これは単に削り出すだけでなくメカニズムがありますから、現物がダメとなると、作るのは簡単ではないですね」 |
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「ダイヤルゲージというものは、もうこの時代に存在しているのですか? いや私は正直知らないのですが」
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「以前、伊丹さんから技術史を勉強しろと言われましたので調べました。アメリカで1883年というから今から30年ほど前に特許がとられています。 ただ長らく物は作られておらず、ドイツのアッベ博士が1890年に製作して1904年頃から市販したとありました。欧州では一般企業で使われ始めているようです」 |
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「外国では6年前に市販されているのか・・・砲兵工廠にはなかったね」
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「ありません」
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「それは機械加工には必須なのですか?」
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「必須とは言い切れませんが、あればものすごく重宝しますね。実際有用だから外国で作られ使われているわけです」
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「ブロックゲージは藤原さんが作ってくれれば、それだけで間に合うでしょう。しかしダイヤルゲージは1個2個では仕事にならない。何十個と必要になるでしょう。ですから単に入手するだけでなくこちらで継続して製作できないとまずい。 こうしたらどうだろう。細かな細工は砲兵工廠には不向きだから、時計屋に作らせたら」 | ||
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「時計屋?」
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「銀座に半蔵時計店という会社があったと思います」
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「ああ、昔は販売だけだったけど、10数年前から掛け時計と製造しているそうだ」
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「今では懐中時計とか目覚ましも作っているそうです。そこなら小さな歯車とかスプリングを作るのはお手の物ではないかと思います」
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「分かった、そういうことなら我々ではなく砲兵工廠の藤田中尉あたりから製造依頼をした方がいいんじゃないかな。軍の仕事となれば本気を出すだろう。よし、そいじゃ次回藤原さんが砲兵工廠に行くとき、私も同行して砲兵工廠から開発依頼をしてもらうようにしましょうや。 いずれにしても藤原さんが作ったり、あるいは実物を持ち込むことはありませんよ。まあサンプルでもそれとなく半蔵時計店に見せるってのはアリかもしれませんが」 | ||
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「なるほど、ではそのように」
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工藤たちとの話の結果、藤原は21世紀の自分の工場でブロックゲージを作った。● ● フライスであらましを作り、知り合いのところで研削盤を借りて仕上げた。 あまりいろいろな長さのものをそろえることはできないので、数種類の長さを組み合わせて5セットほど作った。精度は10ミクロン程度で、21世紀ではそれをブロックゲージというのはおこがましいが、100年前では十分通用するだろう。平面はリンギングできるほど平滑ではないが、以前砲兵工廠で見かけたものよりははるかに良い。 ケースがないと格好がつかないと知り合いの大工に木箱を作ってもらう。 とりあえず基準となるものは作った。 ●
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木越少佐はいくつもの部門を統括しているわけで、新世界技術事務所の相手をすることはないのだが、彼らが来れば必ず何か面白いことがあるのは知っているから必ず顔を出す。 ということで木越少佐、藤田中尉そして黒田軍曹が対応する。 藤原は黒田軍曹に何も言わずにブロックゲージを渡した。藤田中尉と黒田軍曹は一目でその価値を見抜いた。 ![]() | |||
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「ほう、これは・・・・藤原さん、精度はいかほどですか?」
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「俺が作ったんでね、そんなに精密じゃない。せいぜい0.01ミリというところかね。もっともそれは室温が20度のときだよ。10度も違うと0.01ミリは伸び縮みするからね」
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「いやいや、すごい精度ですわ。今使っている工廠の基準尺は百分の2とか3と言われていますが、実を言って誰も検証できません」
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「今度からノギス類はそれで校正といか検査をしてほしい。まあノギスは百分の5だから温度を気にすることはないよ」
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「それはプレゼントというわけか? つまりただかという意味だが」
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「もちろんです。少しでもお役に立てばと思って私が作りました。もっとも寸法測定は私の所ではできませんから専門のところで測ってもらいましたが」
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「藤原さんが作るところを見たいものだ」
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「それは勘弁してください。手の内を見せてはオマンマの食い上げです」
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「それはそうだ」
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「実はお願いがあるのです」
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「なんだ?」
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「藤原が新しい計測器の案を持ってまして、それを作るのは藤原にも砲兵工廠でもちょっと難しいのです。それで私どもからではなく砲兵工廠から製造依頼をしてもらえないかということです」
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「どういった計測器なのだろう」
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「ダイヤルゲージといいまして、欧州では数年前から使われだしたそうです。ノギスやマイクロメーターのように寸法を測るのではなく、変化を測るのです。この先端を対象物に当てて振れを測ったり、変化量を測ったりします」
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「この先端を当てれば回転軸の振れが目盛りで読めるのですね? 用途はいろいろありそうだ。旋盤の往復台に付ければ並行度がわかる。スタンドに固定すれば部品の検査や選別にも使えるな」 | |
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「中尉殿には用途も使い方も分かっちゃいましたか」
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「ぜひとも欲しいですね。でも確かに作るのは難しそうだ」
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「そうなのです。藤原が外国の雑誌で見つけたのですが、その図面をみると小さな変化を拡大するのに歯車を使っていて、作るのはちと難しいそうです。それでお願いですが、砲兵工廠から開発依頼をしてほしいのです」
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「どこに?」
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「構造から言って時計屋が良いのではないかと思います。依頼するときは完成したら砲兵工廠だけでなく他の工廠も発注する。また一般の企業でも買うだろうと言えば食いつくと思うのです」
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「わかった。藤田中尉、お前片肌脱いで藤原さんと時計屋に行ってこい。上手くいけば海軍工廠の連中に恩を売れるぞ」
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「いえいえ、片肌脱ぐどころではありません。これはすごいですよ。すぐに話をしてみます」
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数日後、藤田中尉と藤原は時計会社の本社に行って図を示して試作を頼んだ。実を言って藤原は21世紀から現物を数個隠し持ってきて、時計屋の設計者に参考用にと内緒で渡した。● ● その技術者は構造図を見て「大したことありませんね。懐中時計の方が難しい」とのたまわった。確かに構造的には懐中時計などよりもひと桁部品が少ないし仕組みは簡単だ。問題は精度だ。 技術者の言葉は嫌味でもなく自信過剰でもないことはひと月後に実証された。試作品を測ったところ1回転の指示誤差は0.03ミリくらいだからこの時代としては十分だろう。 即座に砲兵工廠は100個ほど購入した。更に海軍工廠からも注文が入り、話を聞いた一般企業からザクザクと注文が入って半蔵時計店は笑いが止まらない。すぐに計測器部門を設けた。 ちなみに、ピーコックブランドのダイヤルゲージメーカーである尾崎製作所が創業したのは、このお話の6年後である。ミツトヨの創設者、沼田惠範がマイクロメーター製造の研究を始めたのはこの25年も後のことである。 ●
砲兵工廠のある朝のこと、黒田軍曹が朝礼など一通り終えて自席に戻ると由比上等兵が待っていた。● ● ![]() | ||
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「おはよう、なにかあったか?」
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「軍曹殿、問題発生です。先日、藤原さんが持ってきてくれたブロックゲージ5セットのうち、3セットが盗まれました」
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「なんだと、よく探したのか?」
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「実は昨日夕方ないことに気づき、昨夜遅くまで関係者で工場内を探しましたがありません。ましてや一組の中の何個かではなく、箱ごと3セットないのですから盗難と判断しました」
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「うわー、最悪だなあ。」
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![]() 黒田軍曹は直ちに藤田中尉に報告し、藤田中尉は木越少佐に報告した。木越少佐もブロックゲージの価値は十分に理解していた。 ![]() | ||
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「藤田、一刻も早く犯人を捕まえろ」
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「承知いたしました。憲兵隊に報告します。捕まえたら軍法会議ですか?」
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「戦時じゃないから通常の窃盗で裁判所だよ。だけどさ、新世界技術事務所の連中に悪いことしちゃったな」
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「まったくです。ブロックゲージが何事もなく見つかるのを祈るばかりです」
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![]() 犯人は数日後につかまった。工場ですごいものだという話を聞いた職工が、金になりそうだと盗み出し、大手の機械工場に持ち込んだのだ。買い取った企業は会社名などを記載していなかったので盗品とは知らなかったという。だけどこの時代、これほど精度の良い寸法基準があるはずがない。当然、大手企業か工廠からの盗難品だと疑うところだろうが、ブロックゲージ欲しさにそこは目をつぶったのだろう。憲兵隊もそこを追及できず窃盗犯のみ起訴してオシマイなった。 ![]() | ||
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「今回は無事に戻ってきたが、これは管理の問題だ。これからは工廠への出入りに際しては身体検査あるいはそれに準じたことをして対策せねばならない。以前もノギスの盗難が多いと言っていたな」
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「ハイ、その通りです」
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「そういう問題があるなら、元から対策をしておかねばならんだろう」
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「少佐殿のおっしゃる通りです。早急に入退場者の許可、行動範囲の限定、身体検査などの方法を検討します」
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「頼むぞ、俺もそう長くないんだからそれまで問題を起こしてくれるなよ」
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![]() 少佐が去ると、軍曹が藤田中尉に話しかける。 ![]() | ||
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「誠に申し訳ありませんでした。対策は数日中に立案し中尉殿に相談いたします」
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「頼むよ、少佐もあと1年か2年で定年だから、それまで大過なくと願うのもわかるよ」
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「木越少佐殿も少佐でオシマイですか?」
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「オイオイ、他人ごとのようなことを言うなよ。昇進して中佐になれば定年は伸びる。 少佐殿を盛りたてて中佐、大佐にするのは俺たちの役目だぞ。彼のためというよりも俺たち自身のためでもある。俺も大尉までは自動進級だろうけど、その先は運もあるけど成果次第だ。軍曹だって軍曹で終わりたくないだろう。せめて曹長できれば准尉。階級が上になるほど定年も伸びるし俸給も上がる」 | |
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「アハハハ、中尉殿も冗談がきつい。そりゃ夢物語ですよ」
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「そうじゃないって、あのさ、伊丹さんがここの指導をするようになってたった1年で、不良は半減どころか2割程度まで下がってきた。組み立てだって調整作業とかが激減している。これからは藤原さんの指導で加工時間短縮と精度向上が進むことは間違いない。 そういう成果を積み重ね、俺は木越少佐をぜひとも中佐にしたいと考えているんだよ」 | |
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「藤田中尉殿はそんなに少佐殿のことを考えているのですか」
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「そりゃそうだよ。上が上がれば俺たちだって上に進めることになる。 しかし考えてごらんよ。あの伊丹さんて欲がないと思わないか。今まで改善したことは全部俺たちの成果にしてくれている。彼はいつもこの国が豊かになればいいというけど、まさに滅私奉公だね。 あれを見てると俺たちもそうとう頑張らないといけないね」 | |
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「分かります。我々も彼に応えなければなりませんね」
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「彼に応えるのではなく、努力は自分のためにやらなくちゃね」
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注1 |
「新・機械技術史」日本機械学会編、丸善、2010、p.113
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注2 |
ヨハンソンがブロックゲージを販売したのは1914年だ。 堀元義の「緋色の徽章」によると1940年頃、海軍工廠にあったものがミクロンの精度と書いてあったように記憶している。とすると1910年頃なら10μmなら立派なものだろう。 なおμmを「マイクロメーター」と呼ぶことは計量法上だめということを初めて知った。しかし「マイクロメートル」なんて呼ぶ人を見たことがない。 |
注3 |
リンギング(wringing)とは絞首刑の意味もあるが、ここではそうではない。 ブロックゲージは測定面(基準寸法の面)が鏡面仕上げとなっていて複数のブロックゲージを合わせると密着して二つのブロックゲージを合わせた寸法を作ることができる。これをリンギングという。 大正時代の工藤がリンギングを知っているはずがないなんて言ってはいけません。いや私もそう思いますよ。 |
注4 |
昔は仕上げ面の粗さの程度を▽の数で表した。▽はひとつからよっつまであり、俗に「ひと山」とか「ふた山」と呼んだ。今は数字で表す。
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