*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。
伊丹は半蔵時計店で3度ほど製品企画の方法や新製品のアイデア発想の講座を行った。その後、半蔵時計店から何も話がなく、伊丹だけでなく工藤も藤原も、どうなったのだろう、伊丹の話が気に入らなかったのだろうかといささか心配していた。 そんなある日、久しぶりに半蔵時計店の宇佐美が顔を出した。伊丹も藤原も出かけており、工藤が対応する。 | |
「宇佐美さん、ご無沙汰ですね。ウチの話が役に立たないので打ち切りかと思っておりました」
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「いやいや、そういうわけでは・・・」
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「製品開発の話ではなく加工方法の指導などがご希望なのでしょうか?」
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「正直言いまして、伊丹さんの話を幾度か聞きまして、今後の方向性について社内で議論していたのですよ。その結果、機械加工とか製造の指導はいらないじゃないかということになったのです」
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「ほう?」
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「伊丹さんについては当社で検討した結果、問題があれば都度ご相談というかコンサルを依頼したいということ。それから」
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「それから?」
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「その・・・いくつかの現物を提供してもらいたいということです」
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「どんなものでしょうか?」
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「外国からなのでしょうけど、御社が相当進んだ機械を入手できるということは存じております。せんだってダイヤルゲージのときもいくつかサンプルをいただきましたが、それらは想像もつかないような精度で作られていました。まさかこの会社であれを作ったわけではないでしょうから、どこかから調達されていると思います。 それで我々が必要としている機器を調達してほしいのです」 | |
「ご希望の機器が可能かどうかはともかく、どのようなものが必要なのでしょう?」
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「欲しいのは、親ねじ旋盤、割出し台、マイクロメーター(注2)です。いずれも高精度なものが欲しいのです。他にもほしいものがいくつもあり、これがその一覧表です」
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「私は機械のことは分からないのでとりあえず承りました。納期とか希望価格などありますか」
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「ああ、その紙に書いてあります」
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「申しましたように私は機械には詳しくない。今、藤原も伊丹も出払っておりますので戻りましたら彼らに調べてもらってから回答しましょう。回答まで数日いただきます」
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夕方、伊丹と藤原が帰社した。工藤は声をかける。 | |
「半蔵時計店の宇佐美さんがきて、指導よりも現物が欲しいという」
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「どんなものが欲しいと言ったのですか?」
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工藤は宇佐美が置いていった紙を広げる。 | |
「親ねじ旋盤、割出し台、マイクロメーターは各寸法のものが欲しいと、それから拡大鏡と高精度のダイヤルゲージと・・」
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「この時代に存在する工作機械や計測器で、高性能のものというニュアンスですね」
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「そりゃ21世紀の工作機械がどんなものかはご存知ないでしょうからね」
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「なるほど、そういう意味合いのものですか。ところでその一覧表のものは入手可能ですか?」
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「もちろんできます。新品もありますが中古だっていいんじゃないかな ただ親ねじ旋盤となるとちょっと問題ですね。まず現代ではこの時代の親ねじ旋盤そのままのものはありません。形も違い、精度もけた違いというものを持ってきては・・問題でしょうね」 | |
「なるほど、伊丹さん、なにかアイデアはありませんか?」
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「親ねじ旋盤じゃなくて単に親ねじだけを持ってきたらどうですかね。要するに彼らは精度の良いねじを切りたいのでしょうから、旋盤まるごとではなく精度の良いねじだけを渡してそれを現在の機械に組み込んでもらえば同じとは言いませんが、相当の精度向上になりますね」
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「なるほど、それはアイデアですね」
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「拡大鏡というのは実体顕微鏡なのか投影機なのか?」
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「どんな用途なのか聞いてみなくちゃ分かりません。とりあえず双方とも値段を聞いておきましょう」
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「ところで、この時代に投影機はあるのかな?」
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「ええっと、お待ちください。 (藤原はノートを取り出す) 以前、伊丹さんに技術史を勉強しろと言われましたので、いろいろと調べているのですよ。ええと、投影機は日本では日本光学が1939年に作ったそうです。1939年とは戦争になるとき国内で作ろうとしたのでしょうね。となると外国ではそれ以前からあったのでしょうね」 | |
「なるほど、舶来品があるなら問題ないか。せいぜい現物から銘板を取り除けばいいのかな」
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「となると一覧表のものはすべて調達可能であるが、この時代に持ち込んで問題ないのかということになりますか」
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「それと値段もありますね。割出し台だって新品なら2・30万はするでしょう。この時代のお金にして2両半、大金です」
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「まあ連中はウチに月8両払っているんだから、そのくらいは気にしないんじゃないかな。まあその契約ももう長くはないだろうけど、 そのほかはどうですかね」 | |
「マイクロメーターだって新品より中古は非常に安いですよ。精度は確認することにして」
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「それじゃ親ねじはともかく、それ以外は先方希望の通り承知という回答でいいですかね? それから可能な限り新品にしようや。我々だってただ働きってことはない。仕入れ値の3倍や5倍、ものによっては10倍くらいふっかけていいんじゃないか」 | |
「工藤さん、ここはひとつ向こうと腹を割って話すことが必要じゃないですかね。入手元とか我々の立ち位置とか」
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「うーん、砲兵工廠にもそれは明かしてないからねえ〜。それにへたをすると我々のビジネスは崩壊するかもしれず、身の安全さえ分からない」
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「もう少し様子を見てからでどうですか」
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1週間後、宇佐美がやって来た。また工藤が対応する。● ● | |
「宇佐美さんのご依頼品を調査しました。すべてお望み通りとはいきませんが、9割方は対応できると思います」
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「それはうれしいですね」
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「ただ親ねじ旋盤は手に入りませんでした。それで精度の良いねじで妥協していただけないかと。それを御社で加工していただきたい。 それと重要なことですが、出どころは決して聞かないということにしてほしいのです。それに同意してくれないとウチでは受けられません」 | |
「了解しました。次回があったらまた対応していただけますか?」
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「今申しました条件を守っていただけるなら継続的に対応します。ただ、我々も何でも手に入るわけではありません。ご希望のものが存在しないこともあるということはご理解ください」
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「承知しました」
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お金の方は工藤の言い値をすべて了解した。 工藤はほっとするというよりも、あっさり了解した宇佐美側には、なにか裏があるのかと疑ってしまう。 ●
ハードウェアの取引は無事終わった。親ねじの件も現行の旋盤の親ねじを交換するという方法をとったようだ。藤原がその後、半蔵時計店の製造現場をお邪魔したときに、提供した親ねじらしいものが古びた旋盤に付いていた。取り付け部はいろいろ細工をしたのだろう。あの旋盤で新しいねじを切り、それを他の旋盤に付けるということを繰り返せばだんだんと全体の精度が上がっていくだろう。ひょっとしてだが、半蔵時計店が高精度の親ねじを売り出すなんてことになるのかもしれない。でもまあ、それもいいじゃないかと藤原は思った。● ● 半蔵時計店のコンサルは製品企画とかマーケッティングについて伊丹が講義したり個々の事例についてのアドバイスをするだけとなり、藤原も上野も出番はほとんどなかった。時計店側としては機械加工には自信があるらしく内部を見せたくないようだ。 そんなわけで当初の見込みと大幅に変わったが特段誰も困らない。藤原はそれまで以上に忙しくなるのも困る。今となっては伊丹しか半蔵時計店の仕事はしていないが、工藤はその売り上げを伊丹と藤原に半々にした。二人ともそれに文句を付けなかった。 数か月が過ぎた。伊丹が定例の砲兵工廠の講義に行くと藤田中尉に別室に呼ばれた。 | |
「伊丹さん、ちょっと噂を聞いたのですが・・・」
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「なんでしょう?」
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「半蔵時計店のことです。なにかここ数か月であそこの製品の品質も精度も向上したという話です」
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「ほう!初耳です」
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「伊丹さんの会社、新世界技術事務所が指導を始めたと聞いたのが半年前、それからほんの数か月であっという間に改善したようです」
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伊丹はまさかねじとか投影機を提供したくらいで、そんな画期的なことが起きるとは思わない。 | |
「残念ながらというか、それは私どもの指導によるものではありませんな。なによりも私たちはコンサル契約を切られてしまいました」
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「半蔵時計店では精度向上とか品質向上はお宅の指導のおかげと取引先では語っているようです。もっともウチはお宅の指導を受けてものすごく改善しているのは広く知られていますから、それを逆手にとって宣伝しているのかもしれません」
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「そうだとすると策士ですな」
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「実は噂だけではないのです。砲兵工廠で購入しているダイヤルゲージも当初よりはるかに精度向上してきましたし、価格も向こうから2割も下げてきました」
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「ほう、それはまた?」
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「私の予想ですが、次の商売を狙っているのではないですかね」
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「次の商売とは?」
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「新しい計測器を開発しているという噂もあります。計測器市場の寡占化を目指しているのではないかと推察します」
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そうか、新世界技術事務所から提供を受けた新しい技術は独占できず、他社にも使わせなければならない。それを避けて丸々自分たちの利益にするには、我々から必要以上に技術供与を受けないことだ。つまりそういうことか。 まあ、それもよかろう。ただそうなると新世界技術事務所との契約は終了かな? まあそれもしかたない。ちょっとした情報を基に自分たちが開発して成果が出せるなら、半蔵時計店は技術があるということだ。それをどうこう言うのは筋違いだろう。 伊丹は帰社してからそんな話を工藤と藤原に伝えた。 | |
「ということは、これからはあまり詳細な情報を出さないようにしなければならないということか」
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「いや、考え方ですが、この世界が発展するならそれもアリでしょう。我々が手取り足取りしなくても自分たちでできるというならそれは素晴らしいことです。むしろ我々は力がありまっとうな会社なら積極的に情報を提供していくべきじゃないですか」
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「私も伊丹さんと同じ思いです。彼らがよほどアコギなことをしなければいいじゃないですか。もっとも私たちも情報提供に当たっては、その影響、特にマイナス面に注意が必要ですね」
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「お二人とも生きることに汲々していないからそういう発想もあるでしょうけど・・」
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半蔵時計店とはそれっきりコンサル契約は途切れてしまった。とはいえ工藤もほかのメンバーも十分に仕事があるので特に困ったわけでもない。ただあまり半蔵時計店が暴利を貪るならなにか手を打たねばならないなという思いはある。 ●
年の暮れとなり仕事納めの日の夕方、新世界技術事務所の面々は会議室で枡酒を飲んでいる。
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「今年は藤原さんが加わってくれてウチも大躍進だった。 陽二も真面目に働くようになって安心したよ」 | ||
「叔父さん、もうそれは言わないでくださいよ」
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「来春は新人を採用するつもりだ。そのとき教育担当はお前だ。頼むぞ」
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「砲兵工廠と海軍工廠は順調ですが、半蔵時計店はいささか竜頭蛇尾でしたね」
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「あそこの計測器部門はすごい売り上げと利益を出しているそうだ。そのうち時計じゃなくて計測器が本業になるんじゃないかな。ウチが特許を押さえておけば今頃は百万長者だったね」
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「社長、我々の目的は何か、当社創業の趣旨は何かと考えればこれでいいじゃないですか。我々は巨利を得ることじゃなくて、この国の発展に寄与することです。 私も既に手取り月10両(120万)以上いただいてます。これ以上はいりませんよ」 | |
「とはいえ半蔵時計店も、ときどき手土産もって挨拶にくるくらいの姿勢は示してほしいなあ〜」
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工藤がそういったとき、半蔵時計店の宇佐美が顔を出した。手には風呂敷に包んだ一升瓶を持っている。藤原と伊丹は顔を見合わせて笑ってしまった。 | |
「おや、お久しぶりですね。御社は商売繁盛と聞いてます。今年は良い年だったでしょう」
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「おかげさまでお宅様には足を向けて眠れません。それで遅くなりましたがここに契約書を持ってきましたのでサインをいただきたいのです」
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「契約書? 残念ながらお宅に御見限りされてしまい今は仕事をいただいてませんよ」
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「御社からアイデアをいただいて特許申請したとき御社の名前を書かないと契約していました。しかし今のように弊社の大事業になりましたので、そういうわけにはいきません。利益の一部を御社に支払うよう契約せよと弊社の社長から指示がありまして、よろしくお願いいたします」
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それを聞いて工藤、藤原、伊丹は吹き出した。 工藤が契約書を広げてみると、新世界技術事務所のアイデアを基に商品化した場合、販売開始後10年間に限り税引き後利益の5%を支払うとなっている。多いのか少ないのか見当もつかないが工藤は喜んで二部の契約書にサインして丸印を押して一部を受け取った。 | |
「というわけで今後ともご指導、アイデア提供、そして先進技術の現物提供をお願いします」
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「お互いウィンウィンですな」
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「では早速ですが、欲しいものがあるのですよ」
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「それはまた早速ですな。なんでしょう?」
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「ブロックゲージ、お宅が砲兵工廠に提供したレベルではなく、あれより一桁二桁上の精度のものが欲しいですね。それを5セット。それから実体顕微鏡を何個か。これも社長指示なんです」
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「さすがお宅の社長は商売上手ですね。年が明けたらすぐに手配しましょう。」
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「でも部屋の温度を一定にできないと、ブロックゲージなんてすぐに百分の1ミリ2ミリは伸び縮みしますよ」
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「高級時計はアンモニアを使って温度湿度を一定にしている恒温室 | |
「ほう!さすがですな」
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「まあ、とりあえず一献」
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数年後、津々浦々に半蔵時計店の測定器は満ち溢れた。というかそもそも競合他社は存在せず、いつまでも現れなかった。 そして次に海外展開を進め、創業者の祖先が忍者であったことから半蔵時計店のシンボルマークである巻物は世界いたるところの工場で見られるようになった。 |
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注1 |
別に深遠な意味ではなく、動物(サル)が得物(手に持つ武器・得意な武器)を得て、進化を始め、どんどんと高みに登っていくという意味だけです。 と書いていて漢字を見て気が付いたのですが、得物とは得たものなのでしょうか? |
注2 | 初めは歯厚マイクロメーターと書いたのだが、ハタと気が付いた。 マタギ歯厚測定という考えがいつ発祥なのか調べたが分からなかった。またぎ法がないとき歯厚マイクロメーターがあるわけがない。ということでマイクロメーターに変えた。 参考文献 「歯車の技術史」、金田俊夫、開発社、1970 |
注3 | アメリカでは1900年代にアンモニアを冷媒に使ったエアコンで、織物・印刷などの工場の温湿度を管理しているところが多々あった。
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なんだか最終回のような結末になりましたね。終わりですか? 異世界審査員ではなく異世界コンサルになってしまいましたね。 今日たまたまコンサルが営業に来たのですが、なんか100年先の技術や手法でも提案してくんないかなぁ、もしかしてこの人、異世界から来ててすごい知識や能力があるのではと・・・影響を受けてしまいました。(汗 |
initialA様 毎度お世話になっております。 一見、もう物語のオシマイのようになってしまいました。 ですが、いえいえ、そうではありません。 そもそもこの物語は品質保証という考えが起きる半世紀前にそういう考え方を教え広めたら日本の工業レベルは上がるのかということをシミュレートしてみようという発想でした。異世界に認証機関を作るというのもその背景に過ぎません。 で、いろいろと考えてみるとそう簡単ではないということが分かってきました。 品質保証というのは第二次大戦中のイギリスが興りと言われています。爆撃機が1割も2割も撃墜されてやっとのことでドイツにたどり着き爆弾投下したら不発だったとなるとがっかりしますし怒り狂いますよね。 不発弾をなくそうというのは当然です。とはいえ破壊検査はできません。そのためには工程工程の標準作業を決めて、それをしっかりと守らせるしかないという発想がでてきました。それが品質保証です。 ではそれよりも40年前の世界で品質保証を実行させればよいとなるかといえば、その時代はそういう発想ができる土壌というよりもレベルに達していないということが分かってきたというか気が付いてきました。 計測器の校正といっても、計測器がない!公差という発想がない!ゲージ基準という考え方、作業者は流動的、転職率が3割(社員の3割が毎年退職する)、コピー機がなくて図面改定があれば図面の改定箇所を朱記訂正して使用するという環境において品質保証なんて実行できない。 ではどうするかとなれば、計器を考える、校正体系を考える、図面公差という発想を教える、図面管理をどうするのか、そんなことを書いて、みなさんに、もちろん私もどうしていくか考えてみたいという趣旨になってきました。 ですから確かに今は「異世界審査員ではなく異世界コンサル」なのですが、どういう条件を整備していけば、「異世界コンサルが異世界審査員になれる」のかが課題というかテーマなのです。 そういうことになれば異世界の産業はワンステップ向上するはずです。そして国際競争力が高まれば、戦争に寄らずに国と富ませ国民を幸せにできるのではないかというアイデアは成立するのかと? どうなりますかしばしの間、生暖かい目で見ていただきたくお願いいたします。 |