だから私は過去にタイムスリップして、いやタイムスリップしなくても、その国の工業水準を上げるというタスクを与えられたなら、高精度の機械を作るとか運び込むとか、あるいは最先端の工作法を伝える気はない。非常に回りくどいかもしれないし見た目は派手ではないだろうが、基本的な部品すなわち機械要素を作れるようにするとか、職工がげんこつで殴られるような育成ではなく、実技と理論の両輪で論理的に教え育てる体制を作るだろう。まあ、そういう道のりはあまり評価されないし尊敬もされないんだけどね、
大正末期か昭和初期のこと、オヤジは田舎から東京に出てお店の丁稚になったが、あまりの賃金の安さに音を上げて、横須賀の海軍工廠の試験を受けて職工になった。ところがここは教育訓練する仕組みなんてなく、見よう見まねで仕事を覚えるしかなかったそうだ。分からなかったり質問したりすると玄能が飛んできたという。なかなか
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「そう構えないでください。いつも伊丹さんにお世話になっていて、たまには慰労しようというだけです。今日はあまり深刻でなく、日頃考えていることをざっくばらんに語り合いましょう」
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「最近は家内の方がお宅様との付き合いが深いのではないのですか。私は家内がなにをしているのか知りません。実はあまり深入りしてもめごとに巻き込まれるのではないかと密かに心配しているのです」
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「もめごとと言えば515事件ですか。それならあと20年後でしょう。そのときには我々はとうに引退していますよ」
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「いやいやそんな大事件ばかりではありません。人は純粋ではありませんし欲望もあります。ですから同僚間でも出世競争、昇進競争はあるでしょうし、行き過ぎれば人を陥れることもあるのではないですか。そういったことに巻き込まれると大変だなと。
それに私の世界と異なり、こちらは何と言いますか、男尊女卑という風潮はありますし、既に講演とかで目立ちすぎているようで」
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「まあいずれも無きにしも非ずではありますね。実は私は伊丹さんがおっしゃったことと同じことを考えていたのですよ。不審と言ってもいい」
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「ほう、どのような疑問でしょうか?」
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「普通の人は出世したい昇進したい、お金が欲しい、名誉が欲しいという欲求があります。『赤と黒』なんて小説もありましたな。でもそれは悪いことじゃない。私も憲兵ですから将官までは無理と分かっていますが、大佐まではいきたいと願っています (注1)。
それが伊丹さんには感じられない。お金のことも調べさせてもらいました。今では後から来た藤原さんの方が稼いでいるようですね。伊丹さんは悔しいとか妬むという気持ちはないのですか」
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「アハハハ、そういうことですか。うーん、全くないと言えばウソになりますね。でももっとお金が欲しいという気持ちはありません」
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「ほう、なぜですか?」
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「こんなことを言ったら傲慢と思われるかもしれませんが、私は毎月10両(この物語では120万くらい)いただいています」
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「ほう!10両。将官の俸給と同じくらいだ」
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「そうなんですか。私が暮らしていくには住む着る食べるに十二分です。藤原さんは12・3両頂いていたと思いますが、私が今より月3両多くいただいても使い道がありません」
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「いやはや羨ましい話ですね」
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「3両しか違わないとおっしゃるが、3両と言えば中尉や少尉の月給ですよ」
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「そう言われると思って傲慢かもしれませんと言いました。
楽しく働ける仕事があり、それが人のためになり、食べていけるなら十分じゃありませんか。ということで頂けるものはいただいていますが、今以上欲しいという気もありません。
会社だって管理者とか経営者になったら気苦労ばかりでしょう。職人であるということをわきまえて身の程にあった生き方をすればいいんです。
軍人だって昇進が命というわけでもないでしょう。まあ階級が明確な社会と階級がない我々の世界とは違うかもしれませんが」
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「なるほどねえ、奥様が伊丹さんは政治的なことは苦手な職人だとおっしゃってましたが、その通りですな。ああ、職人とはほんとの職人ではなく一つの仕事に拘っているという意味ですよ」
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「家内がなにを目指しているか存じませんが、私はこの国の基礎を底上げしていきたいなと思っているのです」
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「底上げと言いますと?」
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「私と家内の仲が悪いわけではありませんが、お互いの考えが一致しているわけでもありません。この国を向上させていこうと思ったとき、なにをするかとなりますが・・・
みなさん向こうの世界の驚くようなものをたくさんご覧になったと思います」
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「毎月、選別された人を10人くらいずつ向こうの世界の見学ツアーに派遣しています。例の吉本一族の案内付きです。1週間コースでして、東京都内の見学、浅草、皇居、スカイツリー、デパート、スーパーマーケット、それから工場見学、横須賀軍港、横田基地、習志野駐屯地、入間基地などを外から眺めるなど盛りだくさんです。
役得というわけでもないですが、我々は最初の方に参加させていただきました」
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「それは面白かったでしょうね。どういったものを取り入れたいと思いましたか?」
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「それはやはり最新の兵器とか情報処理システムとか」
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「それは分かります。そういったものを持ち込むこともできるでしょう。でも継続して持ち込むことはできないでしょう。どんな兵器でも機械でも、故障もしますし寿命もあります。そのときここで生産できる力がなければそれで終わりです」
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「で伊丹さんは?」
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「どんな機械も兵器も、部品からできています。そういう部品を作るには、工作機械も必要ですし、技能も必要、材料も計測器も必要です。それが先ほど言った基礎のわけです。そういうものを少しずつ底上げしていきたいというのが私の考えです」
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「具体的にいえば部品にはどんなものがあるのでしょう?」
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「機械なら機械要素という言葉を使います。ねじ、座金、ベアリングなど、どんな機械でも使う部品ってありますよね。そういったものがどこでも手に入るようにしたい。
機械ばかりではありません。電気関係なら絶縁材も重要です。向こうの世界では第二次大戦の頃の飛行機とか船では漏電の問題が多かった。絶縁材が悪かったのです。絶縁とか潤滑の技術がアメリカ並みだったら、兵器の稼働率ははるかに良かったでしょうね。潤滑油、作動油、防錆剤、洗浄剤、漏れを防ぐガスケット、パッキン、良いものがなければ機械は故障して稼働率は下がります。100台あっても常に50台修理中よりも、50台だけど全数即応体制の方が、信頼できます」
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「そういう基本ができてないと、高度な機械は作れないということですね」
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「そうです。言い方を変えると機械要素とか電子部品あるいは潤滑油などが市場にそろっているなら、頭の良い人が新製品を考えつけば、部品を集めて簡単に組み立てることができるでしょう」
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「そう言われると思い当たることは多々あります。今、自動車の量産とか飛行機の生産を控えているわけですが、何をするにも部品から設計して作らなければなりません。ねじも、軸受けも、電球も、なにもかも。そういう部品が店頭に並んでいるなら自動車でも飛行機でも生産するのはいと容易いことでしょうね」
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「その通りです。でもそういう状態にすることは簡単じゃありません。仮に政府が強権で、お前のところはねじを作れ、お前のところはガスケットを作れといっても、技術・技能がないとなんもできないのです」
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「結局、町工場を含め、この国の製造業のレベルを少しずつでも全体的に上げて行かなくてはならないということだ」
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「そうです。先端技術を導入するのは結構ですが、最先端の機械だって9割9分は基礎的な部品や材料から組み立てられているわけで、それが手に入らなければなにもできません」
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「いや、伊丹さんとお話するといつも勉強になります」
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「なにをおっしゃる、私は鈍臭い人間ですからこんなことをしています。家内はカッコいいことが好きだし、それなりに能力がある。しかし向こうの世界のように金さえ出せば機械部品でも電子部品でもなんでも手に入ると考えていると足をすくわれます (注2)。
そういう一般的な部品、機械要素といってもいいですが、それが当たり前に手に入るようにするのが私の役目かと思います」
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「電子部品とは聞きなれない言葉ですが、何ですか?」
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「ええと、モーターとか照明ランプなどは高い電圧の交流電気を流して使いますが、そうではなく低電圧の直流で増幅器や論理回路を組んだりするもの。ラジオとか計算機に使われる部品と思えばよろしいかと」
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「伊丹さん、今機械加工工場を作っているのはご存知ですよね。ああいうことは意味がないとお考えですか?」
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「いえいえ、そうではありません。ただ一部の、例えば砲兵工廠の技術や設備を向上するだけでなく、工業関係者に広めて町工場も含めて全体のレベルアップをしなければならないということです」
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「しかし・・・となると我が国の工業力を外国に秘密にしておくことはできないということになる」
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「軍事に限らず産業全体を底上げしていけば社会が変わってしまうから、秘密にできるわけがない」
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「外国が追い付こうとするなら、それ以上の速さで進歩すればいいのです。というかそれしか方法はありません。追い付かれないように秘密にしておくということは土台無理なのです。製品をみればそれと同じものはいずれは作れます。秘密兵器と言ったところで、戦場で破壊されたり鹵獲されたりすれば秘密ではなくなります (注3)。
私の目指すところは、この国の工業水準を大幅に向上させて、すばらしい機械や道具を作りそれを世界中に輸出する。それで国は豊かになる、それこそが国力です。そうなればこの国に戦争を仕掛けてくるようなことはなくなるでしょう。
おっと工業だけでなく音楽、文学、映画といった文化全般についてもそうあらねばなりません。軍事だけでなく優れた国だと認められなければなりません」
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「伊丹さんは政治的でなく一職人だとおっしゃいましたが、本当は雄大な夢を持ちそれに向かって行動しているじゃないですか」
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「いずれにしても道は遠いですね」
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「見方を変えればですよ、私や家内、藤原さんという情報源というか道具を手にしたのですから、本来の状況に比べればはるかに有利な位置に着いたといえるでしょう。100m競争ならスタートラインではなく50mくらいから走り出したようなものです」
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「確かにおっしゃる通りだ。しかしそうなればなったで困難さも良く見えるようになったわけです」
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「国策研究所というものを立ち上げると伺いましたが、時系列的に到達すべき最先端を明示するのもありでしょうし、達成すべき最低限を示すのもアリでしょうね」
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「すみません、おっしゃる意味が?」
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「例えば15年後時速150キロの鉄道で仙台から福岡までつなぐというのを最先端の明示としましょう。そうではなくねじの標準化を図るとか、石油類の種別を定め全国でそれに基づき製造販売をするというのが最低限と考えました」
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「なるほど、しかし最先端を決めないと最低限は決まらないような気もしますね」
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「そうかもしれません。しかし最低限が決まれば最先端がどこまでいくかは見えてきます」
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「そういったことは今後詰めていこいう。今日は大変勉強になりました。定期的にこんな会合を持ちたいと思います」
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数日して今度は藤田中尉からお誘いがあった。今回は工藤、藤原も一緒である。
招待状を読むと、この度昇進したこと、昇進は皆さまのご支援のたまものでありお礼の場を設けたという。
工藤も藤原もぜひ行こうというのでありがたくという返事をする。
当日夕方、工藤の意見で赤いのし袋に1両を包み1升瓶を2本持って出かけた。さすがに中野中佐のような高級なところではなく、しゃれた居酒屋の奥座敷である。
木越少佐、藤田中尉、そして黒田軍曹が下座で、三人は上座に座らせられた。
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「本日は今までの伊丹さんと工藤さんには2年半、藤原さんには1年半のご指導をいただきましたことのお礼、そしてこの度我々が思いもかけない昇進しましたので、その御礼のためにこの席を設けさせていただきました」
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「まことにありがとうございます。ところでご昇進と承りましたが、どなた様で?」
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「実はこの三名一度にです。私はこのたび中佐になりました」
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「いやいや、ご存知と思いますが私は昇進が遅く、このまま少佐で定年かと覚悟しておりました。軍隊の定年は階級で決まっていますからね。いよいよ来年退役のつもりで定年後のことを考えておりましたところ、中佐昇進の知らせがありました。
伺いますと工廠の生産方式の改善、品質向上、生産性向上などに貢献したからとのことです。すべて伊丹さんたちのおかげです」
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「私も思いがけず大尉に昇進しました。技術士官は大学を出て任官すると即中尉、そして大尉、少佐まではほぼ自動進級です。しかし通常なら大尉になるのは再来年のはずでした。それが練兵場建設から始まって、不良対策、ノギスやダイヤルゲージの導入、品質管理の考え方などを教えていただきましたおかげです」
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「いや私は口は出しましたが実行したのは藤田中尉、いや藤田大尉ですよ」
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「実はだいぶ前に伊丹さんに書いていただいた工程管理の論文ですが、どういう経路なのか英訳されてアメリカまで伝わり、かの地で評判になったそうです。ヘンリー・ガントという学者から手紙をもらいました」
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「ほう!ガントからですか」
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「ご存知ですか?」
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「いえいえお名前を知っているだけです。アメリカのBusiness consultant、こちら風に言えば能率技師というのでしょう。とはいえ我々とは大違いで、彼は国家的な事業を指導している方です」
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「有名な方だったのですね。その方から向こうの大学で講演してほしい、そして名誉学位を与えるという内容でした。もちろん私は軍人ですから簡単にいきません。何度かやりとりがありまして軍の許可を得て、伊丹さんに二度目に書いてもらった論文の英訳を送りました。それもたいそう喜ばれました。
結局渡米せずに、こちらのアメリカ大使館で名誉博士というものを頂くことになりました」
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「ほう!名誉なことですね」
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「更にですね、その話が皇国大学に伝わりまして、皇国大学が名誉のつかない博士号を授与することになったのです。いずれの論文も皇国大学の紀要に載りましたし、私がその論文だけで名誉学位を得たとなれば無視できなかったのでしょう」
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| 「それはおめでとうございます。それじゃ、いつでも皇国大学で教授が務まりますね」
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「皆さんのおかげです。テーマが軍事関連であったなら公開できませんから、このようなことにはなりませんでした。テーマが一般的なもので、中身も良くて、本当に好運です。
正直言いまして、ほとんど伊丹さんがされたことですから恥じ入るばかりです」
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「私は藤田中尉と付き合いは短かったですが、上にもへつらわず下に偉ぶらずというお人柄を感じております。皆見ているのですよ」
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「実はですね、階級が上がれば俸給も上がります。それで夏に許嫁と祝言を上げることになりました。」
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「それはそれは、おめでとうございます」
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「私もおかげさまで曹長になりました。これも上官のお引き立てとみなさんのご支援のおかげです」
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「次は准尉、さらに少尉ですね」
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「いやいや、准尉で止めといた方がいいですよ。へたに少尉になると俸給が下がってしまいます。下士官あがりが准尉の給料に戻るには大尉にならないとなりません。そりゃ無理ですよ (注4)」
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「その通りです。定年までに准尉になって、退役したら田舎で百姓をするのが私の人生設計です」
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「それじゃ退役したときは我社に来てくださいよ」
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