異世界審査員102.地震その1

18.07.23

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。

異世界審査員物語とは

8月20日
ワシは千葉佐倉の連隊長加藤大佐である。予定では今年の春、定年退職だったのだが実戦を経験した連隊長がいないので、地震対策として特別に任期を伸ばされた。
加藤連隊長
加藤連隊長
今いるところは、昨年も避難宿営訓練を行った小岩の田んぼである。政府は大地震が今月末か来月明けにあると広報した。実を言ってその予測が本当なのか間違いなのか、ワシには分からない。
ともかく今ワシは他の連隊からも工兵を集め重機も使って大規模な避難所建設を行っている。ここには帝都の東側の子供たちを避難させる予定で、他にも避難所建設部隊があり、王子や行徳に避難所を作っている。文官の見積もりでは地震後に起きる火災で、隅田川以東はほとんど焼け出されるという。火事になるのが分かっているなら消火をすればいいと思うが?

昨年と違い、今年は避難者10万人を想定して、しかも1泊2日ではなく2週間程度滞在する前提である。
それで早稲の稲刈りを終えた田んぼそのままではなく、ブルドーザーで地面を平らにして戦車を走らせて固めた。貸主の農家はいい顔をしなかったが、返すときはブルで耕すからと説得した。
ともかく10万人となると大変だ。あまり密集するとまずいという指導を受けて、5,000人規模のキャンプを間隔をおいて建設している。炊事とか風呂とか井戸も掘った。まあとんでもない規模だ。これほどの人数が屋外に宿営することは過去なかっただろう。関ヶ原の戦いは東が7万4千、西が8万という。このキャンプだけで関ケ原の6割になる。

テントだけではない、避難者を運ぶのも大仕事だ。避難させるためにトラックを200台用意した。隅田川の東岸から亀戸までの尋常小学校の児童を、押上、錦糸町駅、深川の3か所に集めて、トラックでここまで運ぶ。運ぶ道路は舗装していないが、過去2週間工兵に凸凹の補修と、また近隣住民が無断で道に立て看板や道路で商売していたのを撤去させた。
対象になる児童数が7万で、トラック200台に40人乗せて9往復、片道10キロあるから1往復1時間弱、なんとか一日で終わらせたい。まさに大作戦だ。
最近の戦争は大砲の弾を補給するのに、備蓄所から大砲まで道路を作り、砲弾を補給するトラックがその間に数珠繋ぎになるという。戦争でも災害救助でも現代では兵站が重要だ。

しかし我が連隊にトラックが配備されてもう数年になるが、当初は燃料タンクや配管からガソリンが漏れたり、キャブレターのパッキンから漏れたり、バッテリーがあがったりベアリングの精度が悪いことなどから故障するのが当たり前、朝の始業点検で異常なしなんて半分もなかった(注1)ところがいつの間にか故障がおきないのが当たり前、始業点検で異常がないのが普通になった。また以前は100台のトラックが半日も走れば、パンクの10回や20回は普通にあった。ところが最近はパンクも1日1回あるかないかというくらいに減った。
自動車部隊の中隊長に理由を聞くと、故障が起きて部品を調達するたびに支給される部品が良いものになってきて、今では故障が起きないのだという。なぜ故障が減ったのかと聞くと、部品の品質が良くなったからでしょうという。しかしなぜ品質が良くなったのかは分からないという。オイオイ、分からなくては困るぞ、わからないということはまたいつか悪くなるかもしれないということだ。


8月21日
俺は車屋鉄三郎だ。昔は纏持ちだったが今は隠居の身だ。ひょんなことで戦車隊から消火の指導を頼まれて、ここ2年いろいろと関わってきた。おれはそのときからまもなく地震が起こるからその対策だと聞かされていたが、とうとう先月に政府がまもなく帝都に大地震があると発表した。いよいよかと俺は体に力がみなぎる感じがした。
車屋鉄三郎
車屋鉄三郎
ともかく俺の仕事は小名木川から錦糸町駅までの防火帯を作ること、言い方を変えれば建屋を破壊することだ。長さ3.6キロを30m幅で建屋を壊して、そこより東に燃え広がらないようにするわけだ。

江東区、墨田区は水利が悪く、火事が起きたら止めるところがなく燃え広がるのは見えている。地震ばかりではないが江戸の大火事は初めは両国とか浅草あたりの家が密集しているところから出て、それが燃え広がるってのが昔からの通り相場だ。なにもしなければ荒川まで燃えてしまう(注2)本来なら消火したいところだが、それは無理な話だ。火が出たら一歩下がったところに防火帯を作って燃え広がるのを止める、それがせいぜいだ。おっとそれができるかどうかさえ分からない。
だって考えてもみろ、長さ3.6キロというと1里だ。それを幅30mで破壊するって簡単にできると思うか? 何日もかけるわけじゃねえ、火が出たらそこまで燃えてくる前に建屋を破壊しなくちゃなんねえ、

いろいろ検討した結果、爆弾を使うことになった。最初は飛行機から爆撃することを考えたが、稲毛の海岸に家並みを再現して実験した結果、不発弾がでたときの処理の問題、思った場所に落とせないことなどから、兵隊が爆弾を家の中に設置して爆発させるということになった。とはいえ25キロ爆弾でせいぜい半径20メートルくらいしか木造家屋を壊せない。だから3.6キロに100発くらい設置しなければならないわけだ。そしてきれいに壊れるわけではないので、爆弾であらまし壊した後に、戦車が踏みつぶしていくことになる。それも稲毛の海岸で実験というか訓練した。
当初は、1軒1軒にワイヤーロープをかけて倒していく計画だったのだから、それよりははるかに速く破壊することができる。もちろん上手くいけばの話だ。

ところで俺も戦車隊と2年も付き合ってきたが、その2年で変わったことがある。最初の頃は出動!と声がかかっても走り出す戦車は7割もなかった(注3)今では全部が動き出す。何が変わったのかと隊長に聞くと、故障が減ったという。なぜか?と聞くと、わからんという。おかしな話だ。


8月22日
私は海軍追浜航空隊の友保中尉である。本日、追浜飛行場の飛行機をすべて千葉の下総基地に移動した。ソ式練習機 横浜や横須賀は地震で揺れがひどく相当被害を受けるが、千葉は東京以西に比べ揺れが少ないという。
地震が収まるまで下総基地から消火作業に飛行して、追浜飛行場が使えるようになったら、そこから消火に当たるという。というのは、下総基地からでは消火現場まで、片道50キロあるが、追浜飛行場からなら17キロしかない。この差は消火活動が倍以上できるということだ。
戦争ではないので状況と作戦は事前に十二分に周知された。陸軍も海軍もソ式練習機はすべて横浜、川崎の消火に従事する。その代わり東京の消火は大型機だけが担当するという。
そうそう、消火活動はすべて哨戒機からの指揮によって行うそうだ。
しかし不思議なことがある。以前は点火栓の火花が出ないとか漏電とか多発したものだが、ここ1・2年でそういう故障は皆無になった。なんだかわからないが、自分の飛行機が故障で出撃できないということがなくなったのがうれしい。


8月23日
私は川西飛行機の川西社長である。今私は霞ケ浦にいる。霞ケ浦には水上機基地はあったものの、大型飛行艇を係留したり整備するところはなかった。
川西社長
川西社長
しかし東京湾も地震で津波があるのではないかということと、消火のために淡水を積めるところという条件から、ここを飛行艇基地にすることになった。
急遽、飛行艇の対応をしろと言われて海軍の人たちが右往左往して、なんとか形ができたのがほんのひと月前である(注4)今は水面にも係留できるようにしたし、整備のために陸に上げるスロープや屋根付きの整備工場もある。
政策研究所の中野氏から、飛行艇に爆弾を積めという指示があったが、短時間では無理だと回答した。なんとか納得してもらったが、その代わり哨戒機の24時間稼働を必達せいと言われた。地震のとき24時間飛行艇を東京上空に張り付かせろというのが命令だ。
哨戒機は3機あるので、1機故障しても2機で24時間体制はとれるので大丈夫だろう。もちろん電子機器の故障も怖いが、今まで数百時間稼働しているが故障したことはない。ワシは中身を知らないが、なにかすごい電子機器のようだからたくさんの真空管を使っているはずだ。何百時間も真空管が故障しないで動作するなんてあるのだろうか。
ともかく彼らが飛行艇をどのように使うのか、よく見せてもらって今後の開発に反映しよう。


8月24日
ワシは中島飛行機の中島社長である。私が依頼された消防飛行機10機はここ下総基地にあって、毎日離着陸と放水訓練を行っている。
中島社長
中島社長
今までに問題はないが、実際の大火ではものすごい上昇気流が発生するというので、あまり低空飛行はできないだろう。となると放水するとき細かな水滴にするのではなく、ある程度流れを太くして放水するようにバルブの調整をしている。だがうまくいくかどうか定かではない。
だいぶ前のことだが、伊丹という女が、保有機数ではなく稼働機数だと言った。なにを語っているのかその時は分からなかった。だって飛行機に限らず自動車だって機械だって、故障というのは起きて当たり前だ。その朝、動かないと言われても仕方がないと思うのが当たり前。だから稼働率なんて言われても、神様じゃあるまいし何を語るのかとしか思えなかった。
しかし最近は故障で飛べないというのはめったにない。なぜかというと部品のばらつきがないからだ。今では故障が起きるというのが不思議に思えるようになった。もちろん複雑な機械とか部品点数が膨大になれば、確率的に故障が起きるかもしれないが、飛行機のエンジン程度なら十分に管理できると思える。
すると保有数より稼働率という意味が実際に体で理解できるようになる。ワシも性能がいいがしょっちゅう機嫌を悪くして動かない飛行機ではなく、故障知らずで常に動く飛行機を作ろうと思う。
まもなく起きるという大地震のとき、ワシの飛行機が故障なく飛んで欲しいものだ。


8月25日
私は連絡艇68号の艇長 大谷兵曹長である。東京湾内の消防ポンプを備えた連絡艇20隻は、命令を受けて先週から隅田川河口近くに終結している。そして毎日放水訓練を行っている。ひとつは連絡艇から直接陸上の建物に放水し消火すること、もうひとつは陸上の消防車にホースをつないで給水するものである。
単独で放水する方法は狙い通りに放水できるかどうかであるが、陸上に給水する方法は、まず指示された川岸に適切な係留場所を見つけることができるか、消防車と連絡が取れてホースをつなげるか、船の位置を維持できるかなどいろいろ難しいところがある。特に実際に地震が起きると上流からさまざまなもの、破壊した家屋、家財、そのたが流れてきて船のスクリューや舵が破損することもあるだろうし、船そのものが身動きできなくなるかもしれない。まあ、そのときはそのときだ。


8月25日
私は兼安である。私は今まで大地震対策には関わっていなかったが、無関係というわけにも行かない。
兼安教授 当面、私の任務は、外国の外交官の対応になった。一応、8月30日発生という前提で、各国の外交官を習志野演習場に設けた仮設の建物に案内し、そこで地震をやりすごしてもらうということになった。もっとも東京の大使館などが燃えたらどうするのか、そのときはそのときということなのだろう。
とはいえ、駐在国の大災害とその対応をぜひ見たいという希望が多々あり、とりあえず地震発生後、安全を確保できたら皇居外苑の総司令部まで代表者を引率するのが私の役目だ。
移動後、地震が起きるまでいろいろと地震を予測したいきさつや対応策を説明して時間稼ぎをしなければならない。
ところで、習志野演習場は地震でも大丈夫なのだろうなあ〜


8月26日
ここは旧江戸城の本丸である。ここに真の地震対策司令部がある。すべての情報の集約をして、判断し、対応を指示するところだ。言い方を変えると、ここが被害を受けると機能不全、今までの地震対策が無に帰す恐れもある。
私は吉沢である。通信機器、飛行機や戦車、消防車などの位置表示板などの設置を行っている。もう数年前になるが、 吉沢教授 欧州大戦時にドイツ潜水艦の発見、攻撃の仕組みを作って教育したが、あのときは時間をかけ、また操作する将兵はみな技量も高く真剣であった。しかし今回の司令部に回された将兵は、第一線で使い物にならないからここに回されてきたような人たちで、指示通り動いてくれない。もう数日かけて設置、接続を行っているが、作業ごとに段階を追って説明しないと仕事できない者ばかりだ。
中野さんも苦虫を噛み潰したような顔をしているが、じっと我慢している。なにせここの最高指揮官は陸軍近衛師団長ということになっている。近衛師団長がつかえないなら、指揮権を中野さんが持たないとだめだろう。


私は中野である。中野宮家(なかののみやけ)の次期当主である。20年も前に私は士官学校にも行かないのに希望して陸軍中佐にしてもらい、面白そうなプロジェクトを見つけてはそのプロジェクトマネージャーをさせてもらっていた。
中野部長 そして10年前に伊丹さんという異世界から来た人と出会った。彼の世界はこの国よりほぼ100年進んでいて、その技術を導入し彼の力を借りて産業育成を図ってきた。その成果は十分に出たと思う。私は幸運である。
ところがその国では1923年に関東大震災という災害に見舞われたという。そして種々異変を調査した結果、この国もまもなく大地震が起きそうだと判明した。ということで過去3年近く、大地震対応の準備を進めてきた。そしてあと数日で地震になりそうだ。
今、地震対策の司令部にいるのだが、仕事がうまく進まず参っている。司令部とは指示命令を出すとことだが、指揮官である近衛師団長はまったく仕事ができない。現在、私は指揮系統に入っていないが、このままでは・・
考えに考えた末、私は車を出させた。行先は皇居外苑である。
帝太子に会いたい旨伝える。どうせ今は暇なはずだ。

帝太子
「おお、お前か、どうだい様子は?」
中野部長
「なかなか将兵が慣れていないところがありまして、」
帝太子
「回りくどいことは言うな、俺に何をしろと?」
中野部長
「指揮権をいただきたいのです」
帝太子
「問題は近衛師団長か?」
中野部長
「まあ、」
帝太子
「彼の仕事は戦うことじゃなくて、皇帝や外国のエライサンの前で華麗な行進をすることだけだからな。
どうしようかねえ〜、今時点で指揮官を更迭というのもなんだし、非常事態になってからというのも問題だし」
中野部長
「一時的に少将にでも任じていただければ。指揮継承は階級順ですから」
帝太子
「わかった。それじゃ・・・おーい、陸軍大臣、あのさ、人事局にいって大至急、こちらの中野の宮を陸軍少将にしてくれ。それと向こうの司令部の指揮系統図を書き換えて中野少将を近衛師団長の指揮継承第一順位にしてほしい」
中野部長
「帝太子殿下にかかるとなにごとも息をするようなものですね」
帝太子
「お前なあ〜、俺が息をすると周りが大騒ぎするから、息をするにも気を使うんだ。
おお、あそこにいるのはさくらじゃねえか?」

中野が目を上げて帝太子が指さす方をみると、モンペ姿のさくらがいる。なんでここにいるの?
帝太子がすたすたと歩いて行くので中野も追いかける。

帝太子
「さくらではないか、どうした?」
さくら
「殿下、お久しぶりです。実を言いまして向こうの世界との連絡が切れ、こちらに取り残されてしまいました。それで今日は救護所でお手伝いしようと参りました。幸子おば様も一緒です」

みると脇に伊丹幸子がいる。幸子もモンペを着ている。

中野部長
「向こうの世界へ帰れなくなったのは大地震のせいではないかと」
帝太子
「それは大変なことだ、気落ちしないようにね。
おい、中野、さくらはここではなく向こうの司令部の方が使い勝手が良いだろう。連れていけ。地震が起きたらここは怪我人であふれる。血を見て倒れられても困る」
中野部長
「承知いたしました。幸子さんはいかがいたしますか?」
幸子
「血を見ても倒れなくなったことをここで証明します」
中野部長
「旦那さんはどうしているの?」
幸子
「主人の専門は元々電子工学です。霞ケ浦の哨戒機の電子機器の保守の手伝いに行きました」
中野部長
「なるほど、ではさくらだけ借りていきます。向こうなら避難者も押しかけてきませんし、揺れも少ないはずです。身の安全は私が守ります」
幸子
「よろしくお願いします」
中野部長
「あれ、岩屋さんもここにいるの?」
岩屋
「ハハハ、私はこの作戦に関わっておりませんので伊丹夫人と同様に馳せ参じました。欧州風に言えばボランティアというのでしょうか。
まだ軍籍にありますので、軍服を着ております」
中野部長
「伊丹邸の憲兵もいるの?」
岩屋
「気が付かないでしょうけど伊丹夫人に警護が2名ついています」
中野部長
「そいじゃ、私と岩谷さんと警備の憲兵は一緒に来てよ、俺も譜代がいないとまずいんでさ」
岩屋
「本来は伊丹夫人の警護なのですよ。伊丹夫人を一人にしてよろしいのですか?」
中野部長
「まさか憲兵と兵隊ばかりのここで襲う人はいないだろう」

中野はさくらと岩屋それに憲兵2名を連れて司令部に戻る。
その日の夕方、本丸の司令部の幹部が集められ、新しい指揮系統が通知された。最高司令官は近衛師団長で、師団長に万が一のことがあれば中野少将が指揮を代わる。
中野少将なんて聞いたことがないぞという近衛師団長の声が聞こえた。


8月29日
関東より遠くの連隊から工兵が続々と東京に移動を開始した。とはいえ東京ではなく千葉や大宮など少し手前の連隊に駐屯して地震後に東京に移動する予定である。


8月30日早朝
隅田川より東、錦糸町より西の地域の学童の避難が開始する。
皆文句も言わず粛々とトラックに乗り避難所に移る。加藤大佐は一往復1時間と見積もったが、乗車下車が素早いこと、途中の道路を兵隊が規制していることから5時前には7万人の移動が終わった。
終わるとすぐに兵隊の指導の元、女性は煮炊きの実施、男子は清掃とかマキ割をする。飯を作らなければ食べられず、薪を割らないと風呂に入れないのだ。


8月30日
大使館や領事館から習志野へ外国人が避難を開始する。約30か国、3000人の大移動だ(注5)総武線で船橋駅まで運び、そこから人はバス、荷物はトラックで習志野演習場の仮設宿舎まで運ぶ。
終わったときには、兼安はへとへとだった。
これで終わりではなく、明日から地震の説明とか接待とか・・・


8月31日朝4時55分
2日前から、24時間体制で哨戒機が下総基地、越谷、小金井、横浜、千葉を周回している。1周170キロ、約40分である。20周して交代だ。今、浦和上空である。高度8,000mは十分高く日の出は地上より早く4時55分である(注6)

観測員が機長に声をかける。

観測員
「地震雲発見」
機長
「地震雲とはなんだ?」
観測員
「私が子供のとき婆さんに教えられました。地震が起こる前に出るんですよ」
機長
「すぐに司令部に報告のこと」


5時20分
帝太子はテントで寝ているところを起こされた。

帝太子
「8月31日か、向こうより1日早かったな。
司令部には連絡済だな。よし、まず飯を食ってしまおう。みんな交代で朝飯を取れ」

うそ800 本日の本意
いつになったら異世界審査員になるのか、いささか・・・

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注1
最初は油圧ブレーキの油漏れにでもしようかと思いました。ところが調べて見ると油圧ブレーキというものが考えられたのは1914年、自動車に使われたのは1921年ということです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Hydraulic_brake

注2
1920年代は街並みは既に中川まで続いていた

注3
登場した頃の戦車の稼働率は目を覆うような状態だった。世界最初の戦車MK1の初陣(1916)では49台中動いたのは18台で、動いたものの途中故障続出で、戦闘に参加できたのは5台だった。

注4
海軍の霞ケ浦飛行場は大正8年に用地買収して、基地が完成したのは大正11年(1922)である。関東大震災の起きた大正12年には水上機、陸上機の基地は存在していた。
関東大震災で霞ケ浦航空隊が活動したことはないようだ。

注5
国交のある国の数の推移というのが見つからなかった。1923年の大使館、領事館の数は不明である。
参考になったのは「明治時代の東京にあった外国公館(1)〜(5)」

注6
場所と高度が決まれば日の出日の入りを計算してくれるサイトがある。
「日の出日の入り計算」


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