*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。
11月某日 いつものように午後の茶の時間だ。今日のあては珍しいクッキーだった。 伊丹は最初の数回だけ顔を出して以降出勤してない。幸子も何も言わないし、若手も聞いてこない。心中では、年寄りは怠け者でどうしようもないと思っているのかもしれない。 | ||
「今日は何か新しいニュースはないかしら?」
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「先月のことですが、アメリカのフロリダに二つのタイフーンが上陸したそうです | ||
「タイフーンって台風のことだよね。それがどうかしたの? 」
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「その影響で今まで銀行が10数行も倒産したと新聞にありました。台風で建物や農作物に被害が出て、銀行が潰れたのでしょうか。関連がちょっと分かりませんが」
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「俺の記憶だと、大恐慌のどんな解説でもその銀行倒産が最初に出てきたと思う。フロリダの銀行倒産が大恐慌の始まりとあったね。もちろんそればかりではなく、そういったことがいくつも起きていたのだろう。 しかし異世界ではタイフーンは1926年で大恐慌は1929年だから3年のタイムラグがある。この世界ではタイフーンから恐慌まで1年なんだろうか?」 | ||
「京子ちゃん、その経過をちょっと注意して見ててちょうだい。 それから清田さん、あなたの知っている大恐慌の前兆をリストして、京子ちゃんにウオッチしてもらうようにしてほしいの」 | ||
「了解しました。その他に私もウオッチしている指標がありますから、前駆症状をまとめて毎週報告します」
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「お願いするわ、私が全体をまとめて中野さんに週報をあげる」
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「中野さんはその情報をどう扱うのでしょうか?」
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「あまり言えないけど、来年4月に田中内閣が成立する。そのとき高橋閣下が大蔵大臣になる予定。想像だけど、アメリカで大恐慌が始まるのが来年10月だろうから、高橋蔵相に恐慌対応の采配を振るってもらうことになる」
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「ちょっと待ってください、だいぶ前に中野さんへ報告する際に高橋議員も出席していましたよね。あのとき既に高橋議員が蔵相になると決まっていたのですか?」
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「そうよ」
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「まさか総理も大臣も中野さんが決めるわけではないのでしょう?」
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「ご冗談を、内閣を指名するのは議会だし元老の意見も入るし。しかし逆にそういう力学を読めば次期内閣がどうなるのか分かる。だから先日、高橋閣下に出てもらったわけ」
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「もし別の人が大蔵大臣になるなら、その方に出てもらったのですか」
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「当然でしょう。私たちは国を動かす人に情報を提供するのが仕事ですから」
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「私の情報がそんな重要なことに使われるとは責任重大で恐ろしくなります」
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「あなたの提言が間違っていたら、多くの国民が苦しんだり死ぬかもしれない。頑張ってね」
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「幸子さんはそういう経験をしてきたのですか?」
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「正直この仕事を10年もしてきたわけで、いろいろあったわ。やりがいはあるわね」
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「頑張ります」
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「幸子さん、ここでは異世界という言葉がよく出てきますが、異世界とはなんですか?」
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「この世界と異世界がどのような関係なのか分からない。ただ複数の似たような世界が存在していること、それぞれ似たような歴史をたどっていること、それぞれの時間はずれているの。そしてときどき別の世界とくっついて、二つの世界を行き来できるの。 過去にはいくつかの異世界とつながったことがあったけど、残念ながら今は異世界とつながっていない。ただ以前つながっていた時に、この世界より時代が進んでいる異世界から書籍や技術を取り入れることができたの。そのおかげでこの国の技術が進んだ。でも異世界と異なった進歩をしたので、もう異世界の歴史が参考にならなくなったということかな、」 | ||
「簡潔明瞭なご説明ありがとうございます。私も初めて聞きました。私たちが許されて読んでいる書籍は異世界のものですか?」
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「異世界を参考に生きるより、暗闇を探っても自分たちが時代を切り開いていく方が、生きがいがありそうですね」
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「伊関さん個人の立場ならそうかもしれない。自分の将来を知りたくないでしょうし。 でも国家を運営する人の立場なら、少しでも情報が欲しいと考えるのは当然でしょうね。わざわざ失敗をする必要はないもの。かくすれば かくなるものと 知りながらやむにやまれぬと突き進むのは、個人ならともかく為政者なら失格よ」 | ||
「なるほど、」
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「もうこの世界は異世界の歴史と離れてしまったと仰いましたが、今も異世界の状況とこの世界の出来事を比較参照しています。参考になるのですか?」
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「先ほど堀川さんが報告してくれたタイフーンのことだって、清田さんはタイフーンから大恐慌までの期間を考えたでしょう。3年前の大地震のときも、発生した月日は違っても予兆となる出来事と地震発生日時の関係はそんなにはずれていなかった。少しでも頼りになるなら活用したいわね」
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「なるほど、未来は分からないからこそ、少しの手がかりでも大きな価値があるということですか」
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「もちろん信じてはダメよ。だけど非常に参考になるわね。それを参考に備えることは間違いじゃない」
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11月某日● ● ● | ||
「幸子さん質問してよろしいでしょうか」
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「ハイ、なんでしょう?」
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「我々は異世界の技術史がわかりますよね。例えば10年後の飛行機がどんなふうになるか分かるのですから、それを本来の時代より先んじて今作れば、我が国は世界一になります。なぜそうしないのですか?」 | ||
「オイオイ、そんな簡単に言ってほしくないぞ。 清田さんか伊関さん、堀川さんの質問に答えてよ」 | ||
「実はその疑問は私も同じです。今海軍の飛行機は時速200キロくらいです。10年後には350キロで飛ぶと本に書いてあります。なぜ今その設計図を飛行機会社に渡して作らせないのかなと以前から疑問でした」
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「私も不思議に思っていました。自分なりに考えたのは、あまりにも技術が進んでしまうと、歴史の流れに歪を与えてしまうからかなと想像しているのですが」
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「アハハハ、君たち、しっかりしてよ。そんなことができるなら世話はないわ。理由はもっともっと簡単で根源的なことよ。作れないからです」
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「作れないとはどういうことですか?」
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「10年後にすごい飛行機が飛んでいると分かっても、その設計図が手に入っても、精度の良い部品を作る機械もないし、材料を作る冶金技術もない。10年後のものを作るには、広い分野の技術を向上させていかなくちゃならないの。それには10年かかるのよ。 もちろん異世界の情報があるから10年よりは短くはなるけど、6年になるか7年になるかというところね」 | ||
「なるほど、そういうことなのですか。未来を知ることは万能ではないのですね」
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「万能ではないけどものすごい力ではあるわ。例えば病気が流行ったとき、異世界で流行った時どうしたのか調べれば、解決に役立つ情報を得ることができるでしょう」
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「ひょっとして数年前のインフルエンザのときですか?」
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「あのときもプロジェクトを作って2年がかりだった。私たちは異世界で死者40万人だったものを、いろいろ対策して5万人に抑えたのよ」
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「そうか、そのために今 異世界の大恐慌を調べているのですね」
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「ちょっと思ったのですが・・・異世界の歴史をみて天災や戦争や不景気などが起きていたら、対策する前にどのような手を打てばどのような結果になるかを模擬的に検討することができますね」
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「それをシミュレーションというのよ。清田さんが数学を学んだと言ったでしょう。あなたは何のためにここにいると思っているの」
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「えっ、そうなのですか!、それを私に期待しているのですね」
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「異世界の出来事を調べて参考にするだけでは、後ろ向きで受け身です。そういう情報から、この世界をどうしていけばより進んだ世界になるかを考えることができるはず。そういう方程式を考えてちょうだい」
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「すみません、そのシミュレーションとは具体的にどうするのでしょうか?」
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「士官学校では軍隊の配置を将棋の駒のようにして兵棋演習というのをすると聞きます。もっとも将棋というものは元々戦争のシミュレーションだったとか。 とはいえ見た目とか方法にこだわらずに、諸要素を数値化して方程式を作り、計算結果を読む方法もあるでしょう。どんなことができるか清田さんが考えなくちゃ」 | ||
「わかりました」
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「先ほどの話ですが、その足りない技術を開発しないのですか? 10年後の飛行機を今作れるようにするための」
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「それはシミュレーションではできない。技術の要素をひとつひとつ開発していかなければならない。そのために私たちは汗水流しているのよ。 ウチの旦那はここんとこ顔を出してないけど、どこに行っているかご存じ? 神戸の川西飛行機に行ってるの。先日、中野さんから飛行艇の改良を言われたでしょう。でも飛行機の改良なんて簡単にできるわけはない。機体とかエンジンのような大きなものだけじゃなく、電線の絶縁材や油漏れを止めるパッキンやリベットやねじなど細かな部品まで、開発しなければならないことはたくさんある。今回は、それらを作れるように指導をしているわけ」 | ||
「えっ、旦那さんはそういうことをしているのですか?」
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「自慢じゃないけど、ウチの夫はすごいのよ。 みなさんへの期待だけど、異世界で完成した先進技術を活用するだけでは、それ以上にはなれない。そうじゃなくて、研究方法とか考え方などを学んで、私たちが全く新しい発明発見をしようという意識を持ってほしい。そういうことを後進に教えてほしいわね」 | ||
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11月某日● ● ● いつものお茶飲み会である。 | ||
「フロリダの銀行倒産の件ですが、その後いろいろ調べました。今までアメリカは景気が良くて
フロリダに住もうとか旅行に行こうとする人が多く、別荘地開発やホテル建設が盛んになっていて、それで土地の価格が異常に上がっていたのです。 タイフーンによってフロリダの人気がなくなり、そういった開発がすべて止まり更に土地の値段が下がったのです。それで銀行が潰れたんです」 | ||
「なんだっけ、物本来の価値よりも高い値付けされる意味の特別な言葉があった気がするんだけど」
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「バブルだと思いますよ。この場合、土地バブルがはじけたのですね」
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「そうだ、そうだ、バブルだ」
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「バブルってなんですか?」
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「バブルとは石鹸のような泡のこと。今までバブル崩壊と言われたことは何度もあった。300年前のオランダのチューリップバブル、200年くらい前には南海バブルとか」
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「チューリップバブルって面白いですね」
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「当事者にとっては面白くないと思うよ、ボクも本で読んだだけだけど、オランダは昔からチューリップなど花卉栽培が盛んなところだった。そこにオスマン帝国から新種のチューリップの球根が持ち込まれ珍しいものなので高値が付いた。それを転売あるいは増やせば儲かると思った人たちが、売買したのでドンドンと値上がりした。しかしあまりにも高い値段になり、そんなもの買う人はいないと気が付いて終わったわけだ。 バブルとは経済学で「実際の効用に基づく価値ではなく、他の人が買うだろうという期待に基づく価値 | ||
「するとフロリダでも土地は使うためじゃなくて売るために買われて、土地の値段が実質以上になっていて、タイフーンで買い手がなくなったために本来のあるべき値段になったということね」
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「そういうこと。大恐慌の本番では株式相場のバブルが破裂するんだ」
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「人間あまり欲を持たず地道に生きればいいのね」
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「そうかもしれないけど、ハイリスクハイリターンというように危険が大きければ儲けも大きい。危険を冒したくなければ郵便貯金でもするしかない | ||
「アメリカ人はお金儲けに積極的だから株式に出資するの?」
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「アハハハ、この国だって、米相場で破産した人は多い | ||
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12月某日● ● ● | ||
「幸子さん、最近のアメリカのニュースを聞いてます?」
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「えっ、何かありました?」
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「なんだか株式相場が暴落の気配ですよ」
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清田と堀川が幸子と伊関の周りに集まった。 | ||
「これが異世界でのウォール街のダウ式平均株価推移ですが、この世界の推移は・・・」
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「似てますね、高いところからちょっと落ちている動きが異世界のに似てます」
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「株価の推移のグラフを合わせると異世界とほとんど同じでしょう。これから少し上がり下がりがあって、ドカーンと下がるのかな?」
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「異世界では最高値が9月3日で暴落は10月24日、その間51日間。こちらで最高値はいつ?」
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「11月20日ですから暴落が51日目に起きるなら年明け早々の1月10日ですか」
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「いやはや、ありがたくないお年玉だ」
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「伊関さん、もう少し早く気が付かなかったかしら」
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「すみません、最高値であるとはそのときには分かりません。1週間から2週間経って、グラフの形から最高値だろうと気が付くわけで」
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「清田さん、他の指標はどうかしら?」
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「ダウ式平均株価のように直接的なものがなく・・・倒産件数などは月末しか分かりませんので何とも言えません」
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「年明けか・・・来年10月と考えていたのですが、予想より相当早そう」
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「中野さんに報告をするのでしょうか?」
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「清田さん、株価とそれ以外の指標の推移を紙一枚にまとめてちょうだい、10分で、 私は中野さんの予定を」 | ||
30分後、幸子は中野の部屋にいた。 | ||
「確かにカンナは1927年とは言ったが10月とは言わなかったな。だけど1月とは思いもしなかった」
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「とはいえ一刻を争うことでもなさそうです」
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「確かに、暴落と言っても株価が一瞬にして下がるわけではない。底値まで2年半かかったわけだ。 それに向こうの世界で高橋閣下が蔵相になるのは、大暴落後2年後だった。となると今年4月就任なら全然問題ないか」 | ||
「時期遅れの心配はなさそうです。金本位制復活の話はまだですし、現状では取り付け騒ぎの気配もありません」
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「よし、高橋閣下には情報を伝えておく。プロジェクトの方は継続してアメリカの状況の把握を頼む。もちろん欧州とアジア諸国もだ。 伊丹さん、来年の施策を時系列的にまとめてほしい。高橋さんに伝える資料だ」 |
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1926 Miami hurricane, Havana hurricane | ||
正直言って私には信用創造とバブルの違いが分からない。信用創造を超えた信用膨張をバブルの原因と記しているものもある(大和総研)。 ところが信用膨張も定義されていない。 | ||
注3 | ||
注4 |
米相場は江戸時代からあった。明治になったとき一時禁止されたが、すぐに解禁され満州事変や日中戦争の激化によって1939年に廃止された。 |