異世界審査員49.未来の歴史その2

18.01.08

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。

異世界審査員物語とは
駆け寄る軍人が持つ軍刀がギラリと光ったのを見て、固まっていた中野中佐と辻中佐はハット正気を取り戻した。二人は幸子を後ろに突き飛ばした。そして中野中佐はカバンを両手で体の前に持って構え、辻中佐は帽子をとってフリスビーのように持った。目つぶしに投げるつもりだろうか。
あと数歩というところまで走ってきた軍人は、突然躓いたようにばたっと倒れた。
中野中佐と辻中佐はうつ伏せになった軍人に駆け寄り、足で刀を持った腕を踏みつけた。男はグェと声を出して軍刀から手を離したので、辻中佐がそれを蹴飛ばした。
そこに若い将校が小走りにやって来た。


私が救ったんです
そういう目で見ないで
ください

石原莞爾
石原中尉である
石原莞爾
「間にあって良かった」
暴漢の手を押させつけていた辻中佐はその声を聞いて顔を向けると、駆け寄ってきた若い将校が、手にピストルを握っているのを見てギョッとした(注1)
その視線に気が付いてピストルをホルスターに納める。

上が南武14年式、下がモーゼル
上が南武14年式、下がモーゼル
青年将校の持っていたピストルは南部14年式をイメージしていた。しかし考えてみると南部14年式の制式採用は大正14年だから"14年式"のわけで、この物語は1914年頃だ。ブローニング1910も1910年の意味だから、まだ日本では少なかったろう。
とすると石原が持っていたのはバカでかいモーゼルだろうか?
モーゼルというと横山光輝の馬賊漫画「狼の星座」が頭に浮かぶ。今時、馬賊を知らない人も多いだろう。
私の母方の叔父が馬賊になると大口を叩いて満州に行ったが、すぐに逃げ帰って来たと聞いたことがある。その叔父は戦死したので会ったことはない。
石原莞爾
「そういう目で見ないでくださいよ。私がこの男を撃ったのです」

言われてしげしげと倒れた軍人を見ると、右足から血が流れている。緊張のあまり銃声が聞こえなかったのだろう。
その時になってようやく工廠の門から数人の警備兵が走ってくる。遅いんだよと中野中佐は内心思う。
警備兵が軍人をひき起こして手錠をかける。男が脚に怪我をしているのを見て担架を持ってきて工廠の警備室に運び込む。
そして幸子たち一行とピストルを撃った若い将校を、警備隊が事情聴取のために中に連れて行く。
幸子が負傷していないのを確認してから事情聴取があった。もちろん門衛が一部始終を見ていたから、幸子や中野中佐たちが疑われるわけはない。
ピストルを撃った若い将校は石原莞爾と名乗り、軍隊手帳を見せて身分を証明した。こちらも襲撃事件とは無関係なのは明らかだ(注2)
幸子はショックのあまり立つのも難しい様子で、辻中佐は警備兵に人力車で自宅まで護送するよう指示した。それから夫に連絡しようとしたが、この当時携帯電話があるわけではない。新世界技術事務所の工藤社長に電話で概要を話して、伊丹氏に伝えてほしいと頼んだ。
中野中佐は助けてくれた将校の官姓名を聞いた後、改めてお礼をすると言って別れた。

中野中佐と辻中佐は政策研究所に戻り、データベースを当たった。石原莞爾という名に聞き覚えがあり、なぜかすぐに調べなければいけないような気がしたのだ。
辻中佐は向こうの世界のデータベースを調べ、中野中佐はこちらの世界の資料を調べた。辻中佐の方が早くお目当てを見つけた。なにしろ日本側のデータベースは電子データになっているからパソコンにキーワードを打ち込めばあっという間だ。

辻中佐
「中野さん、向こうの世界の石原莞爾というのは、独断専行で満州事変を起こした張本人です。とはいえ今は25歳でまだ一介の陸軍中尉、会津の連隊にいるようです。これから陸軍大学に入り、ゆくゆくは中将までなります」
中野中佐
「こちらの世界でも秀才なようだ。士官学校を3番で出ている。もっとも頑固で酒もたばこも飲まず、付き合いにくいのは向こうの世界の石原莞爾と変わらないようだ。このたびは陸軍大学校の受験に上京して来て、たまたま通りかかったと思われる」
辻中佐
「成績を見れば陸軍大学校に軽く合格し、いずれ参謀本部勤務になるのは、こちらでも同じでしょうね。そしてやがて独断専行でとんでもないことをすると・・」
中野中佐
「将来の危険をつぶしておくなら、今回を機会に政策研究所に取り込んでしまおうか。奴の才能は部隊指揮官や参謀になるより、より大きな国家の政策立案が似合っているだろう」
辻中佐
「とはいえ、この世界では満州どころか朝鮮にさえ我々の支配が及んでいませんから、満州で戦争をしようとしてもできませんよ」
中野中佐
「オイオイ、安心できんよ、満州ではなく南洋や千島列島でやらかすかもしれん」


数日後、中野中佐は石原中尉を政策研究所に呼んだ。

中野中佐
「先日はありがとう。君は命の恩人だよ」
石原莞爾
「軍人として当然のことです」
中野中佐
「切りつけてきた将校は伊丹さん、我々と一緒にいた女性だが、女が政策研究所で講演や研究をしているのが気に入らなかったと言っていた。彼女の講演を聞いて女の話など聞いていられるかという気持ちになったらしい。女にも男にも優れた人もいるし、そうでない人もいるのは同じだよ。
もっともそれだけでなく処遇や仕事が不満で、それを伊丹さんにぶつけたんだろうなあ〜
ところで、どうして向こうを撃ったんだ。もしかして我々が悪人かもしれないよ」
石原莞爾
「無抵抗の人を切りつけるのが正義のはずがありません。それに仮にあなた方が悪人でも、階級が下を撃つ方がその逆より問題なさそうです」
中野中佐
「アハハハ、なるほどそりゃそうだ。
ところでここに来てもらったのはお礼をいうためだけではない。ここは政策研究所というのだが聞いたことがあるかね」
石原莞爾
「いや、ありません」
中野中佐
「そうか知らんか。まあ、あまり人口に膾炙しても困るのだが、
砲兵工廠の敷地内にあるが、それは保安上の理由からで陸軍の施設ではない。国家の将来あるべき姿を研究し、その実現の政策を立案する枢密院の下部機関だ」
石原莞爾
「国家の将来を考える研究所ですか。面白そうですね」
中野中佐
「そうか、面白そうか。ここで一緒に仕事をしてみないか」
石原莞爾
「お話を聞けば重大な機密のようです。単に危ないところを助けられたといっても、見ず知らずの人間をそう簡単に誘っても良いものでしょうか?」
中野中佐
「実を言って、先日の事件があってから君がどういう人物か調べさせてもらった。陸軍士官学校を3番で出たそうじゃないか。そして今回は陸軍大学校受験・・・秀才だね」
石原莞爾
「お調べになったなら、私が頑固者で扱いにくいこともご存じと思います」
中野中佐
「ここは協調性よりも独創性とか論理性を要求する職場だ。優秀なのは絶対条件だが、付き合いが悪いことは問題じゃない」
石原莞爾
「ご存じのように私は陸軍大学校の受験したところです。合格すれば今後3年間は学問をしなければなりません。お宅に来るのは3年後です」
中野中佐
「我々は明日からでも君に来てほしい。そもそも君はそれほど大学校に行きたくなかったやに聞いている。連隊長に命令されたから受験したそうじゃないか。
もしこちらの仕事に興味があれば出向という形で来てもらう。なあにこの研究所で成果を出せば軍人のままなら将官になれるだろうし、文官になっても勅任官は夢ではない。
陸軍大学校に行けば定年までに将官になれるだろうが、それより早い」
石原莞爾
「私は兵の指揮より作戦立案をしたいと考えていましたが、お話を聞くと、作戦よりも国の施策を考える仕事の方が面白そうですね」
中野中佐
「それならお互いの目標は一致したようだ。
辻中佐、向こうの世界の石原莞爾の生涯を見せてやってくれ。それと伊丹さんがまとめてくれた第一次大戦から第二次世界大戦までの近代史も」
石原莞爾
「向こうの世界とは何でしょうか?」
中野中佐
「今言った資料を読めば分かる。1時間もあれば読み終わる。
だが読んでからいろいろ考える時間が必要だろう。そうだなあ〜お昼を食べて午後にまた打ち合わせよう。もし君がここで働きたいというなら、私から陸軍人事局に異動発令を指示する。君の連隊長も政策研究所への異動なら文句を言わんさ。
しかし資料を読んだ結果、やはり陸軍大学校に行くと決めたなら、それでもよい。但しそのときは読んだものを一切忘れてもらう」

辻中佐が書架から厚さが薄めのファイルを2冊持ってきて二人の間に置く。

中野中佐
「そいじゃ私は会議があるので失礼する。辻中佐はこの部屋に残るから、なにかあれば辻中佐に話してくれ。面白い読み物だから期待していい」

中野中佐は部屋を出ていってしまった。辻中佐も自分の席に戻り、すぐさま書類を読んだり書いたり、電話したり誰かを呼びつけたりと忙しくしている。彼はこの部門の管理職らしい。中野中佐は辻中佐の上司のようだ。
石原はしょうがないなあというふうにファイルを1冊手に取りタイトルを見る。そこには石原莞爾の生涯とある。驚いてページを開くと目次があり、幼少時から、幼年学校、陸軍士官学校、軍務についてから死去するまで年代順に書いてある。最後のページをめくり、自分はいつ死ぬのかとみると、60歳で病死である。この時代としては決して若死にではない(注3)軍人が畳の上で死ぬのは幸せなのか、不幸せなのかとちょっと頭をひねる。だが若くして死ぬのではないので少し安心する。
後ろから数ページ前をめくると、最終階級はなんと中将である。俺もそんなに偉くなるのかとちょっとうれしい。とはいえこれはいったいなんだ、誰かが書いた物語なのか、冗談なのか?
初めに戻ってページを順にめくる。誕生から士官学校卒業、任官から今までは自分の生い立ちと全く同じである。そして陸軍大学校に合格し、なんと次席で卒業とある。これが本当なら将官になるのも同期でトップだろうし中将になるのもわかる。むしろ大将にならないのが不思議だ。
しかしなぜ将来のことが過去の記録となっているのか?
ふざけた話だと思いつつ石原は興味を持って読み続ける。

おかしなことがいろいろある。ロシアとの戦争はやっとのことで講和に持ち込んだだけで、我が国は中国大陸に領地も権益もない。しかしこの資料ではロシアに勝ち、朝鮮を1910年に併合し、更に南満州を実質的に支配している。空想物語と思いつつ、読んでいてワクワクしてくるではないか。
そして今から16年後、自分は41歳で満州の関東軍主任参謀として赴任する。そこからがすごい。その2年後1930年、よく言えば大活躍、悪く言えば独断専行で関東軍を動かして我が国の3倍も面積がある満州全土を制圧してしまう。
自分はそういう大仕事をするのか、中野中佐の誘いを断り陸軍大学校に進むのが正解かなと思いつつページをめくる。

1936年、石原47歳の時226事件というクーデターが起きる。そのとき参謀本部の課長となっていた石原はクーデターを鎮圧する。参謀本部の課長とは偉くなったものだと思うとともに、その行動は自分が満州でした独断専行と矛盾している気がする。これは天皇陛下も同じで、石原の性格・行動の二重性を疑問視したとある。
ちょっと待てよ、天皇陛下とはなんだ? 皇帝陛下ではないのか?

更にページをめくると後年、後輩たちが内モンゴルまで手に入れようと戦線拡大を図るのを止めようとするが、満州での石原の行動をあげて相手にされない。紆余曲折があり、石原は左遷される。
注:
内モンゴルとはモンゴルの南から東にかけて接する地域で、現在中国領土であるが元はモンゴルの一部である。中国による民族浄化(中国民族以外を虐殺)が行われており、人権問題、民族自決も含めて火薬庫となっている。
その後「世界最終戦争」という本を書いている。表題が気になる。できるなら読んでみたい。
1941年に大東亜戦争(注4)に突入するのだが、戦争が始まる前に陸軍内の権力争いに敗れ予備役となる。大将になれなかったのはこのためかと納得する。
その後、つてを頼り大学講師になるも病を得て辞め、故郷に帰り療養の日々を送る。権力を失い過去の人となった石原と大東亜戦争との関りは、病床で読む新聞だけである。晩年は幸せではなさそうだ。
そして驚くことに日本という国、待ってくれ、なぜ扶桑国ではないのだ? 日本は1945年、つまり今から30年後に戦争に負けて武装も持てない国になってしまう。自国を守れないのは独立国ではないじゃないか?
石原は戦後も生き続けて東京裁判に召喚される。とはいえ戦争に関わっていない人に戦争責任はない。呼び出された石原は「俺が東条の代わりに指揮を執っていたら戦争に勝っていた」と啖呵を切ったとか。その後まもなく病気で没する。

資料に書かれた石原が自分自身なのかどうかわからないが、その人物一代の行動、言動を読んで腹の底から笑った。波乱万丈、やりたい放題、まさに風雲児、男冥利に尽きるじゃないか。この生涯を実際にたどるのも面白そうだ。
しかしと考える。いっときは栄誉を極めても、最終的に地位を失うだけでなく、自分の成果すべてが無に帰してしまうとは悲しいことだ。

石原は頭を振って歴史という二冊目のファイルを開く。
こちらはまたものすごいことが書いてある。まもなく世界的な戦争がはじまるとある。そして戦争の起承転結があたかも事実のように記述されている。
確かに石原も最近の新聞や軍内部の情報から、列強間で緊張が高まっているのは知っている。いつか戦争になるのは間違いない。だがはっきりと今年の7月28日と書いてあるのはどうだ!
それに今まで戦争と言えば、せいぜい1年、長くても2年というのが普通だ。ところがそこに書いてある戦争は足掛け5年も続く大戦争だ。戦いの主役は小銃ではなく、大砲である。そして飛行機、戦車、潜水艦、毒ガスなど新兵器が続々登場する。どんな戦争になるのか、石原には想像もつかない。
第一次大戦のときの戦闘機
第一次大戦の戦闘機

いや待てよ、さっき読んだ石原莞爾が采配を振るった満州事変でも飛行機と戦車が使われていた。だが満州事変は今から15年も後のこと、資料によると第一次大戦は今年勃発だ。扶桑国に戦車や飛行機はあるのだろうかと心配する。
第一次大戦で日本は戦勝国となり南洋での権益を確保する。しかしその後の世界的な大恐慌、また日本国内の冷害・凶作・不況によって経済が混乱していく。
自分史にでてきた226事件の前に515事件というクーデターが起きる。なぜ自分史には出てこなかったのだろう。そのとき自分が何をしていたのかとさっきのファイルで探すと、そのときは満州で参謀をしていて、このクーデターには蜂起側にも鎮圧側にも縁がなかったようだ。そしてその後すぐに渡欧してしまう。

1941年にアメリカを相手に大東亜戦争を始めて最初の1年はなんとかなったものの、それ以降は B29 東南アジアでも太平洋でも中国大陸でも良いことはなく、じり貧になるばかり・・・
やがてアメリカ軍の飛行機が本土を爆撃するようになり、大都市の多くは焼け野原だ。そして最後に原子爆弾という想像もつかない強烈な爆弾が落とされる。
帝室ならぬ皇室が残っただけでも良いと思わなければならない。
読み終わると石原は立ち上がり背伸びをした。それに気が付いた女性事務員がお茶を持ってきてくれた。

お茶を飲みながらいろいろ考える。しかし心ここにあらざり、考えはまとまらず彷徨うばかりだ。
まず自分の将来を書いたものは一体なんだろう? 現時点までは自分の過去と全く同じだ。いや、こまかいところがあちこち違う。陸軍士官学校卒業は3番ではなかった。成績は確かに3番だったが、自分が頑固で教員と折り合い悪く順位は6番だった。まあ多少は情報が不正確なところもあるのかもしれない。それとも資料の中の石原莞爾は自分とは違う人なのだろうか?
これから起きる戦争とかこの国の将来は本当のことなのか?
まさか夢で見たとか空想を書いたものではないだろう。妄想にしてはあまりにも具体的だ。戦死者数、負傷者数、行方不明者数、そういうことまで事細かく妄想できるものだろうか?
それに戦争で使われる兵器、戦術、それらの描写があまりにも現実感がある。
第一次大戦の戦車 戦車、飛行船、飛行機、毒ガス、戦いの様相は今までと全く変貌している。陸軍士官学校でならった戦術はもう役に立たないのではないか。もちろん戦闘教義の基本は変わらないだろうが、兵器が異なれば戦術も変わる。要塞や騎兵は完全に時代遅れだ。これからは人馬ではなく機械化部隊でなければならない。
それにしても驚いた。1916年のヴェルダンの戦い(battle of verdun)では1,200門の大砲が一日中連続射撃して、その弾薬を運ぶために12,000台のトラックが数珠つなぎに走ったという情景を、石原は想像できなかった。我が国のトラック全部を集めても1万台はないだろう。
203高地で28センチ榴弾砲18門が撃った弾は16,940発と習った。それを聞いたときその数字に驚いたが、ヴェルダンではそれより二桁多い。ヴェルダンの戦場は山手線内の半分にも満たない。山手線内の面積が60km2くらいだから、仮に30km2とすれば1ヘクタールに砲弾70発撃ち込まれた計算になり、12メートルの升目ごとに砲弾が落ちたということだ。まるで大砲の弾で耕したようなものだ。信じられない。
大砲が1回の戦闘で命数に達したなんてことが過去あっただろうか。
命数とは大砲の砲身を代えずに撃てる弾丸の数。砲身の寿命である。
ドイツ軍も押したり引いたり、作戦が一貫していない。指揮官が移り気なのか、参謀の頭が悪いのか・・
この戦いで、両軍合わせて戦死者・行方不明が26万人を超えた。
もし石原が戦争小説を書くならば、士官は頭が切れ兵士は勇敢に書くだろう。しかしこの戦いのような小説を書いたら、著者は戦争を知らない素人と言われるのがオチだ。
そういう戦いは何度も繰り返された。4か月後のソンムの戦いで、イギリス軍は塹壕とか匍匐前進など考えもせず、ピクニックのように敵の面前を行進して機関銃の斉射を受け、一日で2万人も戦死者を出している。
だがと石原は思う、実際の戦場はそんなものだろう。参謀が素晴らしい作戦をたて、士官が見とれるような采配を振り、勇敢な兵士が活躍するなんてことがあるはずがない。上から下まで右往左往、混乱するのが現実だ。
しかし一日で何万人も戦死とは想像を絶する。ロシアとの戦争で戦死者が全部で88,000人、203高地だけで16,000人ともいわれているが、第一次大戦では兵士だけで戦死・行方不明は1,700万人もなる(注5)4年半の戦争期間中、毎日1万人の戦死者がいた計算になる。乃木将軍の203高地がかすんでしまう。1,700万人の戦死者とは軍人である石原も震えがくる。
自分がドイツ軍の参謀とか将軍ならもっとうまくやれるものだろうか?
いやいや、俺も人間だよ、戦争にならないように努めたい。

石原は肩を叩かれてハット気が付いた。いったいどうしたのだろうか。居眠りをしていたのだろうか?

辻中佐
「石原君、声をかけたのだが返事がなかった。だいぶ考え事をしていたようだ。もうお昼だから、食堂に食べに行こう」
石原莞爾
「あっ、すみません。どうかしていました」
辻中佐
「内容が内容だから驚いたろう。食堂では資料の話はだめだよ」
石原莞爾
「承知しました」

士官食堂かと思ったら、将官は見なかったが佐官・尉官から一般事務員まで一緒だった。どうなっているのだと思いながら昼飯を食べる。

辻中佐
「士官と下士官、一般事務員が一緒に食べているから驚きましたか?」
石原莞爾
「実を言いましてそうです」
辻中佐
「ここで仕事をしている人たちは、若い人も女性もみな士官の待遇を受けているんだ。それだけの能力がないと務まらない。だから上下をつけないようにしている」
石原莞爾
「士官? あの若い男の子も、あの女性もですか?」
辻中佐
「実際に階級とか官等を持っているわけではない。そう遇されているということだ。
最新式の計算機を操ることができる人の処遇は尉官級であるべきとか、国際関係の高度な分析ができる人は佐官級、国家のフレームワークを提案できる人は将官の価値があると我々は考えている」
注:
官等(かんとう)とは官吏の階級で親任官・勅任官・奏任官・判任官に分かれていた。戦後、官吏が公務員に代わったとき判任官は初級公務員にスライドしたと記憶している。定かではないのでご存じなら教えてください。
石原莞爾
「計算機とはなんですか?」
鶏の空揚げ
辻中佐
「そのうち目にするだろう。おっと段々と話の内容が危なくなってきた。料理は気に入ったかね?」
石原莞爾
「美味しいです。このようなものを食べたのは初めてです」
辻中佐
「今日のメインは鶏の空揚げといって発祥が1932年とも1945年とも説があり定かではないが、いずれにしても今の時代にはなかったものだ」
石原莞爾
「どういう話をしても、そこに至ってしまいますね」
辻中佐
「アハハハハ、では食べ終えたなら戻ろうか。あの部屋なら何を話しても良いからね」

部屋に戻ると中野中佐がいる。

辻中佐
「中野さん、お食事は済ませたのですか?」
中野中佐
「ああ、伊丹さんのご主人が先だっての奥様のお礼に見えた。それで一緒に応接室でとった。奥様は今ご自宅で静養されているとのこと。相当ショックを受けたようだ。確かにもう少しで狂刃に斃れるところだったのだからね。
おお、石原君にもお礼を言ってもらわなければならなかったね。申し訳ないが帰ってしまった。次回お見えになったら挨拶してもらおう」
石原莞爾
「伊丹さんとおっしゃると、あの女性の旦那さんですか?」
中野中佐
「そうだ、元々我々は旦那に仕事を依頼していたのだが、あまりにも仕事量が多く奥さんに手伝ってもらうようになり、今では頭を使うことは奥さんに、ご主人には手足を動かすほうをしてもらっている」
石原莞爾
「私は男尊女卑ではないつもりですが、その伊丹さんの奥さんは優秀なんでしょうか?」
ちなみに: 1960年代私が高卒で入社したとき、我々新卒男子5名・女性5名を前にして人事課長が「女性は職場を和やかにするために採用した」と語った。私たちもその言葉をおかしいと感じなかった。当時はそういう考えが世間一般に通用したということである。
時代が大正初期であれば、男尊女卑など考えるまでもなかったに違いない。

中野中佐
「優秀だね。陸軍士官学校や海軍兵学校に入れる頭脳はある。もっとも体力は伴わないだろうけど」
石原莞爾
「旦那さんは何をされているのですか?」
中野中佐
「技術者だよ。彼の夢はこの国のものづくりの水準をあげることだ」
石原莞爾
「ものづくりの水準を上げることですか? 重要な仕事とは思えませんが」
中野中佐
「君が考える兵力とは何かね、」
石原莞爾
「兵力ですか? 優れた武器と訓練された兵士でしょう」
中野中佐
「でもその兵器を作る工場とか、兵士に食べさせる食糧を作るとか、兵士を運ぶ船や汽車とかが必要だろう」
石原莞爾
「工場と田畑と輸送船があっても戦争には勝てません」
中野中佐
「そうかな? 兵器と兵士があっても、弾薬が尽きたらどうする、兵士が戦場に着かなかったら」
石原莞爾
「それが兵力ですか?」
中野中佐
「伊丹さんの論は、農業、工業、輸送を含む商業を発展させれば必然的に国力が大きくなる。それが兵力そのものであるという」
石原莞爾
「うーん」

そういえばと石原は先ほど読んだ資料を思い出す。日米の飛行機や軍艦その他兵器を考えると、そもそも性能が違う。それと表面的な数字だけでなく、油漏れとか故障とか信頼性に大きな差があったと書いてある。それはすべて技術の差だろう。
それに当時のアメリカとこちらの生活水準が段違いだ。豊かな生活をしている方が戦争に強いことはないだろうが、タイプライター、ミシン、ラジオ、自動車といったものを日常使っている人は、複雑な機械や兵器をすぐに使えるようになるだろう。
もちろんそれらを製造している工場や技術者も多いだろうし、そういったものがすぐに兵器生産に移れるだろう。それが国力の違いだなと石原は思う。

F4F戦闘機
グラマンF4F
零式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機32型
辻中佐
「石原君は新式の自動銃を見たかね?」
石原莞爾
「我が連隊にも少し前に数百丁配備されました。私も撃ってみましたが、すごいですね。全員に行きわたるのが待ち遠しいです」
辻中佐
「あれを開発したのは有名な南武少佐だが、実は伊丹さん、旦那の方だが、南武少佐からこれからの小銃はどうあるべきかと相談 新式自動小銃 されて、必要な要件とそれを実現するアイデアを教えたという。
それだけでなく伊丹さんは、南武少佐が設計したものを量産するための生産技術を構築した。伊丹さんがいなければあの自動小銃はなかった」
石原莞爾、ほんとうですか!
辻中佐
「直接 南武少佐に聞いたが、否定しなかったね」
中野中佐
「あの銃のすごいところはなんだと思う?」
石原莞爾
「やはり連射ができることですかね。有効射程は前より短くなったそうですが、実際に撃ってみて違いは感じませんでした」
中野中佐
「私が考えているすごいところはそうではない。あの銃は何丁もバラして部品をごちゃまぜにして、どの部品で組み立てても動作する。そういうのを互換性というそうだ」
石原莞爾
「ほう!そういうことをしたことはありませんでした。38式歩兵銃は、ばらしたもの同士を組み合わせないとなりませんから、そういうものだと思っていました」
中野中佐
「これからの戦争では武器が手作りとか、故障で部品を交換したら動かないようでは使い物にならない。
互換性のあるものを作るには、今までの作り方ではダメだ。精度の良い機械、標準化された部品、一定水準の技能を持つ職工、そういうものを揃えないとできない。
伊丹さんがいなければ、いくら南武少佐が素晴らしい設計をしてもものが出来なかったろうね」
石原莞爾
「おっしゃることが分かりました。工業を発展させるとは、単に工場がたくさんあるとか生産量が多いということではないのですね」
中野中佐
「そういうことだ。基礎をしっかりすること、そして標準化され互換性のある部品を作れる体制が必要だ。工場だけでなく、農業も商業その他もそういう仕組みを確立し全体的に進歩していけばすごい国になるだろう」
石原莞爾
「我々が頑張れば、今日拝見した歴史でなく、この国が主役になれる歴史を築くことができますか?」
中野中佐
「分からない。だが何もしなければ何も変わらない。我々の努力に意味があるはずだ。とはいえむやみに汗を流せばいいというわけではない。その目標と手段を考えるのがこの政策研究所だ」
石原莞爾
「中野中佐殿、ぜひここで働かせてください」

うそ800 本日のお断り
石原莞爾のお名前を岩原とかに変えようかと思いましたが、まあどうでもいいだろうとそのままにしました。いずれにしても私の妄想でございます。

<<前の話 次の話>>目次


注1
当時は軍人だけでなく一般人も、許可を受ければ拳銃を所持できた。もちろん刀の所持も合法である。
ちなみに秀吉の刀狩りは、武士以外が刀を持ってはいけないというものではない。本質は兵農分離である。
江戸時代でも、町民は刀を所有することはできたし、所有するだけでなく刃渡り1尺8寸(2尺の説もあり)以下の刀なら佩いてもよかった。旅に出る時に町人も佩いた道中差しはこの長さ以下だ。博徒はそれ以上の長さのものを長脇差と称して佩いた。
く」とは刀を腰に差すこと。
但し鉄砲は百姓の持ち物ではなく、領主から百姓に貸し出す形であった。貸し出し期間が通年のものもあり、狩猟期に限られるものもあった。
「物騒でない鉄砲の話〜江戸時代から現代まで〜」平尾直樹、2015
「百姓」とは農民だけではなく、武士や僧侶以外を言う。
江戸時代の鉄砲について大学の公開講座を聴講したことがある。ほとんど忘れてしまったが、先生が「江戸時代、鉄砲は武器ではなく鍬と同じ農機具扱いだった」と言ったのを覚えている。
明治に出された廃刀令とは「軍人や警察官などが制服を着用しているとき以外に刀を身に付けることを禁じる」ものである。軍人や元武家に限らず、商店や農家でも旧家には刀や槍があるのは普通だった。
ブローニング1910
ブローニング1910
最終的に一般人から刀を取り上げたのは、第二次世界大戦後の占領軍である、このときは徹底的に没収され、その数40万と言われている。
もちろんそれでも多くの人が先祖伝来のものや戦争から持ち帰ったものを、秘蔵していたのはいうまでもない。
私の家にもオヤジの軍刀があった。1965年頃、もう隠しておいてはまずいだろうとオヤジが言い出して、知り合いの自動車修理屋にいって刀身を10センチくらいに細切れにしてしまった。惜しいと思ったがしかたがない。
中学の友達の家には父親が持ち帰ったブローニング1910があった。触らしてもらったこともあるが錆ついて動かなかった。1962年頃だ、まあそんな時代もあったのだ。

注2
石原莞爾については下記を参考した。
「小説石原莞爾 英雄の魂」、阿部牧夫、祥伝社、2001
現実と齟齬があってもこのお話がフィクションということでお許しください。
実は阿部牧夫がポルノ小説の阿部牧夫と同一人物とは知らなかった。

注3
大正初期の日本人の平均寿命は44歳くらいだ。とはいえ、20歳まで生きればほとんどは60歳まで生きられた。
生命表年齢別平均余命の推移(明治24年〜平成24年)

注4
真珠湾攻撃に始まる戦争を「大東亜戦争(Greater East Asia War)」と日本では呼んだ。
終戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が「大東亜戦争」と呼ぶことを禁止し、「太平洋戦争(Pacific War)」と呼ぶことを命じた。
「第二次世界大戦(World War II)」はドイツ・日本など枢軸国とアメリカ・イギリスなど連合国との、1939年から1945年までの世界各地の戦争を総称するもの。第二次大戦で欧州の戦いを一般に「欧州戦線(World War II in Europe)」と呼ぶ。
その伝なら日本の戦いは「World War II in Asia」か 「World War II in Pacific」と呼ぶべきだろう。実際に英語のgoogle検索ではそういう表記はメジャーだ。日本語で「太平洋戦線」という表現はまれに見るが、「アジア戦線」という表現は「東アジア反日武装戦線」という1970年代のサヨクテロ組織を意味することが通例で、第二次大戦の意味では見たことがない。

注5
戦死者・行方不明者の数はウィキペディアによる。書籍によって違い『「第一次世界大戦」木村靖二、ちくま新書、2014』では1,000万となっている。
ちなみに第二次世界大戦での戦死者(含戦病死者)は2,600万人である。一般市民を含めればその3倍はいくだろう。
日本の戦死者、戦災の犠牲者の数に驚いてはいけない。多くて当然とは言わないが、日本の戦死者、戦争犠牲者は欧州のそれに比べたらはるかに少ないということだ。
日露戦争の時、欧州の観戦士官は203高地の死者を多いとは考えなかった。あの高地を取るには16,000人の戦死者は妥当なところだったのだ。
原爆の死者はものすごいが、欧州での爆撃とかユダヤ人のホロコーストに比べたら桁違いに少ない。なお、ユダヤ人のホロコースト犠牲者数は長らく600万とされてきたが、後に400万に改められ、現在「アウシュヴィッツ記念碑」の銘板は「150万人」となっている。ネットをググると現在多くの所では、100万人以上と記述している。研究が進んで減ってはきたが、多いことは間違いない。
東京大空襲での犠牲者は116,000人と言われるが、ドレスデン爆撃では150,000人が犠牲になった。
時代が違うが1年半にわたる戊辰戦争の戦死者は8,420人、同時期の3日間の「ゲティスバーグの戦い」の戦死者は7,863人、殺人集団と思われている新撰組が5年間で暗殺したのは30人、同時期にビリー・ザ・キッドが4年間に殺したのが21人だった。日本がいかに平和であったかということだ。
毛沢東が1957年社会主義陣営の首脳会議で「戦争で半分が死んでも3億人残るから構わない」と演説したのは有名な話だ。彼の行った文化大革命で殺された人は4,000万とも4,500万とも言われる。マスデス(大量死)が身近な人たちと交渉したり戦ったりするのだから、我々もそれなりの知識と覚悟がいる。


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