異世界審査員69.酒宴その2

18.03.22

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。

異世界審査員物語とは
伊丹です、よろしく
このお話が何回続く
か心配です。
せめて20回くらい
続いてほしい
この物語(?)を始めたとき主人公の伊丹が、20回くらいは続いてほしいと心配していました。
ところがそんな心配はどこへやら、今回で69話、なんと審査員物語の68話を超えました。
ひょっとしてマネジメントシステム物語の87話を超えるかもしれません。でもケーススタディの170話を超えるのは無理でしょう。もっともケーススタディは書いた時期が4年と長いですからね。
ちなみに「異世界審査員」の1話は7,000字から11,000字、平均9,000字として69話ですと62万字、一般的には原稿用紙300枚(12万字)以上を長編というそうですから、もう長編どころか超長編小説を名乗る資格がありそうです。

タイトル連載期間連載日数回数平均間隔
ケーススタディ09.10.12〜13.10.161465日170話8.6日
マネジメントシステム物語13.10.20〜14.09.20335日87話3.8日
審査員物語14.10.30〜16.02.29487日68話7.1日
異世界審査員(69話まで)17.06.19〜18.03.22276日69話4.0日

過去のものを振り返ってみると、アップするペースがずいぶんと違います。ケーススタディを書いていたのは現役時代ですからスローペースだったのは当然ですし、審査員物語を書いた時はISO規格改定時期で改定について解説(怪説)と交互に書いていました。だから週1ペースだったのでしょう。今回はマネジメントシステム物語と同じくひたすら週2のペースで書いています。
あっ、いずれにしてもバカバカしいお話で相すみません。
枡酒 まあ、とりあえず一山超えたということで、本日は祝杯を・・

年が明けて1919年1月となった。スペイン風邪もなんとか収まり、扶桑国に平穏が戻りつつある。
お正月 欧州では戦争が終わったが、まだ混乱が続き食料不足も収まっていない。そして終戦の影響はまだ扶桑国には及んでいない。今まで欧州の戦乱により欧州製品の代わりに、扶桑国の繊維製品や軽工業製品が各国に輸出されていた。これから欧州が復興するに伴って、QCD(品質・価格・納期)に劣る扶桑国製品の輸出が大打撃を受けることになる。だが今は実業家も一般国民もまだそんなことに思い至らず、好景気はこれからも続くと思っている。
一方、政策研究所のメンバーは先々を思うと心中穏やかではない。輸出が止まり戦後不況になるだけではない、スペイン風邪は次の冬にまた大流行する、4年後には関東大震災が起きる、そして世界中で第一次大戦で現れた新兵器を基に開発競争が始まる。すべて国家を揺るがすレベルの問題であり、お金がかかることばかり。
とはいえ第一次大戦とスペイン風邪を乗り切って、幸子たちもホッと一息というのも事実である。

お正月明け、幸子は中野中佐に呼ばれた。

幸子
「何でございましょう?」
中野中佐
「ときどきお宅にお邪魔してごちそうになっているじゃない」

もう2年くらい前になるだろうか、高橋大蔵大臣と中野中佐が伊丹邸に飲みに来た。お二人とも伊丹邸で出された酒と料理がいたく気に入ったようで、それ以降「料亭さちこ」と呼んで二月か三月に一度の割で飲みに来ている。高橋大臣や中野中佐にとって、伊丹と幸子との知的で新情報盛りだくさんな会話と美味い料理は、その辺の料亭や芸者に期待できるものではなかった。
食事も飲み物も伊丹持ちだが、こちらの世界では高額所得者である伊丹夫妻には気にもならない。飲んで話をするのを、伊丹も幸子も楽しみにしている。

幸子
「ああ、次回のご予約ですか?」
中野中佐
「予約か、まさに料亭さちこだなあ〜、ハハハ
実はさ、もう半年も前になるけど帝太子が日本で治療を受けたよね。それからインフルエンザ対策などでてんやわんやが続いてなにもしていなかったのだけど、一段落ついたから帝太子が小沢医師にお礼に一席を設けたいというんだ」
幸子
「はあ〜、それは分かりますが、なぜ我が家で?」
中野中佐
「まあ料亭でとなれば簡単だけど、いやしくも帝太子となればそのへんの料亭というわけにはいかない。とはいえ迎賓館を使うことでもないし、お宅が頭に浮かんだのよ」
幸子
「分かりました。いつ頃で何名様でしょうか?」
中野中佐
「ええと出席は帝太子殿下、高橋大臣、それから牧野さんって知ってるかな?」
幸子
「苗字だけでは判りかねます」
中野中佐
「牧野伸顕(のぶあき)というのだが」
幸子
「えっ、少し前まで文部大臣だった方じゃないですか」
中野中佐
「そうそう、けっこう大物だ。それと小沢先生と奥方と娘さん、おっとそれに私だ。都合7名」
幸子
「ようございます。私の方は場所をお貸しして料理と酒を用意すればよいのですね?」
中野中佐
「実は小沢先生へのお礼というのも事実なのだが、間もなく始まるパリ講和会議にあたり、我が国のスタンスについて話を聞かせてほしいということだ」
幸子
「それは・・・・どういうことでしょう?」
中野中佐
「帝太子が伊丹さんと旦那さんと話したいという。本来なら小沢先生とは別個に設定すべきだが、帝太子は多忙だし、出歩くのも簡単じゃない。と、まあそういうわけで料亭さちこを予約したい」
幸子
「是非はありません。料理はどうしましょう。高橋閣下は庶民的な方ですから今まで私が勝手に決めてましたが、帝太子殿下となると下手なものは出せません」
中野中佐
「いつも通りでいいよ。ただ警備は今までより厳重にする。それは了解しておいてください。それとみなさん車で行く予定だが4台くらい停める場所はあるよね」


幸子はその夜、夕飯を食べながら伊丹に伝える。

伊丹
「一生に一度くらい雲の上の人と飲むのも面白いじゃないか。とはいえパリ講和会議なんて俺にはわからないよ」
幸子
「私も知りませんよ、まあ成り行きでいいんじゃないですか」
伊丹
「そうだね、向こうから言ってきたことだから気にしないか、アハハハ」


当日の午後、幸子は千葉の事務所に小沢医師を迎えに行く。
事務所の鍵は小沢医師も持っており、中に入って待っていた。しかし小沢とさくらの二人だけだ。
奥方は帝太子殿下と聞いて、気後れして欠席だという。その気持ちは幸子も同じだ。ただ幸子は高橋閣下と付き合いがあったから少しは気楽だ。
T型フォード ともかく二人を連れて政策研究所に現れる。

待機していた中野中佐と外に出ると、T型フォードと運転手が待っていた。T型フォードは大衆車だが、扶桑国では大金持ちから小金持ちまでこれが大流行だ。ここでは車そのものがスティタスシンボルだからなんでもいいのだろう。

さくら
「うわー、可愛いクラッシックカーねえ〜」
小沢医師
「変なことを言っちゃいかん。ここでは最新型だ」
さくら
「へえ、そうなの」

本来は4人乗りなのだろうが、後部座席になんとか3人座る。
非舗装の道を20分ほど走って伊丹邸に着く。この世界に来て7年になるが、自動車に乗ったのは初めてだと幸子は降りてから気がついた。
伊丹邸に着いたのはまだ開催予定の2時間前だ。幸子がすることはないが、準備状況や周囲の安全確認は女将の責任だ。
いつもは座敷なのだが、今日はあまり崩れてはいけないとテーブルにしてはどうかと中野中佐に提案すると、いや座った方が気楽だと言われて急遽いつもの和室に変更する。ついでにみんな浴衣にしようなどと言い出す。そこまではと幸子が止める。
それから中野中佐は幸子と庭と屋敷の周囲を一巡する。一個小隊ほどの憲兵が警備している。

気が付くとさくらが後を付いてきていた。

さくら
「すごいお屋敷ですね、伊丹さんてお金持ちなんだ」
幸子
「お金持ちじゃありませんよ。まじめに働いているだけです」
さくら
「私、再来年大学受験なの。こちらの大学に通いたいなあ〜」
幸子
「こちらはまだ男尊女卑社会ですから女が大学なんて行けません」
さくら
「ええ、そうなの? じゃあ女性はどうするの?」
幸子
「庶民は尋常小学校を出たら働くか花嫁修業、お金持ちは女学校までいって花嫁修業(注1)
あまり勉強してもそれを生かす場所がないの。せいぜい師範学校を出て先生になるくらいかな」
さくら
「うーん、それは辛いわね」
中野中佐
「お嬢さんは何になりたいのかな? どんな勉強をしたいのですか?」
さくら
「研究者です。理学部に入って物理を研究したいです」
中野中佐
「向こうの知識をもってこちらで論文を出せば、ノーベル賞なんて蠅取り紙で蠅を取るようなもんだろう(注2)
幸子
「いくらなんでもそれはいかさまでしょう」
中野中佐
「我々のしていることはまさにそれだよ」

憲兵士官がやってきて中野中佐に敬礼して話しかける。

憲兵
「まもなく殿下到着とのことです」
中野中佐
「了解しました。それじゃ門前でお迎えしましょうか」

門の前に中野中佐を中心に、伊丹夫婦、小沢親子、女中が並んで待ち構える。
3台の自動車がやって来た。1・2年前なら馬車できたのだろう。まさか帝族が人力車というのはないだろう。軍人なら馬に乗って来たかもしれない。

全員揃ったところで和室に入る。席順は中野中佐と相談したが、序列がつかないように部屋の中央に四角いテーブルを置き、各辺に2名ずつ座った。まあ、四角い円卓会議だ。
帝太子
帝太子
牧野全権大使
牧野全権大使

小沢医師
小沢医師

高橋大臣
高橋是清

さくら
さくら

中野中佐
中野中佐

伊丹
伊丹

幸子
幸子

挨拶、自己紹介に続いて帝太子から小沢医師へのお礼、伊丹への長年の支援に対する感謝があり、後は食べて酒を飲みながら話をする。

高橋是清
「小沢先生、向こうの日本ではインフルエンザで40万人が亡くなったそうですが、こちらは5万でした。1割ちょっとで済んだとは相当な成果ということですかな?」
小沢医師
「日本では流行が1918年末、19年末、20年末の3年間で3度ありました。その合計が38万から48万と言われています。
扶桑国の今回の流行の犠牲者は5万でしたが、来年、再来年と流行するでしょうから、それらを合わせるとこちらでも8万くらいになるでしょう。無責任に聞こえるかもしれませんが、次回の流行も犠牲者ゼロにはできないと思います。
我々の世界でもインフルエンザは恐ろしい病気で、完全な対策はありません」
高橋是清
「10年前のロシアとの戦争では9万人の戦死者が出たが、今年のインフルエンザの死者はその半分だ。もし向こうの世界と同じく、この5倍もの犠牲者が出ていたら国内は恐慌をきたしただろう」
帝太子
「欧州の大戦が収まったのもインフルエンザの影響だそうですね」
中野中佐
「欧州は戦争のために食料不足で栄養状態が悪く、戦場では塹壕の環境も悪く、兵士も市民も体力が落ちていたこともあるでしょうね」
小沢医師
「おっしゃる通りです。欧州の死亡率は日本より高かったです。
ご存じと思いますが、人間の寿命というのは大昔も今も変わっていません。健康な人なら昔から60過ぎまでは生きます。ところがですよ、織田信長は人生僅か50年と敦盛を謡いましたが、実は当時の平均寿命は30半ばだったと言われています。今この国の平均寿命は42歳くらいです(注3)
帝太子
「えっ、42歳。そんな・・・ほとんどの人は60まで生きるのではないか?」
小沢医師
「一旦成人してしまうと普通は60までは生きます。問題は乳幼児の死亡が多いのです。一人が80歳まで生きても一人が誕生前に死んでしまえば、平均すると40歳になってしまいます」
帝太子
「ああ、そういうことか。確かにこの国は乳幼児や子供の死亡が多い。食い物がいいはずの帝族だって乳幼児の死亡は多い」
小沢医師
「先進国になると平均寿命は長くなります。扶桑国の平均寿命より、イギリスは6歳、アメリカは5歳くらい長(注4)しかし長生きするわけではありません。子供のとき死ぬ人が少ないということです」
帝太子
「なるほど、乳幼児や成人前に亡くなってしまうのは、本人にもご家族にも無念であるのはもちろん、国家の損失だ。小沢先生、乳幼児死亡を減らすにはどうしたらいいのですか」
小沢医師
「医学が進歩すると寿命が伸びると思われていますが、実際には医学より重要なことがみっつあります。それは栄養、清潔、衣服です。衣服には住宅とか暖房も入ります」
帝太子
「うーむ、医学より重要と聞いて驚きましたが、なるほどいずれも納得です」
小沢医師
「最低限、飢饉を防止する、天候不順で不作になったらコメを輸入してでも国民に食を与えることです。清潔はまずは躾と教育ですね。そして上水道とごみ処理の仕組みを整える。ゆくゆくは下水道を整備しなければなりません。衣類は国民が豊かになればしぜんと良くなります」
幸子
「子供が皆元気に育てば大勢の子供を産まないようになり、二三人の子供を大事に育て教育を与えることができるようになります。といっても大人になる数は一緒です」
高橋是清
「なるほど、そしてそういう暮らしができるようにするのが政治の役目ですな」
牧野全権大使
「小沢先生、未来においては多くの病気は撲滅されているのか?」
小沢医師
「もちろん天然痘は撲滅されましたし、結核で死ぬ人はほとんどいません。しかし新しい病気がどんどんでてきます。」
牧野全権大使
「新しい病気とは?」
小沢医師
「まず開発が進み交通機関が発達しますと、未開の地の風土病が世界中に運ばれます。人の病気だけでなく野生動物の病気が人間に感染することもあります。また人間が新しい化学物質を作ったためにそれによる病気も発生します。
それとおかしなことですが、人の体にはばい菌と戦う仕組みがあるのですが、ばい菌がなくなると相手がいなくなってしまうために、その仕組みが自分自身を攻撃するのです」
牧野全権大使
「ほう、そう聞くと未来は明るいことばかりではないのだな」
小沢医師
「全体的に見れば未来の方が暮らしは快適です。重労働はなくなり、飢饉は起きません。だから寿命も延びますし、生活の楽しみも増えます」
中野中佐
「もちろん我々が一生懸命、頑張らないとそうはなりません」
帝太子
「ところで第一次大戦の後始末ということで、来年早々パリ講和会議が開かれる(注5)ここにいらっしゃる牧野さんが、次席全権大使として参加することになった。
それで今日は未来から来た方のご意見を聞かせてもらおうと思う。まずは伊丹ご夫妻のご意見を聞かせてください」
伊丹
「扶桑国は当然、連合国側で勝利国ですから分け前をもらうわけですが、あまり欲深はいけません。向こうの世界では欧州は「日本は参戦国中最小のコストで最大の利益を得た」と憎んでいます。こちらでも3000人からの戦死者を出しましたが、他の勝利国は扶桑国の20倍とか50倍とかフランスに至っては400倍もの戦死者を出しています。この事実を忘れて、他の勝利国と同じ要求をしては禍根を残します。
そういうことを考えると、パラオやマーシャル諸島など南太平洋の旧ドイツ領を獲得することは妥当でしょう。
中国や朝鮮に関しては欲を出さず、現在扶桑軍が占領している山東半島のドイツの租借地はイギリスに譲渡するのがよろしい。その代償としてイギリスからブルネイを譲ってもらうべきです」

赤地:扶桑国領土・黄色:山東半島・緑色:ブルネイ・赤斜線部:南洋の委任統治領
扶桑国領土

牧野全権大使
「朝鮮や満州は広いし資源もある。山東半島を足掛かりとして、ゆくゆくは満州と朝鮮を確保して、東北地方の農民の開拓先としたい」
伊丹
「それは火中の栗を拾うようなもの。牧野閣下の考えていることはドイツが考えていたし、イギリス・アメリカ・ロシアも考えています。ですから当然争いになる。扶桑国がわざわざ加わることはありません。
山東半島だけでなく中国はイギリスに譲り、混乱の続く中国の相手をしてもらい、満州はアメリカに譲って南下してくるソ連の相手をしてもらう。そしてそれぞれに国力を消耗してもらうのが好手というか正着です」
牧野全権大使
「いや、中国なくして扶桑国は立ちいかない。朝鮮と満州そして中国を手に入れなければならん」
伊丹
「それは悪手です。あの地はこの国と気候風土が違い、北海道とかアメリカに近い。今までの南米移民の開拓手法は通用しません。
それに立ちいかないとおっしゃいますが、既にわが国は世界一と言える工業技術があります。それを産業全般に展開していけばよろしい。わざわざ寒冷で不毛の地に移住して苦労することはありません。まもなくこの国は産業が発展して人手不足になります。外を見ないで内を見るべきです」
牧野全権大使
「世界一の技術力? そんなものがあるのか。あったとしても資源がなければどうにもならん」
幸子
「牧野閣下はご存じと思いますが、大戦初期にイギリス領のブルネイをドイツが占領し、それを我が国が奪還し、現在、陸軍が統治しています。ここには資源があります」
牧野全権大使
「ブルネイを確保した話は聞いている。ボルネオ島の小さな土地ではないかね」
中野中佐
「閣下、そこは将来石油が見つかるのです」
牧野全権大使
「中国や満州にも石油はあるだろう」
幸子
「いえそちらの資源は期待薄です、それだけでなく、現地人の統治が難しいことがあります。昔から遠交近攻といいますし」
牧野全権大使
「南洋諸島なんて広い太平洋に豆粒みたいな島があるだけだろう。全部合わせても山東半島に足らんわ。採れるのもせいぜいゴムと砂糖くらいだろう」
南洋だよ
幸子
「時と共に国際法が変わり領海が広がり、公海がどんどん狭まります。小さな島でも、ゆくゆくその周囲の海は領土になるわけです。
そして50年もすると、海底から石炭や石油あるいは鉱石を採取するのが普通になります。それに漁業だって外国の海では魚を獲れなくなります」
帝太子
「なるほど、海は陸と同じ価値になるのか」
伊丹
「21世紀、日本の国土面積は世界で61番目ですが、海の広さは世界6位です(注6)
帝太子
「ほう、それはすごいな、ハハハハ」
幸子
「日本は戦争に負けて南洋諸島を失ってしまいました。それでも世界6位なのです。もし今回のパリ講和会議でブルネイと元ドイツ領の諸島を得られたら、世界2位くらいになると思います」
伊丹
「何度も言いますが、この度の戦争での犠牲者は我が国は非常に少ない。他の参戦国と同じように利権を要求しては憎まれます。他の戦勝国が欲しがらないものを得るだけで十分です」
牧野全権大使
「伊丹ご夫妻の意図は分かり申した。しかし我が全権派遣団は、中国と朝鮮の利権を要求する計画である。ブルネイや南洋諸島には興味がない」
帝太子
「牧野閣下、ちょっと待ちなさい。全権派遣団は目的の決定を委任されているのではない。訓令の達成を委任されているのです(注7)内閣は南洋を確保すること、中国・朝鮮に手を出さないという訓令を全権派遣団に出している。
私は政治的発言はできないが派遣団の認識に危機感を持っており、今日は牧野閣下に南洋の重要性を認識していただくために来ていただいた」
牧野全権大使
「はっ、申し訳ありません。内閣の訓令を再確認し全権派遣団に周知徹底いたします」
高橋是清
「もし牧野さんが他のメンバーに徹底できないなら、原首相と内田康哉(外務大臣)、田中義一(陸軍大臣)、加藤友三郎(海軍大臣)それに私(大蔵大臣)の連名で改めて通知を出そう。国際会議で通らないならともかく、派遣団が皇帝と国民が選んだ内閣の指示に従わないことはなかろう」
牧野全権大使
「いえ、そのようなことは無用です。私めが徹底いたします」
牧野が脂汗を書いているのを、隣に座っている帝太子は冷ややかに見ていた。

帝太子
「伊丹さん、他には?」
伊丹
「別件ですが、会議では民族自決について論じられるでしょう。欧州には各国の主たる民族以外にさまざまな少数民族がいます。そういう人たちも自分の国を持つ権利があるという思想です。それは正しいと考えますが、結局は白人限定、欧州限定に留まります。ぜひ扶桑国は人種によらずアジアやアフリカにもおいても、民族自決権があることを主張してほしいです」
牧野全権大使
「向こうの世界ではどうなったのかね?」
伊丹
「日本はそう主張しましたが、残念ながら通用しませんでした。ただ発言は記録に残り歴史となりました。日本人としてそれを誇りに思います」
高橋是清
「同感だな。こちらの世界でも今アジアで独立国は扶桑国と中国くらいだ。アジアやアフリカの植民地独立を支援せねばならない」
帝太子
「先は長いが我々は正義に基づく理想を掲げなければならないね」
牧野全権大使
「承りました。派遣団もそういう考えで参席いたします」
帝太子
「ではパリ講和会議の件もご理解いただいたようで安心した。
伊丹さんとして他に心配事はあるかね?」
伊丹
「正直申しまして次から次と難関がやってきます。まずは大戦後の不況です。とはいえ、これは政治の当然のお仕事でしょう。
気がかりなのは関東大震災です」
帝太子
「関東大震災とは?」
幸子
「これから4年後に相模湾付近を震央(注8)とする大地震で、死者・行方不明が10万5千人という大災害となります」
帝太子
「そういえばだいぶ前に、中野さんからそれについて奏聞を受けた記憶がある。中野さん、手は打っているのか?」
中野中佐
「正直言いまして、政策研究所といいましても、こういった大事件の分析や計画ができる者は数名しかおりません。今までも、インフルエンザ、青島攻略、ブルネイ作戦、大西洋Uボート作戦などひとつずつ対処してきました。やっと大戦が一段落しましたので、これから戦後不況、関東大震災、ロシア戦略などの検討をしていく予定です」
帝太子
「リソースがなけりゃどうしようもないか。
うーん・・・・向こうの世界では大震災の復興をどうしたのかな?」
幸子
「国難になると偉大な人物が現れるのはいずこも同じかと思います。後藤新平という人が復興の指揮を執り責を果たしました」
高橋是清
「ほう、後藤新平か、昨年まで内務大臣をしてたな」
帝太子
「中野さん、それじゃ後藤閣下を政策研究所に呼んで震災対策の指揮を執らせなさい。震災が起きてからやれと言われるより、起こる前にやれと言われたほうがやりがいがあるでしょう」
高橋是清
「彼は昨年私と入れ替わりに野に下り、今は貴族院議員をしております。総理から委嘱するのもありですが、政党も違いますから、殿下あるいは陛下から内密にご依頼されたほうが本人は気を良くするのではないかと思います」
帝太子
「わかった。明日にも宮内省に呼んで話をしよう。あとは中野さんが対応してくれるかい」
中野中佐
「畏まりました。もし後藤閣下が拒否したら?」
高橋是清
「明治の男はそんなことはせんよ」
帝太子
「それじゃ、大震災対策は頼むよ
話は変わるが、小沢先生のお嬢さんは行き違いでこちらの世界に来てしまったと聞いている。こちらの世界はどうですか。お気に召しましたか?」
さくら
「先ほど乳幼児や若い人の死亡率が高いというお話がありました。この世界では生まれてきた20%が20歳まで生きることができません。今の日本では20歳までに亡くなる人は1%もいません(注9)20%の人が亡くなるのは70歳です」

生命表

帝太子
「ほう、こちらの世界で二十歳まで生きるのと、お嬢さんの世界で70まで生きるのが同じ割合なのか」
牧野全権大使
「向こうの世界では70歳まで8割が生きる、こちらでは70歳まで生きるのは2割ですか、逆ですね残念ながら」
さくら
「日本では2割の人が90歳まで生存します」
牧野全権大使
「えぇぇ!こちらでは90まで生きる人はいったい何人いるものか・・」
さくら
「でも向こうがすばらしいのかと言えばどうでしょう。向こうの社会はあまりにも豊かで安定しています。結果として若者は、人を押しのけても出世しようとか金儲けをしようという欲望を失くしてしまいました。一生懸命に働かなくても食べていける、長生きできる。それはあるべき社会ではないように思います」
帝太子
「進歩した社会では若者も考え深いのですね。お嬢さんはおいくつですか?」
さくら
「17です。今高校生で再来年は大学に行く予定です」
帝太子
「ほう、女性も大学に行くのですか?」
さくら
「男も女もだいたい半分が大学に行きます(注10)
高橋是清
「ほう!この世界では百人に一人か二人だろう。それも男子だけだ(注11)
帝太子
「それほど学問が必要なのですか? 勉強しないと仕事に就けないのですか?」
さくら
「大学に行ってもまじめに勉強せず青春を楽しむ人もいます。それに大学で習ったことと関係ない仕事に就く人も多いです。でも学べばそれだけ生きていく力がつくでしょうし、人生の選択肢が増えると思います。人生は長いですから、どう生きていくのか考える時期があっても良いと思います(注12)
個人的なことを言えば、私は理学部にいって研究者になりたいです」
帝太子
「ほう、女性の研究者ですか、」
さくら
「向こうの世界でも女性の研究者とか大学教授は少ないですね。本来なら男女半々になるべきでしょうけど、実際には女性は1割くらいしかいません(注13)
帝太子
「もしご希望ならばこちらの皇国大学に入りませんか。向こうなら帝国大学というのでしょうけど」
さくら
「うわー殿下、本当ですか!私はこちらの世界に来たいです」
高橋是清
「殿下お待ちください、そもそも女の子は皇国大学に入れません」
帝太子
「いやいや、もしお嬢さん、さくらさんでしたな、ご希望なら私が推薦状を書きましょう。そして良い成績なら国費で留学も」
さくら
銚子
「殿下、素敵!ぜひお願いします〜」

さくらは銚子をもって帝太子のそばに行きお酌をする。周りは呆れて笑ってしまった。
小沢医師
「さくら、一人前に家事もできないくせに一人暮らしできるはずがない」
さくら
「幸子さ〜ん、ここに住まわせてくれますよね、真面目に生活します、勉強もちゃんとしますから」

小沢、伊丹、幸子はしかめっ面を見合わせた。
帝太子は面白いオモチャを手に入れたようでニコニコしている。

うそ800 本日の逡巡
将来何が起きるかということを知っていたら、真面目に仕事をする気にはならないのではないだろうか。いつ戦争が起き、いつ大地震がおき、いつ大恐慌が起きると知っていたら、それを防ぐ、大儲けする、犠牲者を救うという活動をするより、退廃的になってただ傍観者となるような気がする。
そう思うと、この物語で対策を考え頑張ることなどありえない気がする。
何が起こるか分からないからこそ、真面目に予防し対策するのではないのかな?

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注1
初等教育制度は何度も変わったが、この時代の尋常小学校は6歳から11歳までの6年間の義務教育であった。その上に義務でない2年間の高等小学校があった。
女学校とは高等女学校の略でこれも変遷があったが、この時代は旧制中学校の一種で高等小学校卒業後、16歳くらいまでの中等教育機関である。男子の場合は中学校と呼ばれた。もちろん当時は男女共学ではない。

注2
蠅取り紙とはカメラのフィルム(こちらも見かけなくなったが)くらいの円筒で、使用するとき中からフィルムのように巻かれている両面にべたべたの粘着剤が塗りつけられた紙を引きだして天井などから吊るす。飛んでいる蠅やガが接触すると粘着剤に捕まってしまう。1週間くらいたって蠅がたくさん付くとゴミにする。蠅で真っ黒になった蠅取り紙が天井からぶら下がっているのは見ぐさいし汚い。
とここまで書いてからウィキをみたら、その形の蠅取り紙はこのお話の10年後1930年に発明されたそうだ。それ以前から蠅取り紙はあったが形状が異なったらしい。

注3
注4
平均寿命の歴史的推移(日本と主要国)
アメリカの平均寿命推移
イギリスやアメリカもこの時代、平均寿命は45歳くらいだった。とはいえ日本よりはるかに進んでいた。

注5
史実ではパリ講和会議は1919年1月18日開会である。それに出席するために牧野たちが出国したのは1918年12月14日である。しかしインフルエンザが収まるのは12月になってから。ちょっと時間的につじつまが合わない(困った)。まあ、パリ講和会議が少し遅いかインフルエンザ終息が早かったと思うことにしましょう。

注6
注7
指示には三種類あります。
・訓令:目的を伝えて、実施詳細は任せる・・○○地区の敵を排除せよ
・命令:目的と実施方法を示して行わせる・・この作戦に基づきあの高地を取れ
・号令:実施手順を示して行わせる方法・・・右向け右、前へ進め

注8
震源とは地震を起こした地中の場所で、震央とは震源の真上の地表の点をいう。

注9
注10
ガベージニュース 大学進学率のグラフ

注11
「大学、短期大学等の入学者数及び進学率の推移」
グラフからは詳細が見えないが、3パーセントより少ないのは間違いないようだ。なお高等教育機関には陸軍士官学校や海軍兵学校も含まれる。

注12
うろ覚えだが、ドラッカ−が「断絶の時代」で、「人生が長くなったので社会に出て働くのを遅くしたいから大学に行く」と書いていた記憶がある。そうかどうかは分からないが、40代で引退する時代から60代まで働く時代になると、生き方を考えるのに数年費やすのは妥当な気がする。

注13
「日本の大学教員の女性比率に関する分析」加藤 真紀、茶山 秀一、文部科学省科学技術政策研究所、2012


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