*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。
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1922年9月1日 俺は車屋鉄三郎だ。今は70歳の爺だが、40年前はカッコいい纏持ち(まといもち)だった。まあ、歳を取るのは仕方がねえ。それはともかく、また帝都防災訓練の時期となった。知っていると思うが、昨年から俺は戦車隊から火事の時の破壊消火の相談を受けているのだ。そんなわけで俺はひと月ほど前から、戦車隊長と一緒に大火が起きたとき町屋のどこをどう破壊するか現地を歩き回っている。 ![]() おっと、何を言いたいのかっていうと、ここは海抜も低くその割に水の便が悪く、元々は人が住まないところだったってことだ。まあ帝都が発展して人が増えて住むところがなくて、こんなところを埋め立ててどんどん人が住み着いて、いつの間にか街になってしまった。でも危ぶなかっしいなあと思っている おっと、話がそれてばかりいる。俺が今戦車隊の隊長と一緒にしている仕事は、ほんと、これは内緒だぜ、人に知られると大変なことになる、 その仕事だが、火事になったときに破壊消火する場所の確認だ。東京のどこで出火したとしても、それが延焼しないようにいくつかの区域に分けで、その区域内で鎮火するようにする。そのために町屋を破壊して幅広い防火帯を作るというんだ。昔だって破壊消火といって火事が燃え広がらないように家々を壊したが、こんなに大規模に、そしてまだ延焼する恐れがないところを壊そうとしたことはない。今回は火事が発生したら、まだ燃え広がらないときに防火帯を作るために破壊してしまうという。かなりどころではないとんでもなく思い切った方法にはさすがの俺も驚いたね。 ![]() 車屋の爺さんは上の地図の右側の黒色縦線の上半分が担当である。 ![]() 戦車隊長や俺のような破壊消火をする者たち数十名を集めての説明会で、米山とかいう男が話した。火事が燃え広がってから手を打っても遅い、火が出たら燃え広がる前に手を打つ。すべての責任は持つから、俺たちに速やかにそして完璧な破壊をしろという。 その米山という男は、徳川時代に起きた火事の燃え広がりと今の町屋の広がりをいろいろ検討して、一番危ないのは江東区、墨田区、台東区で、特に両国から吉原の一帯だという。隅田川沿いの長さ3キロ、ここが問題だと俺も現役時代から思っていた。実際吉原の火事なんて何度もあったことだ おっと、また話がそれちまったぜ、俺たちが担当して破壊するのは小名木川から錦糸町駅の通りを北へ一直線に北十間川までの3.6キロ、この区間を15間 小名木川から南方向は別の戦車隊が破壊を担当する。 米山は、ここは東に火が燃え広がらないための最後の防衛線だ、絶対に完遂しろ。地震後に火災が発生したら即破壊に取り掛かり、2時間以内に完了しないと意味がないと脅す。2時間というのは両国当たりで火事が起きたとき、錦糸町まで延焼する時間だという。それまでに消防が消火できればいいが、ダメな時に備えてその時間内に防火帯を作るという。 歩いて1時間かかるこの長さを、15間幅で破壊するのを2時間でできるわけがない。 俺だって大火事の経験は何度かあるが、こんな長きに渡って建屋を破壊したことはないし、ましてや幅15間なんて・・ それから隊長と俺は何度も打ち合わせをしたり現場を見に行ったりした。使える戦車は60台とブルドーザー10台、つまり1台当たり50メートル、幅30メートルとすると1500平米、これを2時間で平らにするとなると平米あたり5秒で片づける計算になる。これははっきり言って無理だろう。隊長も腕組みして目をつぶって黙ってたよ、 だが俺だって素人じゃねえ、地図を見れば確かに俺たちの受け持ちは東への延焼を止める最重要なラインであるのは間違いねえ、 防災演習といっても俺たちはすることもない。破壊消火隊のメンバーで集まってどうするのか打ち合わせる予定だ。 ●
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9月10日 私は香川冨美子、尋常小学校5年生です。去年も防災訓練をしましたが、今年も帝都防災訓練の日になりました。 今年の避難は両国から錦糸町まで歩いて避難するのでなく、もっともっと東の方の小岩町にある避難所まで行き、そこで一晩泊って明日帰ってくるそうです。二三年前近所の家族ぐるみで、浦安町に泊りがけで海水浴に行ったことを思い出しました。あんな感じだったら楽しいと思います。 今回の避難訓練は私たちの小学校の他、一般の大人の人、商店や会社勤めの人たち、全部で1万人くらいになるそうです。そんなに大勢の人が避難したら寝るところとか、便所とかどうするのでしょう。 非常ベルが鳴ると私たちは学級ごとに先生と一緒に歩いて錦糸町駅まで行きました。そこまで20分くらいかかりました。 錦糸町駅前に着くとものすごい人です 私はバスには何度か乗ったことがありますが、トラックに乗るのは初めてなので順番が来るのが楽しみです。 やっと乗る順番になりました。トラックと言っても荷台の上に幌が付けてあって、雨でも大丈夫なようになっています。大人の人が何人も荷台の前にいて、私たちを荷台に押し上げてくれました。荷台の上はむしろが敷いてあり、みんな下駄を脱いで膝を抱えて座っています。 荷台が人でいっぱいになると、運転手の兵隊さんが運転席の後ろの窓から顔を出して「何かにつかまれよ、揺れるからな」と言いました。みんなトラックの荷台などにつかまりました。 何人いるのだろうと32人まで数えましたが、それ以上は数えられませんでした。 トラックは走り出しました。道路を走っているのは避難者を輸送するトラックだけで、交差点には警官や兵隊さんが立っていて交通規制をしています。トラックに乗るのは初めてでしたが、とても揺れます。 橋を何度か渡りましたが、橋は道路より少し高いので橋にかかるとトラックがポンと跳ねて体が浮きあがります。私の周りの子がわざと荷台でポンポン飛び跳ねていたら、運転手の隣に座っている兵隊さんが荷台との間の窓から顔を出して「危ないからつかまっていろ」と怒鳴り、その子はびっくりして止めました。 20分くらい走ると稲刈りの終わった田んぼに着きました。 私たちは荷台から降りましたが、そのときも下に大人の人たちが何人もいて私たちを降ろしてくれました。降りてから見まわすと、見渡す限り大きなテントがたくさん並んでいます。 ![]()
![]() 先生が点呼を取って全員いるのを確認すると、兵隊さんが「こっちに来い」と言ってテントの一つに引率していきました。兵隊さんはすぐにいなくなりました。 テントの大きさは幅10メートル長さ20メートルくらいです。中はござが敷いてあって、壁際に毛布が積んであります。 皆、下駄をぬいでござの上に座りました。ごろっと横になる人もいます。 先生もどうしたものかという顔をしてキョロキョロしています。 10分もするとお爺さんが二三人やってきました。 ![]() | |||||||||||||||
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みなさん、避難訓練お疲れ様です。私たちはこの避難場所の世話役の者です。 簡単に説明します。簡易水道は○○にあります。便所は○○です。怪我や病気の人は救急病院が○○にあります。 夕飯は夕方5時半に各テント前に配りますから、テントの中では自分たちが分配してください。明日の朝飯は8時頃に同じく配ります。 | |||||||||||||||
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訓練と言えど遊びではありません。またこれを機会に、周りの人の役に立つという経験を積んでほしいと思います。今皆さんはすることがないでしょう。大人の男の人はトラックから人を降ろしたり乗せたりするお手伝い、ご老人のお世話、つまりおんぶしたり手を引いたりしてほしい。大人の女の人は赤ちゃんや子供に手がかからなければ炊事のお手伝い、小学生になれば小さい子の相手などをしましょう。
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狭いところで見知らぬ人が一緒に暮らしますから、お互いに譲り合い助け合いましょう。 なにか質問ありますか? では皆さんお願いします ![]() | ||||||||||||||||
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爺さんたちは説明をすると、隣のテントに行ってしまいました。私たちが着いてからもう何台もトラックが着いてどんどんと新しい人をおろしています。 「それじゃ、みんなで行こうよ」学級委員の吉田君が声を出したので、みんな立ち上がって表に行きました。 男子たちはトラックのそばの大人の人の所に行って何か話をしていましたが、老人のお手伝いをするようです。私はお友達のなっちゃんたちとそのへんをぶらぶらしました。炊事場に行くと大勢の女の人が、割烹着を着てジャガイモをむいたり大根を洗ったりしていました。そこで差配しているお婆さんにお手伝いすることありませんかと聞いたら、大根を洗ってもらうと言われて洗っていたおばさんと交代しました。水がとても冷たくて気持ちが良かったです。 大根を何十本か洗ったらもうオシマイだと言われました。そしたらおにぎりは握れるかと聞かれたのでできますというと、それじゃおにぎり作りだと言われました。その前に、食べ物だから手をきれいに洗えと言われ、お婆さんが見ている前で石鹸で手だけでなく腕まできれいに洗いました。手拭いを借りて姉さ被りして髪の毛が落ちないようにしました。 おにぎりはご飯が熱くて大変です。何個か握ると手のひらが真っ赤になりました。 ![]() 食べ終わってからお椀を返しに炊事場に行ったら、食器洗いをしてほしいと言われてみんなで話をしながらしました。楽しかった。 ●
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9月10日 私は海軍追浜航空隊の友保中尉である。自分はここ2年ほどソ式練習機で急降下爆撃で水爆弾を使って地上の目標をめがけて投下している。 ソ式練習機はもう旧式になって、海軍は今航空母艦用の急降下爆撃機を開発しているが、まだ実用化されていない。 実は昨年の帝都防災訓練の際に、不忍池で飛行機から水を投下して消火を行ったのだが、ほとんど命中しなかった。その後の新聞で「役立たず」とか「税金泥棒」などと叩かれた。上官からも「恥を知れ」と怒鳴られた。 参ったねえ〜、 ひとつだけ幸いだったのは陸軍航空隊も、我々と同じくほとんど命中しなかったことだ。だが、だからといって良いわけではない。今年こそ、命中させねばならない。陸軍の連中も転んだままではいないだろう。 ![]()
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私は陸軍航空隊下総基地の加藤軍曹である。昨年の帝都防災訓練は痛恨の極みであった。まさに一生の不覚、操縦技量においては下総基地随一と自負している自分であるが、投下した4発の内2発が命中しただけだった。もちろんそれでも防災訓練に参加した陸軍、海軍の40名の中では一位の成績だったのだが・・ ともかく今年は全弾命中を期している。基地司令からも直々に訓示を受けている。 そういえば今年、我々は帝都ではなく、横浜市の防災訓練に参加と聞いた。とはいえすることは同じだろう。となると今年も陸軍と海軍の競争となる。負けるわけにはいかない ![]() | |||||||||||||||
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今回の訓練は東京でなく、横浜港のフランス波止場の沖合、数百メートルのところに、いかだを浮かべて焚火をしてそれを消火するという。隊長からせめて前回より成績を上げろよと期待しないような顔で言われた。同僚もあまり自信はなさそうだ。 不忍池と違い、こちらは海沿いで風が強く投下したあと爆弾がずれることが予想される。いや、その前に急降下するときも風の影響で目標にまっすぐ向かえるか心配だ。 それに、昨年も出てきた大型の消防飛行機がまた登場するだろうし、先月は川西飛行機が作ったあれよりも大型の飛行艇が消火競技に参加すると聞いた。とてもじゃないが、大型機にはかなわんな ![]() | |||||||||||||||
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離陸してから15分、今、眼下に川崎市が見えてきた。目的地横浜はここから10キロ、あと3分だ。街の西にある小高い丘から海に向けて降下して岸壁沖のいかだに投下して東海上に抜けるコースを、頭の中でもう一度復習する。 突然無線が入ってきた。女性の声が聞こえる。二年前から無線機の性能が極めて良くなり聞き違えることがなくなった。 | |||||||||||||||
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「こちらは哨戒機、こちらは哨戒機、陸軍急降下爆撃隊に連絡する。 横浜港上空の状況、海面上は90度5ノットの風、上空200mでは105度18ノット、向かい風が強い。 こちらで誘導する。航法表示板のスイッチを入れよ。これから画面上の指示に従い操縦すること」 ![]() ![]() | |||||||||||||||
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何を言っているんだ? 哨戒機ってなんだ? とりあえず目の前の四角い表示板のスイッチを入れる。すぐに表示が現れた。地図と自分の機の所在地そして進行方向が矢印で表示される | |||||||||||||||
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「表示様式を地図から操縦に切り替えること、繰り返す、表示様式を地図から操縦に切り替えること」
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「なんだかわからんが、この画面の「操縦」を押せばいいのだな」 表示板の地図が消えて、画面中央に上下左右の矢印と右側にいくつかのメーターが表示された。一番上が速度とあり、二番目が高度、三番目が・・ ![]() | |||||||||||||||
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「加藤軍曹、ただいまより投下コースに入る。表示板の矢印に従うこと」
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中央の四つの矢印がいつの間にか消えていて、右向きの矢印だけが残っている
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「右に切れ、右に切れ、画面上の矢印が消えるように操縦せよ、速度計の上限下限に入るように速度調整のこと」
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何が何だか分からないが言われた通りに操縦する。命だけは惜しいから高度計は常に片目で見ている。 矢印に従って微調していると、飛行機はいつものように急降下爆撃コースに入り画面に「投下」の表示が出たときに投下ボタンを押した。機体がフワッと浮く。すぐに上向きの矢印が表示されたのでその方向に操縦かんを引き起こす。 飛行機は機首を上げて海面からゆっくり上昇していく。 首を回して爆弾の行方をみると、目標のいかだに命中したようだ。 矢印の通りに進めば当たるって!これって簡単すぎるよ、操縦士いらないんじゃないか 高度700まで戻して水平飛行に移して後続機を眺める。 後続機にはそれぞれ別の周波数で指示しているのか、こちらには聞こえないが、多分自分と同じように方向と速度を指示しているのだろう。指示というか誘導というべきか。 見ていると次から次と急降下して水爆弾を投下するのだが、9割方はいかだに命中している。 ![]() | |||||||||||||||
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陸軍航空隊の急降下爆撃には驚いた。普通は飛行というものは癖があるものだ。同じ目標に急降下しても同じコースをたどるわけではない。投下後も操縦士によって通り道にバラツキがある。それが陸軍の奴らは空中の同じところを通過していく。そして投下した水爆弾もすべて目標から数メートル以内に着弾している。 連中、なんで急に上達したんだ? おっと連中が終わった。今度は俺たちの番、しかも俺が一番目だぜ、恥はかきたくないもんだ。 ![]() | |||||||||||||||
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「こちらは哨戒機、こちらは哨戒機、海軍追浜航空隊の教育隊に連絡する。 横浜港上空の状況、海面上は135度4ノットの風・・・」 ![]() | |||||||||||||||
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自分は画面と音声の指示の通りに操縦して投下した。その結果水爆弾は全弾命中したようだ。続く同僚機もほとんどがいかだに命中し焚火を消した。 やれやれ、陸軍の前で恥をかかずに済んだわけだ。ところで哨戒機ってなんだろう? おお、大型機がやってきたぞ。去年と同じ陸上機だが今回は5機もやって来た。もう消火するものがないから沖合をゆっくり放水していく。 ![]() | |||||||||||||||
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連中が終わったと思ったら、こんどは先月末から追浜飛行場沖に停泊していた飛行艇が飛んで来て、陸上機以上の放水を見せた。1機で10トンくらい放水したんじゃなかろうか? ![]() | |||||||||||||||
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編隊を組んで追浜に変える前に岸壁上空を二度ほど旋回する。地上をみると数千人いや1万人くらいいるだろうか、岸壁は人でぎっしりだ。皆、空を見上げて手を振っている。恥をかかないで良かったと思う。
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9月10日夕刻● ● 江戸城本丸跡地の地震対策本部では、昨年同様に帝太子、後藤閣下が座って進行を見ている。 ![]() | |||||||||||||||
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「空中消火は昨年よりは大幅に向上したようです」
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「それは良かった。 昨年も今回も実施していないが、町屋を破壊して防火帯作りが上手くいくかどうか、それが課題だな」 | |||||||||||||||
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「戦車だけで足りなければ工兵隊を使ってなんとかします」
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「なんとかするのではなく、間違いなくできる体制を考えてください」
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「かしこまりました」
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9月11日、翌日である。 私は香川冨美子です。今日は避難訓練二日目です。昨日の夜は友達と一緒なのでみなワイワイとにぎやかでした。夜9時過ぎに世話役のお爺さんたちが巡回してきて「赤ちゃんもいるから静かにしなさい」と注意されてしまいました。 もうすっかり涼しくなったので蚊はおらず、虫の声がすごかったです。 私が寝ていると、みっちゃんが「トミちゃんお外に行こうよ」と小さな声で言ってきます。私は寝たふりをしていたら、トミちゃんは諦めて別の友達を誘って外に出ていきました。なにをするのだろうと気になりましたが、すぐに眠ってしまいました。 朝早く目が覚めました。なにかお手伝いできるだろうかと昨日炊事をしていたところに行くと、お母さんがいて驚きました。お母さんは隣組でまとまって避難してきたそうです。本当に災害になって避難したら、親子が会えるのかなと心配しました。 朝ごはんも昨夜と同じくおにぎりと味噌汁でした。避難訓練だからしょうがないと思いました。 朝ご飯を終えてお掃除をしたら、またトラックに乗って錦糸町まで送ってもらいます。一旦学校まで行って解散だそうです。 そうそう、昨日の夜、外にお月様を見に行った子がいたと注意されました。私は行かないで良かった。 ●
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横浜港で水爆弾投下直前に無線電話をしてきた哨戒機とはなんだろうと下総基地に戻ってから話題になった。みなあの無線の指示とおり飛行し投下して良い結果になったのだが、指示してきたのが誰なのか分らない。 隊長がやって来て話をしてくれた。飛行機乗りが自分で周囲を警戒し敵機を発見し戦うという時代はすぐに終わる。仕事も戦争も団体戦なのだという。索敵・監視を担当する者、集めた情報を統合して作戦を指示する者、そして実行する者など。飛行機乗りは指示された目標を指示された手段で攻撃すること。それだけでもものすごい技術技量が要求されるので一層奮励努力せよという。 将来の戦争はどうなるのだろうか? 自分には分からないが、ものすごい頭の良い人が仕組みを考えて、自分はそのほんの一部分を担当するようになるのだろう。だがどの時代になっても強い精神力と鍛錬された技術は必須だろう。 |
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注3 |
関東大震災の東京の犠牲者は69,000人だったが、そのうち6万人は隅田川より東側だった。 隅田川より東が沼地で、人がほとんど住んでいなかった時の元禄地震(1903)は震源の位置と規模がほとんど関東大震災と同じであったが、そのときの江戸の町での死者は350人と記録されている。 要するに東京が脆弱性というが、それは隅田川より東限定なのだ。墨田区にお住いの人には申し訳ないが、これは事実である。 アメリカが東京空襲に当たり検討した結果、この地が水利が悪く火災に脆弱と判断して攻撃地点にしたのは有名な話。山の手は爆撃しても大きな被害は出ないだろうと読んだわけだ。 ![]() | |
注4 |
吉原の大火と言われるものは、明和5年(1768)から慶應2年(1866)の火災まで、計18回も起きた。明治になってからも明治44年(1911)が有名。大火と呼ばれるものだけで平均6年間隔で起きていたことになる。ちょっと考えられない。 ![]() | |
注5 |
錦糸公園にしようかと思って、当時錦糸公園があったのかと調べました。するとなんと関東大震災のとき錦糸町駅で火災のために大勢が亡くなったので、その復興、鎮魂のために1928年に作られたという。 後で出てくる横浜の消火訓練場所を山下公園にしようかと思いまして調べたら、こちらもまた関東大震災の復興事業として整備され山下公園と命名されたとのこと。関東大震災とはいかに歴史に残るものであったのかと驚きました。 ![]() |