「吉原の真実」

2019.01.21
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

図書館に行くと、返却された本を書架に戻すために台車にたくさんの本が積み重ねてあった。
おみ足
こんな絵だと気になるでしょう
積み重ねがまっすぐでなく凸凹になっていて、はみ出していたこの本の表紙の絵が目に入り手に取った。なぜ表紙が気になったかというと、エロチックなおみ足が描いてありましたんで・・イラストはかの「はすみとしこお姐さま」だそうです。
パラパラと見て、特に興味を持ったわけではありませんでしたが、予約していた本がまだそろっていなかったので、手ぶらでもなんだとそれを借りてきました。
おっと、本が載っていた台車には「この台車の本は借りることができます」と書いてありました。

書名著者出版社ISBN初版価格
吉原の真実秋吉聡子自由社97849089790332017/8/27700

私は花魁とか吉原なんてのは、小説やテレビドラマあるいはマンガでしか知らない。そもそも私は風俗産業なんて無縁の男である。私はきれいな姐ちゃんにお酌されるより家で手酌の方が良く、よそのおなごと仲良くなるより家内の方がいい。
私と吉原の接点と言えば、数年前に市の老人大学の講座で「吉原と樋口一葉を訪ねて」なんてテーマがあり、台東区の竜泉や千束周辺を散歩したことがあるだけだ。まあ、行ってみたことがないところに行くのは面白い。スカイツリーが大きく見えた。

というわけで私の吉原についてのイメージは、好ましくない、近づきたくない、関わりたくないという程度である。もっとも私に限らず多くの人が吉原に持つイメージは良くないだろう。
なぜかといえば、小説やドラマで幼い子供が売られたりさらわれたりして女郎になった、女郎屋の経営者に搾取され暴力を振るわれた、病気になっても医者にも診てもらえない、多くは性病にかかり二十歳そこそこで死んだ、死ねば荷車でお寺に運ばれた、そういった知識(?)が吉原を描いたほとんどすべての小説やドラマが提供している。例えばマンガ「JIN 仁」にしても小説「居眠り磐音」にしても、
そういう情報(?)ばかりを大量にインプットされたら、女郎は可哀そう、21世紀の女性は権利を守られ幸せだとなるようだ。

さてこの本を読むと、どうもそうではないようです。著者秋吉さんは小説家や脚本家は不勉強で、他の小説やドラマのイメージの上に物語を書き、それが積み重なってそういう吉原そして江戸時代の花街のイメージが定着してしまったという。
もちろん秋吉さんが間違えているとか嘘をついているという可能性もある。しかし秋吉さんはちゃんと出典を記載しており、それをたどることができる。そんなわけで「仁」や「磐根」を始めとするそのへんのドラマや小説よりも、この本の方が信頼できると考える。
マンガ「仁」や小説「磐根」の末尾には引用文献や参考文献のリストがない。

三角




















「故なくして囲いより外に出さぬこと」という遊女外出禁止の定めがあるそうです。それをみて、吉原の遊女は外に出られなかったと読む人が多いが、秋吉さんは外出する遊女が多かったからそういう定めが出されたといいます。
この本では吉原の遊女たちは医者にかかるためには外出証をもらって出入りするという決まりがあり、実際にそうしていたという。
もっとも許可を得て外出したうち、ほんとに医者にかかったのは100人に一人くらいで、99人はそれ以外の事情(情事?)であったようだとその証拠もあげている。

ところで最近亡くなった田中圭一という筑波大教授が書いた本に、幕府が「重病以外は医者に行ってはいけない」というお触書を出したのは、大した病気でもないのに暇つぶしに医者に通うのを止めさせようとしたからだと書いている。それも幕府の役人が考えたのではなく、村人たちが考えたことで、自分たちが決めただけの単なる口約束ではすぐに忘れられてしまうから、いつまでも続くようにと役人にお触書ということにしてもらったとある。田中先生はその証拠もしっかりと挙げている。
具合が悪い人が病院に行って、大勢の元気な年寄りが世間話をしている後で順番待ちしていると、本当の病気の人だけが医者に来るべきだと思うのは、いつの時代でも同じだ。だがそういった状況を知らずにそのお触書を読めば、江戸時代は町民や農民は医者にもかかれなかったひどい時代だと思うとも書いている。
 こちらをご覧ください⇒江戸時代

ちなみに: 対華21カ条がとんでもない要求だ、日本はひどい国だということになっているが、そもそもは中華民国の袁世凱が「中国国内を納得させるために厳しい要求を盛り込んでほしい」と言ったからだという。(出典忘れた)
日本は昔からアホというか素直というか、中国や韓国に騙されてばかりだ。
従軍慰安婦や強制徴用、そしてレーダー波照射で騙されないようにしたい。

言いたいことは書いた文章が独り歩きするから、注意が必要ということである。

じゃあ女郎は吉原を逃げ出して借金を踏み倒してしまうと思うかもしれない。しかしそこは江戸時代特有の事情があった。江戸時代は職業や住まいは自由ではなかったこと。それも法律ではなく社会的な制約であったこと。
例えば江戸時代は10両盗むと死罪になったが、盗まれた被害者も盗人を死なせた人殺しにはなりたくない。そのために人を雇うとか家を貸すときは、しっかりした保証人をたててもらった。使用人がお金を持ち逃げしたらその犯人を捕まえて死罪にするのではなく、保証人が弁償することで犯罪を見逃した。だから保証人がいない人を雇ったり家を貸したりする人はおらず、吉原から脱走しても行くところがなかった。

ぶっちゃけて言えば: 泥棒 本当は盗人が可哀そうと思ったのではなく、盗人が死罪になってもお金が戻らないより、盗人は見逃してもお金が戻ってきた方がいいと商人たちは考えたのだろう。
それに盗難があったとなれば店の信用は傷つくし、雇い主も監督不行き届きで評判を落としてしまう。

結局同じだといってはいけない。一般家庭の主婦も娘も駆け落ちや夜逃げできないのだ。だから碌な稼ぎもなく飲んだくれの宿六でも女房達は我慢したのだろう。
大奥の奥女中も外出できるのは寺社参拝くらいだったそうな。それで手ごろな距離にある下総中山の法華寺参拝が流行ったと聞いた。窮屈なのは女郎だけじゃない。

女郎は死ぬと葬式も出されなかったというのは本当だろうか?
まず吉原で亡くなった遊女が2万5千人も浄閑寺に弔われたと言われるが、それは浄閑寺のホームページに「新吉原創業から廃業までの380年間に浄閑寺に葬られた遊女、 お線香 遊女の子、遣手婆など遊郭関係のものや、安政、大正両度の大震災に死んだものを含めた推定数は2万5千に及ぶ」と書いてあったことが出典だそうです(p.105)(注1)
これを基に遊女が2万5千人葬られた、だから毎年66人も死んだと書いているという。
遊女の年齢を仮に17歳から33歳までで平均25歳とすると、現代の死亡率は0.3/1000人(2014)。200年前の日本の平均寿命から推定すると死亡率1.75/1000人でしょう(注2)
江戸時代の時期によって吉原の遊女数は2000〜4000人の間で増減したそうですから、年間の死亡者数は3.5人〜7人となり、66人はそれよりはるかに多く確かに異常です。
縦350m横260mしかない遊郭から、毎週死人が出ていたら誰も近づきませんよ、これを言い出した人は、そんな単純なことを考えなかったのかね?
私のマンションに2000人住んでますが、毎年33人も死んでたら大変です!
呪いだ、祟りだと言ってみな逃げだしますよ

しかし上記文章を素直に読むと「380年間に遊女が2万5千人葬られた」のではない。「380年間に2万5千人が葬られて、そこには遊女も含まれる」と書いてあるのです。文章はよく読まないとね、
吉原には下女や男衆もいたし、大火のときはお客さんも大勢亡くなった。いやいや浄閑寺は南千住や龍泉や日暮里の一般町民も檀家であり亡くなると埋葬されたわけです。仮に遊女が2万5千の1割と考えると、遊女死亡率は江戸時代の25歳の死亡率を下回ってしまう。それではテレビドラマは成り立たない・・困ったなあ、
おっと困るのは私ではなく小説家とマンガ家か?
それからもっとすごいのは、吉原創業に380年足すと、西暦2038年になってしまうそうです。これから埋葬される人数まで含んでいるのでしょうか?

吉原の女郎は性病にかかったり、厳しい生活環境のため短命で平均寿命は23歳であったと書いてある本が多数あるそうだ。
「吉原女郎の平均寿命は23歳」の根拠は前述の浄閑寺の過去帳に年齢が書いてある64人の女性の享年の平均だそうです。しかしその人たちの職業は書いてないから女郎だったのか分からない。2万5千には赤ちゃんも年寄もいたと思うが、そのなかから享年が分かった64人の平均を取っても何なのとしか言いようがない。まあ前提として浄閑寺に葬られた人すべてが女郎だったという思い込みからは、そういう結論になるのは当然なのか。でも享年から女郎でないと思われる人もいたのだろうから、やっぱりちょっと変。

織田信長 おっと勘違いはないと思いますが、江戸時代の平均寿命は40歳くらいでした。織田信長が「人生僅か50歳」と敦盛を謡いましたが、戦国時代の平均寿命は江戸時代より短く30代です。飢餓、病気、怪我、害虫、厳しい労働、暖冷房がない、衣類が貧弱、戦争、だから早死にでした。73歳で亡くなった家康は当時としては長寿です。ぼけて死んだ秀吉は61歳ですが、それでも当時の平均から見れば長生きした方でしょう。
人類の寿命が延びたのは医学の進歩より、清潔、衣類、栄養の影響が大きい。
日本人の平均寿命が50歳を超えたのは、なんと第二次大戦後。戦前は戦死を除いても50歳以下でした。なお戦争による平均寿命の短縮は2歳くらいです(注3)
ともかく吉原女郎の平均寿命が23歳の根拠はなしと・・・

この本を読んでいて驚いたのは、男が結婚するのが当たり前となったのは明治後期だということ(p.61)。
それで思い出したのですが、私が子供だった1960年頃でも二男・三男で結婚せずに生家に残って畑仕事をしている人が大勢いました。そうい人たちは「おんつぁ」と呼ばれていました。
「おんつぁ」とは小父さんのことではありません。ネットでググると「おんつぁ」とは会津の方言で、バカ・アホな男性のこととありますが、私の地域では結婚できずに死ぬまで家にいる二男・三男のことでした。可哀そうという以前に普通のことでした。
江戸時代の百姓も土地・家を継ぐ長男は必ず結婚したでしょうけど、二男・三男は結婚できなかったという実態は変わっていなかったのです。
中学校で先生が「田舎にいておんつぁにならないように都会に出ていけ」なんて唾を飛ばして我々に言ったものです。幸い高度成長期が始まり、私の同級生ではおんつぁになった人はいませんでした。

私が子供のとき住んでいた引揚者住宅は、そこの地主の土地を町が買い上げて作った長屋でした。なお農地改革といっても、政府(GHQ)は地主から1町歩(1ha)を超える小作地は強制的に買上げ(没収)ましたが、地主が自ら耕作していた土地は没収されません。
農作業
だから長屋の周囲はすべてその地主の土地で、その二男が一生懸命に農作業をしていました。ところが長男は町の名誉職について家の仕事をせず、欲しいものがあると土地を売って散財しました。
1960年頃、40くらいになった二男は我が家にトイレの汲み取りに来たときに、私の母にもう我慢ができないから東京に行くと言って実際にその直後失踪しました。江戸時代なら失踪することもできなかったのでしょうね。
地主の長男はその後も土地を売り続け、私がそこを去った1975年には屋敷と敷地数百坪しか残っていませんでした。数町歩あった農地はなくなってしまったのです。まさに斜陽です。
私がそこを去ってもう40年になります。数年前に親戚のお葬式で田舎に帰ったとき、どうなっているだろうかと行ってみました。何棟も並んでいた長屋はきれいさっぱりなくなり、広い敷地に数少ない瀟洒な家が建ち並んでいました。
しかしその元地主の家も屋敷森も残っていて、ボンクラ長男の子孫と思われる苗字の表札がありました。屋敷だけは残ったようです。

おっと、我が家の父も兄弟5人、姉妹が2人でした。オヤジの生まれた家は6反の畑と1反の田んぼ、とても子供たちに分けるわけにいきません。長男が農業を継ぎましたが、猫の額ほどの農地では奥さんと子供を養えない。それで東京に単身で行って働きました。オヤジは二男で東京に丁稚に行きました。三男四男は近隣の農家を手伝っていましたが、招集されました。そのとき二人とも喜んだそうです。残念ながら一人は中国で戦死、一人はマレーで戦病死しました。五男は戦後高校を出て公務員になりました。姉妹二人は嫁に行きました。
言いたいのは江戸時代だけでなく、1960年頃まで長男以外は結婚することは難しかった。なぜなら食べていくことができなかったからです。
武士も同じ。家督を継ぐ者以外は婿入りを狙うとか召し抱えてもらうのに必死。それがかなわなければ部屋住みといって死ぬまで独身で飯だけ食べさせてもらうという身分だった。
だから大人になれば誰でも結婚できる状態ではなかったのでしょうね。

話を戻します。以降の話はこの本とは関係ありません。
小説やドラマでは、火事になっても遊女は堀から外に逃げられなかったともあります。関東大震災(1923)のとき逃げ遅れた遊女が弁天池に入って490人も亡くなったのは、遊郭から逃げられなかったからだと書いているブログもあります。
実際に吉原は堀に囲まれていましたが、いくつものはね橋があり、非常時にはそのはね橋をおろして女郎や客が避難するようになっていたそうです。しかし大震災のときは、火災や破損ではね橋が動かなかったと書かれたものを読みました。
そもそも吉原は江戸時代から明治以降も何度も火事で焼けています。そのたびに皆避難して、火事の後は外に仮の建物を作り営業(?)しています。売り物(女郎)を逃がさずに殺してはそれからの商売(?)ができるはずがありません。
関東大震災の直近1911年にも大火がありました。ですから関東大震災のときだけ女郎を逃がさなかったとは思えません。
実際には関東大震災では吉原郭内だけでなく、周辺一帯が地震火災で逃げようなく、弁財天の池に追い込まれたためという。私はそれを読んでいませんが、昭和11年の「吉原遊郭略史」に詳述されているそうです。
吉原は当時浅草区(注4)という地域でしたが、この地区での関東大震災での死者・行方不明は2,452名〜4,558名という調査があります。なにしろ吉原から35,000人が焼け死んだ被服廠を中心に南千住から錦糸町まで数キロの範囲が完璧に焼け野原になったのです。遊郭の外に出ても助かったとは思えません(注5)
着物を着ていては燃え盛る中を何キロも逃げることはできないでしょう。吉原の外に出られなかったから関東大震災で焼け死んだというのはつながらないと思います。

濡れ落ち葉 本日のまとめ
一読の価値ありです。小説やドラマの吉原の描写に騙されないようにしましょう。
著者 秋吉さんは韓国の従軍慰安婦も、同じ手法で人々を洗脳したのだと書いています。かの国では「嘘を100辺語ると本当になる」といいます。
水戸黄門じゃあ 「水戸黄門」のTVドラマを見てほんとにあんなことがあったとは思わないでしょうけど、「武士の一分」とか「たそがれ清兵衛」あたりになると本当と思って観ている人も多いのでは?
そんな映画を観ていると洗脳されそう、怖いわ
日本の時代劇よりも韓国の時代劇の方が自由奔放(妄想ともいう)ですから、感染性が高いですよ。
私たちは本やテレビドラマを見たときは、それを真実と思わずに最低数冊の本を読んで考えた方が良さそうです。
私は同じテーマの本を10冊以上読んでから、判断することにしています。アナウンサーや評論家一人のコメントを聞いて首肯するのはいけません! 決断つかないときは「分かりません」と答えるべきです。知らないことに責任ある発言ができるわけがありません。
おっと、お前はこの本1冊しか読まないのではないかとおっしゃるな。この本が引用している本を数冊読みました。それからネットでググり、彼女やこの本の批判を一覧し、できるだけ出典をあたりました。関東大震災については、異世界審査員の関東大震災を書くに当たり相当数の本や報告書を読みました。よろしいでしょうか?


注1
浄閑寺のウェブサイトを見たら(2018.12.27)、現在この記述は削除されていた。

注2
算出方法として、平均寿命が現在の半分だから25歳の死亡率の倍にしたのではなく、女性の平均寿命を現在87歳、江戸時代40歳すると、江戸時代の25歳は現在の53歳相当なので50歳の死亡率を取った。
私なりの仮定だから異議は認める。

注3
日本兵の戦死者は230万、民間人は80万とされている。これは4年間である。
死亡時の平均年齢を戦死者が30歳、民間人が40歳とすると、平均余命を0.7歳くらい下げた。仮に昭和20年だけで全員が戦死し空襲で死亡したとして、2.7歳の減少である。但し当時は一般人も食料不足や医療の劣化によって開戦前より数歳は平均余命が短くなっていたと思われる。
戦争が終わってから平均寿命が1年で1歳以上伸びているのをみれば、戦争の影響は大きいが戦死や空襲での死亡がなくなったからではなく、食べ物や衣類の向上によるものと推察される。
なお、東日本大震災の平均寿命への影響は男0.26歳、女0.34歳と推定されている。

注4
注5


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