異世界審査員175.先手必勝

19.05.27

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。

異世界審査員物語とは

1931年

7月2日にV1飛行爆弾による第一回攻撃があったものの、その後しばらくは音なしだった。そして7月10日以降は毎日数十発ロンドンに向けて発射されている。とはいえ技術的に難しいのかあるいは品質問題なのか、半分くらいは途中で墜落とか爆発してしまい、イギリス本土にたどり着いても進行方向が狂ったり落下したりで、ロンドンに到達するのは1割もない。
早期警戒管制機は発射されたとか、何発飛行しているとか状況を把握しているが、現状では要撃に戦闘機を飛ばすくらいしか手段がない。そして要撃に出た戦闘機も間に合わないのが常である。
空襲警報のサイレンを鳴らすが、どこに墜ちるか分からず防空壕に入るだけ。市街に落下して爆発すると差し渡し数十メートルが完全に破壊され数人から数十人の死傷者が出ている(注1)


7月20日

伊丹が来てから半月が経った。ダウディング大将を始めブラックスミス少将、ブラケット博士たちはすぐに伊丹のすごさを理解した。理解していないのはジョンソンだけだが、誰もそれは気にしない。
V1の対策を討議した結論は、まずは、V1の製造基地と発射地点を特定し、それらを爆撃することである。

V1は小さいとはいえ小型飛行機くらいの大きさはある。爆撃機数機を偵察任務に振り替えて上空からその移動を追いかけて、製造基地と発射地点を把握に努める。
V1 V1が発射されたのを見て発射地点を特定しても、1個所で数発発射するとすぐに移動してしまう。それでドーバー海峡上空に早期警戒管制機を飛ばし、発射したのを見つけるとすぐにフランスの海岸上空で待機しているP38が指示された場所に急行し、ロケット弾で地上攻撃をすることにした。最初の1発は発射されてもしかたないというかそもそも手がない。
防衛的対策としては可能なことをすべて実施することにした。まずは阻塞気球(そさいききゅう)をあげた。今までの航空基地防衛のように1個の気球を1本のロープであげるのではなく、500メートルくらいの間隔で何個も気球を上げ、その間をロープでつなぎ蜘蛛の巣のようにした。効果? やってみないと分からない。
高射砲と機関銃による対空砲火はもちろんだ。
そして近接信管付きのロケット弾の開発とV1着弾地点の予測と空襲警報及び避難指示のルール化である。

阻塞気球の効果はすぐに出た。なぜかわからないがV1の飛ぶ高さは仕様にあったように3000メートルではなく、わずか数百メートルであった。阻塞気球を上げたその晩に飛んできたV1が2基ひっかかり墜落して爆発した。市街地で爆発すれば100人以上の死傷者が出たかもしれない。V1の翼がロープにひっかかり安定を失って墜落すればロープに破損はないが、まともにぶつかるとその場で爆発してロープが大きく破損してしまうし、場合によっては気球も破損する。そうなると修理が大仕事である。
ロケット弾の開発はそれほど困難ではなかった。この当時既に大型爆撃機を攻撃するには戦闘機の機関銃では力不足が言われており、20ミリを超える機関砲を載せるようになったが、それでも足りず空対空ロケット弾は実用一歩手前まで行っていた。
ただV1の爆発に巻き込まれないよう通常の空中戦より遠くから攻撃するので、無誘導で当たるわけがなく昔ながらの時限信管では適切な距離で爆発させることができない。
それで近接信管を付けたものを、機関銃の射程より遠くから数発一度に発射することにした(注2)とはいえこのとき近接信管はまだ存在せず、伊丹の指導でこれから開発するのだ。更に戦闘機とV1の速度差が小さく反復攻撃はできず1回限りという制約がある。
地上から発射するにはロケット弾の射程が短く、大型化を考えなければならず、すぐには開発できそうなかった。


7月末になると、V1工場も生産が順調になったのだろう、毎日100発近く発射するようになる。その頃は発射した3割がイギリス本土まで届いたが、その3割の更に6割までが種々の対策のおかげで撃破でき、ロンドンに届いたのは数パーセント、日に数発だった(注3)
伊丹が主導したV1対策がなければとんでもない被害になっただろう。


8月になった。伊丹は近接信管といっても電波を出して反射波を受けるアクティブなものでなく、ジェットエンジンからの赤外線を受ける光電管と微分回路を使ったパッシブな近接信管を考えた。原理が簡単だから、まっすぐ飛ぶ火炎を吹き出すジェット機を、真後ろから攻撃するという条件でのみ有効だ。
とはいえ、数秒の燃焼で時速800キロ以上で1キロ以上飛ぶし、1キロならロックオンは完璧だ。この緯度では真夏でも太陽は南方にあり高度は低いし、無人機は逃げる動きはしない。まして夜であれば必中だ。
サイドワインダー
「サーボモーターを付けて尾翼を動かせばサイドワインダーね」と幸子に冗談を言われた。もっともサーボモーターを付けて尾翼を動かすには年単位の時間がいりそうだ。それができたら金門島の奇跡ではなくドーバーの奇跡と呼ばれそうだ(注4)
8月末にはこのロケット弾を装備した戦闘機隊が早期警戒管制機の指示で迎撃するようになり、ロンドンまで届くV1は皆無になった。
ダウディング大将は伊丹に勲章を推薦しようとしたが、伊丹は笑って断った。


9月5日

空軍戦闘機軍団司令部
いつものメンバーが集まって、進捗報告や最近の戦況報告などのあとの紅茶タイムである。最近は喫緊の課題もなく、穏やかな雰囲気だ。
伊丹も幸子もさくらも、イギリスに来てからはコーヒーでなく紅茶を飲んでいる。郷にいては郷に従えである。

ヒュー・ダウディング空軍大将
「もう戦争は終盤になったように感じます」
幸子
「閣下は国土防空ですからそうお感じでしょうけど、これから大陸に再進出してフランスやベネルックス三国からドイツを追い出さなければなりません」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「とはいえそれはルーチンワークという感じでしょう。今更とんでもない新兵器が現れることもないでしょう」
伊丹
「これから核兵器と弾道弾が登場するのをお忘れなく」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「伊丹さんは兵器開発のロードマップとおっしゃった。しかし兵器というものはそのときの状況や敵の新兵器、発明発見によって進むもので、予め方向が定まっているとか予測できるとは信じられないね」
伊丹
「もちろん具体的にはそういった状況、背景によって決定されるでしょう。しかし一般方向というか、進化の方向は決まっていますよ。
例えば飛行機をとりあげれば、発明されてからより速く、より高く、より遠く、より大きいものを運ぶという進化の方向は変わりません」

戦闘機の進歩
年代1916193319341944
名称ソッピースパップハインケル
He51
スピットファイア
Mk.I
ホーカーテンペスト
Mk.II
ソッピースHe51
スピットファイア
ホーカーテンペスト
最高速度180km/h330km/h582km/h711km/h
航続距離320km570km680km1,320km

戦争をしているとものすごく進歩するけど、平和だと進歩がない

ヒュー・ダウディング空軍大将
「それは当たり前じゃないか」
伊丹
「それじゃ現在戦闘機は時速600キロとなりました。これからも更に700キロ、800キロ、900キロと速くなっていくと思いますか?」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「実は機密だが、大学の先生が時速800キロで頭打ちだといっている」
伊丹
「そんなこと機密ではありません。ちょっと考えれば誰でもわかります。なぜならプロペラの速さが音速を超えると衝撃波が起きてプロペラが失速します。そのときの飛行機の速度が750キロと言われています」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「えっ、それは誰でも知っていることなのか」
伊丹
「ですからどこの国でもジェットエンジンの研究を始めている。ジェットエンジンならプロペラがないからその制約はない。V1号もジェットエンジンだが、これは高速を出すのが目的ではなく、簡単な構造で安い燃料を使うからでしょう。
では閣下、ジェットエンジンなら無限に速く飛べるのか?」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「無限ということはないだろうねえ〜、また別の制約が現れるとは思う」
伊丹
「すぐに音の壁にぶつかります。音速は時速1100キロくらいですね。これを超えるには衝撃波をどうするかが次の難関です。それも機体の構造とか形態を変えることで超えられるでしょう。
だがそれを超えると次は熱の壁にぶつかります」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「熱の壁とは?」
伊丹
「今の飛行機はジュラルミンつまりアルミです。アルミは220度を超えると軟化して構造材に使えません。飛行機は空気とぶつかり摩擦熱がでます。上昇温度は大体45℃×マッハ数の2乗と言われていて、音速の2.2倍で220度になりアルミの限界です」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「伊丹さんはなんでも知っているのだね」
伊丹
「何でも知っているのは神だけです。それに私は自分で研究しているわけではありません。論文とか報道とか、普通に手に入る情報しか知りません。
ともかくそれを超えるには、重いのを我慢して機体を鉄で作るか、希少なチタンなどを使わなければなりません。更にはその速さで使える武器があるのかという問題になります」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「武器が使えなくても偵察だけでもできるならそれでもいい」
伊丹
「論点はそこではありません。私のいいたいのはそういう制約条件は物理法則から決まるわけで、飛行機の発達は十分予測できるのです」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「なるほど……」
幸子
「閣下は好奇心旺盛ですね。じゃあ飛行機以外のことも考えましょうか。
潜水艦ではどうなりますかね?」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「先ほどと同じく、より速く、より深く、より静かにということかな」
幸子
潜水艦のスクリュー 「より速くといっても先ほどのプロペラと同じ理屈で、水中で回転を上げるとキャビテーションを起こしスクリューが破損します。スクリューの径を大きくしゆっくり回すとかウォタージェットとかアイデアはありますが、いずれも限度があります」

* キャビテーションは水圧が高くなると発生しにくくなる。だから潜水艦が深く潜航すると発生しない。こんな言い訳を書くときりも限りもない。

ヒュー・ダウディング空軍大将
「なるほど」
幸子
「より深くといっても限度があります。扶桑国の東には世界で一番深いマリアナ海溝がありますが、一番深いといっても1万メートルです。限りのない飛行機と違い、それ以上潜ることはできません。
ところで潜水艦が潜水するのは敵に見つからないため、敵の攻撃を避けるため。それなら1万も潜水することもありません。今申したマリアナ海溝などは例外で、海の28%は深さ200m以下、70%が200以上6000以下だそうです(注5)深さが6000mを超える海の面積は2%しかありません」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「奥様は科学者ですか?」
幸子
「私たち夫婦は科学者ではありません。工学者です。もっとも夫は工学の技術者ですが、私は工学の研究者ですか」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「奥様も天才ですね」
幸子
「冗談はおよしください。夫が申したように、私たちが言うことは誰だって知っていることです」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「この戦争では、これからどんな新兵器が現れるのですか?」
幸子
「さきほど伊丹が申しましたが大きなものは、核兵器と弾道弾でしょう。それを実現するのはジェットエンジンとロケットエンジンと電子工学の発達です」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「それはどの国が実現するのでしょう?」
幸子
「発明・発見は、全く別の場所で無関係な人が同時になされるという法則があったような気がします。あっ、言いたいことは核爆弾はアメリカでもドイツでも、もちろんイギリスでもソ連でも扶桑国でも研究しているでしょう。速い遅いはあってもいずれどの国も実現するでしょう」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「えっ! 本当ですか?」
幸子
「証明はできません。公理のようなものかしら。だけど水が高いところから低いところに流れるように自然なことでしょう」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「ドイツも核兵器を開発しているなら、この戦争の帰趨はどうなるのか?」
幸子
「歴史は変えようがない運命論ではありません。今、閣下が最善を尽くすか、無為に過ごすかによって結果は変わります。
私たちがすべきことは、V1の時と同じく、弾道弾や核兵器の製造工場を爆撃し、発射基地を爆撃し、飛んで来れば要撃し、国民の安全を確保することです」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「同時に核兵器と弾道弾、V2と言ったか?、その攻撃を受けたときの対策を進めるのだな…」
幸子
「それが本土防空の責任者であるあなたの使命ですよ」
さくら
「ダウディングのおじ様、幸子おば様は厳しいでしょう。私も幸子おば様に鍛えられたのよ」
バート王子
「さくらは天然の天才ではなく養殖の天才なの?」
さくら
「バート、何を言っているの、人は立場に応じて行動しなければならないだけ。あなたも子供の時からそう教えられてきたのでしょう」

ブラックスミス少将は幸子やさくらの会話を脇で聞いていて、確かにプリンセスは伊丹夫婦に教えられたのだと思う。ということは伊丹夫婦は天才であることは間違いない。
この二人は戦争が終わっても扶桑国に帰さずに取り込まねばならない。その前に、この戦争は勝利に終わるのだろうか?

ヒュー・ダウディング空軍大将
「伊丹の奥様、その核兵器とV2だがどれくらい進んでいるのかな?」
幸子
「閣下、既にノルウェーにはドイツの傀儡政権ができてドイツの空軍基地や潜水艦基地にしていますが、それだけでなくノルウェーのヴェモルクに重水素工場もあります」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「重水素とは何かね? なぜその工場がノルウェーにあるのか?」
幸子
「重水素とは核爆弾を作るとき必要な物資です。世の中で重水素の用途なんてまだ物理の実験くらいでしょう。なぜ重水素の工場があるかというと、ノルウェーの肥料工場で副産物として重水素ができたのです」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「そこを破壊すれば重水素ができず、ドイツは核兵器を作れないということか。なぜそこを攻撃しないのかな?」
幸子
「今まで手が回らなかったのか、この国のトップがプライオリティが高くないと考えているからではないですか」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「私は本土防衛の職で知らなかった。工場を破壊するだけなら例の爆撃機を10機くらい派遣すれば終わりじゃないか」
幸子
「私はこの国の戦争遂行の組織とか政府の方針など分かりません。きっと諜報機関はドイツの核兵器開発を掴んでいるでしょうから、危険な段階になる前に爆撃を提案されたらよろしいのではないですか」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「奥様はずいぶんとあっさりしているのだな」
幸子
「まだ深刻な段階にはなっていないと思います。といっても余裕は半年もないと思いますよ」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「弾道弾はどうする?」
幸子
「閣下、実行可能なら、敵が弱いうちに叩くというのは鉄則です。攻撃は最大の防御、攻撃されて防御に移っては主導権を取り戻すのが困難になります」

結局、物理的に自分が有利なら、先制攻撃をして徹底的に叩くことが最善手なのだ。なにもスポーツマンシップに則り胸のランプが点滅するまで待つことはない。
スポーツも戦争も苦労せずに勝利できるなら苦労しない方が敵にとっても良いことだ。感動させる映画(注6)を作るために、ノルウェーに決死隊を送って爆破することはない。

ところで最近のスポーツマンガは、目標に至るまでの艱難辛苦ではなく、その過程での楽しみを描くものに変わってきた。苦労は人を成長させることは否定しないが、人生において最終ゴールに到達することが目的でなく、その過程も目的なのだという人生観に変わってきたのだと思う。特に燃え尽き症候群が問題になって来てからは、俺は社長になるぞとわき目も振らずに頑張るのではなく、平社員のときも管理職のときも楽しまなければ生き甲斐はないという基本的なことが認識されてきたのだろう。


11月25日

幸子に焚きつけられて、ダウディング大将はノルウェーの重水素工場爆撃とV2研究所の爆撃を進言し、あっという間に実行された。そして双方とも完全に壊滅したことを潜入した特殊部隊が確認した。スパイからはそれ以外に核開発、弾道弾開発をしていないという報告があった。
もしこれから改めて研究開発するとしても、ロスタイムは1年どころでなく2年あるいはそれ以上だろう。それでも残った設備や資料で再開するようなことがスパイから報告があった。もちろんいかなる手を打っても相手のやる気をそぐことは不可能だ。

ヒュー・ダウディング空軍大将
「伊丹の奥様、あなたのお話は暴言と思っていましたが、実行した結果、核兵器攻撃のリスクはゼロになったと判定されました。戦争にはそういう徹底した割り切りが重要ですね」
幸子
「暴言とは……ものごとは戦争も平時の生産も販売も変ることはありません。組織が進む方向を示し必要な高度な判断をすることです。それが指揮官であり経営者でありマネージャーであるのです」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「先手で相手を叩くというのは、生産では何が対応するのですか?」
幸子
「ズバリ予防処置です」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「予防処置?」
幸子
「ビジネスにおいての敵とはコンペティターもありますが、内なる敵、業務遂行上の不具合とか自分自身に起因することがほとんどでしょう。
そして生産や販売のビジネスにおいて、問題が発生することは珍しくないというか、常時 問題が発生します。その時どうするか?
そんなことはセオリーがあるのです。
問題が起きたら原因を究明し、二度と問題が起きないように原因を取り除く、これが是正処置。問題が起きる気配があれば、その原因を取り除き問題が起きないようにする、これが予防処置です」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「ものごとはそんなに簡単にはいかないと思うが……」
幸子
「簡単に行かなくて当然です。でも士官とかマネージャーという職は、問題を解決するために存在し、それをやってお金を頂いているのではないですか」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「それは予防戦争を是とするということかな?」
幸子
「ご冗談をおっしゃる。貴国は過去何百年もしてきたではありませんか」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「いやはや、奥様には人生を教えられてしまう」
幸子
「閣下、私の方が年上なのですよ」

このお話では、このときダウディング大将は50歳、幸子は60代後半のはず

伊丹
「閣下、まだゲームは終わっていません。油断して手を抜かないように。この戦争を危なげなく最後まで勝ち切るという意思を失ってはいけません」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「おっしゃる通り。はるか遠い極東から来ていただき祖国防衛にお力を貸していただき感謝する」
伊丹
「幸子、満州のソ連軍はどうなっているのかな?」
幸子
「私たちがイギリスにいるうちに満州の戦いも終盤のようです。航空戦はアメリカ・扶桑連合軍の圧勝に終わり、地上戦も航空支援がなければこの時代勝てません。まして市街戦でなく大平原の戦いでは隠れるところもありません。
ともかくソ連は従来の国境の維持でここ半年動いていません。こちら側は国境の向こう側100キロくらいまで毎日偵察し、異常があれば爆撃をしていると言います。それも予防処置ですね。今年ももう冬、新たな動きがあるとしても来年の春でしょう」
伊丹
「西部戦線が終結する時、東部戦線も終わってくれればいいが。とはいえ中途半端にドイツにもソ連にも軍事力が残っては困る。恒久的なんてありえないが、これから20年くらいは戦争が起きないような状況を作らないと」
幸子
「ダウディング大将閣下にお話しましたが、常に問題があるというのが正常なのでしょう」
ヒュー・ダウディング空軍大将
「正常(normal)とは、日常のことを言う」
注:英英辞典によると、normalとは、usual, typical, expected(いつもの、典型的、予想されること)だそうだ。
そういや早稲田の法律の教授が「正常とは多数説のこと」と言っていた。
おっと正常とか多数が正しいわけではない。多数も正義も時につれて変わる。

伊丹
「完全な平穏が実現したら、世の政治家、マネージャー、コンサルタント、リスク対策などは失業してしまうだろうね」

ダウディング大将が去り伊丹と幸子だけになったのを確認して、さくらは幸子に話しかける。

さくら
「おば様、私だけのときはなかなか進まないけどおじ様とおば様が来たら、何事でもあっという間に決着がついてしまうのね。どうしてなの?」
伊丹
「さくらはV1の対策について日本から来た文書を見て知っていたはずだ。それを実行しろと言えば良かったのではないか」
さくら
「確かに……でも近接信管とかは分からなかったわ」
伊丹
「技術的なことは分からなくても、自分の役目は分かるだろう」
さくら
「私の役目とは?」
幸子
「悲劇を速く終わらせることよ。V1やV2や原爆の研究をしているのをさくらは知っているはず。なら、爆撃して片づけましょうとなぜ言えないの? 戦争の初期に爆撃機とか偵察機をもっと活用できなかったのかしら。ダンケルクだって撤退しないで済む方法はなかったの?
戦争でも喧嘩でも、最初から全力を出して叩き潰すのが原理原則。その方が相手方の被害も少なく済ませられる。
ドイツはまだユダヤ人に標章を付けさせるとか収容所に収容することをしていない(注7)だからこの戦争を速いところ終わらせることでそういう事態を起こずに済む。
私たちの世界で、ドイツがユダヤ人虐殺を開始したのはベネルクス侵攻から659日目、今日はこの世界でベネルクス侵攻から数えて449日目、まだ200日も早い。悲劇の発生を止められる」
さくら
「この世界は物事の進み方が早くなっていますから明日にも起きるかもしれませんね」
幸子
「じゃあそれより早く終わらせることを考えましょう。あなたが天才であることを実証しなさい」


うそ800 本日の疑問
現実の第二次世界大戦が欧州で長引いたのは、初期にドイツ軍が勝ちすぎたからだ。それはチェンバレンの失策もあっただろうが、フランスやイギリスの軍人の怠慢もあっただろう。もしドイツ軍がベネルクス侵攻あたりでこけていたら、日本もドイツに組する前に、「これはちょっと待てよ」と考えたかもしれない。
そして4年も続かなければ戦死者も、民間人の被害も、ユダヤ人の被害も少なかったと思う。どうだろうか?

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注1
ドイツや日本に行われた爆撃はものすごい数の爆撃機による絨毯爆撃だが、V1やV2の攻撃はポツンポツンと爆弾を放りこんだという感じで、爆撃というよりもテロに近い。もちろん発射した全弾がロンドンに到達して大きな被害が出ることを期したのだろうが、発射数も少なく、その上1割も届かなかったから重大な脅威とはならなかった。
V1による死者は6184人、1発当たりの死者は2.5人である。これは4カ月の数字だから、東京空襲などに比べると人的被害は少ないと言えるだろう。
参考:V-2 rocket
なおV1攻撃により最初の1週間で5000名の死者を出したというネットのコンテンツがあったが、その出典は不明だ。
参考:V2ロケットU〜飛行原理〜

注2
日本も1945年に空技廠3式6番二七号爆弾(実態は空対空ロケット弾)を使って実際に撃墜したという記録あり。雷電などに搭載したという。もちろん誘導弾ではない。まっすぐ飛ぶだけのロケット弾である。しかし高射砲と同じく、近接信管でなければ直撃しなければ効果はない。
私の会社の先輩が戦後それを作っていた会社で働いていて、現物を見たといっていた。真偽は不明だ。

注3
V1 実際のV1はどうだったのか?
V1は1944年6月から9月まではイギリス本土に向けて、それ以降はノルマンディーに上陸してきた連合軍に向けて発射された。その数は合計21,770発、発射時に発射できなかったものがその外数で2,448発という。ロンドンに届いたものはその数パーセント、兵器としてはあまり成績は良くなかった。
とはいえ戦争で撃たれた小銃弾が人に当たるのは数千発に一発、機関銃で飛行機を墜とすには2万発というから、無誘導の兵器はそんなものかもしれない。そもそも核兵器を弾道弾で飛ばすという発想は、弾道弾の命中精度がメチャクチャ悪いから核兵器でなければならなかったからという。 トマホーク
トマホークの命中率(直撃)が湾岸戦争で実績が85%なんてのはとんでもない数字だ。慣性航法やGPSそして画像認識の進歩はすごい。

注4
赤外線追尾の空対空ミサイル、サイドワインダーの初陣は1958年の中華人民共和国と中華民国の台湾海峡の金門馬祖の戦いである。
サイドワインダー このときあまりにもサイドワインダーが命中するので、中華人民共和国はソ連に同様の空対空ミサイルを供給してくれと要請した。
しかし当時、中ソ関係がこじれていて拒否され、そのために大敗を喫したといわれている。

注5
注6
ノルウェー映画「重水との戦い」は、この作戦を作戦に従事した人たちが役を演じたセミドキュメンタリー。
ハリウッド映画「テレマークの要塞」も同じ作戦を映画化したもの。

注7
ユダヤ人の大量殺害は1941年6月23日の独ソ戦から、収容所は1942年1月から。それぞれベネルクス侵攻から659日、870日目である。


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