*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。
1935年6月 伊丹は岩屋を訪ねた。岩屋ももう60代半ばになり髪の毛も真っ白になったが、いまだ皇帝陛下のお庭番の元締めをしている。彼の身分というか所属組織がなにか想像もつかない。憲兵でもない、 皇宮警察でもない、秘密警察でもなく、なんなのだろう? あっ、お庭番か、 最近は我国における外国のスパイ活動も下火になったようで、岩屋の目つきが柔らかくなってきた。共産主義国家の崩壊で、国内の活動分子への資金提供もなくなったからだろう。 | |||
「おやおや、伊丹さん、お珍しい」
| |||
「岩屋さん、お願いがありまして伺いました」
| |||
「私にできることなら」
| |||
「私が養子をとる話を聞いているでしょう?」
| |||
「ああ、望月さんの身元調査ですか?」
| |||
「おお、分かっちゃいましたか。私が中野さんから紹介された人を疑うわけではないですが、釣書だけでは心もとないので、岩屋さんが調査したなら生の調査記録を見たいなと思いまして」
| |||
「そのお気持ちは分かりますよ。望月さんもいろいろと大変ご苦労されたようですが、どこまで伊丹さんに話をしたか私は分かりませんしね。 実を言って私の機関が調査したわけではないのですが、警察が調べた報告書は入手しています。なにしろ陛下直接のご指示でしたし」 岩屋が厚さ3センチくらいのファイルを伊丹に手渡す。 | |||
「お読みになられたら返していただきたい」
| |||
「ありがとうございます。ええと、アメリカでの行状も調べたのでしょうか?」
| |||
「領事館の担当官に調査させたのが入っています。まあ数ページしかありませんから、正直どこまで調べたのか怪しいです。裏を取った方がいいですね」
| |||
「分かりました。そいじゃ石原君に頼んでみます」
| |||
●
伊丹は例のドアでアメリカのワシントンの領事館に行って、石原莞爾を呼んで欲しいと頼む。12時間後に来るよう連絡するというので一旦帰る。● ● ● 扶桑国の翌日の早朝、アメリカの夕方 | |||
「伊丹さん、お久しぶりです。何か問題でも?」
| |||
「いや、そうじゃなくて、個人的なことだけど………というわけで、その望月さんご家族のこちらでの行状を調べて欲しいんです」
| |||
「ああ、分かりました。ホッブス少将をご存じですよね、伊丹さんが2・3年前こちらに技術指導に来たときお会いしたと思います。彼経由でFBIにでも調べてもらいましょう。1週間か2週間、時間をください。 それはそれとして、伊丹さんご存じですか?」 | |||
「なんだろう?」
| |||
「吉沢教授がノーベル賞候補になったことですよ」
| |||
「おお、中野さん始めどういうことかと疑心暗鬼です。今は半導体の情報が漏れたルートを調べていますが、もう何年も前のことでしょう、いまだ手がかりはナシです」
| |||
「あれはそのホッブス少将が仕組んだことらしいです。満州で自爆装置が働いてアメリカ人技術者が亡くなったことがありましたね。
あのとき破片をかき集め分析した。当時は分からなかったけど、最近になって半導体素子だと見当をつけたらしい。 それで半導体にまつわる技術が欲しい。しかし扶桑国のガードは固く、機器は自爆装置付き。だからノーベル賞を与える代わりに特許を公開させようと考えたようです。スウェーデンはからんでないでしょうけど、他人を動かすのが上手い」 | |||
「たぶんどこかの国が関わっているのだろうと思ってましたが、足元だったとは……。しかしホッブス少将も策士ですね。転んでもただは起きないしたたかさもある」
| |||
「欧州で墜落した飛行機から機器を回収する人たちというのも、アメリカの諜報機関がお金を出してやらせていたようです。自爆装置がついていてアブナイことも教えずに……まあ自爆装置は墜落時にほとんど動作したらしく、廃品回収作業で死傷した人はいないようですが」
| |||
「うーむ、やはり半導体の機密保持は、もう少しレベルを上げておかなくては駄目だったか」
| |||
「どんな秘密もいつかは漏れます、単に時間の問題ですよ。扶桑国も伊丹さんの世界から来た未来の技術を使いその秘密を守るだけでなく、自力で開発していかないとじり貧です」
| |||
「おっしゃる通りです。この件については特許をがんじがらめにしてお金を稼ぐしかないか」
| |||
●
1935年7月● ● ● 満州も紆余曲折があったが、今は独立国となり、実質アメリカの傀儡政権が仕切っている。パナマみたいなものだ。 満州の歴史が大きく変わったのは石油が発見されたからだ。放牧くらいしかできない寒い大地という位置づけから一挙に大資源地となった満州を、元から実質の統治者である張作霖(ちょうさくりん)が愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を皇帝として民族自決を名目に中華民国から独立した。 しかし実際の統治は素人まるだしでどうしようもなく、なによりも馬賊や軍閥を抑えられず、地域の有力者が独自の税を取り、関所を置き、まさに日本の戦国時代のようなありさま。住民もアメリカ人入植者も困り切った。 結局、アメリカがクーデターを計画し駐留していたアメリカ軍が半月で制圧した。皇帝も張作霖もトップに置いたまま傀儡とした。なお扶桑国は一切これに関わっていない。 ソ連の介入や第二次世界大戦など紆余曲折はあったが、元々のアメリカの計画が実現したというべきか。10年の遅れはむしろ独立と傀儡政権への拒否感を大幅に減らす効果があった。なにしろ愛新覚羅・張作霖コンビの統治能力がゼロだったから、アメリカ人入植者はもちろん、住民も外国人も今までより悪くなることはないだろうと新体制を歓迎した。 現在は傀儡国家だが、アメリカもこれをどうするか長期的なプランは持っていないようだ。まあパナマもそうだったが、あいまいな形で半世紀くらい統治するということもあるだろう。 扶桑国としてはアメリカに東西を挟まれ、更には2000キロしか離れていないところに強国出現という状況は、安全保障上あまりうれしくはない。 もちろん短期的というか現状では扶桑国はアメリカと不戦条約を結んでいるし、扶桑国そのものは進んだ科学技術はあるが、無資源国であり、食料自給率もやっとトントンというところでアメリカも食指を動かさないだろう。しかし長期的にはアメリカのことだ、扶桑国を属国にしようとか、併合しようとすることは大いにあり得る。そのとき互角に対抗できるようなんとかしなければならない。 満州で発見された油田には大慶、遼河2つがある。特に大慶油田の埋蔵量は世界ランキングで片手に入る。その大慶油田の設備が見える原野に熊田がいた。この油田を扶桑国が取っていればという思いもあるが、この地は複数の民族が混在して古来より紛争続きであったことを思えば、関わり合いにならなくて良いという思いもする。 熊田は大学を出てすぐに満州へ草(住み着いたスパイ)として赴任して数年、その後国に戻り政策研究所で南洋群島の開発担当となり、中野に才能を見込まれ今はアジア諸国の調査に従事している。
傀儡政権であっても、元々中国人も満州人も民主主義を経験したことがなく、専制政治の下で二千年も暮らしていたわけで、現状を問題と認識しているわけではない。数年前までの馬賊の襲撃や、軍閥同士の小競り合いによる流れ弾の被害を思えば、税をしっかり取られるくらいはしょうがない。もちろんその税金を何に使うかは庶民は関われないのだが、それも古来から同じことだ。 そしてどうせ現体制も短ければ数年、長くても100年で変わるのは古来よりの習いである。そう思えば、税が高いとか教育や消防の制度がないなどは気にもならない。少しでも稼いで家族が豊かになり子孫繁栄すれば良いという考えしかない。 ひと月後、ウラジオストクから新潟へ行く船の中で、満州も安定せずに、今後10年ないし20年のうちに内紛か外からの侵入で大きく揉めるな、満州国もどうなるか定かでないと憂鬱になるのだった。 とりあえず石油は買えるときは買って、ブルネイや新潟の油田は温存すべきだと思う。 将来顕在化するアメリカとの東アジアの覇権争いは、そのときの人に考えてもらうしかない。 | |||
●
1935年8月● ● ● 伊丹は石原莞爾から望月一家のアメリカでの生活の報告書をもらった。 ホッブス少将がFBIを動かして調査したらしく、正雄の学友のことから、千代が買い物したスーパーでの評判まで、もう徹底的な調査で厚さが2センチあった。もちろん英文だ。 伊丹は数ページ読んだが老眼には苦痛で、幸子が読んでその要旨を聞かせてもらう。 幸子は数行読むと、それを訳していろいろコメントし、それに伊丹が思うことを返す。二人の話を聞いているとまるで漫才である。 | |||
「学友、ミシェル・ウェズリーは大学を出て数年働いた後、学位を得るために退職し大学院に入った。そこで望月正雄に会った。ウェズリーも貧しかったが、望月も貧しく、二人は親しくなった。 小説のような表現よね。あなたならどう書くかしら?」 | |||
「報告書なんだから、望月正雄はウェズリーと友人になったくらいかな……」
| |||
「そうよねえ〜、まるで小説みたいで読むのが楽しくなるわ、 二人はすぐに売れて金になる技術をと考えて、当時の大きなテーマだった等速プロペラの研究に当たった。だが戦争が終わるとすぐに扶桑国の川西飛行機が開発した無段階可変ピッチプロペラの技術が知れ渡り、既にその技術は完成していることを知った…… あなた、等速プロペラって私が関東大震災の前に消防飛行機を開発させたとき、向こうの世界の等速プロペラの資料を川西に渡して作らせたのが始まりじゃないかしら? 今から……12年前、でも世界に知られたのは4年前となると、そのタイムラグはなにかしら?」 | |||
「第二次大戦まで機密だった。戦後どうせばれるということで終戦直前に川西の社長がイギリスとアメリカに特許申請したと聞いた。それまでは国内だけの秘密だったのだろう。 第二次大戦のイギリスのスピットファイアは無段変速の等速プロペラじゃなくて2速切り替えだった」 | |||
「なるほど、それで情報が広まらなかったのか…… でも望月さんは扶桑国にいて知らなかったのかしら?」 | |||
「航空機に関わる人でないと、等速プロペラの必要性など思いもつかないよ」
| |||
「ええと……望月は所定の期間で論文をまとめ学位を得たが、ウェズリーは研究がまとまらず更に学業を続けるお金がなく退学することになった。扶桑国に帰った望月は以降もウェズリーと連絡を絶やさなかった。 望月が造船会社に入った後はウェズリーに資金支援した。おかげで彼は再び大学院に行くことができ、2年後にウェズリーも学位を取り、自動車会社に就職することができた。ウェズリーは望月への恩は決して忘れないと語った。 へえ、望月さんって人情味あふれる人なのね、 それにしてもこの報告書はまるで小説ねえ〜」 | |||
岩屋から借りた報告書でも学業優秀というだけでなく、頭が切れ性格が丸いのはよく分かった。扶桑国でもアメリカでも酒癖も家庭内暴力もなく本当に社会人としてまっとうだ。中野さんが推薦したのは間違いない。 妻である千代も穏やかな性格で、アメリカでも近隣や大学の人たちと和やかに付き合っていたという。 問題は望月家のというか望月一族のことだ、いずれ養子にする前に伊丹がかたをつけなくてはなるまい。その話をすると幸子も同意という。 | |||
●
1935年9月● ● ● 上野とドロシーは大学や国立宇宙ロケット研究所に日参して半年になる。初めは二人ともどのような品質保証規格にすべきかを考えていたが、時と共に現実を知ってきて考えも変わってきた。 | |||
「上野さん、最近私は今までのアプローチは間違っていたように感じるの」
| |||
「はあ、どういうことでしょうか?」
| |||
「そもそも論なんですけど、第三者認証いやいや品質保証というものをしなければならないということはないわよね」
| |||
「はあ?」
| |||
「目的は何かといえば品質を良くするということよ。品質を良くするのはなぜかといえば、トラブルを無くすため」
| |||
「当然だ」
| |||
「じゃあ、開発途上のものをトラブルなく推進するというのは品質保証ではない方法論を考えるべきだということになる。なぜなら品質保証とは工程が完成しているものを対象にして、その工程を管理する方法ですから」
| |||
「そう言われると以前伊丹さんが言っていたことを思い出した。環境が変わらない場合は製造条件を一定条件に維持すればよいが、外部環境が変わる場合はそれに応じて製造条件を変えてアウトプットを一定に維持することを考えなければならないと言っていた」 二人とも伊丹が別の世界から来たとは知らない。そしてISO14001の存在も知らない。 注: ここの読者なら知っているだろうけど、ISO9001とISO14001の違いは外部環境が変化しないか変化するかだ。 | |||
「まさにそれよ、更に宇宙開発の場合、製品仕様もどんどんと変化する。製造過程においても問題点や改善のために仕様変更があるのが当然という状況です。そういうしろものであるときは、管理しようとする変化に対応しようとする姿勢が必要よ」
| |||
「なるほど、図面変更があったとき異常と考えるのではなく、平常と考えなければならないのか、だけどそんな方法論があるものだろうか?」
| |||
「それを考えるのよ。目的は品質保証を売り込むことじゃなくて、プロジェクトを達成することだわ」
| |||
「……いわれてみると……しかしそれならそうと伊丹さんは我々に教えてくれればよいものを」
| |||
「上野さん、伊丹さんは以前から何度もそういう話をしていたでしょう。品質監査を教えてくれた時も、大震災後の第三者認証立ち上げのときも、その後第三者認証が低調になったときも…… 私たちが未熟で伊丹さんの話を理解できなかったのね」 | |||
●
1935年10月2日● ● ● ノーベル物理学賞受賞者が発表された。扶桑国 吉沢教授の「半導体に関する研究とトランジスタの発明」であった。 吉沢はそれを受けて、既に主要国では特許を申請しているが審査を求めておらずサブマリン特許となっていることを公表した。そして特許になった暁には、同盟国であったイギリスとアメリカには有償で特許使用を認めるという発言をした。それ以外の国に対しては今のところ考えていないという。それはいささか物議をかもしたが、結局世の中を仕切っているのは列強であり戦勝国なのである。 当然であるがそれはすべて中野たちが検討したことであった。 ノーベル賞の賞金は約1億円、扶桑国のお金にして1000両、大金ではあるが吉沢は今までの発明でとった特許料でその10倍は稼いでいた。 | |||
●
1935年12月● ● ● 扶桑国 東京 渋谷の伊丹邸である。 | |||
「伊丹さん、いやお義父さん、このたびは養子にしていただきありがとうございます。またいろいろお世話になりました。本家から絶縁状なるものが届きました。向こうが勝手にこちらに関わって来て、今度は勝手に絶縁状というのも筋が通りませんが、もう口出しはしないという意味でしょう」
| |||
「いやいや、あれは今までの狼藉があまりにもひどいと警察が動いただけですよ。私がしたことじゃない。もう自由に暮らしていけます。となると別に私と暮らす必要もなく気が変わったのではないですか」
| |||
「いやとんでもありません。今後は息子としてご指導をよろしくお願いします」
| |||
「お仕事の方はどうするの?」
| |||
「まだ造船会社に退職する話はしておりませんが、現在の仕事が一区切りつく半年ほど勤務して退職するつもりです。そしたらカバン持ちというか、秘書的なことをさせていただきながら仕事を覚えたいです」
| |||
「どうだろうねえ〜、私の仕事というかしていることは、事務的なことじゃなくて、中野さんの相談相手なんだよね。だから見聞が広い方ことが必要条件だ。私もいろいろな仕事をしてきたし、それによって知識というより、いろいろな見方ができるようになったことが大きい。 だから現職を極めるのも良いかと思う。あと4・5年はまだ私は元気だ。それくらい造船所で働くという選択肢もある。 一緒に仕事をすることだけでなく、毎晩 私と酒を飲みながら話すのも勉強だろうし、もっと気を長く持って、会社とも相談してお互いに良いように決めてください。もめないように」 | |||
「私も日々いろいろなお話を教えていただきたく思います。それでこの家に同居させていただきたいのですが、完全同居ではお互いに不味いと思いますので、敷地内に我が家4人が住む家を建てさせていただきたいと思います」
| |||
「千代さんはどうするの?」
| |||
「ここは女中さんも大勢いるので子供を見てもらえるなら、できる限り奥様のお供して勉強させてもらいたいです」
| |||
「アハハハ、奥様は千代さんよ、女中さんには私を大奥様と呼んでもらうわ。 良いわよ、じゃあ毎日政策研究所に出勤となるけど毎朝お子さんと別れるの辛くありません?」 | |||
「アメリカ時代は私も働いていて毎朝早く子供たちを預けていましたから、どちらも慣れています」
| |||
「ここは大勢いるから誰かは面倒を見てるわよ。必要なら子守りも頼むし」
|
<<前の話 | 次の話>> | 目次 |